« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »

2016.05.31

38歳のベン・ローズ大統領副補佐官(国家安全保障問題担当)的問題について

27日の、広島でのオバマ大統領の演説を執筆したのは、38歳のベン・ローズ大統領副補佐官(国家安全保障問題担当)である。同日付の英紙ガーディアン記事「誰がヒロシマ・スピーチを書いたのか(Who wrote Obama's Hiroshima speech?)」(参照)に関連記事がある。同記事としては、38歳のベン・ローズ大統領副補佐官を浮き立たせるというより、全体としてはオバマ大統領の声をよく伝えたとしていた。また同記事には、彼を論じたニューヨーク・タイムズ記事についてのリンク(参照)もある。

で、まあ、そうした記事は比較的、38歳のベン・ローズ大統領副補佐官について、それなりに公平を意識して書かれているのだが、たまたま東洋経済サイトで「オバマ大統領「広島演説」は一大叙事詩だった 魂をゆさぶる、神がかり的なコミュ力」(参照)をざっと読んで、批判する意図はないが、ちょっと困ったなあとは思った。表題からも察せられるが、こんな感じ。

同マガジンによれば、「優れた物語の語り手」であるローズ氏は「大統領のために考えるのではなく、大統領が何を考えているのか」がわかるのだという。「どこから僕が始まり、どこでオバマが終わるのか、わからない」とまで言う一心同体の存在にまでなったスピーチライターはまさにオバマ大統領の懐刀。ホワイトハウス随一のインフルエンサーとしてツィッターなどで情報を発信し、記者たちのオピニオンにも大きな影響を与える存在だ。

同マガジンというのは先のリンクのニューヨーク・タイムズであり、また同記事でも先のガーディアン記事に言及しているのだが、うーむ、元記事のほうには、のベン・ローズ大統領副補佐官の最近の問題についても言及があり、その「記者たちのオピニオンにも大きな影響を与える存在」がまさに大きな問題になっているのだが、はてさて。

ちなみに、ちょっとググったら朝鮮日報でも「オバマ氏広島訪問:歴史的演説で脚光浴びるスピーチライター」(参照)という記事があったが、問題点への言及はなかった。

あれ、なんでないのかね。ともう少しググったがこの件について日本ではあまり話題が見当たらなかった。

どういうことかというと、先のガーディアン記事にもこうある、これである。

The article is controversial because Rhodes claimed to have orchestrated naive Washington journalists and thinktanks into accepting last year’s nuclear deal with Iran.

この記事が議論を呼んだのは、ローズが、マヌケな政治ジャーナリストやシンク・タンク員を振り付けして、昨年のイラン核問題を受け入れさせたとしているからだ。

この話題は、17日のワシントンポスト社説「議会でのオバマの挑戦 / ベン・ローズ大統領副補佐官はイラン交渉での嘘について説明しなければならない(Obama’s challenge of Congress / Ben Rhodes must account for the lies about the Iranian negotiations)」(参照)でも扱われている。

簡単にいうと、ベン・ローズ大統領副補佐官は、イランとの核合意の際、オバマ大統領とイランの宗教指導者の間で交渉が始まった、とかふいていたのだが、それが嘘でしたぴょん、ということで、大騒ぎになったわけである。もうちょっと言うと、オバマ大統領の理想の核のない世界ということで彼の唯一の業績となりそうな、イラン核合意が、どうやら、ベン・ローズ大統領副補佐官の嘘の上に築かれていたっぽい。

というわけで、英米圏では、38歳のベン・ローズ大統領副補佐官(国家安全保障問題担当)の近況については、この嘘つき野郎(spin doctor)、という非難がわきあがるさなかでの、ヒロシマ演説だったので、なんだかしらけるないう空気があって、まあ、リベラルなガーディアンとしては、ちょっとベン・ローズ大統領副補佐官を援助してみたいもんだよ、というのが、そもそもこの話題の背景構図だった。ちょっとググったら、Japan Todayというサイトでも擁護記事があった(参照)。まあ、擁護したくなる気持ちはわかるが。

とはいえ、この問題を、ベン・ローズ大統領副補佐官に焦点化すると、こいつは嘘つきなのか、という枠組みに落とし込みやすいが、そんな次元でリベラルうんぬんを議論しても虚しい。問題は、オバマ政権時代に、ベン・ローズ大統領副補佐官のような人物が政治プロセスに登場したことであり、つまりは、こうした人物が、スピンドクター(情報を操作して人々の心理を操る専門家)なのか、政策決定者なのか、ということだ。で、そのものずばりの問いかけをTimes記事「真実のベン。ローズはスピン・ドクターなのか政策決定者なのか?(The Real Ben Rhodes: Spin Doctor or Decision-Maker?)」(参照)でしていた。

まあ、あまりアイロニーで言いたくはないのだけど、オバマ=ベン・ローズという修辞の政治学は、同じインパクトの修辞の釣り合いということでトランプ米大統領候補台頭の道を用意したような気がする。では、ヒラリー・クリントン米大統領候補ならこうした傾向に歯止めがかかるかというと、ベンガジ事件(参照)とか見ていると、そうとも思えない。

衆愚政治には修辞政治、とかいうと、ただの駄洒落みたいだが、リベラル理念がけっきょく修辞に落とし込まれてしまうというのは、巧言令色鮮し仁ではないが、政治の言葉に酔いたいという民衆ニーズに政治が応えていちゃいけないんじゃないかな、困った問題だな、と思うのですけどね。まあ、そんなこと言うと、その言い方はなんだと修辞的に嫌われるもんですよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.05.28

オバマ米大統領が広島に運んだ核兵器の発射ボタンに言及したインデペンデント紙の記事について

オバマ米大統領の広島訪問は海外でも広く報じられた。そのなかで少し関心を引いたのが、インデペンデント紙の記事「広島のバラク・オバマの高慢な修辞は、彼の混合した記録と矛盾している(Barack Obama's soaring rhetoric in Hiroshima contradicts his own mixed record)」(参照)」だった。

記事の副題には、「在任中、オバマ大統領はアメリカの核の力を向上させるために30余年の努力を開始した(In office, President Obama has launched a three-decade effort to upgrade America's nuclear strength)」とあるが、これが表題にある「his own mixed record(彼の混合した記録)」に呼応している。一方では核廃絶の修辞を高慢に掲げつつ、実際には米国の核戦力強化の礎を築いていた。矛盾でしょう、ということである。

同記事では、オバマ大統領が核廃絶を祈願した修辞の紹介に続けて、こう議論を提起していた。

You can argue over whether the country with the largest stockpile in the world is best or worst placed to make such a call for the elimination of all nuclear weapons. Was Mr Obama guilty of inspired leadership in Prague and in Hiroshima or of twisted hypocrisy?

世界で最も(核兵器の)備蓄を持つこの国が、核兵器廃絶の要望を掲げることに最良のポジションにあるのか、それとも最低のポジションにあるのか、この件についてあなたは議論することができる。オバマ氏に咎があっただろうか。プラハや広島での見事な指導力の点で、あるいは、ねじくれた偽善という点で。

He was seen hugging and smiling with the two survivors, 91-year-old Sunao Tsuboi and 79-year-old Shigeaki Mori, (reporters were too far removed to hear what was said), but those with the keenest eyes might have spotted the military attache who is never far away when an American president travels. He is the one carrying the so-called “Nuclear Football”, actually an armoured briefcase containing the codes for a president to authorise a nuclear launch.

彼が二人の生存者、坪井直(91)と森重昭(79)と抱擁し微笑んでいるのが見えた(記者たちは遠く離れた場所に置かれたので何を話したかは聞こえなかった)、しかし、鋭い目で見るなら、米大統領の旅行の際の、お側離れずのあの陸軍武官を見つけただろう。彼こそは、いわゆる「核フットボール」の運び手である。それは実際には、大統領が核弾頭発射を認可する規定の入った装甲ブリーフケースなのである。

簡単に言うと、オバマ米大統領は、核兵器の発射ボタンを広島の平和記念公園に持ち込んでいたのだった。正確に言うと広島と限らず、米大統領行くところ核兵器の発射ボタンあり、ということになっている。以下の写真は、エクスプレス紙の記事より(参照)。


話戻して、インデペンデント紙の記事ではこの段落に続き、オバマ大統領の核戦略の矛盾を簡素に指摘している。

Mr Obama’s record since Prague demands a mixed grade. He has convened regular nuclear security summits --- notably on keeping dirty bombs from terrorists --- as promised, the latest of them in Washington DC this spring. In 2010 he signed a significant a treaty with Russia obliging both countries to reduce their stockpiles to 1,550 strategic warheads each.

プラハ以降のオバマ氏の記録には矛盾した評価が求められる。彼は約束通り、定期的な核安保サミットを招集してきた。最新のはこの春のワシントンDCでのものである。特に、テロリストから受ける「放射性物質拡散爆弾(ダーティ・ボム)」の扱いについての議論をしてきた。2010年に彼は、戦略核弾頭の備蓄量をそれぞれ1550個に減らすよう、米国とロシアを義務付ける重要な条約を締結した。

Yet, Mr Obama has also not shied from approving programmes to upgrade America’s nuclear capability at a likely cost of $1 trillion over three decades. It will include the building of a new fleet of nuclear warhead-carrying submarines, 12 of them, while the Air Force is working towards a new nuclear stealth bomber. (Likely cost: $55bn.) Also envisaged are new nuclear Cruise missiles and a replacement for the 1970s-era Minuteman III missiles.

とはいえ他面では、オバマ氏は向こう30余年にわたり、1兆ドルもの費用のかかる、米国の核能力の向上させるための計画の承認に怖じけづくことはなかった。それには、核弾頭を運ぶ潜水艦艦隊建造が含まれ、うち、12艘は空軍は、新しい核兵器搭載ステルス爆撃機で活動している期間に建造される。(550億ドル程度の費用)。また、新しい核巡航ミサイルと1970年代のミニットマンIIIミサイルの交換が想定されている。

オバマ大統領は核兵器廃絶の作業を進めつつも、他方で、米国の核兵器の強化を推し進めているのである。矛盾にも見える。どうか。

Maybe this is merely necessary maintenance of a nuclear deterrence that has precisely spared the world another Hiroshima. Or perhaps it illustrates the raw reality of America’s love affair with nukes exposing the emptiness of the President fine rhetoric in Japan on Friday.

たぶんこれは、世界が別のヒロシマ惨事をきちんと免れてきた核兵器抑制のために必要なメンテナンスというだけのことだろう。あるいは、これは、金曜日に日本で開陳される米大統領の素晴らしいレトリックが空虚なものに過ぎないことをさらけ出すことで、アメリカの核の情事のナマの実情をわかりやすく示しているのかもしれない。

インデペンデント紙の同記事の結語は、私の見た限りではあるが、日本のメディアやネットでは見かけないものだったので、印象深かった。

If he had really meant it, he might have summoned that military attache, cut the cable attaching the “football” to his wrist, and tossed it into the eternal flame that burns in the Peace Park.

彼がそのこと(核廃絶の世界)に本気であったなら、彼はあの陸軍武官を呼び出して、「核フットボール」とその武官の腕を結びつけた紐を切り離しただろう。そして、彼はそれを、平和記念公園に燃える永遠の炎のなかに投げ入れただろう。

そのパフォーマンスはあり得ないことだが、抱え込んでいる矛盾について、もう少し言及があってもよかったのかもしれないなとは、僅かに、思った。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.05.26

《Nuit debout》(ヌイ・デブー)のような運動が日本にもあってよいんじゃないかと思った

昨年は日本でも、メディアに映る範囲だが、国会前で行われるデモは盛んであるかに見えた。デモが盛んに行われるのは正常な民主主義国家のあり方なので、基本的に好ましいことだが、私自身はというと、そのデモにはあまり関心はもてないでいた。主張に同調し得るものがあまりなかったからである。また、そのやりかたが画一的に見えたのも、あまり興味の持てない点であった。

人それぞれなので、私のような人がいるものも、また正常な民主主義国家のあり方である。ただ私としては、すべてのデモに関心がないわけでもない。むしろフランスのデモのあり方には関心をもっていたし、4月に入ってからの、《Nuit debout》(ヌイ・デブー:起きている夜)という運動と関連のデモには特に関心をもっていた。

《Nuit debout》では、若者たちを含め、多数の市民がパリ中心の共和国広場に集まり、深夜までの討論するという集会である。パリから、他の主要都市にもこの運動は広がっている。

基調のサイト(参照)には次の主張が掲げられている。

Ils pourront couper les fleurs, ils n’arrêteront pas le
printemps.
Nos rêves ne rentrent pas dans vos urnes.
Partout en Europe, levons-nous !
Je reviendrai et serai des millions.
C’est un grand printemps qui se lève.
Le jour : à bout, lanuit : debout

彼らは花を刈り取ろうといているが、彼らは春を止めるない。
私たちの夢は世論調査に収まらない。
欧州全土で、立ち上がれ!
私は立ち戻り、数百万となろう。
これがわき上がる広大な春である。
終わりの日まで、立ち上がる夜。

同サイト以外に、YouTubeからも夜らしい全体の様子はうかがえる。

《Nuit debout》の意味は、起きている夜、眠らない夜、ということだが、《debout》の言葉からすぐに連想されるのは、「デブー!」が耳に残る《L'Internationale》(インターナショナル)の歌である。もしかすると昨今の左翼やリベラルな人は知らないかもしれない。赤旗などにも解説が載る時代である(参照)。

Debout ! les damnés de la terre !
Debout ! les forçats de la faim !
La raison tonne en son cratère,
C’est l’éruption de la fin.
Du passé faisons table rase,
Foule esclave, debout ! debout !
Le monde va changer de base :
Nous ne sommes rien, soyons tout !

日本語の歌詞にはいくつか版があるようだが、私が歌っている一例。

起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
醒めよ我が同胞 暁は来ぬ
暴虐の鎖断つ日 旗は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕結びゆく
いざ闘わん 奮い立ていざ
ああ インターナショナル 我等がもの
いざ闘わん 奮い立て いざ
ああ インターナショナル 我等がもの

とはいえ、《L'Internationale》が《Nuit debout》で歌われているふうはない。が、今回の運動は、労働法改正案、通称「エルコムリ法案」《Loi El Khomri (loi travail) 》への反対が基調なので、労働の文脈から《L'Internationale》がこじつけられていない、というわけでもない。

《Nuit debout》では、そういう古くさい左翼的な文脈よりも、若者の感性がよく生かされている。YouTubeなどからもそうした側面がうかがえる。

断面的な映像よりも、まとまったルポルタージュのような番組があると内情がわかってよい、と思っていたところ、先日のNHK「ドキュメンタリーWAVE▽激論 パリの広場で~労働法をめぐり立ち上がる若者たち」(参照)が、二人の若者・男女を日を追って、具体的に映像化していて興味深かった。

意外でもあったのだが、YouTube映像や、フランスのメディアを通してみる《Nuit debout》のイメージより、実際の参加者の目線で見ると、なんというか、これは小学校の学級委員会であった。もっとも、統制する先生はいないが、全体をまとめる学級委員のような人はいる。

何をしているかというと、まず、議論をすることが目的であった。そのため、議題も参加者から集めましょうとして、紙に書いて箱に入れ、任意に取り出して、さて、この議題はどうでしょう、みんな、というように呼びかけから始まった。この時点では、特に、まったくといっていいほど、先見的なイデオロギー性はなかった。

提案者のひとりは、みんなの労働時間を減らして全体の雇用を増やそう、といった、ワークシェア的な提案をしていた。端的に言えば、みんな平等に貧しくなって、平等になろうというものである。それなりに議論していた。このあたりで、議論の大枠といては、生活に関わる労働問題だよね、という委員の誘導もあって、「エルコムリ法案」反対への空気は醸成されるようであった。それでも、各種意見に特に強いるものなく、議論の参加も自由だし、とにかく、市民が言いたいことをできるだけ公平に言って話合おうという雰囲気は感じられた。

率直な印象でいうと、ああ、これはいいなあと思った。最初に、イデオロギー的な反政府の主張があって、みんな同じ印刷されたプラカードを持って練り歩くという日本タイプのデモではなく、とにかく参加者がまず、徹底的に公演で話合おうとしていた。日本でもこのタイプの運動が広まるとよいのではないか。

NHKのドキュメンタリーとしては、そうした、微笑ましい、平和で、対話の民主主義という点を強調していたが、少し考えればわかることだが、この「エルコムリ法案」反対の運動というのは、現社会主義政権への反対の貴重なのである。つまり、現社会主義政権としても、社会主義的な観点から「エルコムリ法案」を出しているのだが、そうした背景はほとんどドキュメンタリーにはなかった。

IMF関連のニュースにもあるが、現状のフランスはジリ貧の状態にある。「仏経済、失業低下に必要なペースで回復せず=IMF」(参照)より。

[パリ 24日 ロイター] - 国際通貨基金(IMF)は24日に公表したフランス経済に関する年次見直しを受けた報告で、仏経済は失業と債務を十分に押し下げるために必要なペースで回復していないとし、一段の改革を実施する必要があるとの認識を示した。

ただ成長率に関しては2016年は1.5%近辺になるとし、従来見通しの1.1%から上方修正した。また、向こう5年間の平均は1.75%になるとの見通しを示した。

仏政府は16年と17年の成長率は1.5%になると予想。エコノミストは、失業率を引き下げるにはこの水準での経済成長が最低でも必要になるとの見方を示している。

ただフランスの失業率は現在約10%。IMFは、政府が労働市場改革を現在の計画以上に踏み込んで進めない限り雇用創出の動きは遅延すると指摘。失業保険受給資格を厳格化するなどの改革が必要との考えを示した。

改革の必要性と「エルコムリ法案」が直接結びつくものではないが、少なくとも、「エルコムリ法案」反対であれば、それに見合う、成長戦略の提言は必要だろう。しかし、そうした点になると、《Nuit debout》のような取り組みには限界が出てくるだろう。

また、NHKのドキュメンタリーでは、《Nuit debout》が関連して引き起こした暴力事件についてはあまり触れていなかった。おそらく、番組収録開始時にはそれほど想定していなかったのだろう。4月29日AFP「仏労働法デモ、各地で衝突 警官24人重軽傷 120人超逮捕」(参照)より。

【4月29日 AFP】フランス各地で28日、労働法改正案に反対する抗議行動が行われ、参加者と警察との衝突に発展した。ベルナール・カズヌーブ(Bernard Cazeneuve)内相によると、首都パリ(Paris)では警察官24人が負傷、うち3人が重傷を負った。

 パリでは、覆面姿の若者らが瓶や石を投げつけ、治安部隊は催涙ガスで応戦。警察とデモ隊の衝突はナント(Nantes)、リヨン(Lyon)、マルセイユ(Marseille)、 トゥールーズ(Toulouse)の4都市でも発生し、全土での逮捕者は計124人に上ったという。

日本での報道では見かけないが、フランス2など見ていると、すでに暴徒となることが目的の覆面集団などがデモに混ざっていて従来からの、ボンリュー暴動を引き起こしかねない。とはいえ、現状ではまだそれほど国家規模の暴力には至っていないが、常態化しつつある。デモ側でも配慮はしているようだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.05.24

なぜ、シンザト「ケネフ」フランクリン、なのか?

19日に沖縄県恩納村の雑木林で20歳女性会社員の遺体が発見された事件について、最新の関連ニュースを見ていると、NHK的には「沖縄のアメリカ軍関係者の男が20歳の女性の遺体を遺棄したとして逮捕された事件」とし、簡易な呼称は表題として「沖縄・米軍関係者事件」となっていた(参照)。それで定まった呼称となるのだろうか。ふと気になってざっと見たところWikipediaにはまだ項目がないようだった。

被害者に深く哀悼したい。事件について私には詳細はわからない。が、逮捕に際しては、基本的には自供以外には監視ビデオ映像など間接的な条件の他には、直接的な物的証拠はなさそうに見える。殺害理由もよくわからない。私としては現時点でこの事件に言及できることは少ない。とはいえ、殺害について別の真犯人がいるという心象はない。世論的には、米軍が引き起こしたという政治的な枠組みでの問題に移行しつつあるように見える。

現時点で私がこの事件で気になっていたのは、実に些細といえば些細なことで、容疑者の名称である。

先のNHKニュースにもあったように、24日の時点の報道でも「嘉手納基地で働く軍属のシンザト・ケネフ・フランクリン容疑者(32)」としている。朝日新聞でも同日記事で「死体遺棄容疑で逮捕された元米兵で米軍属シンザト・ケネフ・フランクリン容疑者(32)」としている(参照)。つまり、NHKも朝日新聞も「シンザト・ケネフ・フランクリン」としている。ざっと他の最新報道を見ると、読売、毎日、日経、時事もそろってその表記を採っていた。

共同(産経)は「シンザト・ケネス・フランクリン容疑者(32)」(参照)としている。東京新聞も同様。地元、沖縄タイムスと琉球新報もこの表記である。つまり、「ケネフ」ではなく「ケネス」である。

「ケネフ」と「ケネス」の表記の差違は何に拠っているのだろうか?

私の記憶では、逮捕報道時の名称で「ケネス」を採用していたと気づいたのは、たしかサンケイスポーツだった。正確な記憶ではないのでざっと当たってみると、初報道があった同紙の19日報道にはそうあった(参照)。ざっと見たところ、産経系は「ケネフ」を採っていたが、共同を掲載する同紙としては共同系のソースで表記で一貫性は失われているようだ。

琉球新報では19日に「シンザト・ケネス・フランクリン容疑者(32)」(参照)とあり、前後の記事を見た範囲では表記のブレはない。沖縄タイムスも同様である。

容疑者の名称で「ケネフ」と「ケネス」が報道によって分かれているのはなぜかという疑問がある。これに附随して、どこかの時点で、一つの報道社で変更が生じたと見られるものはない。おそらく、それがあれば、変更理由が記載されるはずだが、私の見た範囲ではなかった。呼称の採用はおそらく報道社の報道姿勢によっているのだろう。

名称差を考える上で、原点となる、本人の名前が知りたいところだ。容疑者は米国籍と見られるので、英語名が存在するはずだ。それはどのようになっているのか。欧文報道にあたるべきだが、ざっと見た範囲では「ケネフ」を連想させる英文報道はなかった。また、この種類の報道で関係の深い、スターズ・アンド・ストライプスを見ると、弁護士にもあたったとして、次の記載がある(参照)。

An American civilian working on the island is being held by police in connection with the woman’s death. A former Marine, Kenneth Franklin Gadson — who goes by his Japanese wife’s name of Shinzato — has admitted to police to killing her and dumping her body, his attorney told Stars and Stripes.

おそらく容疑者の本名というか正式名称は「Kenneth Franklin Gadson」であろう。この記事はワシントンポストも信頼しているようだ(参照)。ワシントンポスト記事は興味深い記載をしている。

Japanese media identified Gadson, who also goes by his Japanese wife’s family name of Shinzato, as a U.S. Marine veteran, and the U.S. military confirmed that on Friday morning. His mother told The Washington Post that her son was in the Marines from 2007 until 2014.

“They say he’s locked up in jail, killed somebody,” said Shirley Gadson, 63, over the telephone from her home in New York City early Friday. She said she learned that Kenneth Gadson had been arrested when Japanese police called her on Thursday.

そして、この名称の「Gadson」は当人のLinkedinの「Kenneth (gadson) shinzato」(参照)にも見られる。

当人が記載したと見られるLinkedinの情報からすると、容疑者自身は自称を「Kenneth shinzato」として、Gadsonを控えたかったと見てよいだろう。

ジャパンタイムスの英文共同記事には、その関連と見られる記載がある(参照)。

n New York on Friday, the suspect’s mother, 63-year-old Shirley Gadson, expressed disbelief over her son’s alleged involvement in the death. Speaking to reporters at her apartment, she said she cannot believe her son would commit such a crime.

According to Gadson and an acquaintance interviewed along with her, Shinzato was born in New York, and she raised him as a single mother. He was shy and started avoiding school when he was 11 after being bullied, they said. The acquaintance said Shinzato had never caused trouble to others or been known to be combative.

Calling him “Kenny,” Gadson said she loves her son and wants to go to Japan but cannot.

Separately, she told The Washington Post by telephone that her son served in the U.S. Marine Corps between 2007 and 2014, the newspaper reported on its website Friday.

容疑者への母親へのアクセスはワシントンポストが先行していたか、共同が先行していたか、よくわからないが、容疑者はシングルマザーの家庭に育ったらしい。印象としては、「Gadson」は母親の家系名であるように思われる。そう想像すると、容疑者の日本での自称は、あえて、「Gadson」を意識としては、捨てて、妻の姓「シンザト(新里)」を名乗っていたように思われる。おそらく、「シンザト」名には、法的な根拠はないのではないか。

さて、先の疑問である、「ケネス」と「ケネフ」だが、まず、私も当初疑問に思ったのは、ケロロ軍曹の「ダソヌマソ」のように、「ス」と「フ」の書き間違いがある可能性である。ただ、そのレベルのミスであれば、すでに訂正され、統一されているはずである。

また同時に思ったのは、African American Vernacular English(AAVE)である。日本では「黒人英語」と訳されているだろうか。AAVEでは、「th」の音が「ふ」のようになる。Wikipediaの同項目にも説明がある。「"Deep" AAVE」とされている。つまり、かなり標準的な英語から離れることになる。

Word-medially and word-finally, pronouncing /θ/ as [f] (so [mʌmf] for month and [mæɔf] for mouth), and /ð/ as [v] (so [smuːv] for smooth and [ɹævə(ɹ)] for rather.[68] This is called th-fronting. Word-initially, /ð/ is [d] (so those and doze sound nearly identical). In other words, the tongue fully touches the top teeth.

おそらく、「Kenneth」が「ケネス」ではなく「ケネフ」となっているのは、容疑者本人の自身の発音の音転記に由来するものだろう。自称としてもよいか、本人としては、「Kenneth」が「ケネフ」と発音されるものだと自然に理解されていたのだろう。あるいは、そのような自称が、日本人の妻を通して音転記されたのかもしれない。

以上から、想像の域を出ないのだが、「シンザト・ケネフ・フランクリン」の表記は、なんらの根拠をもって、沖縄県警から発表されたものだろう。それに依拠して、NHKや朝日新聞は「ケネフ」としているのではないだろうか。他方、共同や地元紙は、その発表をもとに、AAVEの「ケネフ」を、日本語カタカナ表記的な「ケネス」に修正したのだろう。

その傍証は、ニューヨーク・タイムズ記事にある(参照)。ここでは沖縄県警と「Kenneth Franklin Shinzato」を結びつけている。

The suspect was identified by the Okinawa police as Kenneth Franklin Shinzato, 32. He was arrested Thursday after he admitted strangling a 20-year-old woman, Rina Shimabukuro, and dumping her body in a weeded area near her home in the town of Uruma, according to news reports.

それでも気になるのは、この日本報道の原点と思われる「シンザト・ケネフ・フランクリン」に相当する英語での表記が存在しないことだ。ニューヨーク・タイムズ記事でも「Kenneth Franklin Shinzato」であって、日本語表記のような「Shinzato Kenneth Franklin」ではない。

「シンザト・ケネフ・フランクリン」が沖縄県警発表によるとして、それがどのような根拠を持っていたかはわからない。私の推測では、シビリアンの登録に関連する日本語文書ではないだろうか。つまり、沖縄県警がこの事件で直接、容疑者から聞いたのではないだろう。あるいは、なんらかの住民登録かも知れないが、その場合、「Shinzato」が含めることができるのか疑問である。

以上が、現状、私が考えたことではあるが、こうした交渉は些末のように思える人が多いだろうが、私としては、呼称だけで、いろいろ推察されることは多いものだなということと、日本の報道機関の癖のようなものはなんだろうかという、改めての疑問であった。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.05.18

[書評] 公明党 創価学会との50年の軌跡(薬師寺克行)

二大政党という幻想が戦後日本史から崩れ去って久しいとまでは言えないが、国民間の相反する利益代表が二つの政党によって国民の信を問うという、希望、というのだろうか、かつての期待といったものは、すでに失われてしまった、と見てよいだろう。こう言うと批判も多いと思うが、現実的に見て、民主党政権はそうした戦後史の期待をかなりみごとにゴミ箱に投げ込んでしまった。

そうであるなら、どうするべきか。普通に考えれば、一定規模の第三極の登場とともに、政治の世界の再編成が進むべきだろう。しかしここでも率直に言えば、みんなの党の末路を見るまでもなく、そうした期待も虚しくなった。それどころか、そもそも二大政党という期待自体、他の先進国でも崩れつつある。そしてそこで台頭してきているのは、具体的な政治プランを持たない反発的な衆愚主義のようなもの、である。日本もそこに向かうのだろうか。

そうしたなか、現実の権力政党である自民党をどのようにチェックしたらよいのだろうか。どの政治権力が自民党の政策を具体的にバランスして批判できるだろうか。そういう構図で見るなら、単純にもう公明党しか残っていない。その具体例を挙げるまでもないだろう。具体的な政治の文脈でリベラルであることを現実的に求めるのであれば、自民党のリベラル性というものよりも、チェック機構としての連立与党にその批判性を期待するしかない。そしてその期待の意味もわずかではあるが、公明党も受け取りつつはある。

公明党の重要性は、そうした文脈では増しているのだが、これも言うまでもないだろう、そうした文脈自体が、おそらく苦笑の対象にしかならない。それは、民主党支持や既存左派の、予測されるありきたりの形骸化した苦笑ではなく、残念ながら国民全体に薄く広がっている苦笑なのである。

どういうことか。多数の日本国民は、本書の「まえがき」で明確に意識されているように、公明党の支持母体と、ほぼ前提的に分断されていることである。これは、労組支持を取り付ける民進党と多数国民との乖離といった構図よりも、はるかに強固であり、おためごかしのように知識人に食い入る共産党的な主張よりも、圧倒的な忌避感である。なぜか。

公明党が嫌われる最大の理由は、言うまでもなく、その強力すぎる支持母体・宗教団体である創価学会への忌避感の連鎖である。ではそれがなぜ生じるのかということは、大衆生活の次元で言えば、「彼ら」の活動がとても活発で、しかもそれが直接的に投票活動にまで手が伸びてくることだ。この様相はもっと具体的に語ってもいいが、そうした要素は本書にはほとんどない。そのため、本書には庶民生活に接する公明党の存在感は薄い。

そして、この忌避感の根幹にあるのは、これも言うまでもないが、創価学会の長である池田大作の存在である。これが杳として知れない。不謹慎ではあることはわかるが、端的に言って、88歳の彼のXデーは82歳の今上陛下よりも近いと想定して非理性的ではない。ではそのとき、連立与党である公明党にどのような波及が起きるのか。この問いは、日本の現実的な危機の一つに計上していいはずだ。が、本書にはその問いすらない。こうした問いにまつわるある種のタブーのせいとも思えない。だが、その問いにどのような答えが当てられうるかという点について言うのであれば、巷に語れるこの手の問題の安易な予測よりも本書の内容は示唆に優れている。そのためにも、日本政治に関心を持つ人は本書を読む価値はある。

本書は、副題のように「創価学会との50年の軌跡」を中心に、公明党史が平明に語られている。戦後史を学ぶための資料にも使える。こういうとなんだが、そのために本書がもっとも読まれるのは、創価学会の会員だろう。創価学会の現実的な会員は、案外、自分たちの宗教団体がなんであり、どのような権力構造しているのか、公明党はなんであるかということが、存外に理解されていない。竹入義勝や矢野絢也についてすら教条的な知識しか許されていない。それでも自由主義国にあって歴史というのは隠蔽できるもでもない。本書もその一例である。奇妙な言い方だが、本書は、創価学会や公明党員に、自己の集団の意義を、外部的で客観的な視点を介して問い返す大きな契機となるだろう。

とすれば、先の忌避感と会わせて、多数の日本国民には、実際にはそれほど意味がないのではないかとも思えるかもしれない。しかしより本書において価値があるのは、「創価学会との50年の軌跡」ではなく、「自民党との50年の軌跡」である。実際、本書は、少し視点を変えた自民党史と言ってもよい仕上がりになっている。そしてそのプロセスを見れば、特に小沢一郎を介して、明示的ではないが民主党が生まれてくる背景にもついても饒舌に語っている。

それでも史的な理解よりも、現在の日本の政治情勢についての公明党の意味合いを直接問うなら、「第9章 タカ派の台頭、後退する主張―自公連立の変容」「第10章 特殊な「選挙協力」連立政権―二〇〇九年」「終章 内部構造と未来―変質する基盤、創価学会との距離」の三章は読まれるべきだろう。現在の公明党の姿が上手に描かれている。

つまるところなんなのか? ある一定の政治勢力というものが、小選挙区制のなかで生き残るには、公明党のような内部結束の強い集票集団に依存するしかなく、しかもそうであれば、政治理念など抜きにしても、そうした政党維持のための特性から所定の政党性が生まれてしまうことだ。公明党が生き残るには、現存の公明党のようなありかた以外はないという存在機構的な理由となる前提が、公明党の政策や理念に勝っている。

現在でもなお公明党は、本書が指摘するように政教分離をかなり明確にしつつも、創価学会員の援助は強く、人的資源において分離されているとは言いがたい。しかも、これがボトムアップの権力プロセスを持って小選挙区に望むなら、なるほど私たちの身近の公明党候補の顔が浮かんでくる。そしてその代表者は、実際のところすでに創価学会の表向きの教条に馴致してるわけでもない。それが現実の、今の公明党の姿であり、市民社会はこの政党に、その前提を了解して接していくほうがよい。

露骨に言うのだが、Xデーを乗り越えたとき、公明党は本当に日本社会の第三極の政党たりえるか試されるだろうし、期待を持ってもよいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.05.16

いくつかドラマなど 「エクスタント-インフィニティ」「ダ・ヴィンチと禁断の謎 シーズン2」「ザ・ブック CIA大統領特別情報官」

いくつかドラマを見終えた。概ね面白かった。いろいろ考えさせるものもあった。備忘もかねてメモ書きしておきたい。

「エクスタント-インフィニティ」
「エクスタント-インフィニティ」は、スピルバーグ製作総指揮の「エクスタント」のシーズン2で、1の世界を引き継いでいる。「インフィニティ」が付くのは日本でのご事情っぽい。ハリー・ベリーが主演という点もイーサンを演じる子役ピアース・ガニォンも変わらない。それをいうなら、義足のジュリー・ジェリノーやチャーリー・アーサーズも変わらないのだが、イーサンの産みの親・ジョン・ウッズお茶の水博士は、駄洒落を残して早々に退出。代わりにおっさんのなかのおっさん、ジェフリー・ディーン・モーガンがジェイムズ・ダニエル役でモリーと愛の物語を繰り広げる(もっとやれ)。話は他にも多面的にけっこう恋愛の物語という要素が強くなっているし、率直に言って、1とはかなり異なる作品に仕上がっている。

物語は、1でモリーが地球に持ち込んだ異星人が人類とのハイブリッド種となり、その生殖時に人類に害をもたらすことから、米政府が危機を抱く。が、次第にハイブリッド種も人類の危険性を減少させていくなか、モリーも妊娠の余波でハイブリッド化する。他方、人間思念を操れるハイブリッドに戦うために、人工知能ヒューマニック(アンドロイド)が兵士となり、ハイブリッド種と人工知能が集団的闘争を始める。

で、ネタバレを含む。

そうしたなか、人間種の指揮下にあったはずの人工知能の中央テイラーが人間の滅亡の予測から、人間に反旗を翻し、結果、人類、ハイブリッド、人工知能の三種が地球で生存を争う殲滅戦になるという展開になる。話のスキームは壮大だが、映像的には普通にチェイスものというか、けっこうちゃっちく、ああ予算ねえなあ感が漂う。

そして、視聴率が落ちてきたのを反映してなのか、中盤からは脚本が粗くなり、まったく伏線がないわけでもないが、粗野に新人物や新要素がごだごだ入って、最後はなんかよくわからず、人工知能のテイラーのシャットダウンにつれて、ヒューマニック軍団がシャットダウン。危機は去ったになる。ご都合主義でイーサンは生き延びて、しかも人類とハイブリッドは併存の道を選びました。めでたしめでたしという、結果は、駄作、になってしまった。

おそらく、本来の物語は、異星人は、人類に先行して知性があっても滅亡した生命体であり、その知と人類と人工知能の知のあり方が問われるという、宇宙の知的進化のテーマだったのだろうと思う。つまり、最後は、テーラーとイーサンが実は同質の人工知能であり、その戦いにおいて、ハイブリッドの娘テラの関与があるという話だったのではないか。ちなみに、イーサンは「地球」でありテラも「地球」である。

物語の背景というか無意識は、私見ではまたしても、ユダヤ教的な問題だった。とくに、マサダのイメージがずっと付きまとっていた。その枠組みでは、ヒューマニック軍はローマ兵のイメージは重ねられていた。

3についてはすでに制作されないことが決定している。2の終わりのボロボロ感を見るとそりゃそうだろう感はあるが、2の制作時にはまだ未定だったのだろう、テイラーの復活を予言して終わっていた。3があれば、やはりテイラーとイーサンの戦いにはなっただろう。

と、否定的な評価を書いたが、私のような人には麻薬的に面白い作品だった。

地球の時間スケールでいうなら人類は早晩滅亡する。人類知性の廃頽がなければ、人類は「インターステラー」ではないが、最高の知性をもって自らの種の滅亡を見つめる時を迎えるだろう。そのときには、人類知識はデジタル的にかつ人工知能的に関連付けられて、宇宙空間に保存されるだろうし、人類滅亡後のための擬似的な意識体も残すことになるだろう。

まあ、これはcakesのほうで評論を書いた手塚治虫『アポロの歌』(参照)と類似の問題もある。

さて、ドラマ自体は尻つぼみ感があったが、この手の、なんというか、日本の日常だと狂人だと思われかねない主題が普通のドラマとして見られるのは、私のような人間には開放感があって嬉しい。日本でも、先に挙げた手塚の例のように、アニメとして作成できないこともないだろうが、どうなんだろう。仮面ライダー555が若干そのテーマに似てはいたが、異質だ。


「ダ・ヴィンチと禁断の謎 シーズン2」
「ダ・ヴィンチと禁断の謎」のシーズン1がパッツィ家の陰謀の事件のさなかに、いかにもぶっち切れで終わったので、どうなるんだこれとシーズン2を見たら、いきなり、インカ帝国。いやあ、めちゃくちゃにもほどがあるなあと思ったら、アメリゴ・ヴェスプッチが出て来て、ほおそお来たかと苦笑。そして、ニコの正体はというと、あれま。いや、そうか、それで「ニコ」だったのかと納得の苦笑。

ダ・ヴィンチとリアリオ伯のインカ話が主軸に、他方、メディチ家のロレンツォの物語、メディチ家のクラリーチェの物語、ルクレツィアの物語と4つが並行して進むので、これまとまるのかと見ていると、それなりにまとまってきて面白かった。

率直に言って、インカ帝国が出てくる必然性はまったくないのがすがすがしい。また、やたら裸が出てくる基調は1と同じ。美女もいろいろエロいんだが、それより、リアリオ伯といいロレンツォといい、なんか微妙におっさんがエロい。いやあ、ルネサンスですなあという雰囲気は面白い。

テーマは何かと考えると、人類叡智を探し求めるみたいなまるでグルジェフ自伝のようなトンチンカンな物語だが、映像は、はちゃめちゃで、真実の愛は何?と裸でもりもり突き詰めてくるあたりが、たまりません。

もうすぐFOX系で日本で3が始まるらしい。そして、3で打ち切りらしい。まあ、こんなめちゃくちゃ話、長く続けるものでもないでしょう。


「ザ・ブック CIA大統領特別情報官」

話は、CIAの大統領特別情報官、つまり、大統領に毎日、「今日大統領が知っておくべき最高機密とくに国家保全上の問題はこれですよ」とブリーフィングする行政官の物語。

というわけで、CIAの日々の仕事に関わる事件を人間ドラマ風に展開していく。実際最初の数話に顕著だが、個別の問題に主眼を置いて、CIAと大統領が何をやっているのかということに焦点を当てている。まあ、荒唐無稽なドラマではあるんだろうけど、ある程度CIAの内実も反映しているだろうし、実際、このドラマは、オバマ大統領とヒラリー大統領と子ブッシュ大統領をまぜたような大統領が米国テロに立ち向かう物語という小説にも読める。

実際、オバマ大統領がビン・ラディン暗殺をやったときはこのドラマのような裏があったのだろうと想像されて面白い。と同時に、米国大統領をトランプさんみたいな人に任せたら、天の災いだなこりゃとしみじみ思った。

後半に入るにつれ、シリーズを貫くテーマが明確になり、愛と陰謀のミステリーが興味深く展開していく。これがいちいち荒唐無稽という印象ではあるのだが、CIA機能を民間が受託するという悪夢は、それはけっこうなホラーなんで、そのあたりの政治的な動きの脚本はぞくぞくする。っていうか、かなり面白い。

最終話に寄せていくほど、リアリティの反面、荒唐無稽にもなっていくし、シーズン1の終わりは、爽快なぶっちぎれ。シーズン2にどうなるのかというワクテカ感を残しつつ、いやあ、これもうシーズン1で打ち切りが決まっているらしい。こりゃいい。人生なんてそんなもの。そんなのありかよ。

放映当初は人気があったらしいが、徐々に下がったとのがまず打ち切りの原因だろうけど、荒唐無稽を連発して書いた割には脚本は緻密で、いろいろ複雑な背景もある。率直なところ、この物語はかなり難しいので受けない面があっただろう。また、1の最終話を見ると、このシリーズ続けるのは国際的にも物騒だなあ感もある。自粛もあっただろう。

メインストーリー部分は二時間半くらいの映画にまとめて編集できそうな気もするが、それはそれで、このドラマとしての厚みはないだろう。

というか、逆に話を少し薄めて、「マズケティアーズ」風の毎回読み切り的な、ドラマドラマしたドラマにも仕上げられたのだろう。

でもなあ、あえて壁に激突してぶっちぎれで果てた爽快感はたまりません。っていうか、名作でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016.05.07

なんとなく見た映画のこと

映画を見たからといってブログに感想を書く必要もないが、記憶の整理がてらに少し書いておいてもいいかもしれない、ということでいくつか。

スターウォーズ フォースの覚醒
いちおうスターウォーズのファンでもあるので、新シリーズも見ておくかなとDVD化を待って見た。上映時いろいろ評価が高かったように思えたので期待していた。が、見終えて、もにょんとした。駄作とまで言わない。レイ役のデイジー・リドリーはよかった。脚本や映像も悪くない。というか、スターウォーズってこういう映画だったよな、という違和感はないのだが、いやなさすぎて逆に奇妙な感じだった。「こういう映画だった」という過去形の表現がぴったり。これまでのスターウォーズのパロディではないが、オマージュ作品というか、二次創作という印象が深い。ルーカス本人だったらこうじゃなく、新しい映像と世界観とフォース哲学を展開したんじゃないかと思うと、ないものねだりだが残念だった。ハン・ソロやルーク姫などの懐メロふうな仕立ても、ちょっとなあ。いちおう次回作につなぐいろいろな伏線も気になったし、次も見るんだろうけど、それもまたこうした二次創作的なものになりそうな予感。しかしこうして新シリーズを見ると、いろいろ酷評だったエピソード1はそれなりに良かったなあと思い直した。


ジュピター
なんでこんなの見たんだよと言われても、答えに窮する。ウォシャウスキー姉妹に思い入れがあったわけではない。物語は、シカゴでロシア系移民として便所掃除とか清掃員をしている若い女性ジュピターが実は全宇宙を支配する一族の先代女王の生まれ変わりだったということで、宇宙の王宮・王族で大きな相続問題となる、というような設定。まあ、この手の荒唐無稽な話は嫌いではないけど、そのわりには愛憎のドラマという点では昼メロふうに薄い。反面、CG映像はさすがなほど美しい。これで「フラッシュ・ゴードン」をリメークしてほしいなあと思う。音楽は昔のままで。さて「ジュピター」の物語と映像だが必然性がよくわからなかった。とはいえ主人公のジュピター・ジョーンズ役のミラ・クニスはすてきだった。ロシア人かなとぐぐったらウクライナ系のユダヤ人。納得した。綺麗な映画ではありました。


チャッピー
パトレイバーというかPSYCHO-PASSというか、そっち系が嫌いではないので見た。話は近未来。南アフリカでは犯罪をなくすため、テトラヴァール社から人工知能機動隊ロボットを導入し運用している。これを開発したのはインド系のディオン・ウィルソン。同社では、別途ヴィンセント·ムーアが脳波コントロールで動く軍事ロボット「ムース」を開発したが採用されず、ディオンに嫉妬し、ムースの活躍を狙って人工知能機動隊ロボットを失墜させようと企んでいる。そうしたなか、ディオンはというと自我意識を持ち、幼児から学習するロボット「チャッピー」を一体密かに開発している。というか、その試作機が泥棒団に盗まれ、幼児っぽい初期状態だったので泥棒団の女から愛称として「チャッピー」となる。(「赤ちゃん」という意味)。とま、話の設定は込み入っているし、人工知能ロボットSFのようにも見えるが、基本、かわいいチャッピーのドタバタ喜劇である。悪役ヴィンセント・ムーア役はヒュー・ジャックマンなんでウルヴァリン風味もある。とにかく笑える楽しい映画だった。


インターステラー
ノーラン兄弟の作品なので見た。異常気象で地球の滅亡が明白となり、人類の秘密プロジェクトが立ち上がる。それは、地球外の人類生息地を探しに星々の間(インターステラー)と時間を経巡る冒険の物語である。いや、冒険というよりは、人類滅亡に面した人間とは何か?という哲学的な問いかけでもあり、重たい雰囲気が前半、だらだらだらだらと芸術環境映像のように続く。あれだな、「バットマン・ビギンズ」の前半や「ダークナイト・リターンズ」の穴蔵の、あのだらだらだら重たい映像をさらに、だらだらに洗練させたような感じ。トリックとしては所々に物理オタクというかハードSFファンをくすぐる仕掛けが満載で笑えて、楽しさはあるものの、話は基本、人間の愛憎の物語。で、どうかというと、かなりいい映画でした。これは映画というより一種の芸術映像作品といったようなものではないだろうか。とても美しい。サウンドトラックを暗い風呂で聞いたが、なかなか心地よい。


ミュータント・タートルズ (2014)
いちおうリブートなので、従来作品とは独立している。という意味で、いきなりこれから見てもいいし、意外と基本設定はそのまんまなので、こういうのもありだよねと見てもよい。それなりにリブートっぽいストリーもあるが、特に気にすることもなく楽しく見られる。見どころはタートルズの10代っぽいガキ感とCGを駆使した映像。一見凝った映像のジュピターなんかより、よく練られた構図だったと思う。笑える。とにかく楽しい。エロくないのでお子様と一緒でも楽しいだろう。


マン・オブ・スティール
ゴイヤーとノーラン系で見落としていたなあと思ったので見た。いわゆるリブートのスーパーマンである。なぜクリプトン星人のスーパーマンが地球に来たのかというクリプトンの話がゴイヤーらしくてんこ盛りになっていて、それをいいと見るか、うざいと見るかだが、うざいかな。ゴイヤーにありがちな、濃い恋愛ぐだぐだが出てくるかと、わくてかしていた。が、なかったぁぁ。つまり、いちおう普通のスーパーマンとして見られる作品。というか、スーパーマンのファン層というのは、保守性政党の基盤みたいなものなんで、なかなかすぐには動かせないのだろう。そのあたりは「シビル・ウォー」なんでしょうか、まだ見てませんが。で、この作品面白いのかというと、駄作とも思わないけど、つまんなくもないけど、よくわかんない作品でした。


こうしてみると以上SF。ほかに。

暗殺教室(実写版)
「暗殺教室」は好きなんで実写も見るかと見はじめたが、15分くらいで脱落。ダメでした。受け付けない。人によるのでしょう。アニメはいいけど、シーズン2はちょっと急ぎ出した感じもする。


ひみつのアッコちゃん
アニメの実写化ってどうなんだろという思いもあったが、たまたま見た。ストリーはまったくのオリジナル。小学生5年生の加賀美あつ子ことアッコちゃんが、魔法のコンパクトで大人に変身という話。綾瀬はるかが内面小学5年生を演じるのだが、けっこうこれがよかった。映画全体もじみに良かった。この手の人情話は辟易としてしまうほうだが、いやいやあまりのばかばかしさが素直さに結びつき、感動した。いい映画でした。


心が叫びたがってるんだ。
ええ、そうです、「ここさけ」です。つまり、日本版「ハイスクール・ミュージカル」ということ。実写にしたらまさにそんなふうだったか。アニメである必要はどこにあるのだろうかと、他に見た人に聞いたら、実写にすると俳優選択に悩むんじゃねーの言われて、ぷち納得した。物語は、幼稚園生くらいの主人公の女の子・成瀬順が、山の上のお城(ラブホテル)から出てくる父親と浮気相手の女を見て、「王子様とお姫様」だと思い、母親に話して家族破綻。父親からも呪詛されて、自由に言葉が言えない少女になり高校生となる。が、それがいろいろあって、青春して、ミュージカルして、心の叫びを上げて自由になるというお話。そこはまあ、べた。ただ、べたなりに誰でもそういう心情はもっているものなので普通に共感して見られるだろうと思う。っていうか、普通に共感した。いわゆるこぎれいな話には終始していないものの、全体としてはきれいな話なので、そのあたりと音楽はかなりよいのだけどオリジナル性は弱いので、ちょっと薄味、和風。秩父の風景はいい。西武バスは最高だ。


ビリギャル
成績ビリの高校二年女子(なのでビリギャル)が塾で頑張って慶応大学に入学しましたというお話。ベストセラーを元に映画化したもの。いろいろ言われる部分はあるのだろうけど、普通に面白かった。主人公役の有村架純はさすが。ドラマとしては受験だけではだれるので家族環境の問題をいろいろ描いてはいたが、吉田羊演じるお母さんの設定には少し無理があったようにも思えた。というか、突っ込みどころはいろいろあるが、映画らしいいい映画でした。


テッド2
れいのかわいい熊のぬいぐるみテッドの2。いちおう怪作ともいえる前作は継いでいるけど、女の子の状況は変わる。新登場のサマンサ・レスリー・ジャクソン役のアマンダ・セイフライドはかわいい。世代差オヤジギャグでテッドにいじられるところはたまらなく面白い。と、彼女の年齢を見たら、30歳。それなりにいってました。後半のコミコンのドタバタはかなり楽しい。これを描きたかったのだろうという思いが伝わる。オチは、予想はしていたけれど、かなりリベラル臭い。モーガン・フリーマンが神々しい。しかたないかなとは思うけど、もっとハチャメチャでアモラルなテッドがよかった。っていうか、ミンの逆襲を期待していたのになあ。


メアリーと秘密の王国
人形劇風アニメ。これってディズニーかなとちょと思った。違います。未邦訳の原作もあるらしい。知らない。が、原作絵本を比較的忠実に再現したものだろう。ディズニーやジブリにありがちなひねりはない。それもいいのかもしれないなと見てて思った。話は、森の生態を一人研究している父親のもとに、成長し母を失った娘のメアリーが訪問する。親子の対話はうまくいかない。そうこうしているうちに、メアリーは小さい体になって昆虫の王国に紛れ込むというファンタジー。3Dを意図した映像だろうが、普通に見たのでそこはよくわからない。あまり大作にせず、ショートフィルムふうの作品でもよかったように思う。


サウンド・オブ・ミュージック
サウンド・オブ・ミュージックは昔から好きで、DVD化されたころのを持っているが、50周年版というのを見て、びっくりした。吹き替えが、歌まで吹き替えになっている。40周年版からそうだったらしい。無知でした。劇団四季の影響なのか。いずれにせよ歌まで日本語で楽しめるというのはよいことだと思う。オペラもそうであってほしいとも思うくらい。それでこの歌の吹き替えはどうだったか。歌の吹き替えな、せっかくのジュリー・アンドリュースの声が、と最初思ったが、平原綾香の歌もそれなりによかった。ちなみに当時の映画ではマーニ・ニクソンらの吹き替えがあったが、そうではないことを示すためもあってか彼女自身もこの作品に修道女ソフィアとして登場している。

「王様と私」も現代ではニクソンの名前が公開されている。

以上、どれか一個おすすめというなら、「サウンド・オブ・ミュージック」は別格として、「インターステラー」でしょう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年4月 | トップページ | 2016年6月 »