昭和の保育
先日、「現代は少子化なので幼稚園も経営努力として保育にも関心を持っていることがある」という話を書いたところ、「なに言ってんのこの爺、昭和の話してんじゃないよ」みたいなコメントを頂いた。なるほど徳仁親王と同世代の私も爺という時代にはなったが、「それってどこが昭和なんだろうか」とも思った。昭和の保育っていうのは……とちょっと思って、そうだなあ、昭和の保育の話を書いてもいいなと思った。昭和という時代の保育がどうだったか、教えられないのかもしれないが、知らない人も増えてきたので、奇妙な誤解も生まれているかもしれない。
昭和の保育というが、昭和は大雑把に二つの時代に分けられると思う。あるいは、三つだろうか。戦前、戦後、もはや戦後ではない時代。昭和の戦争はメディアで映像的にもよく取り上げられるが、意外と戦争自体の時代は短い。日中「15年」戦争もあり、それも戦争期ではあるが、当時の世界情勢を見て特段に戦時下として特化しているかは疑問もあるし、庶民生活から見れば、概ね戦前に区分されるのではないか。
それでも昭和期を戦前戦後として分けたとき、戦前の保育を特徴つけていたのは何だったか?
というところで、赤とんぼの歌を思い出した。
夕焼小焼の赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か山の畑の桑の実を
小籠に摘んだは幻か十五で姐やは嫁に行き
お里の便りも絶えはてた夕焼小焼の赤とんぼ
とまっているよ竿の先
三木露風・作詞、山田耕筰・作曲。初出は、詩が大正10年だがメロディは昭和2年。概ね昭和が始まる時代に作られ、戦後1955年にはすでに郷愁として普及した。そういう意味でも、描かれているのは昭和前期的な風景である。
さて、この詩の意味はなんだろう? 当たり前のようでいて意外と難しいかもしれない。
それを考える上で着眼点になるのは「負われて見た」である。誰が誰を背負ったのか? なお、言うまでもないけど、「追われて」ではない。
戦後にこの歌が歌われるようになってからは、挿絵的に母親が描かれることもある。若い母親が子どもを背負っているという光景である。
で、この二番「小籠に摘んだ」は誰だろうか。なんとなく、歌の主人公である隠された「私」であるようにも思えるが、それが「幻か」というのは他者として遠隔された意識とも読める。
三番になって唐突に「姐や」が出現する、というように読むとすれば、一番と二番が分離する。
確定的には言えないものの、一番で背負ったのも、二番で桑の実を積むのも子の遊びであることから、姉との思い出であろう。余談だが、桑の実はマルベリーである。養蚕で植えられていた。
「私」は、姉におぶわれて赤とんぼを見た、その姉と物心つく頃、桑の実を詰んだ。なぜか。それが保育だからである。
昭和前期まで、育児は少女がシャドーワークとして多く担っていた。当時は少子化ではなく兄弟姉妹がいることが多く、そのなかの少女は保育を担当していた。私の母なども長子の子を背負う役だった。信州方言の「ねえやん」であった。なお、この他には、現在の中国のように祖父母など老人に預けるということも多く、漱石の『坊っちゃん』などがその例である。
家が富裕である場合、事実上奴隷である保育用の少女がその労働にあたっていた。守り子である。むしろ彼女らが「姐や」でもあった。
日本民衆史や女性史の必読文献ともなった『芸者』の著者増田小夜その一人で、回想録である同書は、「ものごころついたとき、私は長野県の塩尻に近い郷原という田舎の、地主の家で子守をしていました」と始まる。こういう描写もある。
寒いのは夜ばかりではありません。子守をしているときは、背中は温かくても足は凍りつくほど冷たいのです。私は、冬どんなに寒くても足袋をはかせてもらえなかったので、片方の足の足の股のところへ、もう一方の足をくっつける、これを繰り返していつも片足で立っていました。それで、仇名は「鶴」といいます。
守り子の労働はきつく、その文化の中で生まれたのが、守子唄である。「竹田の子守唄」としても知られる守子唄からはそうした隷属的な未成年労働の状況が読み取れる。
守りも嫌がる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし盆が来たとて なにうれしかろ
帷子はなし 帯はなしこの子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら早よも行きたや この在所越えて
むこうに見えるは 親のうち
保育の隷属労働から逃れて、少女は親元に帰りたいというのだが、実際この人身売買をしているのはその親である。赤とんぼの姉が嫁に行くもの、大半は「口減らし」であるが、事実上の人身売買に近い。
他にも日本の「子守唄」とされているものの大半は、守子唄である。守り子にとっては背中で泣き騒ぐ領主らの子どもは忌まわしい存在でしかなく、守子唄には、赤ん坊への愛情よりも憎悪が歌われることが多い。
つまり、こうした守子唄が常識である時代背景に「赤とんぼ」の歌をおけば、この歌も守子唄の関連であることが理解されやすいだろう。
昭和前期の保育は、守り子の労働が大きな比重を持っていた。大家族で兄弟が多く、また事実上の人身売買が横行していた。
戦後、そして高度成長期になって、大都市が地方の労働者を吸い込み、核家族なるのに並行して、政府も先手を打って少子化を事実上推進(参照)した。
かくして「ママ」が昭和後期に出現した。赤ちゃんの保育するママの登場である。この象徴が美智子妃であり、その子、徳仁親王こと「ナルちゃん」である。皇后に付く前の美智子皇太子妃は、保育を自らがママとして行い、それが叶わない場合、世話係に保育指針の育児メモを示していた。これが「ナルちゃん憲法」である。冒頭にも述べたが、親王は私より一学年下なので、だいたい同じ世代に属する。
この時代から、保育するママ、という存在が定着し、昭和38年(1963年)の歌謡曲「こんにちは赤ちゃん」が以降、日本の愛唱歌となった。余談だが、作詞者が永六輔であることもあり、当初父の心情だったものが、歌手梓みちよに合わせて「私がママよ」となったらしい。昭和41年には、この文脈で『スポック博士の育児書』が出てベストセラーとなった。
まとめると、昭和の時代の保育の特徴は、前期は「守り子」であり、後期は「こんにちは赤ちゃん、私がママよ」という「ママ」であった。「保育ママ」が「ママ」呼称を引きずっているのもそのせいだろう。
すでに触れたが、日本の少子化はこうした「こんにちは赤ちゃん、私がママよ」という世界と並行して進んでおり、むしろ、お母さんが保育するということが少子化政策と事実上、一体化していた。
追記
「赤とんぼ」の「姐や」は子守奉公だというのがわからないのか、このバカといった、ググレカス的なシンプルなコメントをいくつかいただいたが、私としては、子守唄から増田小夜『芸者』の文脈で捉えている文脈は読み取られていないのだろうとは思った。
私の考えでは、「赤とんぼ」について、二点あり、一つは、基本的に守子唄の背景があり、そこに守り子として、姉と子守奉公の全体をシャドーワークとして捉えたいことがあった。
なお、語義的には「ねえや」の方言である「ねえやん」は私のルーツである信州方言では大家族内の姉など年上の女性を包括している。甲州方言にもあり、沖縄の「ねえねえ」にもそうした含みがある。
もう一点は本文に書こうか迷って書かなかったのは、「赤とんぼ」の三番「お里の便りも絶えはてた」の情感の読み取りがある。この点、子守奉公人単一の解釈であれば、奉公人を偲ぶという意味だけに吸着される。
しかし、ここで問われている昭和の情感は婚期娘の「口減らし」だと私はその背景の感覚を持った。「口減らし」は、口に入れる食費を大家族の家計から減らすことの表現で、奉公や嫁入りがある。その意味で子守奉公人も口減らしではある。が、子守奉公を使う富裕家の情感より、農村の少女一般が嫁入で「口減らし」される悲劇は当時広く知られていた。嫁の形をとっても、実際は他家への奴隷的な状況に置かれる悲劇である。その悲劇的な状況はしばしば世代代わりした実家には伝えれず、「お里の便りも絶えはてた」ということになる。
解釈上は、子守奉公人がある家に隷属的に嫁させられるという読みもなりたつ。が、口減らし嫁への悲劇的な情感が極まるのは実家からそのように引き裂かれる娘なので、「姉」の読みは残るだろうと私は考えて、ググレカス的な解釈表現は避けた。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント