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2016.04.05

実際、保育園に落ちたらどうするか?

実際、保育園に落ちたらどうするか? この話題の経験談的な側面は当初自著に含める項目のつもりだったが書籍全体のバランスを考えて落とした経緯がある。他にも家事分担のコツのような話題も考えていたが落とした。また何か機会があれば書籍として書きたいものだと思いつつ、ブログに書くような話題でもない。そうこうしているうちに時は過ぎてしまった。が、よい機会でもあるので、現時点で少し整理してというか、思い起こしつつ書いてみたい。あまり正確ではないかもしれないし、なんの役にも立たないかもしれないが。

保育園落ちて「日本死ね」という気持ちになるのはわかるという人は多いだろうし、それはその文脈の議論があるだろう。ただ、他方、現実的に保育園に落ちた子供をどう対応するかという現実的な問いは依然残る。

今回、そうした現実対応の話題が出てくるのか、とざっと見ていたが、見ていた範囲では見かけなかったように思う。いくつかざっと検索してみたが、あまり現実的な示唆もないように思えた。どこかにあるのかもしれないが。それはそれとして、自分の思うところを書いておこう。

まず、この話題は、正直に言うと、しづらい、というのがある。対応策があまり市民社会の観点から見て正しいとは思えないのだ。結局のところ、制度が不備であることの応急対応なのでしかたないとも言えるのだが、正当ではないという疑念は去らない。

もう一つ話しづらいのは、その後の私自身が子供たちの成長に合わせる形で生きてきて、保育という時期の問題に特化して深く関わってきたわけでもないことがある。まあ、現実的にできなかった面もある。他方、受験のことなどは理解できたが。

さて、私のように、子供が保育園に入れなかった、というとき、どこから対処したらよいのだろうか? 

すでに書いたように、地域に「ヘルプ(助けてほしい)」という声を出すことが原点だろう。ただ、この時点で、それは公的制度が機能していないということと同義でもある。

あなたが具体的に保育園に落ちた子供を持つ新しい親だとしよう。原点は「助けてほしい」であるのは確かだが、その前にできたらしたほうがいいことがある。

想像して欲しいのだが、そうした保育の厳しい状況、つまりあなたが住んでいる地域におけるそうした保育の問題は、今回のあなたが特例ではないはずだ、ということだ。

すでに数年、あるいは十数年スパンでこの問題がその地域に堆積しているという状況を認識するとよいと思う。

この意味は、政治的な改善のための認識に直接つなげるのではなく、この問題を体験した地域の人々がどうやってこの問題を具体的にくぐり抜けてきたかという事例をできるだけ知り、そのなかで自分にあった解決策はないか参考にすることである。

「保育園に子供が落ちて困っているから助けてほしい」ということと併せて、地域保育の現状認識を並行して始めるとよいだろう。こういうとなんだが、妊娠時期から想定しておいたほうがよい。

言いづらいのだが、このようにして、保育について自分を助けてくれる情報を探るということは、あまりたやすくない。情報が公開されてないことではなく、そもそも公的な制度ではないため、こういうとよくないのだが、知った人が得するというような、本質的な不平等が潜んでいるためだ。そして、これもあまり良いことではないが、この不平等は現実には、費用にだいたい比例している。そしてお金が絡むと制度の不備と善意は不平等を広げてしまうものだ。(実際現下の問題で重要なのはこの部分、つまり高額な保育の市場にあるかもしれない。ただ、昨今の話題はその動向を踏まえて、現状規制された保育士の労賃に焦点化されているのでこの文脈に浮かび上がりにくい。)

さて、助けてほしいと声を上げる先の、地域コミュニティとは何か。それがどこにあるのか?

地域で育児経験のある家庭が第一なのだが、もう一つ比較的公開的なのが、幼稚園である。幼稚園の現状は地域によって異なっているので一般論はできないが、ざっと見たところ少子化もあって市場原理的に幼児の獲得に経営努力をしているところが多い。このため、幼稚園に入る前の子供も潜在的な顧客として対応の情報を持っていることがある。さらにそれ以前に、幼稚園が「認定こども園」や期日を限定した預かり保育のような事業を展開していることがある。直接幼稚園に対して、「子供が大きくなったら入れたい幼稚園を探しているのです」みたいに話を切り出してもよいかもしれない。

さて、レベルアップ。認可保育施設などが利用できないレベル。となると、認可外保育施設や「保育ママ」といった施設を使うことになる。私もそうなった。

私の場合、篤志に助けられた。子離れもして老夫婦二人で一軒家に暮らしていた、保育士資格のある婦人が、人に頼まれて地域の子供を預かるうち、子供が集まり、また支援できる母さんなどがグループとなった。一軒家も保育用に改造までして対応していた。それはもう後光が出るくらいの善意の集まりで、それを知ったときは、救われたと思えたくらいだった。いまでもありがとうございますと思う。

こうした支援グループを地域に広げていけばいいかのようだが、すぐに察せられることだし、先ほどからの奥歯に物が挟まるような言い方になるのだが、こうした支援グループは制度の尻拭いをしているだけで、市民社会の問題解決にはならない。

そのことは支援グループ内でも理解されていて、地域コミュニティから地方自治体に働きかける活動にもつながっていた。

理想的にはこうした草の根の運動を地方自治体につなげていく政治活動にすればよいのだが、現実的にはそこで、既存の政治活動団体との接面が生じてくる。それが潜在的にはらむ問題を起こさないような政治的なバランスも問われる。それなりに気を使うことになる。

私の知るこの事例だが、そうこうして数年。いろいろな経緯があって、その保育グループは解消された。中心を担っていた婦人がもうかなりのお年になったことが大きな要因だった。少子化でいちだんと子供が減ったということもあった。広域化して対応が難しくなったり、他の施設の充実もあった。

こうした地域コミュニティの善意による保育の解決は結局のところ、善意であればあるほど、結果的に制度不備の尻拭いになり、本質的な市民社会としての、保育の活動にならない。

「保育園落ちたのは私だ」として国会前でデモするのもよいのだが、比較すれば継続的に地方自治体に働きかけるほうが重要になるのはその理由からだ。

そして、残念ながらというか、保育はビジネスでもあるのでその利害調停のような作業も必要になる。コンビニや歯医者のように市場原理だけに任せるわけにもいかない。大きなマンションが地域に建つと予想されるだけで変わる。本当に市民生活に必要な地域政治の調停をどう行うのかというのは、保育でも難しい。

まとめると、保育園に落ちたら、地域の実情を探り、その過程で各方面に助けを求める声をあげよう。そのなかで保育を助け合う仲間ができたら、そこを足場に地域行政に改善を求めよう、ということ、ではないだろうか。

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