「日本死ね」と言うべきだっただろうか?
すでに旧聞になると思う。というか、そうなるのを待っていた面もあるし、考えていたらそうなってしまったという面もある。話題は、れいの、と言ってもいいだろう、「保育園落ちた 日本死ね!」ということだが、私が気になっていたのは、「日本死ね」という表現だった。そう言うべきだったのだろうか?
言葉狩りがしたいわけではないが、これが仮に「中国死ね」や「韓国死ね」という表現であったら、ヘイトスピーチになるのではないか。なのになぜ、「日本死ね」ならそういう問題にならないのだろうかと疑問に思ったのである。
おそらく日本人なら「日本死ね」と言ってよいという暗黙の前提があるのではないだろうか。だとすればそこで疑問が続く、日本人なら「日本死ね」と言ってよいのだろうか? あるいは、日本人なら「日本死ね」と言えるという特権のような意識があるとすれば、それは何に由来するのだろう? その特権を支える正義はなんなのだろう? おそらくなんらかのナショナリズムではあるだろう。
こうも思った。「日本人死ね」なら誰が言ってもヘイトスピーチになるかもしれないが、「日本死ね」であって「日本人死ね」ではないから、だから、よいのではないか?という理屈ならどうだろうか。
仮にそうだとすると、それは「日本」という国家の体制を転覆してよいのだ、ということになる。しかも、それが日本を構成する市民を通して日本を民主主義的に変革するというのではないのだから、結局のところ「日本死ね」は、「江戸幕府死ね」の気風や、国家を支える首相である犬養毅を暗殺する情念と繋がる。そんなものがいまだに日本にはあるのではないか。
私は、「日本死ね」という言葉が共有される社会に恐怖を覚えたのだが、ツイッターを見るとそうでもなかった。朝日新聞の冨永格記者は次のように「日本死ね」を肯定していたし、彼の考えからすれば、私は「本質が見えていなかった」ことになる。
あれが「保育園落ちた 日本死ね!」以外の表現、例えば「また保育園に落ちました。日本政府への絶望が募ります」では、これほどの伝播力は持ち得ない。尖った言葉が、むき出しの怒りや悲しみを残らず伝えているからこそ、その叫びは全国に響いた。言葉の荒さを咎める人は、コトの本質が見えていない。
— 冨永 格 (@tanutinn) 2016年3月10日
冨永記者はこのことを「言葉の荒らさ」として見ていたということは、政治の本質が伝えられる有効な修辞であれば「日本死ね」という表現は有効であるという認識なのだろう。
私はまったくそう考えないのである。つまり、本質を隠した修辞よりも、市民が共有する言葉というもの自体にもっと価値を置くべきだと思う。そのためには「日本死ね」という比喩的修辞はふさわしくないと思う。
冨永記者は朝日新聞の記者ではあるが、朝日新聞全体の論を代表としているわけではない。では、朝日新聞としてはそこはどうなのだろうか。特にそういう問題意識はないのだろうか。そうした疑問を持っているとき、高橋純子政治部次長のコラムを見かけた(参照)。なお、未登録ではネットではこの先は読めないが、私はこの記事は紙面で読んだのだった。
全国各地から桜の便りが届いていますが、みなさまいかがお過ごしですか。こんにちは。「チリ紙1枚の価値もない」記事を書かせたら右に出るものなし、週刊新潮にそう太鼓判を押してもらった気がして、うれしはずかし島田も揺れる政治部次長です。
そう始まる。気になった部分を紙面から引用する。
◇
前回書いた「だまってトイレをつまらせろ」に多くの批判と激励をいただいたが、どうにもこうにもいただけなかったのが「死刑にしろ」だ。
どんなに気に食わなかったにせよ、刑の執行というかたちで国家を頼むのは安易に過ぎる。お百度踏むとかさ、わら人形作るとかさ、なんかないすか。昨今、わら人形はインターネットで即買いできる。しかしそんなにお手軽に済ませては効力も低かろう。良質なわらを求めて地方に足を運ぶくらいのことは、ぜひやってほしいと思う。
訪ねた農家の縁側で、お茶を一杯よばれるかもしれない。頬をなでる風にいい心持ちになるかもしれない。飛んできたアブをわらしべで結んだら、ミカンと交換することになり……「わらしべ長者」への道がひらける可能性もゼロとは言いきれない。
ひとは変わる。世界は変わる。その可能性は無限だ。
だけど、「死刑にしろ」と何百回電話をかけたところで、あなたも、わたしも、変われやしないじゃないか。
◇
反日。国賊。売国奴。
いつからか、国によりかかって「異質」な他者を排撃する言葉が世にあふれるようになった。批判のためというよりは、排除のために発せられる言葉。国家を背景にすると、ひとはどうして声が大きくなるのだろう。一方で、匿名ブログにひっそり書かれたはずの「保育園落ちた日本死ね!!!」が、言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう。
なにものにもよりかからず、おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている。
スプリング・ハズ・カム。
窓を開けろ。歩け歩け自分の足で。ぼくらはみんな生きている。
一読して私はよくわからなかった。
が、まったくわからないわけではない。まず、「日本死ね」という言葉に「おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている」と肯定的に評価しているという点である。つまり、「うれしはずかし島田も揺れる政治部次長」も冨永記者と同じ考えで調和しているという点である。そこは理解できた。朝日新聞は政治部としても、「日本死ね」という表現を肯定的に受け止めているようだ。
わからなかったのは、「日本死ね」も「反日。国賊。売国奴」と同じく、「「異質」な他者を排撃する言葉」ではないかと思えたので、そうしてみると、このコラムは主張が矛盾している。そう私には思えたのである。
別の切り口でいうなら、「言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう」というのを肯定するなら、「反日。国賊。売国奴」という言葉も「言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げ」ているのである。
このコラムに論理的な整合性があるなら、いや、たぶん書き手はそう思って書いているはずだ、となんどか読み返して思ったのは、「日本死ね」が「反日。国賊。売国奴」と違うのは「国によりかかって」ということなのだろういうことである。つまり、「反日。国賊。売国奴」という言葉は「国によりかかって」いると書き手は想定しているのだろう。
しかし、それもおかしな話である。「日本死ね」が先にも触れたように、実際のところに日本人の特権のようなものであれば、結局は、それもまた「国によりかかって」いると言っていいだろう。
この件では、朝日新聞は奇妙な論調の新聞だなとは思ったが、そうした奇妙な論調の新聞ということであれば読売新聞や毎日新聞、産経新聞も変わらない。新聞とはそういうものだ。
という順で書いてきたが、実は私は、朝日新聞のなかではそうした論調に疑念もあったのではないかと感じていた。この間の3月20日の読者欄に「「死ね」という言葉に危惧を抱く」と題する67歳の主婦の声が取られていたからである。
「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名のブログが話題となり、賛同する声が広がっています。でも、私は共感する気持ちになれません。
待機児童の多さと事柄の重要さは理解しているつもりです。しかし、政治への不満や怒りを表すために「死ね」という言葉を使うのはどうでしょうか。
「死ね」という配慮のない言葉が公に放たれ、それが肯定されているかのような現状を、私は大いに残念に思いますし、胸が痛んでいます。
例えば、子どもたちのいじめやケンカでこの言葉が使われれば、どんな悪影響を及ぼすか考えて下さい。生きていく希望を奪ってしまうかもしれない言葉なのです。大きな危惧を抱かざるを得ません。
そこまで言わせる政府にふがいなさも感じます。しかし、大人が「死ね」という言葉を発信し、社会に蔓延するとしたら、警告が必要ではないでしょうか。
私はこの方の「声」に共感した。「大人が「死ね」という言葉を発信し、社会に蔓延するとしたら、警告が必要ではないでしょうか」と私も思うのである。
おそらく朝日新聞の主要な声は、「大人」ではなくなっているのだろう。その中で残された「大人」はこの声を朝日新聞の紙面に静かに拾い上げたのではないか。
しかし、私はこの方が言われる、「そこまで言わせる政府にふがいなさも感じます」とは思わない。私たち市民は、そして大人は、政府によって言葉を言わされているわけではない。私たち市民は、市民の言葉を大切にするがゆえに、私たちの市民が政府を作り上げる。つまり、作為の契機をもっている。だから、変革が可能な日本という政体に向けて「死ね」と言うのではなく、変革への責務を持たなければならないはずである。私がブログを書いているのも、けして政府によって言わされているわけではない。市民はブログを通して、直接自由に声を挙げられることができる。それを実証するために、ブログを10年以上も続けてきた。
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