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2016.04.04

脱文脈化ということ

昨日、一昨日と、書いてみました的な話題だったが、はてなのinumashさんが二つともう読んでくださって(ありがとう!)、昨日のには、こうしたコメントをされていた。まあ、こう。

inumash こうやってごく基本的な経緯すら把握していないくせになんぞ深刻ぶった顔で的外れな分析ばかりしてるから、「ブログを10年以上も続けてきた」にもかかわらず貴方の声に動かされる人間が出てこなかったんでしょうね。

愉快だった。読み違えしているかなと思えるのは一点、「深刻ぶった」というくらいで、どうも「バブー」のベタは受けなかったようだ。つまり、他の指摘は当たっていると思った。二つある。

一つは「こうやってごく基本的な経緯すら把握していないくせに」である。まあ、それでいいと思う。他のはてなーず(「女子ーず」みたいだな)のコメントに、「私はシャルリだ」の背景もわからんのか爺、みたいのもあった。

どう理解されているかの弁解でもないが、私は、この話題を「脱文脈化」したいのである。

ネットスラングというか、社会で市民の情念を煽るような「死ね」的表現が出てきて燃える。でも実はその情念が話題の核に思えたので、それを脱文脈化できなものだろうかと思ったのである。考えるというか。自分なりのデリダ的な実践でもあるが、そう言うとまた違うだろうけど。

脱文脈化というのは、人々がある方向性の受容している前提となる文脈を入れ替えることである。そうしたとき、命題はどのような意味を持つだろうか。

今回の事例で、脱文脈化を考えたのは、脱文脈化という「ため」の目的ではない。気づかれた人がいるか種明かしみたいな話をするのも野暮だが、「日本死ね」と言いうる主体の解体、「保育園落ちたのは私だ」という言いうる主体の解体、をすべきだろうとこの件について私は思った。

「日本死ね」というように「死ね」という言葉よくありませんね(by 67歳の主婦)という話ではなく、「日本死ね」と言いうる主体を形成している特権性のなかに、ナショナリズムを見てそのナショナリズムと主体の関係を問い直したかった。そして市民社会を構築する「言葉」の道具性を考え直したかった。ネットスラングが国会を通して「脱文脈化」される傾向を再脱文脈化で脱文脈化してみたかったとも言えるか。

「保育園落ちたのは私だ」というのを、まず子供を持っている母という主体から解体したかった。そしてその「私だ」という特権性の呪縛が外されたとき、具体的な市民に具体的に問われた問題にはどのような解法があるのか問い直したかった。

そしてこの二例でいうなら、そこで発言主体の権利であるかのように見える権利性を支える正義を、市民原理から批判できなものだろうかと思った。

なぜ、そんなことが求められるのか。私の意図は単純である。市民と原理性と市民の具体性において、マスメディアを介して怒りの情感を醸成するものに危惧を抱くからだ。

一種の被害者正義に憑依する主体は、市民社会の言論の一種の自浄性として解体される傾向もあるべきだろう。

だから、inumashさんが「「ブログを10年以上も続けてきた」にもかかわらず貴方の声に動かされる人間が出てこなかったんでしょうね」というのは、まさにそうあるべきなのだと肯定的に思う。

ブログの書き手の多くは、「貴方の声に動かされる人間」を求めている。それが正義であったり、アフィリエイトであったり。名声であることであったり。そして、それに大半は失敗してブログから立ち去る。あるいは、それに成功して「動かされた人々」を生み出していく。

私は、そうではないのだ。私はただ一人の市民として、アーレントが民主社会に求めたように社会のなかにできるだけ異なる声を上げること、そして異なる声を届けようとすること、それが市民ができることであれば、それでいいのである。私でなくてもいい。「貴方の声に動かされる人間」のようなゾンビに問いかけること。ブロガーというのはそういうものだと考えるし、それって本当なのかということは、誰もが自分なりに10年くらい実践してみるといいのではないかということだった。最後に毒杯を仰ぎたくはないけれど。

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