« 2015年12月27日 - 2016年1月2日 | トップページ | 2016年1月10日 - 2016年1月16日 »

2016.01.09

北朝鮮の「水爆実験」で思ったこと

北朝鮮は6日、日本が採用している日本時間だと午前10時半ころ、水爆実験に成功したと発表した。私がそのニュースを知ったのは昼ごろだった。ラーメンを一緒に食ってからスマホを見ていた若年が「北朝鮮、水爆したってよ」とつぶやいたのである。声で。私は「はあ?」とか間抜けな応答をしたと思う。意味不明だ。私は「水爆って、あれだよ、水素が爆発するというのはわけが違うんだよ」と言った。そのあと、原発がらみの不謹慎なジョークを言いそうになって、やめた。ニュースを見た。そういう報道が本当にあって驚いた。

端的に言えば、嘘だろう。水爆の技術は、ほいっとできるものではないし、小規模の核実験であれ衛星監視から逃れきれるわけもない。口には出さないが「ばっかじゃねーの、このキチガイ国家」と思ったが、いや、これまで北朝鮮という国を見ていて思うことは、それなりに合理的に物事を進めているということ。なので、今回もそうした合理性から考える。いったいなんの意味があるのだろうか。わかればブログのネタにだってなる。が、わからなかった。表面的に言えば、金正恩の誕生日を祝う爆竹みたいなものだし、これに一番困惑するのは中国だから、対中的な意味合いはあるだろう。そして日本の識者みたいな人たちは、きっと瀬戸際外交論でも語るのだろう。

報道やマスメディア、ネットのその後の反応を見ると、特段に予想外のことはなかった。水爆実験のわけないじゃないかというは誰もが暗黙の了解なのだが、同時に、「ばっかじゃねーの」的に端的に否定する人も見かけないようだった。物ごと100パーセントの断定というのはできないものだが、しかしあんな小規模爆発の水爆実験なんてありえるとでも思っているのだろうか。こんなことを言うと「ありうる」という反応もあるかもしれない。なんせ試験管の中ですら核融合は起こるかもしれないのだから(言うまでもなく冗談です)。

はっきりしていることはある。北朝鮮は水爆を保有したいのだ、ということである。そして次に、ほぼはっきりしていること、いや、そう言えるかどうかここから考えないといけないのだが、今回の「水爆実験」というのはささいな爆発だが、それなりに放射性物質の放出があったのではないか。虎の子のプルトニウムを使っているのかもしれない。水爆実験が大法螺であっても、なんらの核実験であれば、それだけでも国連が動く戦争の理由にはなりかねない。それはまずいな、というのが国際社会の現状の合意なので、そのため北朝鮮はまだ正式に核保有国になっていない、ことになっている。別の言い方をすれば、北朝鮮が核爆弾を保有しているかは明確にするのが、やばいことになっている。そのわりに保有推定個数の議論はあるが。

三番目にはっきりしているだろうことは、先にも触れたが事前に米国は今回の事態を察知していたか、ということ。NBC報道などからすると概ね察知していたと見てよさそうだ。であれば、日本政府にも事前に通告はあっただろう。そこまでは、「そういうものだよね」だが、そこからちょっと奇妙な話が起きる。韓国には知らされていなかったらしい。

日本に通知されていたら当然、韓国にも通知されていただろうと考えるのが妥当だが、朝鮮での報道を見ると、そうでもなかったらしい。韓国は蚊帳の外に置かれていたようだ。とすると、二つ理由が思いつく。一つは今回の事態は韓国の安全保障には直接影響しないと米国が判断したから、「君は事前に知らなくてもいいよ」だったということ。もう一つは、韓国への圧力である。なんのための圧力かは、すでにこのブログで二回くらい書いたので繰り返さない。

蚊帳の外ということではないが、北朝鮮から中国への事前通知もなかったらしい。少なくとも中国はそう公式コメントをした。というか、してしまった。先に今回の事態の中心は、北朝鮮の対中問題ではないかと思ったことを記したが、そういう文脈はありそうだ。

日本はどうするかというと、基本、何もできない。米国としては、国際社会が北朝鮮を核保有国として認めなければ当面、問題はない。中国にすると北朝鮮は厄介なお荷物になりつつある。韓国にとっては、そこがよくわからない。韓国は北朝鮮とどう向き合っていくのか、韓国自身もわからないのではないか。ということでわかりやすい日本に向き合っているのもかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.01.08

2016年、明けましておめでとうございます。

2016年、明けましておめでとうございます。というのを8日になって書いているのが、すでに今年のボケぐあいを示しているようで恥ずかしい。昨年末には、来年はブロガーらしくもっとブログを書くべきなんじゃないかとか多少は思っていました。

年頭にあたり、といった話は抜きで、くだらない話がしたい。年末のショッピング風景で見かけて気になったランドセルのことである。知らなかったわけではないが、ランドセルがとてもお高い。正確に言えばお高いものがある。お安いのはというと、それでもざっと見ていて、一万円代でどうかなと思う。詳しくは見ていないのだが、どれがいいのか選ぶにあたり、なにか基準もないわけではないだろうが。

高価なランドセルを見ながら、こんなのを背負っていく小学校1年生がいるのだろうかと思う。が、いるから売っているわけで、もうちょっと言うと買う人がいるから売っているのだろう。誰が、買うのか? 多分、お爺さんお婆さんではないか。孫へのプレゼントなのではないか。想像で言っているので、裏はなんもないが。

見るからに高価なランドセルがあるということは、例外はあるにせよ、金持ちと貧乏人の差を示しているようなものだから、これでいいのかと疑問に思う。学校や教育員会で、奢侈にならない基準があればいいのではないかと思う。あるのかもしれないし、これは社会問題になってないのかと、ググるとまったくないわけではない。ただ、こういう貧富差のディスプレイゲームはバカバカしいからやめましょうという議論は見かけなかったように思う。

私はそもそもランドセルはバカバカしいと思っていて、以前ネットでつぶやいたことがあるが、まあ、反感を食らった。もうブログを10年以上やっているが、歩道を走る自転車どうにせかしろよとか、腹筋運動やめとけとかいうと、反感を食らう。そのうち、反感が予想される話題は避けるようになる。

とはいえランドセルはバカバカしいと思っている。第一の理由は、危険だからだ。ところが、これがまたまた反感の的であって、転倒したときの保護になるという、ああ、バカバカしい議論に巻き込まれる。ランドセルが歩行を阻害して危険なことくらい少し調べたらわかるんじゃないかと思うが、そういう点で調べられたことがない。でも、調べて、私の思いがまったく逆でしたというのも、あるのかもしれない。

バカバカしいの二点目は、重たいものは学校に置いておけと思う。それでは家で学習できないとかいうのだろうが、小学生がそんな重たいものを持ち運んでまで家でやるべきことがそもそもあるのか。軽量な別教材にしてもいいんじゃないか。それ以前に重たいものを成長期の子供に負わせないというのは、先進国の普通の常識で医者も注意を出していたりする、はず。

というか、ランドセルって極めて日本の風習で、だからいかんともいわないが、スクールバックくらい一定の基準を設けて自由化すればいいだろう。でも、しない、らしい。なぜなんだろう。交通安全の黄色いカバーを付けるためだろうか。いやこれは素朴な皮肉です。

とかまるで社会派おちゃらけブロガーみたいなことを言ってみたが、実はそれほどこの問題には関心ない。何を言ってもだめだよなということで、とっても納得しているからだ。小学校生活みたいな糞な時代はさっさと過ぎていけばいい。戦争に庶民が向かうのとのおんなじことだとかいうと顰蹙になるだろうから言わない。

じゃあ、何が言いたいのか。結局、ランドセルなんかどうでもいいのか。いや、そこなのだ。私がそれを心底どうでもいいや、ネットで炎上してビュー稼ぐ気もないし、というある種の、どうでもいいや感がじんわり生活全体を覆っているなあと思うのである。

消費税増税なんか、ばっかじゃないのとか思う。すると、バカじゃなーいという議論が起こる。でも、バカでしょ。ということでこれ自体立派な「バカの壁」になっている。どうしたものか。

どうしたものか。諸事、どうしたものかと、思うのである。ネタとして考えると混乱するが、自分に何ができるかと考えると、さして何もできない。逆に言うとできることはある。ランドセルのネタの関連でいえば、小学生の通学の安全指導や放課後の見回りボランテイアをやったこともあるし、やればできる。やってどうなったかというと社会的にはなんもないが、世界の見方は変わる。

そうなのだ、世界をもっとリアルに見ようとは年頭思った。とりあえず。正義とかから考えず、自分が関われるならその視点を大切に世界を見ていこうと。

実際それができるかどうかわからないし、バーレーンの状況とかはそうしたアプローチではわからない。それでも、ある関与の感覚は、そうした実体験のなにかに起因するだろうし、それはとても小さいことで、小さくあるべきだろうとも思った。

 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年12月27日 - 2016年1月2日 | トップページ | 2016年1月10日 - 2016年1月16日 »