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2016.04.03

「保育園落ちたの私だ」ということはどういう意味だろうか

ツイッターで「保育園落ちたの私だ」というタグを見たとき、その後ろに「ばぶー」とかつくのかと思った。そうではなかった。「私の子供を保育園に預けることができなかった」という意味だと理解したのは、しばらくしてからだった。それから、ゼロ歳児を保育園に預けるのは大変だろうなと思った。なぜ、そう思ったかについては後に回したい。

この話題でそうこうしているうちに、「保育園落ちたの私だ」という国会前デモがあることを知り、少し奇妙な違和感を覚えた。これも後で触れると思う。ただ、当然、反感とかではない。市民がどのような示威活動をするのも自由であるからだ。

それから、その文脈の報道に接して「女性」という言葉がよく現れることにまた少し奇妙な違和感を覚えた。これもまた後で。その前に、そうした文脈の一つを上げておくと、たとえば表題に「母親ら」とある次のような記事である。毎日新聞「母親ら、改善求め厚労相に署名提出」(参照)。

 保育園に入れなかった母親らが9日、国会内で塩崎恭久厚生労働相に保育園の整備加速や保育士の処遇改善などを求める2万7682人分の署名を手渡した。「保育園落ちた日本死ね!!!」と題したブログをきっかけにネット上の署名サイトで集まったもので、午前中の衆院厚生労働委員会で民主党の山尾志桜里議員が塩崎氏に署名を直接受け取るように求め、実現した。

いくつかのもわんとした違和感が何なのか、いくつか補助線のようなものはすぐに自分の内面で察することはできたが、今ひとつもどかしい感じ続き、そのもどかしさの由来自体もある違和感を形成していた。自分には何も言えることはないだろうという思いの中でのことだった。

が、ある明瞭な直感を得たのは、毎日新聞に掲載された香山リカさんの「香山リカのココロの万華鏡 「保育園落ちたの私だ」 /東京」(参照)を読んだことがきっかけだった。

興味深いのは、この訴えに参加しているのは、実際に子どもの入園を断られた経験を持つ母親ばかりではないことだ。保育園に入れた人、それどころか子どもを持たない人や未婚の男性までが、「保育園落ちたの私だ」というキャッチフレーズとともに意見を述べている。これは社会全体の問題だ、という意識のもと、立場の違いに関係なく、誰もが「これは私のこと」として発言している。


しかし、この保育園の問題などを見ると、直接の当事者ではなくても「これは私のこと」として発言する人が確実に増えつつあることがわかる。今後、この流れが広がっていくのだろうか。うつ病ではない人が「うつ病なのは私だ」として心の病への差別に抗議し、大学時代の奨学金の返済で苦しんでいる若者の問題を「奨学金を返せないのは私だ」と高齢者が訴える。こうして誰もが「人ごとではない、私のことだ」と問題をとらえ、声を上げていけるようになるのは、とてもすてきなことだ、と私は思っている。

 私にも実は子どもがいない。でも、ここで大きな声で言わせてもらおう。「保育園落ちたの私だ」

ここで香山リカさんはとても重要な指摘をしていると私は思った。そしてそれが非常にクリアな正論であることで、先のもわもわとした違和感の大半は整理されてきた。

それは、「保育園落ちたの私だ」という言明の主体には、女性であることも、また香山リカさんのように子供がない人も、また運良く保育園に預けることができた人も含め、そうした人々に限定されないことだ。「保育園落ちたの私だ」という言明は発言者の特権性のない市民としての課題であるということだ。つまり、「私だ」という「私」の特定性は、原理的に一般的な市民に還元できる。ここでは前提として「誰が」は問われない。

逆に言えば、「保育園落ちたの私だ」というのは、市民の原理性においては、「誰が?」と問われることではない。女性のという文脈さえも解体される。

他の側面はどうか。この話題の意味を「難しい」と私が了解したのは、私の経験的な了解だった。自著では明らかにしたが私には子供が四人いる。四人も子育てすれば、「保育園落ちたの私だ」という問題に触れずにはいられなかった。しかし、そうした私が「保育園落ちたの私だ」という問題の中では、困難経験を基礎としてたある種の特権的に「私」を語ることはできない。

違和感の曖昧な沈殿先のほうはしかし、香山リカさんの指摘によるものではなく、矛盾するようだが、自分の実体験の掘り起こしからだった。こうした問題に直面したとき、私はどうしたか。「保育園落ちた日本死ね」というふうに、「日本」という課題と保育園の課題にある「私」を結びつけなかった。それがプライベートの問題領域だったからかというと、そうでもなかった。それは一義に、地域コミュニティの問題であり、次に地方行政の問題に思えていた。

もちろん、保育について地域コミュニティの問題や地方行政の問題の上位に国の問題があることは理解できる。しかし私にはそこに直結することはできなかった。なぜそうだったのか。とその視点から思い起こすと、まず、現実の保育の問題から国を批判することでは眼前の解決に至らず、まず解決自体が必要とされると思っていたことがある。次に、こうした保育に関する国の制度が充実しているとして想定されがちなフランスの保育の内情についてある程度知識があり、その国家レベルの困難さを参照しても、日本の国政で短期に解決できるようには思えなかったことがある。

では、どうすればいいのか?

同じ文脈を繰り返すと、私の場合には渦中ではその問いの答えはなかった。そのなかで、時は過ぎていき、子供を育てた。そのことの体験的な意味合いの一部は読者が限定される自著のほうに書いた。

しかしそれでいいのかと市民のレベルで問いを新たにするなら、それでいいわけはない。そして、その問いが再び、香山リカさんが指摘されたように市民の文脈で考えるなら、加えて現実に短期間にある具体的な対応が求められるなら、まず地域コミュニティに直面するし、その次に地方行政の問題として浮かび上がるだろう。そこでは国家との対応で匿名的である市民が具体的な市民となる。今回の話題の元になった匿名者もその具体的なありかたとしての解決はその次元に向かっているのだろうと思うし、その次元で発せられる別の言葉がとりあえずであれ短期的な解決を志向するだろう。

そこでは、私たち市民はどのように育児で地域コミュニティと関わっているのか、地方行政と関わっているのかが問われることでもある(場合によっては保育の行政が充実した地域に転居することもあるだろう。基本的に自由主義国では市民は税制では厳しいところからは移転しがちになる。奇妙な逆説だが、非自由主義国である中国などでも同様の傾向は見られる)。その先に、国政の制度設計や現状の見直しが政党の持つ政策の次元では並行して進められるべきだろう。

それでも現実的にもっと具体的に対応できないのか?

具体的であることは、具体的な個々の市民が育児で地域コミュニティと関わっているのかという文脈にあるだろう。そこには具体性だけがあるとも言える。例えば、3ヶ月の赤ちゃんを2時間預かって扱える能力が、災害時の市民の行動のように、市民の基本的な行動となるように支援する学習が推進されてもよいのではないだろうか。

もちろん、それは地域コミュニティや地方行政の文脈であって、国家によって社会から保護された市民としては、そうした支援活動から自由であってもよいだろうし、にも関わらずそれが市民の課題だと主張してもよいには違いない。国会前の女性団体のデモであってもよいだろう。保育の支援は国家がするべきで個々の市民の課題ではないという主張であっても正当ではある。

ただ、国家に迂回した解決は具体的な市民の短期的な問題解消の充足とは離れてしまう。このことがより切迫して問われるのは病児預かり(病児保育)のほうだろうと思う。この側面での国の対応だが、国はようやくこの4月から対応が始まった、とはいえ、財源は企業が負担する「事業主拠出金」の新年度からの引き上げによる約27億円なので、焼け石に水の状況にある。現状では、市区町村が民間の小児科や保育所に委託して併設されることが多いが、容体の急変にも備える諸制度には人命が直接関わる点で国の関与がより強く求められるだろう。

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