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2016.06.29

[書評] 脳が壊れた(鈴木大介)

通常の生活もままならない最貧困の状況に陥った若い女性が、主にセックスワークで日銭を稼ぐようすを描くことで関心を呼んだルポルタージュ『最貧困女子』(参照)の若手のジャーナリスト鈴木大介氏が、41歳のときに脳梗塞で倒れた。本書『脳が壊れた』(参照)は、その渦中、その後、そしてリハビリを経て、高次脳機能障害に陥った状態を描いている。昨年の『新潮45』の10月号・11月号に掲載された『41歳、脳梗塞になりました』を加筆してまとめたものだ。よく描けているので、文章からは高次脳機能障害の様子は見られない。

若い人でも脳梗塞になることもある。その結果、死に至ったり、各種の大きな障害が残ったり、また外見から見えづらい高次脳機能障害を残すことがある。私も自著にも記したが、こうした問題に関心があり、この種類の本やよく読むようにしている。

鈴木氏の脳梗塞は右脳に発生したらしい。人間の脳は機能的に左右分担をしており、特異な状態で脳梁を切断し左右脳の連携を遮断しない限り、通常一体として働くので、いわゆる右脳型人間・左脳型人間というような差違は顕著には表れない。がそれでも脳部位は機能分担しており、なかでも右利きの人の場合、左脳に言語関連の中枢がある。このため、左脳で脳梗塞が発生すると言語能力に大きな問題が生じやすい。言葉がしゃべれない、理解できないなど。鈴木氏の場合は、右利きで脳梗塞が右脳であったため、直接的には言語関連の大きな障害は残らなかったとも言えるが、脳梗塞発生時には、話ができない状態に長期に陥った。というか、彼の場合はその後もけっこう言語障害が残ったようだ。

脳梗塞発生時の兆候はいろいろある。それ自体興味深いのだが、本書を読む限り、彼の場合、緩やかに訪れたようだ。日常的に左手の小指・薬指が自由にならない状態が長く続いた。物書きにありがちなタイピングの疲労だろうと疑っていたらしい。あまりひどくなり、音声入力も併用していたのだが、ある朝、自分の声が変わっていた。「宝物」と言ったはずが、「あああおお」になっていた。しゃべれない。視覚も歪んだ。すぐに奥さんに頼んで30分ほどの距離にある病院に運び込まれ、脳梗塞と診断された。繰り返すが、この時、彼は41歳であった。

なぜ若い彼が脳梗塞になったのだろうか。理由は判然とはしない。本書では彼は過労だろうと疑っているし、おそらくそれは大きな要因ではあるだろう。

緊急の状態を脱すると、リハビリに移る。その過程は本書に詳しい。右脳がやられるとこうなるのかと考えさせれる挿話が、こういうとなんだが笑いを誘う。視野には大きな問題が生じる。

本書を読んだ印象ではリハビリは順調に進んだかに見える。が、それにつれ、一見障害には見えづらい高次脳機能障害が残るようになる。こういうのも失礼だが、本書で一番興味深いのはこの部分である。

この分野に関心にある読者としての自分にとって、本書で印象に深いのは二点ある。一つは脳に問題が起きると、「感情の制御」が難しくなるということだ。自著にも書いたが私も40代半ばに脳の問題を抱えたとき号泣したことがある。あれを書いたころは問題を絶望として受け止め、その感情表現のように思っていたが、本書なども読みながら、私に起きたあれも脳の感情暴走のようなものだったかもしれないなと思った。その後の私にはあまり感情暴走のようなものはない。こういうとなんだが、できるだけ笑うようにしている。笑うチャンスを日常に作ろうと思っている。この話はノーマン・カズンズと関連していつ書きたいものだと思っている。

もう点の、本書で印象深かったのは、彼が言う「小学生脳」である。日常の興味のもちかた・注意力の向け方が、なんというか小学生のように、お子様になってしまうのである。世界が個別の関心事に分解されてしまうのである。あ、あれ、なーに?みたいな関心がぱらぱらと起きるようだ。オブセッションとも違うが、生活行動の全体の関心の統一性は維持しづらくなる。

ここで彼がジャーナリストとして優れていると感じさせるのだが、『最貧困女子』などの執筆を経て出会った、いわゆる社会の落ちこぼれの人々は、こうした高次機能障害に近いものではないかという直観である。実際には医学的にはそう判断できるものではないだろうが、ある種、そうした社会視点は必要になるかもしれないというふうには読後思った。

本書の後半部になると彼と彼の奥さんとの関係の物語が登場してくる。鈴木さんが25歳のとき、家出した19歳の奥さんと同居したのが関係の始まり。その16年間の間には奥さんの脳腫瘍という大病もあった。この数章は、本書の主題からすれば別の物語のようでもあるが、美しい夫婦の記録でもある。人はいろいろな結婚があり、いろいろな人生があるものだ。まあ、私なんかもその部類じゃないかと思うし、誰もが人生をある時点で振り返ればそういうものだろう。

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2016.06.27

[書評] さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ(永田カビ)

すでに知っている人は知っているだろうし、むしろ私のほうがこの作品についてのこれまでのネットの話題を知らないほうの人なんだが、ようするにコミックである。内容は表題通りで、あまりにさびしすぎてレズ風俗に言った女性の物語である、というと簡単そうだが、概ね28歳の女性実話である。私は見ていないのだがすでに大筋はネットでも公開されているが、それは「女が女とあれこれできるお店へ行った話」となっているようで、書籍化にあたりタイトルを再考したのだろう。

そういうことなんだが、話がまとまらないが、これ、コミックでなくて、文章のレポだったらどうだろうかとも少し思った。


実際には見やすく丁寧に書かれたコミックなので読みやすい。コマの割りや、ルポなのだが脚色も上手でいい作品になっている。

で、評価に困惑した。よい作品なのである。で、どう評論していいのか、とても困惑した。もちろん、評論なんかしなくたっていい。よい作品だ、で、終わりでもよい。つまり、すでに誰かがきちんとそうした線で評論というか評価を書いているんじゃいか。と、ぐぐったら案の定、はせおやさいさんが「永田カビ「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」読んだ」(参照)を書かれていて、まあ、これに私が何か加えることがあるのかとふと思い、いや、あるんだよねと思った。はせさんへの異論という意味では全然ないが。

概要的にはせさんの文章を借りると。

高校卒業後、鬱と摂食障害に苦しみ、家族や他者との関係に悩んだ筆者が大きな一歩を踏み出すまでの10年を描いた漫画です。もともとはpixivで「女が女とあれこれできるお店へ行った話」として公開され話題になっていたのですが、書籍化ということで、発売日当日に書店へ走りました。

最初に読んだとき、わたしがもっとも心を掴まれたのは、彼女が「レズビアン風俗」というものを探すきっかけになった、「自分は性的なことに興味がない、と思っていたけれど、そうではなかった。無意識にブレーキをかけて、考えないようにしていた。そしてそのブレーキは、母の形をしていた」という部分でした。そして彼女は自分の興味にしたがって風俗店を検索し、行動してみることで世界が広がり、呼吸が楽になった、と書いていたのです。

はせさんの文脈に繋げるわけでもないが、本書の話は概ね、社会的な居場所がなく、承認地獄に落ちたメンヘラこじらせ28歳処女が、あまりにさびしくてレズ風俗に行って、人生観変わった、ふうに受け止めてもいいし、著者としてもそうした文脈を意識して描いているようには思った。

私はどう思ったのか。難しいなあと思ったのである。この難しさをどこから切り出していいかわからないが、これ、「レズ風俗」じゃないだろ、というか、あるいは、「レズ風俗」というのはこういう側面も一面として持っているのかな、というあたりだった。

こういうといいかもしれないけど、カビさんに対応した「レズ風俗」のお姉さんたちは、この手のメンヘラ女性にかなり手慣れているなあと思った。これ、一種のカウンセリングみたいなものなんだろうな、と。

ちょっと話が飛んで古い話なるのだが、1980年代の日本に(オウム事件前だが)自己啓発セミナーが流行ったことがあって、現在の自己啓発セミナーものと違って、米国のエンカウンター・グループテクニックも使われていた。まあ、この話は長くなりがちなので端折ると、そのエンカウンター・グループテクニックのなかで、ハグの訓練というのがあった。見知らぬ人と出会い、対話して、そして手を触れ、ハグ、という人間のコミュニケーションを学ぶというものである。

たぶん、今でもどっかでやっているんじゃないかと思うし、私もこれの経験がある。のだけど、率直にいうとこれのセミナーはおそらく洗脳セミナーみたいなものにもなっているので、なんともお勧めしかねる。

で、本書読んだとき、本書みたいに「レズ風俗」で裸でハグしなくても普通にハグしあえるエンカウンター・グループテクニックのような機会があればそれは、それでメリットもあっただろうかとも思った。

本書はおそらく古典的な精神分析を学んだ人にとっては、なかなか含蓄深い挿話に満ちているのだけど、これは「レズ風俗」という文脈より、女性身体のロールモデルの学習でもある。この手のなんというか、女体触れあいコミニュケーションは比較的どの伝統文化にもあり、むしろ現代日本になくなりつつある。というか、女子体育会系の闇みたいなものにもあるだろうと思う。

そうした点で、これ、「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」(女性)は、「さびしすぎて風俗に行きましたレポ」としての男性、つまり、童貞の物語には微妙にならないのだろうと思った。おそらく決定的に違うわけではない。むしろ、このレズ風俗のお姉さんのようなカウンセリング的なお姉さんがやさしく童貞君に対応する風俗があればよいと思うのだが、まあ、あるんだろうか。あるのかもしれないが、なさそうな気がする。

うーむ。ちょっとここでうなる。

なんだかんだ言っても、「レズ風俗」である意味救われる女性はいるだろうし、普通の風俗で救われる童貞こじらせ君もいるだろう。一定数は居るだろうという以上は言えないだろうが。

いろいろ思う。そのわりにうまくまとまらないな。(お前はどうなんだという部分もあるしなあ。)

本書でいろいろはっと気づかされる話のなかに、レズ風俗後に著者は体験を「美化してしまう」としている。それはある種特殊な批評眼のようなものである。

こういうとなんだが、エロス的な経験は美化してしまってもいい。実際のところ、彼女がそうした美化のなかで唐之杜志恩と六合塚弥生的関係を築いてもいいだろう。

では、そこはそうなるのかというと、よくわからない。あるいはヘテロなエロス関係を持つようになるのかもわからない。いずれにせよ、あと数段のエロス的な自分の存在の受容というのは起きうるだろうし、そういうのが30歳代の課題というのもそうなのかもしれないなと思った。このあたりは、「ナイン・ハーフ」や「ベティー・ブルー」的テーマでもある。


本書の彼女の場合は、というか、この作品「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」の場合はというか、ルポとはいえ、作品としてのある種の形式的な強制性が、物語のなかに「生」を導入させている。そのために、とても爽やかな作品になっているし、存在が「死」に接近するなかでもかろうじて「生」と「世界」に開かせる部分は美しい。

ただ、「性」や「エロス」というものはそう明るいばかりものでもない。そうした漆黒の心性みたいなものを抱えてしまった若い人はどうしたらいいんだろうかなあとも思った。映画なんかだと、「罪物語」とか「愛の嵐」とかふと連想するが。

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2016.06.25

英国のEU離脱がもたらす安全保障上の論点

英国のEU離脱について、前もってブログならではの予想記事を書こうかとも思ったが、自分なりに詰めのところが見えなかった。投票数日前から英国入りしてて現地報道をしていたNHKの香月隆之特派員も投票前に、英国民は「良心」によって残留を選ぶだろう、と、おそらくうっかり言っていたのが印象的だったが、私もそうした「良心」を信じたい気持ちはあった。が、結果は離脱となった。

ので、これからどうなるのかという、一種後出し議論がメディアで盛んになりつつある。辺境ブログでもネタを投じて起きたいとも思うのだが、日本のメディアやジャーナリズムを見ていてしみじみ思うのは、やたらと経済にばかり関心をもっているものだなあということである。EUというのは、安全保障の枠組みでもあり、英国ではこの議論もけっこう盛んに行われていた。が、どういうわけか、日本人はこの問題にあまり関心を持たないように見える。

これも日本のジャーナリズムはどうかなあ、と思うのだが、先日、ドイツの2016年版防衛白書草案がリークされ国際的に話題になった。これに関する日本語で読める記事は少ないのだが、検索してみると「ロシアNOW」に「ドイツ白書でロシアは仲間か敵か」(参照)があった。

 ドイツの「ディ・ヴェルト」紙は4日、2016年防衛白書が作成されていると報じた。その草案には、ロシアが2006年版防衛白書にあるようなドイツの「優先的なパートナー」ではなく、ライバルになっていると記されている。

「ロシアNOW」なんでロシアの文脈で書かれているが、むしろそのほうがわかりやすい面があるとしても、要点はそこではなく、EU軍の問題であった。

簡単な問いにしておこう。英国がEUを離脱した場合、欧州の安全保障はどうなるのか?ということである。

この問いが思い浮かばないほど平和な日本人は憲法九条の理想かあるいは米国の核の傘の下に安寧しているのか、あるいは別の理由があるのかもしれない。が、たかがブログなんで疑問は論じてもよいだろう。

その前に「ロシアNOW」の情報なんてそもそも信憑性があるのかという疑問がある人は、「フィナンシャルタイムズ」の関連記事「Germany to push for progress towards European army」(参照)を参照しておくとよいだろう。

日本語で読める記事を優先するので逆に話題が少し混乱する面もあるが、以下のBBC日本語記事では、EU離脱派の、ドイツを事実上中核とするEU軍構想への懸念から、離脱を説いている文脈で、キャメロン首相は否定論を掲げていた。「キャメロン英首相 EU離脱派の主張は「事実と異なる」」(参照)

キャメロン首相は、EU軍構想に対する警戒や、トルコが近くEUに加盟するとの見通し、英国がEU加盟で負担している費用に関する離脱派の主張を否定し、英国が離脱を選択すれば「根性なし」とみられるだろうと述べた。

(中略)

また、EU加盟で英国が毎週3億5000万ポンド(約530億円)を負担しているとの離脱派の主張は「本当ではない」とし、EU軍構想は「実現しない」と述べた。EU軍創設に対する警戒からチャールズ・ガスリー元英参謀総長が先週末にEU離脱支持に回っている。

キャメロン首相は、「離脱支持の言い分はもちろんあるだろう」とした上で、「全く事実と異なる3つのこと」を理由に英国が離脱をんだりしたら「悲劇だ」と述べた。

ここはキャメロン首相の意見とチャールズ・ガスリー元英参謀総長の意見のどちらを見るべきかが問われるところで、さすがに後者の報道は日本にはないようだ。テレグラフには関連記事がある。「Field Marshal Lord Guthrie: Why I now back the Leave campaign」(参照)。実は彼の議論が、離脱が現実となった現在、重要性が増しているとは思う。

実際ところ、キャメロン首相自身も、英国のEU離脱を安全保障と関連付けて関心を持っていて、離脱と戦争の懸念を表明している。これもテレグラフ「David Cameron: Brexit could lead to Europe descending into war」(参照)に記事がある。

こうした問題を総合的にどう見るか。それがいよいよ問われ初めてきているが、全体構図はよく見えない。

おそらく一見焦点的に見える対露問題よりも、NATOとトルコの問題が重要になるだろう。

先のガスリー元英参謀総長の見解としては、有事の際、実質的にEU軍は機能せず、米国主導のNATOが実質的な軍事を担うので英国としては、EU軍に関わるより米国との軍事同盟を強化せよ、と受け取ってよさそうだが、この意見の評価以前に、すでにEU離脱を決定した英国としては安全保障上、集団的自衛はNATOベースにならざるをえないし、米英の軍事同盟はいっそう強化され、それに対応して、ドイツ主導の今後のEU軍構想とは齟齬が生じてくるだろう。余談めくが、英国が離脱したEUの共通言語はなにかと言えば、実質英語にならざるをえないという奇妙な事態にもなる。

そしてトルコが今後潜在的にさらに大きな問題になる。トルコはNATOと集団的自衛権を結んでいるが、従来はこれによって、ロシアがトルコに軍事的なちょっかいを出せば、NATOとしてロシアに向き合うという形で露土間の戦争の抑止力になっていた。が、トルコのエルドアン大統領が現在、実質てきに独裁権力を握りつつあり、スルタン化してくると、むしろトルコの軍事的な意向でNATOが動かされされかねない。というか、この問題は対ロシアというより、シリア問題、特にクルド問題に関連してきている。

独仏としては現状の難民対応を見ても明らかなように、トルコとの連携を実質的には嫌っており、集団的自衛権を発動してトルコの引き起こすいざこざに巻き込まれたくないので、EU軍ができてもむしろ、トルコをNATOに放り出す形で分離が進むのではないかと、私などは想像する。

まあ、こうした問題は、専門の識者がいるはずだと思うが、ざっと見渡したところではメディアでもジャーナリズムでもまたネットなども見かけなかったので、メモ程度に言及しておきたい。


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2016.06.22

[映画] パリ20区、僕たちのクラス(Entre les murs)

以前から見ようと思って留意していたフランス映画「パリ20区、僕たちのクラス(Entre les murs)」を見た。邦題からも察せられるように教育をテーマにした映画である。日本公開は2010年だが、元のフランスでは2008年の作品なので、現時点からすると少し古い時代になったかもしれない。が、教育環境にはそう大きな変化もないのだろうと思う。


物語は、と切り出してみて、さしたる物語はない。むしろ、ドキュメンタリー作品であるかのように見える。実は、そこにこの作品の映画としての真価があるのだが、それでも、物語っぽい部分を追ってみよう。

場所はパリ20区の中学校。パリの街はルーブル美術館のある1区から渦巻き状に区番号が振ってあって、20区が最後になる。つまり、パリのはずれということだが、その意味合いは、「ボンリュー(banlieue)」に近く、ボンリューというのは訳語は「郊外」だが、よく「ボンリュー問題」と言われるが、実際にはフランス旧植民地の移民が多く住む低所得世帯用公営住宅団地、つまり貧困地域の問題を指していることが多い。その意味で、パリ20区の意味合いは、パリであるとともにボンリューでもあるという含みがあり、そのことはこの映画のクラスの生徒を見れば、一目でわかる。

原題の《Entre les murs》の意味は、「壁の間」ということで、実際に映画なかの学校は壁の間のような狭いところにあるが、暗喩としては、パリという壁とボンリューという壁を指しているのではないかと思った。

物語は、この中学校に赴任して4年目の国語教師(つまりフランス語を教えている)が担任となる教師が中学三年生(だと思う)の24人の生徒をクラスに迎えるところから始まる。クラスは当然、荒れている。私(1957年日本生まれ)が若い頃よくメディアで見かけた、荒れた中学校に似ているが、違いはさまざまな人種の共存である。黒人が当然目に付くが、黒人といっても、フランスの旧植民地は広く、アフリカでも多様であり、さらにカリブ系も多様である。そうした、一見、黒人に見える生徒間での微妙な軋轢も映画に反映されている。他方、できのよい子だが性根のねじ曲がった生徒もいるし、中国系移民もいる。はっきりとはわからなかったが、ユダヤ人も暗示されていたように思えた。これがフランスの公教育の現実かあと、それだけ溜息が出る。当然、授業を維持することすら難しい。

さて、この一年、どうなるのか。結論、どうにもならない。さまざまな難問が持ち上がり、人間的なトラブルや、誤解から生じた問題がぼこぼこと発生する。解決しない。全然解決しないのだ。ただ、それに担任のフランソワが向き合い、同僚の教師が向き合い、校長が向き合っている。「なんだこれは」というのが、映画途中までの視聴実感である。これって、面白いのか。『心が叫びたがってるんだ』とか『スクール・オブ・ロック』とかみたいに、ハートウォーミングな転機がどこかにあるんじゃないか? ないのである。全然、ない。

『パリ20区、僕たちのクラス(Entre les murs)』について、ちょっと調べてみたらここに公式サイト(参照)があり、「子供たちが信じられないほどに素晴らしい」とか書いてある。

だが、これは、「彼らの演技に世界は驚嘆した」というすばらしさであって、演技が素晴らしいからこそ、教師も生徒も救いようのないほどのクソというのか、ひどい。いやいや。そうじゃ、全然ない。このクソな状況が人間なんだということに、じわじわと感動してくる。なんというのか、生徒も先生も、どいつもこいつも、逃げていないのである。

教育という、どうしようない問題に真正面からぶち当たって傷つきながら生きている。嘘臭い希望なんてなんにもない。でも、ここに人間と教育とリアルがある、それが、がくがくと伝わってくる。すげーなあと思った。これが、ドキュメンタリーではなく演技だし、担任のフランソワは原作者の作家でもある。

これだけひどい状態なら、「フランス死ね」と言いたくなるだろうし、実際にフランスは、そういう社会になっている。ボンリュー問題は暴力沙汰にもなる。デモも日本の比ではない。だが、このなんというのか、真摯な市民は確実に、絶望を含めた生というもののある確実性を生きている。教育というのはつまり、そういうことじゃんじゃないのか。

さりげない挿話にも泣けるものがあった。同僚の女性教師が妊娠したというと、同僚で学校でワインを傾けて祝福していた。美しい光景だった。中国系の生徒の母親が強制送還されるというので、教師同士が訴訟のカンパをしていた。カンパ自体が教師を意志を示すらしかった。

あと、私が無知すぎて泣けたのだが、生徒の評価をする職員の会議に生徒代表二人が参加していた。最初は、そのシーンを見ていて、この会議はなんだろうと思った。見ていると、先生同士が、あの生徒の評価はどうたら、厳しすぎる、言い面もあるとか議論している、そのなかで、生徒が二人、スナック食いながら参加しているのである。

これ、日本でありえるだろうか。いやあるべきだろう。先生が生徒を一元的に評価するのではなく、ある程度公的に生徒側が異議申し立てできるくらいに生徒の代表を職員会議に送り込むべきだろう。

日本の民主主義は欺瞞に満ちている。そしてこの映画を見ると、フランス式の民主主義も困難が多いにせよ、日本的な欺瞞は少ないと確信できた。

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2016.06.21

三酔人徒政問答

南海
やあ、久しぶり。さてこのメンツで話題はというと……。

洋学
英国のEU離脱問題かな。あるいは、米国務省外交官51人がオバマ大統領のシリア政策を批判する内部メモに署名した話なんかどうかな。

豪傑
そんな国際情勢に日本人が関心持つと思うかね、洋学君。ここはあれだよ、このところの世間の話題、舛添都知事辞任問題とかだろ。

南海
そうだな。豪傑君に賛成しておくか、というか、あの騒ぎについて、豪傑君と洋学君が、どう思ったか気になっていたんだ。僕はね、この騒ぎ、いくらテレビで視聴率が取れるからといってちょっとやり過ぎだったな、っていうか、内容は別としてだな、雰囲気としてだね、なんか集団ヒステリーみたいな感じがしたんだよね。「舛添悪代官、これでもシラを通す気か」みたいな時代劇ががかっているみたいにさ。

豪傑
まさに悪代官だろ、舛添は。2014年の就任から昨年末まで、あいつ、八回の海外出張をやっているんだが、その経費知ってるか? 2億1300万円だぞ。それから公用車の湯河原別荘通いがこの1年で49回。こんなやつを都知事にしておけるか? 政治資金の公私混同もひどいもんだ。れいの「竜宮城スパホテル三月」の宿泊37万円は「会議費用」だとよ。笑わせる。実態は家族旅行だろ。天ぷらやイタリア料理食いまくって、7万円、美術品や骨董を「資料代」として買って、580万円。なんの「資料」なんだか。それに奥さんにやらせている「舛添政治経済研究所」に、彼の政党支部や資金管理団体が「事務所経費」として流した金が6年間で3000万円ほど。これ、そもそも使用実態があったのかね? ひどい話だ。

南海
お? 洋学君、豪傑君の話を黙って聞いているね。でも顔に書いてあるぞ、「これだから愚民には困ったもんだ」、図星だろ。それもわからないではない。洋学君は腹に据えかねているか。じゃ、ここは僕が仕切っておくかな。

洋学
ほお、どう仕切ると? 衆愚の暴走みたいな話なんだぜ。

南海
まあまあ。まずはだな、豪傑君もわかっているとは思うんだが、舛添要一さんが参議院議員時代にやっていた話と、都知事になってからの話を、それなりに分けて考えるべきだろうな。

洋学
そんなところから仕切らないと話にならんというのは、いったいぜんたい、どういうことなんだ、と俺は思うがね。

南海
豪傑君だって知っているはずだと思うが、政治資金規正法自体がザル法なんだよ。この法律は、金の入り口については厳しい。当然だ。ワイロを政治家に渡して政治を左右されてはたまったもんじゃない。だが、出口には実質規制がないに等しい。さすがにそれを元手に株式や不動産で資産運用とかしないくらいには規制してあるが、使途についてはなんであれ記載があればよく、それが適切に使用されたかという判断規定はないんだ。総務省政治資金課に聞いてごらん、「収支報告書で公開している以上の実態を把握する立場にない」って答えるよ。

洋学
政治資金規正法の線で、政治家をバッシングして辞任に追い込んでいけば、生き残れる国会議員なんて何人いるのか疑問だな。やる気になれば政治テロに等しい粛清だってできる。いったいこの国はどこの国なんだ。

南海
ようするに舛添さんを都知事に送り込んだ時点で、参議院議員時代にやっていた政治家マネーゲームについては、そんなものでしょという、都民の暗黙の合意はあったと見るべきだろうな。舛添さんとしてはちゃぶ台返しくらった感じかもしれない。

豪傑
いや俺は知らなかったぞ。知っていたら、絶対に舛添になんかに投票しなかったはずだ。ああ、いや、俺は舛添になんか投票してなかったがな。

南海
と、いうのが庶民のありかただというふうな前提にマスコミは立って、みんなで正義の劇を演じていたわけだな。

豪傑
だから、そもそも舛添を都知事に選んだ時点で間違っているんだよ。

南海
豪傑君ね、それは「お前がそう思うんならそうなんだろう」以上ではないよ。まあ、今回の舛添さんの件で、こうした政治家のマネーゲームの一端が世間にもわかってよかったとも言える。マスコミでもいちおう専門筋では気にしていたんだが、れいの美術品な、あれが面白い。「新党改革」の政党交付金が解散時に返却されてないんだ。あの金で580万円分の美術品が購入されている。ようするにあれは、彼の以前の政党交付金が化けたものなんだ。ほいで、舛添さんが都知事に出たときは「無所属」が建前だから、あれ、どうなってんのというわけさ。あれだよ、田舎の金持ち爺さんが黄金の観音像とか仏壇に飾っていたりするが、信仰なんてありやしない。税法上の技術だ。

豪傑
舛添のことだから、美術品も着服したんだろ。

南海
詳細はめんどくさいが、概ね違法性はないようだ。僕は思うんだが、あのあたりで、マスコミは狙いを外して、しくじった感があったんじゃないか。だから、実はマスコミのほうが逆上して、なんとか舛添さんを追い詰めたくなったんじゃないかと。

豪傑
君らの話を聞いていると、舛添もそんな悪い政治家でもないような気がしてくるなあ。いかんいかん、そんなわけないだろ。都知事になってからも、大名行列の海外旅行とか、ひどいもんじゃないか。

南海
おっと、洋学君、必死に笑いを堪えるということろか。まあ、これは苦笑だなあ。今回、舛添さんを追い詰めた都議さんたちがだが、これからリオ五輪に向けて4回7日間の視察旅行をする。当初は20人で随行員合わせて6200万円。高すぎるんじゃないかと共産党や生活者ネットワークが辞退したらその穴が埋め合わせになって結局都議27人で1億円を超えそうだ。ははは愉快だね。

豪傑
愉快なものか。都議はどうなってんだ。

洋学
そうだよ、「都議はどうなってんだ」。いい命題だ。本質を突いている。まあ、豪傑君の疑問のレベルでいうなら、舛添都知事の豪遊だって東京都人事委員会が認可していたわけだ。特段に舛添知事だからひどいという話でもない。むしろ、舛添さんが都知事についたころは質素なもので、最初の5回の外遊も1000万円程度に収まっている。外遊インフレを興したのはソチ視察あたりからかもしれないし、それでこの流れができたとも言えるかもしれない。が、いずれにせよ、東京都官僚機構の伏魔殿の風情もないわけでもない。とはいえ、基本は都議の問題だろう。

南海
だなあ。僕も思うんだが、今回の舛添さん騒ぎが始まったころ、まさか辞任にまで追い込まれると思っていた与党議員はいなかっただろうな。特段に、異常な事態があったわけでもない。猪瀬さんのときの問題は、まさに、さっき言った「入り口」の資金の問題だし額もでかかったからゆゆしきことだったが、舛添さんときはまあ、実にせこい話だ。あれ、君が読んでるニューヨーク・タイムズでも「せこい」でまとめていたんだろ。

洋学
ニューヨーク・タイムズのあの記事は、昭和の言葉で言えば「ほまち」ってやつかな。いちおう舛添さんに違法性がないことは明記してあって、じゃあ、この事態はなんだというところで、記者が「せこい」という日本語に逃げ込んでいた。昔懐かし日本人異質論みたいなものさ。「せこい」からで、一国の大統領クラスの要人が辞任に追い込まれるわけないだろくらい考えもしてないんだよ、昨今のニューヨーク・タイムズは。ついでに言うと、ル・モンドの関連記事も読んだが、こちらも違法性がないことを明記したあと、あまりに不可解なんで、他の政治問題を隠すための騒ぎだろう、みたいな陰謀論臭い話に仕上げていた。どうせ、フランス語をしゃべる日本人知識人の酒席のネタを拾ったんだろうな。最近、この手が多い。

南海
いつも海外報道をあがめている洋学君にしてはずいぶんと手厳しいな。

豪傑
しかし、都議が問題だというのは、腑に落ちてきたな。今回の舛添辞任ついても、日経の飛ばし記事っぽい印象もあるが、安倍首相が詰め腹をしいたっぽいしな。このままじゃ参院選に悪影響ってやつか。安倍こそせこいな。それにしても、舛添は自分が正しいと思うなら、都議を解散するという手もあったわけだが、それを封じるあたり、自民党って漆黒だな。

洋学
ああ、僕も舛添さんは、こんな馬鹿な都議を解散すればいいと思ったな。河村たかし名古屋市長みたいにさ。小泉元総理もそうだったが。

南海
洋学君、ホントにそう思うか?

洋学
あはは。ま、半分くらい。河村さんみたいにはいかないだろう。都民がメディアの馬鹿騒ぎでヒステリー状態にあるからというのじゃなくて、そもそも、舛添さんという政治家がどういう政治ミッションをもっていたんだろうかと、けっこう考えこんでしまったんだよ。ミッションが選挙民に伝わってなければ、この手の勝負に勝てるわけない。

南海
そこだな。舛添さんは「このままでは死んでも死にきれない」とか言っていたが、じゃあ、舛添さんが何をしたかったのか、というと、わからなかった。東京オリンピックか。

豪傑
舛添なんかに、そもそも政治のミッションなんてない。あいつが都政に貢献してる面なんてこれっぽちもあるもんか。

洋学
だとさ。今度は南海君が笑いを堪える番だ。

南海
人は忘れっぽいものだと思うし、今回の舛添都知事辞任劇もすでに忘却に足を突っ込んでいるわけだが、彼はあれで就任1年目は都議会の共産党からも「及第点」との評価を得ていたものだったよ。その後の1年間もなかなかの政治手腕だった。さすが元東大教授、教養学部。

洋学
豪傑君、都知事というのは公職だが、これは企業の経営者と同じ側面もある。単純な話、無限にばらまく金があればどんな善政だってできる。でも、金には限りがある。じゃあ、そういう東京都の全体的な経営者として見た場合、舛添前都知事はどう評価されると思うかね。

豪傑
くだらん。都知事の経営なんて誰がやっても同じだろう。グラフの線を延長するくらいなものだろ。それこそ、都知事職なんか人工知能でやればいいんだ。

洋学
概ねそう言ってもいいんだが、都税が4兆円代だった青島都知事・石原都知事の時代と比べると、増加し、平成28年度では約5兆2千万円になっている(参照PDF)。これはアベノミクスの効果もあるだろうが。おかげで都債発行額も減っている。

南海
舛添カラーと言えるかどうかは異論はあるだろうが、全体としてもバランスのよい都政だったと言えるだろう(参照PDF)。その点で、知事を辞任にまで追い込む必要はあったかというとどうかな。ところで、新知事選の候補の名前が挙がっているが、君たちは誰に期待する?

豪傑
元厚労省事務次官の村木厚子さんがいいでしょう。南海君は?

南海
元日弁連会長の宇都宮健児でいいんじゃないか。村上春樹のノーベル賞待ちの気分だな。あと、村木さんは前回も名前が上がったが立候補はしないでしょう。洋学君はどうかね。

洋学
僕はもう決めてますよ。

南海
まだ正式な立候補者がない時点でか?

洋学
「舛添要一」

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2016.06.08

「残響のテロル」と凡庸性の詩情

「PSYCHO-PASS サイコパス」を見終えて関連の情報を当たっているとき、「残響のテロル」がお勧めされたので見てみた。ノイタミナで同じころの作品ということだけの関連かもしれない。あっという間に見終えた。11話完結で面白かった。アニメの場合、1クールで映画2本分という感じだろうか。以下、ネタバレは含まれるのでご注意。

作品に違和感はないわけではない。というか、その世界観、2014年日本という設定、などに微妙な違和感があった。核が国家幻想に接する部分の物語は必然的にある種の陰謀論的な妄想を生み出す。この物語もその一つの典型的な派生に過ぎないとも思えたし、既存の世界、あるは日本に対する若者特有な破壊的な欲望も喚起する、「日本死ね」といったような類型性については必然的に退屈にも感じられた。また、登場人物が少なく、映像的な広がりの割に密室劇的な要素が強い。これは上演劇向けの作品かなと思ったら、すでにそういうのもあるらしい。

それでも面白かった。なにが面白かったのか。映像が美しかった。現代の日本の、都会の夏の風景がこの上もなく美しく描かれていた。これに菅野よう子の音楽がとても美しく調和していた。率直にいうと、それだけで見る価値のあるアニメだという印象がある。

ストーリー展開や表層的な主張性、キャラクターについては、あまり心動かされるところはなかったが、主要登場のひとり、三島リサという少女がとてもよかった。アニメなので美しく描かれているし、それに見合うように、いじめや家庭環境の問題など、心がずたずたの少女という設定も了解しやすいのだが、彼女の物語での立ち回りが、いたってなんの物語性がないというところが、皮肉な意味ではなく素晴らしい。もっとも、その反動面としてハイヴという女の子がいかにもこの物語のいかにも物語らしい側を担わされてしまってはいる。

物語は、ある意味、超人的な少年、九重新と久見冬二の物語であり、表面的にはテロの形で世界・国家の本質を暴こうとして共同幻想に関わり、共同幻想の神話的な物語を紡いでいく。それと現実の物語の接点に、柴崎健次郎という中年刑事がいる、というのも、まあ、どちらかというと定番の設定である。気になるのは、柴崎の年齢で、全共闘世代を臭わせているわりには若すぎるとは思ったが。

こうしたいかにも物語らしい物語のなかで、三島リサは受動的に物語りのコマのように組み込まれながらも、なんの特性もなく、主体的な物語への関わりもない。それでいて、この作品が本当の意味で独特な質感を作り出すのは、凡庸な三島リサと超人的な少年の関わりである。そしてその夏の風景は、村上春樹の初期作品のような叙情的な質感が上手に包んでいる。が、村上作品ほどホモソーシャルな情感はないものの、共同幻想がもたらす独特の対幻想への禁忌性は感じ取れる。

ハイヴの物語は描き足りないように思うが、脚本として大きな瑕疵もなく、他のストーリーの骨格や共同幻想的なレベルでのメッセージ性も明確になっているが、それだけなら、凡庸な政治性を可読にする、ありがちな主張に過ぎない。この政治的な通俗性とでもいうものがすべて、ある既視感なかで三島リサの中で終わるところは、ある陶酔感をもたらす。その意味で、この物語は、すべて三島リサという少女の一夏の幻想だったと言ってもいい。視聴している人間もみな、彼女のような凡庸姓のなかで、夏の詩情を持つようになる。そしてこの日本の夏の詩情は、無意識的に広島・長崎原爆への追悼の無意識に接続される。

私が仮にこうしたタイプの物語を紡ぐなら、もっとエロス的なシーンを多くしただろうし、そのことで共同幻想的な物語の欺瞞の情感を描くだろう。だがそのことによってこの作品のような独特の詩情は失われてしまう。エロス性の欠落は作品の情感の本質に触れている。

この、すべてが終わっているという既視感的な情感、あるいは最後に九重新と久見冬二という友情の墓が残されるという情景は、本質的なところで夏目漱石の「こころ」の枠組みと同じように思えた。この作品の死と愛の文脈の作り方は漱石的な質感も持っている。劇的なものが、凡庸な情感を介して回収される、こうしたある追悼的な詩情への希求は、おそらく、テロル的な心情と同型なのだろう。広義に鎮魂ということかもしれない。


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2016.06.06

「PSYCHO-PASS サイコパス」と比喩

「PSYCHO-PASS サイコパス1」
「PSYCHO-PASS サイコパス1」を見終えた。劇場版のほうはすでに見ていたし、そこからおおよその構成は知っていた。が、アニメのほうも通してみると面白かった。まず、普通にアニメとして面白い。きれいに描けている。脚本は緻密だ。しかしそれよりも、長年考えていたことの比喩をいろいろ思い出すきっかけになったことに、自分には意義があった。2のほうを見終えたからなんか書くほうがいいかもいれないとも思うが、そうこうしているとなにも書かなかったりもするので、少し触れておこう。以下、たぶん、ネタバレが含まれることになるので、ご注意。

比喩というのは、オウム真理教事件である。この事件がなんであるかについて、という話とは違う。あの事件がなんであったかは、私には今だによくわからない。ごく初歩的な事実関係ですら、よくわからない部分がある。だが大別して、二つ、ずっと思っていることがある。

一つは、あの事件はなんだったのかと簡素にだけ言うなら、日本そのものだった、としか言えないだろうということだ。これは首謀者とされる麻原彰晃は無罪なのではないかという疑問に関わる。その司法プロセスや法理に異論があるということではない。死刑判決が確定したことに異論はない。では何をもって無罪と思うのかということで、このあたりで言葉に詰まってくる。この事件で当初の弁護側がいう、「事件は弟子たちの暴走によるもので麻原彰晃自身は一切指示をしていない」というのは概ね正しいのではないかということに似ている。つまり、弟子というか狂信的な宗教集団が、中核的な空無に対応しての忖度が現実で引き越した事件だっただろうという補助線。カルト集団の共同幻想が引き起こしたと言ってもよいのだが、私はこれはカルトというより、日本そのものではないかと疑っている。というのも、第二次世界大戦に至る日本は、オウム真理教事件と同型だろうと疑っている。この大戦の場合は、天皇は連合国統治の都合から無罪というか、そもそも裁判からはずされたが、左派が糾弾するような意味では無罪であったように見える。もちろん、この点について強く主張したいわけではない。

オウム事件について戻るなら、そもそもあれは何の事件だったのかが、よくわかっていない。いろいろ奇っ怪なのだが、中核的な「地下鉄サリン事件」に限定するなら、このテロは何が目的だったのか? どのような思想でこのテロが構想されたのか。誰が構想したのか? いちおうそれは麻原彰晃の狂気の妄想から、世界(日本)の破滅予言を実現するために仕組まれたテロだったとは言えるだろう。それ自体は間違いではないが、では、そのテロ実現のプロデューサーと教祖はどのように連携していたのかとなると、わからない。気になるのは、そのスキームであっても、合理的に実施されたわけではなかったことだ。もし合理的なら、昨今世界で生じるテロのようにテロの効果性から手段が導かれる。そしてそれには、テロ実行犯がその自覚を持って行われる。だが、オウム真理教事件の場合は、実施者は高位の弟子に限定されていた。話がまどろこしくなるので端折ると、あれは「ヴァジラヤーナ」(金剛乗)の修行であっただろう。麻原彰晃も逮捕時には四法印と聖なる無関心といったようなことを奇妙な英語で口走っていたので、殺人を含む修行であることの了解はあっただろう。

推測だが、麻原彰晃の宗教思想では、殺人の是非を含めた社会の正義を乗り越えた金剛乗実践者が、殺人をも厭わず一見悪に見える事件をこの世界にもたらすことで、それを経て彼と世界を聖化するという構想があったのではないか。その意味では、弁護団が言うような、事件は弟子たちの暴走によるもので麻原彰晃自身は一切指示をしていない、というようないわゆる無罪の構図ではなく、殺人を超えた大いなる善の使者(菩薩)の到来という意味での、殺人の意識は麻原彰晃にもあっただろうし、ゆえに、聖なる無関心という境地にもあったのだろう。こうした思想は大乗の乱など仏教の歴史にもチベット仏教の渡脱の思想にもある。

「PSYCHO-PASS サイコパス1」の比喩でいうなら、浅原教的な金剛乗菩薩の集合意識によるシビュラと、そのさらなる実践者としての槙島聖護である。シビュラと槙島は基本的に同一である。その、市民社会の乗り越え彼岸への違いもあるが。

こうした比喩の考えかたは、当時の吉本隆明による麻原彰晃理解をなぞっている。

詳細を省くが、あくまで比喩の受容の一つではあるが(作成側の意図ではないだろうということ)、オウム事件の思想的な意義に触れる本格的な作品だったなと自分には思えた。

あと、個別に作品としてみると、シビュラの世界は、ジャック・ラカンの「ファルス」(phallus)のない世界の幻影的なファルスの世界に見えた。このことは、最終的な情念が、実質的に槙島聖護と狡噛慎也の同性愛であることに対応している。その意味で、ここで描かれる世界は地獄のように見えながら、実はラカンの日本への評価というか、douxな世界であり、常守朱からもファルスと性愛を奪っている。このことは批判という意味ではなく、高度な管理社会というのは、ファルスないdouxな世界への欲望を孕んでいるからだろう。


「PSYCHO-PASS サイコパス2」
以上を書いて数日後、「PSYCHO-PASS サイコパス2」を見終えた。ネットなど覗くとあまりで評は高くないが、私にはこれは1以上にすごい作品だった。哲学的なテーマが明確で神話劇的に出来ているので、ある意味非常に解読しやすい。が、そのためにアニメ作品としては不燃焼のきらいはある。むしろ、1のように征陸智己の昭和風人情話などを交えたほうが受けやすいのだろう。

とま、あえてここではそのことについては触れない。というか、2の哲学的なテーマを基軸に「PSYCHO-PASS サイコパス」全体については、cakesでやっているような本格的な評論で扱いという思いもある(なぜか現状休載状態ですが、書き手としてその意図はないです)。

ただ、この作品については、三菱銀行人質事件と日本航空123便墜落事故の同時代的経験は決定的かという思いは強く残った。表層的にも三菱銀行人質事件は比喩として意識されていたが、なにより鹿矛囲桐斗がシビュラに向ける銃の複数性にはその関連があった。日航事故についてはいわゆる御巣鷹の謎に関連する。

70年代安保を含んだある争乱の時代が終わったあとの日本というものの不気味さの無意識をよくここまで表現できたものだなと関心した。

「劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス」
ということで二度見た。最初にこれを見て、1と2の後に見た。基本、1と2の後で見た方がよいし、2の世界を継続しているが、物語の質感としては1に続いていて、2のコンセプトは被っているものの、2で描いた問題性の深化はないように思えた。どちらかというと、1で築いたファンへのサービスシーンが多い。私の見落としでなければ、常守朱がタバコを吸っているシーンは劇場版だけなので、ファン心理としてはとてもよかった。

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2016.06.02

「バーナンキによる刺激策助言を受け入れるのに日本は13年も遅れた」とな

ネットを見ていると、消費税先送りについて、アベノミクス失敗を示すものだから、安倍首相は辞任せよ、安倍内閣は総辞職せよ、といった議論が目に付く。日本は自由主義国なので、いろいろな議論があってもいいだろう。私としては、さて他にはどんな議論があるのものかな、海外ではどうかな、とパラパラと各種の意見を見ていくと、WSJの記事で、ちょっと懐かしいものを見つけた。正確には、この記事が懐かしいわけではない。

記事は「バーナンキによる刺激策助言を日本は13年も遅れて受け入れている(Japan is Taking Ben Bernanke’s Stimulus Advice 13 Years Late)」(参照)である。リードには「前連邦準備制度理事会(FRB)議長は10年以上も前から、日本は金融と財政の刺激策が一対になっていると示唆していた」とある。

簡単にいうと、今回の、安倍首相による、さらなら消費税増税の背景にある経済政策は、13年も前に、バーナンキ前FRB議長によって示されていたものだった、ということである。もっと簡単にいうと、ニッポンって10年以上も遅れてるぅ、ということである。まあまあ。

記事を読んでみると、私にとっては既知のことでもあるが、昨今のさまざまな議論を背景にすると、これはもう一度、注意を喚起するというか、想起してもよい話だな、ちょっと紹介の抄訳でもするかと思った。

のだが、ふと、これってWSJだからすでに日本語になってんじゃね、と探すと、あった。ちょっと表題が違うしリードもないが、記事は同じだった。「13年早かった、日本へのバーナンキ提言」(参照)である。

日本政府は膨大な財政赤字を縮小させるための最も重要な取り組みを放棄している。まるで米連邦準備制度理事会(FRB)前議長のベン・バーナンキ氏が2003年に示した助言に従っているようだ。

安倍晋三首相は1日、消費増税を先送りし、新たな財政刺激策を今秋にも公表する方針を明らかにした。

この措置は、バーナンキ氏が13年前にFRB理事として日本を訪れた際に送ろうとした助言そのものだ。

同氏は「日本のデフレを収束させる一つの可能なアプローチは、限られた時間ではあるが、金融および財政当局間の協力を強化することだ」とし、「具体的には、日本銀行ができれば減税やその他財政刺激策との明確な連携を図り、国債の買い入れをさらに増やすことを検討すべきだ」と述べた。

 同記事では示唆は二点あり、もう一点はこちらである。

バーナンキ氏は当時、日本がそれを聞き入れるかどうかに関係なく(現在はしっかりと耳を傾けているわけだが)もう一つ提言を残している

「日銀はよく知られるインフレ目標でなく、物価水準目標を導入すべきだ。これは、直近のデフレ期に物価へ及んだ影響を除外するためのリフレ期を想定することを意味する」と語った。インフレ目標は物価が毎年一定の割合で上昇することを目指すものだが、物価水準目標はGDPが将来のある時点までに一定規模に達することを目指す。

日銀は2%というインフレ目標を掲げているが、安倍首相にも経済水準についての目標がある。政府は昨年、GDPを現在の水準から20%増の600兆円に引き上げるという目標を発表した。

記事の結論は、今振り返ると単純ではある。

当然ながら、日本政府に対しバーナンキ氏と同じような戦略を呼び掛けたエコノミストは数多くいた。だが、事実上は日銀の支援である債券買い入れと並行して財政刺激策が行われる可能性がある、と考える日銀関係者はほとんどいなかった。

バーナンキ氏のアドバイスは13年早かったのだ。

まあ、それだけの話といえばそれだけのことだが、この13年前とされるバーナンキ氏の元ネタは私も以前読んだことがあり、それで「ああ、あれか懐かしいな、振り返ってみるか」と思ったのである。

同記事にはリンクはなかった。ネットにもう原文ないんだっけと調べてみると、FRBのサイトにきちんと残っていた(参照)。

Remarks by Governor Ben S. Bernanke
Before the Japan Society of Monetary Economics, Tokyo, Japan
May 31, 2003
Some Thoughts on Monetary Policy in Japan

これの翻訳は、高橋洋一訳「リフレが正しい。FRB議長ベン・バーナンキの言葉」(参照)の第7章にある。


こうして振り返ってみると、安倍首相は再登場にあたってマクロ経済学を学び直したおり、バーナンキ氏のこの講演も読んで学んでいただろうし、先の本も読んでいたことだろうな、と思った。と同時に、今なお読んでない人も少なからずといったことろだろう、世論やメディアを眺めると。まあ、それもそういうものでしょう。

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2016.06.01

核のない世界を目指す第一歩はどこだろうか?

オバマ大統領の広島訪問の際、儀礼的・修辞的な話はひとまず置くとして、現実的に、核のない世界を目指す第一歩はどこだろうか?と考えてみて、まあ、パキスタンの核兵器ではないかなと思った。そう思っている人が日本にどのくらいいるだろうかなとも思い、そういえばと、昨年末の「シャヒーン3(Shaheen III)」のニュースを思い出した。日本語で読めるニュースはAFP「動画:パキスタンで弾道ミサイルの試射、核搭載も可能」(参照)くらいだったように思う。事実だけを告げる短い記事だった。

【12月14日 AFP】パキスタン軍は11日、核弾頭の搭載が可能な弾道ミサイル「シャヒーン3(Shaheen III)」の試射を実施したと発表した。パキスタン政府はこの2日前、最大のライバル国であるインドとの首脳レベルの和平交渉を再開する可能性があるとの声明を出したばかり。

世界の核兵器問題をどう捉えるかというと、日本と限らないが、ついその数から考えやすい。米ソが核兵器で対立していた時代もあったので、しかたがない。だが、核兵器の問題の大枠は、その削減の手順からしても核拡散防止条約(NPT)が基本になる。

ということは、NPTの枠に収まらない核兵器をどうするかという問題が優先的になる。この問題は、日本のリベラルの言論では、反米・反イスラエルということから、イスラエルがNPT外に隠し持つ核兵器が話題に移りやすいが、イスラエルの核兵器は実質米国のタガが嵌められていると見てよいので(中東諸国が米国を信頼している限りはということ)、その点ではNPTの拡張としてあまり国際問題にはならない。

すると残るのは、NPT外に核兵器を持つ、インドとパキスタンと、それとまあ北朝鮮の3国である。北朝鮮が国際問題になるのは概ねこの文脈になる。幸い北朝鮮は現状はまだまだお笑いの状態にある。となると、実質的な問題はインドとパキスタンの2国ということになり、NPTに収まらない両国がぶつかり合うと核戦争になりかねないということで、課題として浮かび上がってくる。

皮肉なことに、先のAFPのニュースにもあったように、ここでは小規模の冷戦の構図がすでに出来ていて、むしろ両国の核兵器のバランスが崩れるほうが危険な状態になる。その意味で、「シャヒーン3(Shaheen III)」開発もしかたがないかとも言えそうだが、そもそも隣接する国家であるインドとパキスタンが、双方、長距離射程の核兵器搭載弾道ミサイルを持つというのはどういうことなんだという問題がある。

話がごちゃごちゃしてきたが、国際的な課題としては、インドとパキスタンをNPTに収めるにはどうするかということで、日本が核のない世界を求めるなら、まずここが重要になるはずである。

ところがどっこい、米国は、実質対中国の枠組みでインドの核兵器の存在を認めることになり、日本も同じ文脈でインドと実質的な軍事的な是認の関係になってしまった。端的に言えば、米国がNPTを破ってそれに日本が追従しているのはどうなんだということだが、幸い、日本の平和運動や核廃絶運動ではこれがそれほど課題になっているふうは見えない。イスラエル同様、インドの核も米国のタガが嵌ったと見てよいかもしれないが、そこがなんとも。

さて、ここからが「シャヒーン3(Shaheen III)」についての本題なのだが、この現状の問題は、この裏にいるのが中国だということ。日本で報道されているかざっと見わたしたがなかった。日本だと中国の核問題の話題は少ない。

この話題は、ちょうどオバマ米大統領が広島を訪問する直前にもあった。インド側のメディアで見かけたものだが、インディアン・エクスプレス5月25日記事「パキスタンへの中国の核兵器供給が米国とインドに脅威を与える、オバマ政権は警告した(China’s supply of nuclear weapons to Pakistan pose threat to US, India, Obama administration warned)」(参照)では、リードに「このような致命的なシステムを中国がパキスタンに供給するのを確実に停止させるために、米国政府はどのような手順を採るのか詳細に説明するよう、オバマ政権に二人の有力議員が報道によれば問いただした」とあるように、簡単に言えば、パキスタンの核弾道ミサイルシステムの裏にいるのは中国と見られている。

二年前のディプロマットによる「シャヒーン3(Shaheen III)」を巡る両国の関係の記事(参照)も参考になる。もひとつブルームバーグ系の比較的新しい記事もある(参照)。

ただ、パキスタンの「シャヒーン3(Shaheen III)」への中国の関与は、弾道ミサイルの技術であって核兵器そのものではない。その意味では、パキスタンの核兵器をどう見るかということがNPT的な枠組みでは中心的な問題になる。

これに関連して、昨年の話題ではあるが、サウジアラビアがパキスタンから核兵器を調達するという話題があった(参照)。この手の話題は他にもあり、トルコの核化も懸念されている(参照)。

これらに類する話の多くは与太話と見てもよいにはよいのだが、シリアも一時期核化を目論んでいたし、イラクもイスラエル空爆を受けた時期には核化の目論みがあった。大枠で言うなら、パキスタンの核兵器は、中近東の核化の起点になりかねないので、構造的に大問題であり、これにバックドアのように中国が動いているのが、世界の現状の核問題で一番不安な要因だろう。まあ、私などはそう思うのですが、という話にすぎないが。

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