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2016.07.14

[書評] オキナワ論 在沖縄海兵隊元幹部の告白 (ロバート・D・エルドリッヂ)

エルドリッヂ博士による新書『オキナワ論 在沖縄海兵隊元幹部の告白』(参照)は、なかなか感慨深いものだった。新書でありながらテーマが盛りだくさんで、「第一章 国立大学から海兵隊へ」では彼のパーソナル・ヒストリーと関連させつつも、歴史学の点からは彼の主著の一つともいえる『沖縄問題の起源―戦後日米関係における沖縄1945‐1952』(参照)の要約的側面があった。逆に言えば、この部分に史学的な関心を持つのであれば先の専門書を読めばよいだろうし、現代史の学者には必読だろう。

また「第三章 トモダチ作戦と防災協力の展開」は、彼の社会的実務家をよく表現していた。この三章を読むと、エルドリッヂ博士の信条の根幹にあるものがよく伝わってくる。日本の政治家が学ぶところが多いはずだ。特に大都市の首長となる人には欠かせない知識でもあるだろう。その面では別途、『次の大震災に備えるために―アメリカ海兵隊の「トモダチ作戦」経験者たちが提言する軍民協力の新しいあり方 』 (近代消防新書)(参照)が有益だろう。首長を目指し、これから勉強をされるという後期高齢者のかたにも有益であることは疑いえない。

「評価」というのでもないが、ある意味、理解が難しいのは、「第二章 米軍基地再編の失敗と政権交代」である。この章では、民主党政権が、ナイーブに引き起こした沖縄問題の本質のかなり重要な側面を表しているいるとともに、結果としてのその時期の民主党政権やそれまでの自民党政権の問題も炙り出している。

本書によって気づかされたのだが、こうした表層的な「沖縄問題」は、実際上、米海兵隊の政治的な性格にも関連している。

この問題が、学究かつ実務肌のエルドリッヂ博士を時事的な事件に追い込むことになったことを私たちは知っている。

第二章のこの部分は、「第四章 沖縄のメディアと活動家との闘い」に継がれ、簡単にいえば、沖縄の左派的な政治運動家の虚偽を暴くかたちでの彼の行動と、米国政府での対応の狭間に置かれる事実上の「処罰」を見ることになる。本書の側からは、純粋な志のエルドリッヂ博士に共感も持つが、蟷螂の斧にも見えなくもない。

それらの命題はさらに、「第五章 沖縄問題の解決へ向けて」として、沖縄・日本政府・米国政府・米軍の総合的な視点での沖縄論に触れていく。

この章では「沖縄問題」が政治学的に合理的に描かれている。が、沖縄のエスニシティ関連した形での米政府による沖縄統治統治下史、さらにベトナム戦争が沖縄に与えた歴史の心情的な部分はうまく掬い上げられていないように私には思えた。その部分については、率直に言えば、沖縄というエスニシティの親族構造の内側に入らないと見えない部分でもあり難しい。このあたりの機微を私は私なりに自著で論じてみたが難しいものだと感じている。

エルドリッヂ博士は、新書形式の本書の出版後に類似の新書や一般向け書籍や対談なども著しているが、率直なところ、羮に懲りて膾を吹くということにならないよう懸念をもった。率直にいえば、博士は明白な日本の右派勢力とは距離を置いたほうがいいだろう。なにより、この分野の学究研究はさらにまだ多くの余地がある。むしろそうした学業の成果に大きな期待をもって待っている日本の読者もいることを覚えていていただきたい。

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2016.07.13

2016年の参院選についてたぶん、どうでもいい話

さて、2016年の参院選についてたぶん、どうでもいい話なのだが、自分の住んでいる東京選挙区で誰を選ぶかというのはとても悩んだ。比例の政党としては、金融緩和政策をもう少し進めてほしいし、それができそうなのが安倍首相率いる自民党しかなさそうなので、「自民党」とした。よく誤解されるが、特段、自民党支持者ということではない。そう言っても通じない人には通じないだろうけど、まあ。

ただ、それじゃあ、とりあえずであれ自民党を支持するというなら、個別にも自民党推薦に入れるかというと、中川雅治さんを選ぶ気にはならなかった。志村けんみたいに「あいーん」とかパフォーマンスやってくれるとちょっと気が変わったかもしれないが、大蔵官僚上がりかよぉなのと、ちょっとやーな挿話も覚えていた(参照)。神奈川県民だったら、金子洋一さんに1票入れていた。朝日健太郎さんについては、すまん、私はそもそもがスポーツマンというのが好きではないのだ。明日は地獄の運動会、雨降れ風よ吹け、地球が滅亡すればいい的な人なのである。中学校・高校と陸上部ではあったのだけど、まあ。

そもそも参院は「良識の府」なんで、党より各界の個々人が優先されるだろう。

で、なんとなく見ていたら、「たかぎ さや」というのがあって、「医療大麻」と書いてあって、「新党改革」ってあって、なんじゃろ、これと気になった。「たかぎ さや」と書いてあるママさんテニスみたいなおばさんって、俺、なにか前世の記憶で知っているような気がした。で、ふと、「たかぎさや」って「高樹沙耶」じゃねと思って、ちょっと鬱になりましたね。1983年『沙耶のいる透視図』の高樹沙耶さんの……いやいや……ご本人? この石井隆の映画見てないんですよね。いつか見るんじゃないかと思って、気がついたら見てなかった。まあ、だから、見てないんですよ。見てません。ええ、見てませんよ。

それはそれで高樹沙耶さんがなんで「医療大麻」で、しかもた舛添要一さんが作った「新党改革」? なんだそれ? もうわけわかめ。で、「医療大麻」の状況を調べてみると、「NPO法人医療大麻を考える会」(参照)というのがあるので、そこと関係あるのか該当ホームページを見ると、どうも高樹沙耶さんとは関係なさそう。それどころか、同法人は新党改革の「医療大麻」の考えに疑問をもっているみたいでもある(参照)。わけわからん。

さらに調べてみると毎日新聞に関連記事があった。「ワイド特集・参院選「オンナたちの常在戦場」大麻解禁に手応えアリ? 高樹沙耶は“消滅寸前”新党改革を救えるか」(参照)。

 6議席を巡り、激戦が予想される東京選挙区。中でも異彩を放つのが新党改革から出馬予定の女優、高樹沙耶(さや)氏(52)。日本では法規制されている大麻の医療目的での研究推進を訴えるが、果たしてどうなるのか。
 人気ドラマ「相棒」(テレビ朝日系)への出演でも知られる高樹氏は昨春、関係者を通じて同党の荒井広幸代表と知り合い、医療大麻の必要性を話し合う中で意気投合したという。
「個人レベルの活動では限界も感じていました。そんな折、荒井代表に出馬のお話をいただいた」(高樹氏)
 高樹氏は女優業の傍ら、環境問題などを活動テーマに据えており、海外生活などを通じて大麻への見識を深めたという。医療大麻は近年、がん、鬱(うつ)、認知症などに効果があるとされ、欧米を中心に規制緩和の動きが広がっている。
 高樹氏は2012年、大麻の啓発団体の役員に就任したところ、各方面から非難が集中。「仕事や芸能関係者、友人知人、多くを失いました」(同)。そんな逆境を経たからこそ、医療大麻の研究、解禁へかける思いはより強くなったという。
「海外の大麻事情を知るうちに、日本との乖離(かいり)に驚きました。医療大麻が解禁されている国は多く、G7各国で厳しく制限されているのは今や日本だけ。日本で医療のための研究すらできないのは明らかにおかしい」
 関係団体は高樹氏の出馬をどう見ているのか。NPO法人「医療大麻を考える会」は「主張に対する是非はないが、患者目線で医療大麻を考えてもらいたい」(事務局)という姿勢だ。


 うーむ。なんなのかなあ。まあ、フランスのように以前との対応を変えて「医療大麻」が研究されるのはいいことだと思うのだけど、なんかよくわからない話になっているなあ。

その後ロケットニュース24というサイトに「【参院選】なぜ医療用大麻合法化の高樹沙耶氏が「わずか2秒で落選濃厚」になったのか? 最も意見を聞いてはいけない専門家に “落選した理由” を聞いてみた」(参照)に面白い記事があったが、それだと、高樹さんは「大麻草検証委員会幹事」らしい。

で、さらにいろいろ調べたら、「大麻を正しく考える国民会議」(参照)というのがあって、そっちが高樹沙耶さんを推していた。ただ、これ医療大麻に限定されなさそう。

「医療大麻」というのを、その他の大麻解禁とごちゃごちゃに議論していくと、あかんのじゃなろーかととも思ったが、とりあえず、この参議院選挙は終わっていったのだった。


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2016.07.11

2016年の参院選が終わった

参院選が終わり、概ね自民党および安倍政権が国民から信頼されたと見てよい結果が出た。私は今回の選挙はあまり関心がなかったが、世論の一部では、自民党による憲法改正を阻むことが論点だとも言われた。

まさかねえ、と思っていた。が、渦中関連発言しても政治的な熱気のなかではろくなことにならない。ので、後出し的に、「まさかねえ」の部分の思いを書いてみたい。書いてみたいというのは、率直に言って、自分の考えにバグがあるかもしれないなという懸念を検証したいわけで、特定のイデオロギーを嘲笑しているという意味ではまったくない。

話の枕は、今日付けの朝日新聞社説「自公が国政選4連勝 「後出し改憲」に信はない」がよいだろう。参照リンクをつけたいところだが、「http://www.asahi.com/paper/editorial.html」では意味がないだろう。

 歴史的な選挙となった。
 1956年、結党間もない自民党が掲げた憲法改正を阻むため、社会党などが築いた「3分の1」の壁。これが、60年たって参院でも崩れ去った。
 自民、公明の与党が大勝し、おおさか維新なども含めた「改憲4党」、それに改憲に前向きな非改選の無所属議員もあわせれば、憲法改正案の国会発議ができる「3分の2」を超えた。衆院では、自公だけでこの議席を占めている。
 もちろん、これで一気に進むほど憲法改正は容易ではない。改憲4党といってもめざすところはバラバラで、とりわけ公明党は慎重論を強めている。
 それでも、安倍首相が「次の国会から憲法審査会をぜひ動かしていきたい」と予告したように、改憲の議論が現実味を帯びながら進められていくのは間違いない。
 いまの憲法のもとでは初めての政治状況だ。まさに戦後政治の分岐点である。

「崩れ去った」という表現からは、「憲法改正を阻む」ことを是とする文脈のようである。しかし、憲法というのは時代ごとのニーズに合わせて改定するのが当然のものなので、日本に主権のない時代に制定された日本国憲法が未だに主権のない時代のまま維持されているのも不磨の大典でようで奇妙な感じはする。

朝日新聞社説子が既に指摘しているように、「憲法改正は容易ではない。改憲4党といってもめざすところはバラバラで、とりわけ公明党は慎重論を強めている」ということは重要で、つまり、実は現在でも憲法改正は容易ではない、が結論だろう。現状の政治状況でもし理想の改憲というのを考えるなら、以前このブログで触れたように(参照)、公明党をどう考えるかが重要な課題だろう。朝日新聞さんを含め、みなさん考えてますかね?

さて、同社説の文脈は熱を帯びていく。

■判断材料欠けた論戦
 首相は憲法改正について、選挙前は「自分の在任中には成し遂げたい」とまで語っていたのに、選挙が始まったとたん、積極的な発言を封印した。
 それでいて選挙が終われば、再び改憲へのアクセルをふかす――。首相は自らの悲願を、こんな不誠実な「後出し」で実現しようというのだろうか。
 有権者がこの選挙で示した民意をどう読み解くべきか。


 ■反発恐れ「改憲隠し」
 安倍首相が今回、憲法改正への意欲を積極的に語らなかったのはなぜか。
 「2010年に憲法改正案の発議をめざす」。公約にこう掲げながら惨敗し、退陣につながった07年参院選の苦い教訓があったのは想像に難くない。憲法改正を具体的に語れば語るほど、世論の反発が大きくなるとの判断もあっただろう。
 首相はまた、改憲案を最終的に承認するのは国民投票であることなどを指摘して「選挙で争点とすることは必ずしも必要ない」と説明した。
 それは違う。改正の論点を選挙で問い、そのうえで選ばれた議員によって幅広い合意形成を図る熟議があり、最終的に国民投票で承認する。これがあるべきプロセスだ。国会が発議するまで国民の意見は聞かなくていいというのであれば、やはり憲法は誰のものであるのかという根本をはき違えている。
 「どの条項から改正すべきか議論が収斂(しゅうれん)していない」と首相がいうのも、改憲に差し迫った必要性がないことの証左だ。
 この選挙結果で、憲法改正に国民からゴーサインが出たとは決していえない。

社説子の熱気は感じられるが、①「「どの条項から改正すべきか議論が収斂(しゅうれん)していない」と首相がいうのも、改憲に差し迫った必要性がないことの証左だ」ということと、安倍首相による②「憲法改正への意欲を積極的に語らなかった」は整合していて、つまり、特段にこの件で安倍政権側には問題点は感じられない。いや、朝日新聞社説子としては、それは政治戦略的に無関心を装っているのだいうふうにしたいのかもしれない。どうなのか。もとの文脈に戻ってみるといい。これは国会発言なのである。国会発言は重たいものだ。

さて、「どの条項から改正すべきか議論が収斂(しゅうれん)していない」という安倍首相の発言を実際の発言文脈に追ってみる。意外と面白い。「- 参 - 予算委員会 - 13号 平成28年03月14日」のおおさか維新の会の江口克彦議員での応答に出てくる。まず、江口議員が現行憲法は欠陥憲法だということをだらだらと言い出す。うざったいので途中「後略」とした。

○江口克彦君 それでは、憲法についてお尋ねします。
 結論から申しますと、我が国の現行憲法は日本語の使い方からしても欠陥憲法ではないかと思いますが、どのように思われるか。お答えいただく前に幾つか申し上げてみたいと思います。
 第七条では、天皇の国事行為が十項目挙げられています。午前中にもこの件については質問がありましたけれども、その第四項に、国会議員の総選挙の施行を公示するとあります。しかし、総選挙というのは衆議院だけでしか行われていません。とすると、参議院議員は国会議員ではないのかということになります。私は、参議院議員も当然国会議員だと思っておりますし、この項目は正式に書くならば、衆議院議員の総選挙及び参議院議員の通常選挙の施行を公示するでなければならないと思います。実際、第五十四条には、衆議院議員の総選挙を行いというふうに書かれています。
 また、第七条第九号に、外国の大使及び公使を接受することとありますけれども、国賓を接受するという文言はありません。また、国民の精神的支柱になることという項目もありませんから、被災地あるいは施設をお見舞いされておられることも憲法上はどこにも天皇の行為として出てきません。
(後略)

こんな牛のよだれのような質問をされて、どう答えるものかというと、安倍首相はこう答えている。その文脈で朝日社説子の先の引用文言が出てくる。

○内閣総理大臣(安倍晋三君) 憲法は国の未来や理想の姿を語るものでもあり、御党が憲法を二十一世紀という新しい時代にふさわしいものにしていこうと真摯に取り組まれていることに敬意を表したいと思います。
 自民党としても、立党以来、党是としてずっと憲法改正を主張してきており、平成二十四年には当時の谷垣総裁の下、改正の草案を取りまとめ、世の中にお示しをしたところでありまして、今後とも、これまで同様、公約に掲げてまいる所存でございます。
 言うまでもなく、憲法改正は、衆参各議院で三分の二以上の賛成を得て国会が発議をし、最終的には国民投票で過半数の賛成を得る必要があります。このような大きな問題については、与党のみならず、御党を始め多くの党、会派の支持をいただき、そして国民の理解を得るための努力が必要不可欠であろうと、このように思うところでございます。
 そこで、大切なことは、委員が今るる御指摘をされた点も含めまして、どの条項をどのような文言を用いてどのように改正するかなど、精緻な議論を要する個々の具体的な中身については憲法調査会において詰めた議論が行われることが重要ではないかと思っています。それらを通じて国民的な議論と理解が深まる中で、改正すべき事項等も収れんしていくのではないかというふうに考えています。
 今後とも、引き続き、新しい時代にふさわしい憲法の在り方について国民的な議論と理解が深まるように努めていきたいと思っております。

江口議員が、だらだら具体項目を挙げてみせても、安倍首相としては、個別条項ごとに憲法調査会において詰めた議論を経て、改正文言を整理し、「国民的な議論と理解が深まる中で、改正すべき事項等も収れん」と見なしている。そう日本国の議会で明言している。

「それは安倍首相の本音ではない、嘘だ」という議論もあるかもしれないが、明白な言葉でなされる議会の本質を理解するなら、安倍首相としては、憲法の改正事項は部分的に収斂させるものであり、その収斂材料も決まってないと考えていると言葉通りに受け止めていいだろう。それでも、「自民党としても、立党以来、党是としてずっと憲法改正を主張した」ということで、自民党案もある、ということである。

この後も江口議員が、だらだら具体項目の議論をしているが安倍首相の基本対応は変わらない。もういいだろう。

もう一点、関連して重要なことがある。具体的に「改正すべき事項等も収れん」というのは、憲法改正国民投票法を踏まえているのである。

そもそも、平成19年5月18日に公布された「日本国憲法の改正手続に関する法律(憲法改正国民投票法)」(参照)を見ると、憲法の改正というのは、「憲法改正案ごと」の対応になる。

投票は、国民投票にかかる憲法改正案ごとに、一人一票になります。投票用紙には、賛成の文字及び反対の文字が印刷され、憲法改正案に対し賛成するときは賛成の文字を囲んで(丸)の記号を書き、反対するときは反対の文字を囲んで(丸)の記号を書き、投票箱に投函(とうかん)します。

この点については誤解されやすいので総務省で制度のポイント(参照)が解説されている。

憲法を改正するところが複数あったら
 憲法改正案は、内容において関連する事項ごとに提案され、それぞれの改正案ごとに一人一票を投じることとなります。

つまり、内容に関連があれば事項をまとめることもできるが、それでも、改正案は事項ごとに国民投票することになる。現行の糞みたいな自民党案がまるっと提案されることはない。

しかも、国民投票が通るのは投票総数の半数を超えた場合である。こうなれば、自民党がというより、国民の総意と言ってよいものになるだろう。

つまり、制度的に、法的に、憲法改正というのを考えるなら、どうなるか?

朝日新聞社説子のように、憲法改正そものを禁じるような方向ではなく、どの事項を絶対に変えてはいけないかということを論点にすべきであった。少なくとも野党共闘は、絶対に変えてはいけない憲法項目を前面に掲げ、他については、自党案を提出すべきだった。

おそらく朝日新聞的な理念では、具体的には、「現行の9条を変えてはならない」という事項になるだろう。そのように野党連合を明晰に構成すべきであった。そしてそのこと自体は、自民党に焦点化される文脈ではない。他のいかれた党だってアホな改正案を掲げうるからだ。

もっと言うなら、今回の参院選では、反自民的な空気を形成するがために、あたかも憲法全体が自民党憲法案になるぞと脅しをかけるような空気が充満しているのを私は感じていた。私たち日本市民は、空気を醸していくのではなく、議会の言葉と法をもっと重視しなくてはいけないとも思っていた。

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2016.07.06

中東民族衣装を国家はどう扱うか、というか、もうちょっと微妙な問題

米国を中心とした海外圏ではけっこう話題になっていたが、これって日本国内では話題になるだろうか、とググってみたときはなかったように思ったが、今このブログを書く前に再度ググったら、AFPが拾っていた。間違った記事ではないのだが、これ、なかなかに含蓄深い。ようは、中東民族衣装の男が米国でISに間違われて暴力的に拘束された、という話題である。すぐに誤解が解けたものの、ちょっと冗談のような話である。が、このニュースの論点は、米国の警察っておバカなことするな的な問題でもない。

まず、AFPで拾っておこう。「民族衣装で過激派と勘違い? 米でUAE市民拘束、政府が抗議」(参照)より。


【7月4日 AFP】アラブ首長国連邦(UAE)政府は3日、同国市民のビジネスマンが(41)が滞在先の米国でイスラム過激派と疑われて拘束され「虐待的な扱い」を受けたとして、米大使館の高官を呼び抗議した。男性はUAEの民族衣装を着ていたといい、政府は国民に対して外国ではその着用を避けるよう助言も行った。

男性は治療目的で訪れた米国のオハイオ(Ohio)州クリーブランド(Cleveland)のホテルで6月29日、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」に忠誠を誓ったと疑った従業員によって通報され、警察に身柄を拘束された。男性は当時、民族衣装である白いローブとアラブの頭飾りを着用していた。


中東民族衣装を着ていただけで、イスラム過激派と間違えるというのもマヌケな話ではあるが、結論を先にいうと、「政府は国民に対して外国ではその着用を避けるよう助言も行った」が重要である。

この表面的にはヘンテコなニュースが話題になったのは、YouTubeの影響もある。事態が公開されているのである。


UAE外務省は米国のイーサン・ゴールドリッチ(Ethan Goldrich)駐UAE首席公使に対し、「UAE市民に対するオハイオ警察の虐待的な扱いに不満」を表明すると伝達。さらに拘束の様子を映した動画が公開されたことについても「UAE市民に対する中傷」だとして抗議した。

2分くらいのところから、どたばたが始まる。ドラマみたいに銃を向けられ手錠嵌められる。

間違いは比較的早期に明かされ、州も公式に謝罪をした。

で、先に触れたが、この件でUAEの外務省はツイッターの声明で「旅行中、特に公共の場では、自分の安全確保のため民族衣装を着用しないこと」と勧告しているとAFP報道にあったが、UAEではより公式のアナウンスもしている(参照)。そこでは、旅行先の国によっては、女性のブルカ(ヴェイル)も避けるように促されている。

He also recommended to the citizens to abide by the ban of burqa (the veil) applied in some European countries and cities, which prohibit the wearing of the veil (burqa) in public institutions and places, to avoid legal repercussions or fines arising from the violation of this law.

The UAE official noted that European states that ban the wearing of veil are France, Belgium and the Netherlands, as well as some European cities such as Barcelona in Spain, which banned the wearing of any clothing covering the face since 2010, and the Hesse State in Germany and a number of Italian cities. The Danish courts also banned the veil.

どういうことか。アラブ首長国連邦(UAE)の国民の女性は、フランスなど主に欧州の国に旅行するときは、安全のためにブルカ(ヴェイル)をしないように、というのである。

ちなみにUAEの国教はイスラム教で、85%がスンニ、15%シーア。他、キリスト教徒が9%くらいいて、国家としての宗教規制は少ないようだ。

それにしても、イスラム教徒の女性にスカーフブルカの着用を勧めない、というイスラム教国家というのも興味深いものだなと思った。注記:当初、後段落の流れの連想でブルカをスカーフと誤記した。

そういえば、ブログに書かなかったが、エール・フランスはこの4月、イラン便を再開するにあたり、フランス人の女性客室乗務員にスカーフ着用を指示したことで一悶着が起きた。それはそうだろう。フランス国内なら、むしろこの宗教的な指示は違法に当たるはずだ。

さて、このニュースも日本での報道があったかなと見直すと、またしてもAFPにあった(参照)。記事ではその後の経緯には触れていないが、たしか、スカーフ着用は気にしません、という女性客室乗務員でとりあえず問題は切り抜けたようである。

それにしても、イランのシーア派的な考え方だと、イスラム教徒でなくても女性はイランではスカーフの着用を義務づけられるのである。それがUAEではほとんど逆になっているかに見える。

こうした問題を、中東全体、あるいはイスラム圏でどう考えているのかというと、多分、特にまとまった考えもないのではないのではないだろうか。私としては、この不安定な動向は気になっているが。

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2016.07.04

[書評] 脳梗塞日誌 病棟から発信! 涙と笑いとリハビリの100日間(日垣隆)

 ライターの日垣隆さん、と私などは呼びたいようにも思うが、彼は主に、一時期ではあるが「作家」と称していたようにも思う。『「松代大本営」の真実 隠された巨大地下壕』(参照)や『そして殺人者は野に放たれる』(参照)などの著作歴からすればジャーナリストと呼ぶのが適切かもしれない。私と同年代(彼が1年ほど年下)ということや、三人の子育てを真摯にされていたこともあり、初期作品からもその著作にはずいぶん馴染んでいたし、初期の彼のメルマガ読者でもあった。
 が、2010年頃から彼は、いわゆる作家業よりもビジネス、特に英語学校経営などに取り組まれていたようだ。そしてその頃から私もあまり彼の作品は読まなくなくなっていた。噂ではあったが、糟糠の妻というものでもないのだろうが、子離れを契機に離婚され若い女性と再婚されまた新しくお子さんをもうけられたように聞いた。実はそのあたりこと、その後の生活のことも知りたくて本書を手にしたこともある。
 いずれにせよ、この数年はビジネスも成功され、人生も充実し、身体もすこぶる健康、腹筋・背筋・懸垂を各100回、ジョギング5キロ、だったか、これからの高齢者になる私たちの世代のお手本のような人であった。その彼が、2015年11月25日、脳梗塞に倒れた。本書『脳梗塞日誌 病棟から発信! 涙と笑いとリハビリの100日間(日垣隆)』(参照)はその実況録でもある。
 彼の悠々自適の日々。グアムで5日のゴルフ三昧の朝、朝食後倒れれ意識を失った。生死を彷徨うほどであり、脳左半球をやられた。彼は右利きなのでいわば言語中枢をやられたことになり、実際、本書のリハビリの初期の様子をみると、かなり重篤な言語障害を起こしていることがわかる。
 なのに彼は、この本を書き上げている。率直に言って、これは奇跡の物語と言ってもよいだろう。ここまで重篤な脳梗塞で言語表出が可能になるのだろうか。加えて、かなりの身体機能も回復したようすである。
 話が前後するが、これほどの貴重なリハビリ記録なので、できれば、彼自身の文章に加え、付き添いのメモや、医師の所見、リハビリ師の手記なども詳細に交えてくれれば、今後脳梗塞に会った人の大きな手助けになるのではないかと思えた。もちろん、本書巻末には理学療法士の文章が付されているし、だからこそそこがさらに気になった。
 それにしてもなぜ、そんなスーパーマンのような彼が脳梗塞になったのだろうか? この問いは本書でいくどか繰り返されているが、答えはない。そしてその問いは彼によれば封印されたともある。そういうものでもあるのだろう。余談だが、栗本慎一郎氏がやはりこの頃の年代(58歳)で重篤な脳梗塞を起こしたが、彼の場合はスポーツマンではあっても、血液には問題があったようだった。
 本書の文体は往年の彼のユーモアに溢れているが、実態は普通の人であれば、絶望してしまうほどひどいものだ。脳梗塞と限らず、人は身体も動かず、言語表出もできない、しかも回復の見込みもない、というくらいの絶望に置かれてしまうことがある。世の中にはいろいろな形の絶望がある。脳をやられるというのは、存外に多くの人を襲いうる。つまり、その絶望は私やあなたを待っている。そのとき、そこでどれだけ快活に生きていられるだろうか。私には日垣さんほどの強い意志はない。その意味では本書は、どのような絶望下でも人として生き抜くという強いヒューマニズムを結果的に語っていて、生きる励みになる。

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