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2016.04.21

「中国に強制連行される台湾人」問題、なのか?

4月11日、振り込め詐欺に関わったとされる台湾人がケニアで拘束され、中国に「送致」されたという「事件」があった。つまり、台湾人の犯罪者が「中国」に強制連行させられた。海外にいた韓国人が北朝鮮に送られたみたいな話である。

いやいや、そうでもないのかもしれない。なぜ台湾人の犯罪者が中国の法に従うのかというと、台湾人はつまり中国人だからだ、という理由らしい。これを拡張すると、とんでもないことになるなあと多くの人が思ったことだろう。

朝日新聞の13日の報道「台湾人45人を中国に送致 ケニアの対応に台湾が反発」(参照)が一見するとわかりやすい。

 ケニアが振り込め詐欺にかかわったと見られる台湾人45人を中国に送致し、台湾で猛反発が起きて いる。中国が台湾を自国の一部とする「一つの中国」原則を押しつけたとの受け止めが出ているためだ。 一方、中国人が詐欺の標的になったことから、中国側は司法管轄権を主張している。

 台湾側によると、ケニア警察は2014年11月、ナイロビ近郊を拠点に、電話などで中国人相手に 振り込め詐欺を働いていたと見られる台湾人や中国人のグループ77人を逮捕。このうち台湾人23人と、 別の詐欺事件で逮捕された台湾人22人が今月、中国へ送られた。台湾当局は中国に送致しないよう求め たが、ケニア警察は無視したという。

台湾側は困惑している。

中国外務省は「ケニアが『一つの中国』原則を長期にわたって堅持していることを高く評価する」としたが、台湾当局は台湾人容疑者に対する管轄権は台湾にあると主張。対中政策を担う大陸委員会の夏立言(シアリーイエン)主任委員は12日、中国の張志軍(チャンチーチュン)台湾事務弁公室主任に電話で「積み上げてきた相互信頼を傷つけるものだ」と抗議し、45人を迅速に台湾に送還するよう申し入れた。

いろいろ考えさせられる問題である。まず、「一つの中国」というのをこういうふうに解釈されると、台湾としてはほとんど自立した市民権が維持できないことになる。ただ、台湾側としても「一つの中国」を建前としているので、そうした自立した市民権の主張がしづらい。このため台湾側としては慣例的な台湾人容疑者に対する管轄権を主張することになる。またその文脈では中国も司法管轄権の問題と認識している。

過去の事例からすると、20011年2月にフィリピン拠点の電話詐欺事件で台湾人14人が中国に移送されたことがある。この時は、台湾側からの交渉で同年7月に台湾に容疑者が移された。今回もそのあたりが落とし所という線があるにはある。

ただ全体としては、南シナ海の領有権の問題でもそうだが、中国は基本的に慣例に従う国家だが、ある日ちょこっと慣例を変えて、それが大きな問題にならなければ、じわじわと慣例を変更していく。今回もああ、またこれねという印象はある。

国際情勢として見ると、朝日新聞の記事もこの段落以降で指摘してるが「中国の対応の変化は5月に発足する民進党の蔡英文(ツァイインウェン)政権への圧力との見方」は否定しがたい。いじわるというか、脅しというか、武力衝突にならない程度には不快な威圧をかけてくるのも中華風味といういつもの趣向である。李登輝「大統領選挙」時のように、中国がミサイルを台湾近海に打ち込むよりはましなのかもしれない。余談だがあれは日本近海でもあった。

今回のこの「送致」事件、中国側に同情的な面もある。同記事にも指摘があるが、今回の台湾人の詐欺事件の被害者は中国本土であるらしく、犯罪マネーは中国から台湾に流れているらしい。このケースの場合、台湾の法では軽微な犯罪と見なされることもあり、被害の側の中国としては厳罰にしたい。

この問題にはもう一面、ケニアの問題がある。こちらは翌日の「台湾人45人を中国に送致 ケニアの対応に台湾が反発」(参照)で言及されている。

 台湾側によると、ケニア警察は2014年11月、ナイロビ近郊を拠点に、電話などで中国人相手に 振り込め詐欺を働いていたと見られる台湾人や中国人のグループ77人を逮捕。このうち台湾人23人と、 別の詐欺事件で逮捕された台湾人22人が今月、中国へ送られた。台湾当局は中国に送致しないよう求め たが、ケニア警察は無視したという。

この際のケニアの対応が興味深い。CNN「台湾籍の45人、ケニアから中国に「強制連行」」(参照)に言及がある。

台湾当局の発表によると、台湾籍の23人を含む被告37人が裁判で無罪を言い渡され、パスポートを受け取るため5日にナイロビ市内の警察署に行ったところ、理由もなく拘束された。

台湾領事館からの反対や裁判所の国外退去差し止めの命令にもかかわらず、中国の要請で23人のうち8人が8日に中国南方航空の旅客機に強制的に乗せられ、中国本土に移送されたという。

台湾外交部幹部によれば、残る15人を含む台湾籍の37人も12日に中国本土に送られた。ケニア当局が催涙弾などを使って強制的に退去させたとも非難している。最初に移送された8人は、北京市内で拘束されていることが分かったという。

台湾側の言い分ではあるが、具体的な事態はややわかりにくい。基本線で言えば、ケニアは台湾(中華民国)を承認していないことがある。第二次世界大戦で連合国に含まれていた中国は「中華民国」だったが、1971年10月、国連総会で中華民国政府(台湾)が追放され、空いた中国の座に中華人民共和国がおさまった。余談だが、香港の借用はイギリスと中華民国とで結ばれたので、契約の原文は台湾に存在する。

現在の台湾としては、ケニアについては南アフリカにある駐南アフリカ代表処で外交を扱うため、そこを拠点にケニアとの交渉を行っていた(参照)。

この事件について、すでに触れたように一応落とし所はあり、基本構図は、中台問題のように見える。ところが、どうもそうでもなくなりつつある。20日共同「強制送還巡り中台協議へ、ケニアに加えマレーシアも」(参照)。

一方、マレーシアでも中国での詐欺事件への関与が疑われる台湾人約30人がこのほど強制送還処分を受けたことが判明。中台それぞれが引き渡しを求めており、この件でも台湾側は今回、中国側と協議する予定だ。

この共同記事にどう関連するかわからないが、16日の中国側の報道では、マレーシアから台湾に強制送還された容疑者を台湾が釈放したことを伝えている(参照)。

拡張されていくこの事態をどう見るかだが、政治的な問題を切り離し、基本的に国際詐欺事件ではあるので、関連国や国際機関との連携で取り決めを作ればよい。

ただ、そうした場合、中国の刑法の全体が、そうした国際協調に馴染むものなのかという問題が残ってくる。



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2016.04.20

コンテンツとグローバリズムの関連で

先日、米ドラマ『エンパイア 成功の代償』の話を書いた。自分には現代の黒人音楽と黒人社会のドラマティックな情景がとても面白かった。なるほど米国でこれが大ヒットしたのはよくわかる。で、日本だとどうだろうか? 

日本でもこの作品、DVD/BDでも販売されているし、いろいろオンデマンドやペイチャネルで放映されているから、それなりに人気があるのだろう。が、ざっと自分の周りを見回した印象だと、興味を持っている人は少ない。

もともと、基本的に米ドラマに関心を持つ日本人は特定のセクターになっていて、そのセクター内でのローカルな話題になるのかもしれないなとも思っていた。それでも、この作品ならそれらを超える部分はありそうなものだが、と心に引っかかっていた。

『エンパイア 成功の代償』と限らず、米ドラマがどのくらい日本で視聴率があるのだろうか?  かつての、と言ってももうけっこう古いが、韓流『冬のソナタ』や『アリ−・my・ラブ』みたいな社会現象はあるだろうか。

ものによってはあるにはあるんだろう。が、けっこうすごい作品だなと思える『ブレーキング・バッド』でも日本で大きな話題ということもないみたいだし、同じくすげーと思った『アフェア 情事の行方』もあまり日本では話題を聞かない。これら、けっこうすごい作品だと思ったが。

それが視聴者が細分化されたコンテンツ、ということだろうとは思う。単純な話、各人にとって、自分が面白ければそれでいいだけのことだ。自分としては、自分が面白いものは、他の人にもこれ面白かったよと伝えれば、それ以上の話でもないはずだが。

それでも基本的に、良質なコンテンツは、広告モデルのテレビから、ペイチャネルに移行していくというトレンドは米国から始まり、日本でも追いかけていくのではないかと思っている。

で、もとの疑問の端っこに戻るのだが、米国ドラマと日本の聴衆という二極の枠組みではなく、米国コンテンツとグローバルな枠組みとしてはどうなんだろうか。英語コンテンツとして見ると、そもそも英語国民の国は多い。外国語統制をしているフランスなんかでも、英語コンテンツの人気は高いはずだ。フランスのアマゾンとか見ると大工道具と米国コンテンツしか売ってないんじゃないのという印象すらある(言い過ぎ)。

そんなおり、ビルボード誌の「'Empire' Flops Overseas as Foreign Viewers Resist Hollywood's Diversity Push」(参照)に関連記事があることを知った。いわく、「エンパイア」は海外でこけた。米国外の視聴者はハリウッドが押し付ける多様性を拒絶した。というものだ。

記事の背景としては、前回のアカデミー賞に黒人が含まれていなかったという話題があるのだろう。つまり、『エンパイア 成功の代償』のほうは逆に黒人を中心に取り上げることで、ハリウッドの多様性を強調して、それが米国でも支持された。なのに、国際世界のコンテンツ市場ではウケない、という視点である。

率直なところ、その視点で関心を持ちたくはないなと思ってはいるものの、提示されている事実にはちょっと驚いた。『エンパイア 成功の代償』はイギリスやオーストラリアなど英語国民の国でもそれほどウケていない。ドイツやフランスでウケないというのはまだわからないでもないし、まして日本でも、というのはあるが。いずれにせよ、米国以外ではウケていない。多様性を配慮したコンテンツはグローバル・マーケットではウケない。

簡単に言えば、そうものさ、ということだが、じゃあ、それはなんだというと、この記事のように「多様性」ということでフォーカスすべき問題なのかは、微妙に違うようにも思う。むしろ、なんであれ、この作品の米国的な性格が、各国の国民性というのにはあまり適合していないというのはあるだろう。多様性があればグローバリズムであるという単純な話でもないだろう。

実際のところ、日本人である私など、『エンパイア 成功の代償』は、面白いなあと惹かれる反面、一話一話、ぐったり疲れる部分はあった。人間関係の愛憎が濃すぎる。情景の情感などもあまりなく、映像的にも重たい印象はあった。『わたしを離さないで』のような、日本版のリメークはちょっと想像もつかない感じはした。

皮肉な話、だったら日本や欧州などでもウケる話をマーケティングしてハリウッドに作ってもらいたいか、というと、そこまでしなくてもいいよという感じはする。もっというと、グローバリズムなんか配慮してコンテンツなんか作らなくてもいいんじゃねと思う。

結局のところ、コンテンツとグローバリズムがどうなっているかだが、マスの単位で見る限りでは国民性による好みのような限界はあるだろうが、こうしたコンテンツのグローバリズムというのは、グローバルにはまだらなセクターとして生じるのではないかと思う。コアな趣味は各国の視聴者にまだらに存在しつづける。マイクロトレンド的なものというか。そしてまだら状態が拡散していくのではないか。

そもそも、コンテンツというのがそういう方向に向かっているのではないだろうか。ニッチなロングテールでグローバルを考えればいいのではないか。ニューヨークMETなんかもそういう方向性を感じる。

別の言い方すれば、日本のテレビ番組や映画はつまらない、と言うより、他国のコンテンツで他に面白いものがあるなら、とりわけ「日本」を焦点化せずに、やすやすと享受すれば、それだけでよいのではないだろうか。


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2016.04.15

トランプ米大統領候補とオバマ大統領との差は中東観ではあまりないかもしれない

米国大統領は米国民が決めればいいことなので、日本人としては基本的に国際情勢をどう読むかという知的関心以上には、それほど米国大統領選挙は興味がない。そのうえ、まあ、メディアがいくら騒いでもさすがにトランプ候補はないでしょと思う。それよりひどいクルーズ候補は論外。そもそも共和党の目はなし。するとヒラリー・クリントン候補か、にわか民主党サンダース候補か、だけど、同様にサンダースはないでしょう。なので、終了、と言いたいところだが、なぜか最後の詰めで確信が持てない。ヒラリー・クリントンもないよなあ、という思いが拭えない。

そうした文脈でしみじみトランプはないよなあと思いつつ、ふと、奇妙なことを思っていた。たとえば、この発言である。

中近東の人々と違って、東南アジアやアフリカの人々は、どうやってアメリカ人を殺そうかと考え続けてはいない。

つまり、「中近東の人々はアメリカ人を日夜どう殺害するかと考えている」と言う発言である。

トランプ候補なら言いそうだなと思う。で、誰の発言かというと、オバマ大統領の発言なのである。

正確には、その通りの発言ではないけど、文脈と代名詞を普通に補うと、こうなる。誇張じゃないのは、この言葉をオバマ大統領からインタビューで引き出したジェフリー・ゴールドバーグ自身がそうツイートしているのである。これ。

なんなんだろうなあ、これ、と思った。

失言? まあ、一部では失言として認識されてはいるけど、失言騒ぎとしてニュースになったり、この件でオバマ大統領が謝罪や撤回したということはなかった。日本だとあまり知られていないかもしれない。

いや、ツイートだけじゃわからない、というなら、ジェフリー・ゴールドバーグによる『アトランティック誌』のインタビュー記事の全文(参照)で確かめてみるといい。同じ。

He went on, “Contrast that with Southeast Asia, which still has huge problems—enormous poverty, corruption—but is filled with striving, ambitious, energetic people who are every single day scratching and clawing to build businesses and get education and find jobs and build infrastructure. The contrast is pretty stark.”

In Asia, as well as in Latin America and Africa, Obama says, he sees young people yearning for self-improvement, modernity, education, and material wealth.

“They are not thinking about how to kill Americans,” he says. “What they’re thinking about is How do I get a better education? How do I create something of value?”

この文脈だけだと、東南アジアやアフリカの若者は自らの向上心が高い、とオバマさんが言いたいために、ちょいと比較で口を滑らしたという感じもしないではない。だから、ことさらに失言部分を取り上げるようにも見えるかもしれない。

でもなあ、と思う、このインタビュー記事の全文を読むと、そうでもない。むしろ中東に焦点を置いている。

“Right now, I don’t think that anybody can be feeling good about the situation in the Middle East,” he said. “You have countries that are failing to provide prosperity and opportunity for their people. You’ve got a violent, extremist ideology, or ideologies, that are turbocharged through social media. You’ve got countries that have very few civic traditions, so that as autocratic regimes start fraying, the only organizing principles are sectarian.”

He went on, “Contrast that with Southeast Asia, which still has huge problems—enormous poverty, corruption—but is filled with striving, ambitious, energetic people who are every single day scratching and clawing to build businesses and get education and find jobs and build infrastructure. The contrast is pretty stark.”

「もうわかっているが、市民の伝統がほとんどない国(中東)では、独裁体制が緩みだすと、唯一の構成原理は宗派主義になる」というのが、オバマさんの中近東観。

オバマさんも、そこで留めておけばよかったのだけど、つい先ほどのように口を滑らしたとも言えないでもない。でも、これは政治的には失言ではあるだろう。

このインタビューをもう一段階上のレベルで見ると、オバマ大統領は、リビア体制を崩壊させたことは失敗だったとしている、という文脈だった。その点では、日本版のCNNでも関連報道が流れた。「オバマ米大統領 「在任中最大の間違いはリビア」」(参照)である。このインタビューは、先のジェフリー・ゴールドバーグのインタビューを受けたものである。

(CNN) オバマ米大統領は10日に放送された米フォックス・ニュースとのインタビューでこれまでの在任期間を振り返り、最大の間違いはリビアでカダフィ政権崩壊後の混乱に計画的な対処ができなかったことだと述べた。

大統領はインタビューで、2011年のリビア軍事介入自体は「正しい行動だった」とする一方、その後の無計画ぶりは失敗だったとの見方を示した。

オバマ大統領としては、国務大臣時代のヒラリー・クリントンの大失態である「ベンガジ大使館襲撃事件」をフォローしようとしたものなのは明白である。ちなみに、この事件だが、WSJ社説「ベンガジ事件の闇、大統領目指すヒラリー氏に傷―オバマ政権の判断ミス隠蔽に加担?」(参照)に詳しい。

多くのマスコミは2012年にリビア東部のベンガジで何が起きたのか、報じようとしない。この問題をめぐる米共和党の調査もお粗末だ。しかし、次の大統領選挙に向けオバマ政権とヒラリー・クリントン前国務長官がどんな努力を尽くそうとも、この話はどこまでもついて回る。  

 2012年9月11日にベンガジの米領事館と中央情報局(CIA)の活動拠点がテロリストに襲撃された数日後にホワイトハウスが送信した電子メールで、新たな事実が発覚した。これらのメールは昨年、事件への対応と事後処理に関するすべての文書だとオバマ政権が主張した資料には含まれていなかった。保守系の監視団体ジュディシャル・ウォッチによる情報公開請求を受けて4月29日に公表されたこのメールを見ると、オバマ政権がなぜメールを隠そうとしたのかが分かる。


 実際には、この事件はアルカイダと関係のあるイスラム組織が綿密に計画したもので、クリストファー・スティーブンス大使と米国人職員3人が殺害された。その数時間後、トリポリの米国大使館の国務省・CIA職員、リビアの大統領、ビデオ映像によって事件が公になった。だが、オバマ政権はそれをごまかすことを決め、1週間以上にわたりしらを切り続けた。 

 こうしたすべてのことは、次の大統領として有力候補とみられているクリントン氏の適格性に直接影響を与えるものだ。国務省はベンガジで拡大する過激派の脅威に対する度重なる警告を無視し、セキュリティー改善の要求を拒否した。また、あるCIA職員の父親は、自分の息子の死と動画には何の関係もないにもかかわらず、クリントン氏はユーチューブの動画作成者を「起訴・逮捕する」と約束して彼を慰めようとしたと報道陣に語った。

率直に言えば、ヒラリー・クリントンの、米大統領候補としての適格性は大きな疑問符がつく。そこでオバマ大統領が自分が間違っていたと泥をかぶって彼女の擁護論に出たわけだ。

しかし、と私は思うのである。こうした政局的な視点よりも、一見口を滑らしただけかに見えるオバマ大統領の見解は、リビアの失態よりも、シリアの「成功」が陰惨な結果を招いてきたことに呆然とする。

オバマ大統領は「市民の伝統がほとんどない国(中東)では、独裁体制が緩みだすと、唯一の構成原理は宗派主義になる」という考えかたを実際にはシリアにも適応していた。ロシア大統領プーチンと同じように、実際には、シリアのアサド大統領を支持していた、ということだ。


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2016.04.14

映画『脳内ポイズンベリー』

笑える映画だろうなと軽い気持ちで見ていた『脳内ポイズンベリー』なのだが、いや確かにお腹がよじれるくらいにいろいろと笑ったのだが、どうも微妙に深い。間の取り方とか絶妙過ぎて、後半これどうすんだ? マジ展開して名作になるんかと思ったら、名作でしたよ。泣けた。なんだこれ、すげー名作じゃん。うかつでした。

話はちょうど30歳になるフリーター女子・櫻井いちこが飲み会で、美大卒のイケメン売れない造形アーティストの23歳男・早乙女 亮一に一目惚れして告って関係持つというふうに始まるのだが、いちこの脳内では彼女の行動を決めるための5人の会議が展開されている。いかにも漫画風だなと思って、後からググッてみたら、漫画が原作でした。知らなかった。とはいえ、ちなみに脳内会議というのは、交流分析とかではふつうに扱う。

30歳女と23歳男でうまくいくかというと、まあ、世の中いろいろ、ではあるが、普通年上女は気遣いと負い目を持つし、年下男は膨れた自尊心に合わない引け目の感覚を持ちがちで、そのあたりのお約束はこの作品でも型にはなっている。

物語では、いちこがやがてケータイ小説を足がかりに作家になり、その過程で、映画では40歳くらいの設定だろうか、編集者の越智公彦と付き合う。映画では一度のキスだけの関係。

そうした設定の恋愛フレームワークで女がどう揺れるかというのは、宇治十帖などからの古典的な枠組みでもあり、いくつかの派生パターンに収束するんだろうな、ふむふむそうだよね、どれかな、と見ていたが、ちょっと意外な結末だった。一見すると女の自立ようには見える。

でもこれは、いわゆる自立した女というのは、ちょっと違う何かで、その微妙な違いがうまく表現されていた。というか、演じる真木よう子がうまかった。彼女でないとそこは表現できなかったんじゃないだろうか。ちょっと話がそれるが、彼女のニット帽はよかった。漫画の原作ほうにはないみたいだった。

こういうとなんだが、女は30歳でも若い心があって、結局惚れた男を選んじゃうものだし、そこで悲劇が起きても、しゃーないでしょ、みたいになりがちだだろう、と思う。だが、それでええのか的な課題はあり、この作品はけっこう真正面からこの難問にぶつかっていた。おい、答えの出ない問いに答えを出すかよ、とか思わず突っ込みを入れたくなるような感じだったが、納得の答えが出されて圧倒された。

エンディングでは➀女の旅立ちと➁新しい出会いというオチが2つ実質的にはパラレルに、視聴者の好み合わせて用意されていたようだし、文脈的には、越智との再開が暗示されていた(靴でわかる)。まあ、それはどっちでもよいでしょう。漫画のほうのオチはまた別らしい。

オチにも関連するが、映画で、このシーンはいいなあ、と思えたのは、陳腐だが、早乙女と越智が殴りあいだった。ちょっと見には、これってダメ男じゃねという印象も強い早乙女が、越智とも関連のあったデザイナーの山崎未歩子について、実は若い男の感性で真摯に向き合っていたことが明かされることだった。つまり、これは、早乙女は本当にいちこを愛していた、というわけだ。

ほかにも、恋愛の苦しさのなかで経験する微妙なシーンや、恋愛後に気づく人間の真実みたいなものも、さり気なくあちこちに上手に露出していたので、見る人の恋愛の経験でいろいろと楽しめる仕上がりになっていた。

というわけで、久々に、よい恋愛映画を見たなあと感動しましたね。


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2016.04.13

ドラマ『Empire 成功の代償』の感想

『Empire 成功の代償』は米国FOX系のドラマである。現代の、主に黒人カルチャーの大衆音楽シーンに、黒人社会特有の文化・社会問題をどろどろに混ぜた濃い物語。音楽業界の内幕ものということもあり挿入歌も素晴らしい。私は黒人音楽系にはほとんど関心ない人だが、それでも魅惑された。

物語は、米国最下層のスラム出身のストリート系ラッパー、ルシウス・ライオンが業界で約20年かけて成功し、身内の黒人中心に巨大な音楽中心企業エンパイア社を設立。さらなる発展に向けて株式公開を目指すのだが、彼自身が死病を患い、また彼の麻薬売人の過去の罪を背負った17年の刑務所入りから戻るかつての糟糠の妻クッキーと、再開を果たす三人の成長した子どもとの間に、愛憎と権力を交えたファミリーの物語が展開する。長子は双極性障害、次男は同性愛者、三男は年上の女にたらしこまれている生意気なラッパー。誰にこのエンパイア社(つまり「帝国」)を継がせるか。そしてルシウスも再婚に近くその人間関係もぐだぐだ。

これだけてんこ盛りなら大衆ドラマとしては面白いだろうけど、僕みたいに静謐で内面に罪を抱えた神学的なドロドロもんが好きなタイプだと途中で放り投げるだろうなと思っていた。が、すぐにその魅力に取り憑かれた。まず、歌がすばらしい。これはもうどうしようもないレベルにすごい。次に、特にクッキーを演じるタラジ・P・ヘンソンの演技というか存在感がすごすぎて惚れそうだ。

虚栄の音楽業界の内幕の背景には、米国貧困層の問題や黒人社会問題などもぎっしりつまっていてそうした面でも厚みのあるドラマになっていた。

物語は、ルキウス皇帝が帝国を誰に継がすのかという枠組みなので、皇帝ルキウス・ライオンとしての、ルシウスという存在に当然がらかなり焦点が当てられている。飽くなき権力欲と悪の塊のようにも見えるヒール役の彼だが、脚本や演出の良さからその彼にも視聴者は同情的に心惹かれていく。どれだけひどい人間に見えても、彼の心にだけ宿っている、音楽という神は嶄然と輝いている。こういうものを抱えた天才の人生は当然のように苦しいだろう。

かくして物語に魅了された私だが、さすがに濃すぎて一話一話ぐったりする。見たのはシーズン1だけだがその後半になると、親子相姦的なシーンも出てきて、自分の趣味からすると気持ち悪くて吐きそうになった。それでも見てしまう。

アジア的な世界やヨーロッパ的な世界というのは自分の好みもあるが、こうした濃い黒人社会的なドラマは自分には関係ないだろうと思っていた。が、案外そうでもなかった。身体を絞られるような悲しみと歓喜のようなものが経験できた。


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2016.04.12

[書評] 外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (白井恭弘)

2月に立川にジュンク堂が出来たので見に行った。ちょうどエレベーターを出てその脇の書棚が英語学習関連のものだった。なんとなく、入り口から迷路に入りましたという感じで順に見ていくと、このジャンルの本がけっこうあるので驚いた。世の中、英語を学習しようとした人が増えたのだろう。当然、いろいろな学習法もある。

もう30年以上も前だが、大学院にいたおり、英語教授法という主題のコースを受講したことがある。吉沢美穂先生と升川潔先生が講師で、そこからもわかるように「ベーシック・イングリッシュ」を使ったGDM(グレーディッド・ダイレクト・メソッド)が基本だった。吉沢先生はその背景から応用を詳しく説明された。優れたメソッドであるというよりも、吉沢先生という優れた教師のキャラクターに圧倒されたものだった。ああできたらいいなと教育実習のときに真似て自分の至らなさを実感した。升川先生とはその語、理論背景を含め、意味論のコースでオグデン(Charles Kay Ogden)についても学んだ、というか個人的にもいろいろ議論した。先生の、オグデンの残した謎のような図を前に「でもどうしてもオグデンこれがわからないんだ、君、解明してくれないかな」と言った言葉は今も耳残る。

余談が多くなったが、その後もこの分野は関心を持ち、だいたい20年くらい前までの英語教授法の理論や背景については、それなりに知っているほうだと思った。が、さすがにいつのまにか関心を失い、近年はふとこの分野に関心を戻したものの、ピンズラーやミシェル・トーマスの手法のほうが興味深くなった。とはいえ、第二言語学習についてアカデミックには現状どうなんだろうか。手頃な本でもないか。と見ていたら、岩波新書のこれ『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』を見つけた。後で知ったが2008年刊なのでもうすでに古いが、おそらくそう大きなパラダイム・チェンジはないだろう。

で、この本はどうだったか。普通にこの分野の良書だった。こういうとなんだが、英語学習法というのはその大半はニセ科学と同じである。どこがニセ科学かというと、手法と達成がきちんとスキームになって検証されていないものばかりだから。もちろん、そうでもないという主張も多いのだろうが、そうだったらきちんと、学問的な枠組みで検証されているはずである。古典的なエビングハウスによる無意味綴りの学習理論くらいなものが多い。なにかこの分野の革新的な達成でもあれば本書とかに触れているはずだが、まあ、ないよ。というのが本書を読んできちんとわかる。そこが一番の、本書の価値ではないだろうか。

ただ、この分野自体、言語学からは傍流なので理論的な枠組み自体がまだまだ弱そうだという印象は受けた。が、反面、生成文法派などから提唱されていた言語学習臨界期説なども疑問視されている状況はわかる。こういうとなんだが、言語「獲得」と、第二言語「習得」という概念そのもの基本的な問題にいまだに拘泥している感はある。これはもともと言語学と認知心理学の間でぐだぐだになっていたものだから、しかたない。ざっくり、生成文法派的なUGが第二言語習得に寄与しているかと言いたいところだが、このテーマには「中国語の部屋」的な哲学的な問題もからんでいる。おそらくこの問題は、むしろドナルド・デイヴィッドソンの「根元的解釈」に関連しているだろうと私は思うが、本書というか、このアカデミック分野そうした学際的志向はなさそうだなという印象もあった。

とはいえ、目次を見てもわかるが、具体的に第二言語習得に役立つ知見は書かれている。第5章、第6章がそうした視点になっている。

  • 第1章 母語を基礎に外国語は習得される
  • 第2章 なぜ子どもはことばが習得できるのか―「臨界期仮説」を考える
  • 第3章 どんな学習者が外国語学習に成功するか―個人差と動機づけの問題
  • 第4章 外国語学習のメカニズム―言語はルールでは割り切れない
  • 第5章 外国語を身につけるために―第二言語習得論の成果をどう生かすか
  • 第6章 効果的な外国語学習法

具体的な知見に関心を持つ人も多いだろうし、私などもそうであったが、本書を通読してもわかるように、「ガッテン!」といった簡単な秘訣のようなものはない。むしろ、私が先日提唱していたような、「英文和訳学習がいいよ」といったものは否定されている。もちろん、役立つ示唆は多い。

あれ? 矛盾していない? 語学学習の理論的な枠組みで否定されているはずの和訳を提唱するなんて?

いやいや、本書では明示的に触れていないが、語学学習で重要なのは、達成レベルの考え方なのである。日本の英語学習書を見ているとTOEICがうんざり出てくるのも、ようするにそれで達成レベルが計測できるからだ。そして、そこで達成されたものが、知識人の英語能力に見合っているかという問題は残る。

この点についてはEUですでに基準が作成されていて(野菜の安全基準みたいな印象)、CEFR(Common European Framework of Reference for Languages)というのがある。一般的に語学学習とされているのは、日常生活が遅れるA2レベルである。TOEIC900・英検1級がC1レベルと言われている。いずれにせよ、日本の英語教育はまだ十分に国際基準に整合されていないようには見える。

EUがCEFRを定めた背景は、移民生活と高等教育だろう。つまり、A2で移民者が暮らせて、C1で大学入学可能ということだろう。

本書の枠組みは基本的にA2からB2だろう。日本の大学ではB2あたりが求められているのではないだろうか。いずれにせよ、英文和訳学習は書き言葉が出てくるC1レベルからに向いているのではないかと思う。まあ、これも検証すべきだろうが。

本書では、語学学習と動機についての議論も詳しいが、これらの背景には移民があり、その移民の子から大学教育者を出すという要請がある。外国語学習というのはそうした動機が一番に想定されていると理解してよいだろう。そう考えると、CEFRの理論背景をまとめた書籍も読んでみたいと思う。

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2016.04.10

「ダ・ヴィンチ・デーモン (禁断の謎)」

偶然だったのだが、「ダ・ヴィンチと禁断の謎」というドラマを見た。どうやら知らないのは私くらいで2013年の作品なのでそう新しいものでもない。すでに最終のシリーズ3まで終わっているらしい。というか、そこまでは詳しくしらない。シリーズ1を見ただけだった。話は、タイトルに「ダ・ヴィンチ」とあるように、主人公がレオナルド・ダ・ヴィンチという、簡単に言って、トンデモ歴史ドラマ。しかし、歴史ドラマがトンデモであっていけないわけもなく、普通にエンタテインメントとして見ればいいわけで、で、とても面白かった。ま、普通かなとか見終えたとき思ったが、いやこれはけっこう面白かったなとあとからじわじわ来る。

タイトルに「ダ・ヴィンチ」とあり、オリジナルのタイトルは「ダ・ヴィンチ・デーモン」である。アマゾンですでにDVDが売っているがそちらのタイトルになっている。意味合い的には、レオナルド・ダ・ヴィンチに取り憑いた悪魔的な情熱とでもいうのだろうか。邦題で「禁断の謎」としているのは、キリスト教から見ると、禁断のミトラ教の秘密を扱っているということ。

なんだろこれ、と思って、そのまま見始めると、初回の映像の美しさにぐっと吸い込まれてしまった。とにかく映像が美しく、役者もなかなかクセのある魅力があり、そして全体を覆うダークな感じと裸体趣味はなんだろと、この時点で脚本を見たら、ゴイヤーでした。

ちょうどたまたまそのころ、「ダークナイト」をまた見ていて、こいつはどうしようもない傑作だなあ、ゴイヤーは何考えてんだと思っていたら、またゴイヤーだったので、妙に不思議な示し合わせだった。そうしてゴイヤー脚本かと思ってみていくと、それなりに納得というか、ダークに深いなあとずるずる惹かれていった。

政策背景は年代的に見て「ダ・ヴィンチ・コード」のノリだったのではなかと思には思うが、そう強い影響でもないのだろう。制作はFOX系なんでふーんと思ったが、BBCが噛んでいたいた。なるほどリドリー・スコットの「大聖堂」のノリはある。

時代は、ルネサンスのど真ん中。15世紀のイタリア・フィレンツェ。想像から青年期のダ・ヴィンチを描いている。ヴェロッキオの工房を出たくらい。パトロンは当然メディチ家のロレンツォで、弟のジュリアーノも出てくる。冒頭はミラノ公の暗殺から始まる。メディチと教会は対立し、ローマ教皇シクストゥス4世も出てくる。全裸で。

物語は史実に若干絡ませるものの、「緒方洪庵事件帳 浪花の華」みたいなノリでいくのかと思ったら、ダ・ヴィンチの同性愛容疑の話が出てきて、ありゃこれは意外と史実を追っているのかなと見ていくときちんと「パッツィ家の陰謀」が出てきて、ありゃ、これはジュリアーノ死にますがなあと思っていると、死んだ。

キャストがなかなかよい。ダ・ヴィンチのトム・ライリーは適役で無難だが、敵役のリアリオ卿が、なんというか、これはある種の人にとってはやばいくらいにいるだけでエロい系ではないだろうか。ブレイク・リットソンというらしい。「大聖堂」にも出ていたらしいが、どこだっただろう。

ロレンツィオの愛人ルクレツィア・ドナーティを演じるローラ・ハドックもいい感じで濃かった。正しい貧乳という感じもする。いやいやそこじゃない。「大聖堂」のエレン役ナタリア・ヴェルナーを思い出した。その女がいるだけで愛ってなんでしょという文学的な感じがじわーんと出てくるという女優はすごいなあ。

Huluにはシーズン2が出ている。シーズン3まで出てから見てもいいかなとは思っている。


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2016.04.09

英文和訳という英語勉強法

先日、といっても一か月以上前になるが、「どうやって英語勉強したらいいか?」と聞かれて、「基本的な文法を理解して、語彙もある程度あるなら、英文和訳をするといいよ」という話をした。聞いたほうは、うへぇという顔をしていた。示し合わせたようにそのころツイッターで同種の話題が流れてきて、そこでは、英語力を高めるなら英語を和訳して考えるのではなく、英文は英文のまま理解することだ、という意見があった。違うと私は思った。

もちろん、いろんな議論があっていい。ただ、英文和訳というのは、いい英語の勉強法だと思う。なぜかというと、英文をどう理解しているかを文法に沿ってフィードバックできるからである。

これ、どうも、このこと自体理解されないみたいなので別の面から補足すると、英文を英文として理解するというのは、それはそれでもいいのだけど、その英文の理解が正しいことをどう了解するか。つまり、間違った理解をしていたら、それが間違いであったことをどのようにフィードバックするか、が重要なのである。

学習というのの大半のプロセスは、

   学ぶ⇛確認する⇛間違いを見つける⇛間違いをフィードバックする⇛学ぶ

というふうに成り立っている。

英文を英文で理解するというとき、問題はその理解の正否をどうフィードバックさせるかという点にある。普通これは、別途パラフレーズしたチェック用の短文英文でテストする。「以下の文章で本文と合わないのはどれか?」みたいな設問になる。これは入試や資格試験ではいいけど、学習プロセスにあるときにはあまり役に立たない。

英文和訳だと、わかっていないと訳せないし、わかったつもりでも答えと突き合わせばどこが間違いかわかる。つまり、英文和訳というのは、自主学習のフィードバックにとても向いている。

以上の説明からもわかるように、英文の他に正しく和訳された解答が必要になる。さらに言えば、その学習者に見合った難易度の英文であり、かつ、学習時間に適した教材がよく、英文そのものが興味深いほうがよい。いわゆる英語教育の「ため」の学習教材というのは、学習の第一原理である動機に結びつかない。そもそも内容のつまんない英文など読む気力が失せる。

というわけで、なんかそれっぽい教材はないかと立川に出来たジュンク堂で探してみた。いや、あきれるほど英語教材がある。戸惑ったのだが、そうしてみると、なんというのか、適切な英文和訳教材というのは私の見る限りなかった。学参も見たがあまり適していない。

時事英語とかはどうかと思ったが、いまいち。そういうなかで、妥協ではあるが、『海外メディアから読み解く世界情勢 (日英対訳) 』というのを二冊買った。もう一冊は冒頭、勉強法を問う人にあげるため。

内容はこんな感じ。

海外ではトップニュースでありながら、日本国内ではあまり大きく報じられなかった時事問題の数々!

今の世界情勢を把握するためにもしっかりと理解しておきたい時事問題を、海外メディアはどのように報道したのか?本書ではその内容を日英対訳で詳細に解説。最近の時事英語で必須のキーワードもしっかり学べます。英語だけではなく、海外情勢の読み解き方も、山久瀬洋二がお教えします。

第1章 中東問題
第2章 テロ問題、そして諜報活動
第3章 アメリカ外交と世界
第4章 アメリカの社会とビジネス
第5章 世界からみた戦後処理、歴史認識
第6章 アジアの課題
第7章 ヨーロッパとEU
第8章 世界一般
第9章 世界の目でみた日本

内容(「BOOK」データベースより)
海外ではトップニュースだったのに、日本では大きく報じられなかった時事問題の数々―「知らなければ、海外でバカにされてしまう世界の動き」を異文化コミュニケーションの泰斗、山久瀬洋二が精選・解説!

そう言われると、著者の山久瀬洋二さんが英文を書いたように思われるが、ざっと書店で読んでみた感じだと、国際政治などを学ぶ米国の院生が書いたような英文だった。なんというか、文章を書き慣れていない英語ネイティブが使いそうな英文らしい印象だし、なにより、ダングリングというか、英語ネイティブが多用するぶら下がり構文が多く、英語の勉強に向いている。例えば、300文字で一文みたいな文章がある。訳しにくいので、かえって和訳の勉強になる。

で、この作業、英文和訳の学習だが、一か月ほどして終えた。

終わってみた実感で言うと、この英文はどうも日本文から翻訳されものではなさそう。では英文が先にあって和文があるかというと、微妙に意訳や、奇妙なのだが誤訳もあったので謎。

いったい、どういうプロセスで同書の英文と和文ができたのか謎だが、推測するに、これは、米国の院生の授業レポートなのではないだろうか。想像したのは、講師が受講者に新聞記事の切り抜きを渡し、これについて次回発表レポートを書いてこい、といったものである。この手の授業は私も大学や大学院で受けたことある。

世界情勢や国際関係論として同書の価値はあるかというと、語彙やこの手の議論に使われる構文は確実に学べる。議論の仕方もそう悪くない。具体的な内容となると、院生レベルというか、それほど学問的でもない。オチがすべて日本が海外から学べるもの、ということになっているので、そのあたりで視点が縮小してしまってもいる。経済論は単純に外していると言ってよさそうだ。それでも話題は多岐にわたっているし、背景の歴史的な補足や国際常識の解説もあってよい。全体としては良書と言えると思う。

なぜ私が英文和訳の勉強なんかしたのか。「英文和訳するといいよ」と言うなら、「おまえ、やれよ」と言われても当然だからというのがある。

それと私としては、英文和訳の勉強もだが、この歳になっても、受験勉強みたいにきちんとタスク化した勉強ができるか、自分を試してみたかった。この勉強法は私が受験時代にやったものでもあった。結論から言うと、できた。

もう一点、受験勉強のように手書きでやってみたかった。鉛筆ではなく、やわらかな太いシャープペンを使ったが、手を使って文字を書くのを継続的にやってみたかった。結果から言うと、今回は英語の勉強というより、手書きの感覚を思い出すいい練習になった。意外と漢字が書けなくなっていたし。

さて、やりかただ、ちょっとしたコツがある。参考までに。

まず、専用の罫線ノートを買う。百均のでいい。リングノートが私の好み。大きさはかばんに合わせて。つまり、喫茶店とかでもできるように。ついで百均なら紙を軽く合わせるクリップを買っておく。

鉛筆はけずるのが面倒なのでシャープペンがいいだろう。使い慣れたので構わない。私はくずし字が書きやすいように太い芯で柔らかいのにした。消しゴムは不要。

書籍はバラす。だいたい二課題分くらい、数ページを切り出す。これをノートにクリップで留めておく。これだと、ノートだけ持っていたらどこでも勉強できる。

訳文は罫線に一行おきに書いていく。一行開けるのは、訳していて、前後を入れ替えたり、補足を加えたり、間違ったとこに印を付けたり、できるようにするためだ。

訳し方だが、できるだけ、英文の流れ通りに訳す。同時通訳のようにするといい(これのコツも別途ある)。すると、日本語にうまく合わないところがでてくるので、その部分は鉛筆線で囲んで、矢印で挿入先を示す。もちろん、日本語らしい日本語で書けなたらそれはそれでいい。

思い出せない漢字は、カタカナで書いて、下線にする。例えば、「斡旋」みたいのが書けなければ「アッセン」とする。気になったらあとで漢字を調べておく。

この例だと、一日、20分くらい。一ヶ月半。最近の国際常識の基本もわかる。

まあ、そんなところ。

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2016.04.08

昭和の保育

先日、「現代は少子化なので幼稚園も経営努力として保育にも関心を持っていることがある」という話を書いたところ、「なに言ってんのこの爺、昭和の話してんじゃないよ」みたいなコメントを頂いた。なるほど徳仁親王と同世代の私も爺という時代にはなったが、「それってどこが昭和なんだろうか」とも思った。昭和の保育っていうのは……とちょっと思って、そうだなあ、昭和の保育の話を書いてもいいなと思った。昭和という時代の保育がどうだったか、教えられないのかもしれないが、知らない人も増えてきたので、奇妙な誤解も生まれているかもしれない。

昭和の保育というが、昭和は大雑把に二つの時代に分けられると思う。あるいは、三つだろうか。戦前、戦後、もはや戦後ではない時代。昭和の戦争はメディアで映像的にもよく取り上げられるが、意外と戦争自体の時代は短い。日中「15年」戦争もあり、それも戦争期ではあるが、当時の世界情勢を見て特段に戦時下として特化しているかは疑問もあるし、庶民生活から見れば、概ね戦前に区分されるのではないか。

それでも昭和期を戦前戦後として分けたとき、戦前の保育を特徴つけていたのは何だったか?

というところで、赤とんぼの歌を思い出した。

夕焼小焼の赤とんぼ
負われて見たのはいつの日か

山の畑の桑の実を
小籠に摘んだは幻か

十五で姐やは嫁に行き
お里の便りも絶えはてた

夕焼小焼の赤とんぼ
とまっているよ竿の先

三木露風・作詞、山田耕筰・作曲。初出は、詩が大正10年だがメロディは昭和2年。概ね昭和が始まる時代に作られ、戦後1955年にはすでに郷愁として普及した。そういう意味でも、描かれているのは昭和前期的な風景である。

さて、この詩の意味はなんだろう? 当たり前のようでいて意外と難しいかもしれない。

それを考える上で着眼点になるのは「負われて見た」である。誰が誰を背負ったのか? なお、言うまでもないけど、「追われて」ではない。

戦後にこの歌が歌われるようになってからは、挿絵的に母親が描かれることもある。若い母親が子どもを背負っているという光景である。

で、この二番「小籠に摘んだ」は誰だろうか。なんとなく、歌の主人公である隠された「私」であるようにも思えるが、それが「幻か」というのは他者として遠隔された意識とも読める。

三番になって唐突に「姐や」が出現する、というように読むとすれば、一番と二番が分離する。

確定的には言えないものの、一番で背負ったのも、二番で桑の実を積むのも子の遊びであることから、姉との思い出であろう。余談だが、桑の実はマルベリーである。養蚕で植えられていた。

「私」は、姉におぶわれて赤とんぼを見た、その姉と物心つく頃、桑の実を詰んだ。なぜか。それが保育だからである。

昭和前期まで、育児は少女がシャドーワークとして多く担っていた。当時は少子化ではなく兄弟姉妹がいることが多く、そのなかの少女は保育を担当していた。私の母なども長子の子を背負う役だった。信州方言の「ねえやん」であった。なお、この他には、現在の中国のように祖父母など老人に預けるということも多く、漱石の『坊っちゃん』などがその例である。

家が富裕である場合、事実上奴隷である保育用の少女がその労働にあたっていた。守り子である。むしろ彼女らが「姐や」でもあった。

日本民衆史や女性史の必読文献ともなった『芸者』の著者増田小夜その一人で、回想録である同書は、「ものごころついたとき、私は長野県の塩尻に近い郷原という田舎の、地主の家で子守をしていました」と始まる。こういう描写もある。

寒いのは夜ばかりではありません。子守をしているときは、背中は温かくても足は凍りつくほど冷たいのです。私は、冬どんなに寒くても足袋をはかせてもらえなかったので、片方の足の足の股のところへ、もう一方の足をくっつける、これを繰り返していつも片足で立っていました。それで、仇名は「鶴」といいます。

守り子の労働はきつく、その文化の中で生まれたのが、守子唄である。「竹田の子守唄」としても知られる守子唄からはそうした隷属的な未成年労働の状況が読み取れる。

守りも嫌がる 盆から先にゃ
雪もちらつくし 子も泣くし

盆が来たとて なにうれしかろ
帷子はなし 帯はなし

この子よう泣く 守りをばいじる
守りも一日 やせるやら

早よも行きたや この在所越えて
むこうに見えるは 親のうち

保育の隷属労働から逃れて、少女は親元に帰りたいというのだが、実際この人身売買をしているのはその親である。赤とんぼの姉が嫁に行くもの、大半は「口減らし」であるが、事実上の人身売買に近い。

他にも日本の「子守唄」とされているものの大半は、守子唄である。守り子にとっては背中で泣き騒ぐ領主らの子どもは忌まわしい存在でしかなく、守子唄には、赤ん坊への愛情よりも憎悪が歌われることが多い。

つまり、こうした守子唄が常識である時代背景に「赤とんぼ」の歌をおけば、この歌も守子唄の関連であることが理解されやすいだろう。

昭和前期の保育は、守り子の労働が大きな比重を持っていた。大家族で兄弟が多く、また事実上の人身売買が横行していた。

戦後、そして高度成長期になって、大都市が地方の労働者を吸い込み、核家族なるのに並行して、政府も先手を打って少子化を事実上推進(参照)した。

かくして「ママ」が昭和後期に出現した。赤ちゃんの保育するママの登場である。この象徴が美智子妃であり、その子、徳仁親王こと「ナルちゃん」である。皇后に付く前の美智子皇太子妃は、保育を自らがママとして行い、それが叶わない場合、世話係に保育指針の育児メモを示していた。これが「ナルちゃん憲法」である。冒頭にも述べたが、親王は私より一学年下なので、だいたい同じ世代に属する。

この時代から、保育するママ、という存在が定着し、昭和38年(1963年)の歌謡曲「こんにちは赤ちゃん」が以降、日本の愛唱歌となった。余談だが、作詞者が永六輔であることもあり、当初父の心情だったものが、歌手梓みちよに合わせて「私がママよ」となったらしい。昭和41年には、この文脈で『スポック博士の育児書』が出てベストセラーとなった。

まとめると、昭和の時代の保育の特徴は、前期は「守り子」であり、後期は「こんにちは赤ちゃん、私がママよ」という「ママ」であった。「保育ママ」が「ママ」呼称を引きずっているのもそのせいだろう。

すでに触れたが、日本の少子化はこうした「こんにちは赤ちゃん、私がママよ」という世界と並行して進んでおり、むしろ、お母さんが保育するということが少子化政策と事実上、一体化していた。


追記

「赤とんぼ」の「姐や」は子守奉公だというのがわからないのか、このバカといった、ググレカス的なシンプルなコメントをいくつかいただいたが、私としては、子守唄から増田小夜『芸者』の文脈で捉えている文脈は読み取られていないのだろうとは思った。

私の考えでは、「赤とんぼ」について、二点あり、一つは、基本的に守子唄の背景があり、そこに守り子として、姉と子守奉公の全体をシャドーワークとして捉えたいことがあった。

なお、語義的には「ねえや」の方言である「ねえやん」は私のルーツである信州方言では大家族内の姉など年上の女性を包括している。甲州方言にもあり、沖縄の「ねえねえ」にもそうした含みがある。

もう一点は本文に書こうか迷って書かなかったのは、「赤とんぼ」の三番「お里の便りも絶えはてた」の情感の読み取りがある。この点、子守奉公人単一の解釈であれば、奉公人を偲ぶという意味だけに吸着される。

しかし、ここで問われている昭和の情感は婚期娘の「口減らし」だと私はその背景の感覚を持った。「口減らし」は、口に入れる食費を大家族の家計から減らすことの表現で、奉公や嫁入りがある。その意味で子守奉公人も口減らしではある。が、子守奉公を使う富裕家の情感より、農村の少女一般が嫁入で「口減らし」される悲劇は当時広く知られていた。嫁の形をとっても、実際は他家への奴隷的な状況に置かれる悲劇である。その悲劇的な状況はしばしば世代代わりした実家には伝えれず、「お里の便りも絶えはてた」ということになる。

解釈上は、子守奉公人がある家に隷属的に嫁させられるという読みもなりたつ。が、口減らし嫁への悲劇的な情感が極まるのは実家からそのように引き裂かれる娘なので、「姉」の読みは残るだろうと私は考えて、ググレカス的な解釈表現は避けた。

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2016.04.07

フランスの保育ママ「ヌヌ−」

西村・プペ・カリン『フランス人ママ記者、東京で子育てする』で、日仏での、妊娠から育児についての比較考察がり、それはとても面白かった。なかでも、フランスの保育ママ「ヌヌ−」については、いわゆる調査研究書とは異なる、日本にも詳しいいちフランス人女性の視点から描かれていてとても示唆深くもあった。

パリにあふれるヌヌ−事情
 バカンスでフランスに帰り、パリの街角を歩いていると、わたしは東京では絶対に見ない光景にいつも驚かされる。
 あきらかに50歳を超えた女性が、髪の色や肌の色がバラバラの3人の子供を連れている。こういう場面を目にするのは嬉しい。なぜなら、すぐさまこの女性はこの子どもの母親ではなく、ヌヌ−だとわかるからだ。
 ヌヌ−(アシスタント・マテルネル)とは、他人の子どもの面倒をみてくれる女性で、フランスでは当たり前の存在なのだ。

 東京同様、パリでも保育所問題は深刻だ。
 しかし、多くの若いフラン人ママたちは、経済的、職業上の理由から、産休後に仕事や教育をあきらめてしまうつもりなど、まるでない。そして、その解決策がヌヌ−なのだ。ヌヌ−たちは単に頼れる存在であるだけでない。子どもを集団的なシステムで預かってもらうより、1人につき子ども3人まで面倒を見ることが可能だ。個別対応を好む母親たちにとっては、このうえない選択肢だ。

該当ページにはじゃんぽ〜西さんが描いたヌヌ−のイラストが付せられているが、彼女は黒人で白人の子どもベビーカーに載せている。

ヌヌ−については、フランスの生活文化に馴染んでいる人にとってはよく知られた存在だが、それが普通のフランス人女性にどのように受け止められているかという例では、このカリンさんの説明が参考になる。

同書籍では続けて、ヌヌ−たち自身が発している広告と、特定条件のヌヌ−を求める親の要望が掲載されている。こういうとあまりいい比喩ではないが、日本のヤフオク的な気軽さで双方のニーズがまとめられている。

日本に反照していうと、ヌヌ−という保育ママの情報は、口コミに頼ることなく、公開的な情報として誰もがアクセスできる。もっともそれで最適なヌヌ−が選び出せるわけでもなく、困難は別の形で存在はする。

いずれにせよ、ヌヌ−の情報がフランスで広まっているその背景には、十分な数のヌヌ−の存在と、その資格制度がある。

ヌヌ−の資格について、同書で興味深かったのは、資格があることや、非公認のヌヌ−も多いことは私も知っていたが、その資格については、EU全域で通用するということだった。おそらく、実績あるヌヌ−はEU内では自由に保育を職業として選択できるのだろう。これを延長して考えれば、日本も国際化として移民労働者を入れる際には、こうしたヌヌ−の共通資格も議論されるようになるだろう。

関連したこうした記述が同書にある。

(前略)外国人のヌヌ−は、良い保育者であることが多い。その点については、こんな証言もある。

「若い外国人女性は、フランスで働くチャンスだと考えているから、優秀であるという印象を受ける。彼女たちは、通常、与えられた仕事に対して、勤勉だし、辛抱強い。わたしは近所の子ども(就学児童)の世話をしていたメキシコ人女性を仕事前の9時から11時まで雇ったけれど、彼女は稀に見る優秀な人材だ。子どもが好きで、わたしの子どもたち(3歳と14ヵ月)と、とてもよく一緒に遊んでくれるし、子どもたちも彼女が大好き。アイロンかけや片付けなどの家事もとても上手。唯一の問題は言葉の壁。彼女はとてもシャイで、わたしとフランス語であまり会話しようとしないから、わたしがスペイン語でなんとかしゃべっているわ!」

 フランスでは、ヌヌ−という職業自体は新しいものではない。もう何十年も前から存在する。でも、女性が社会で活躍するにつれ、その重要性はさらに増してきている。それは日本よりずっと高い。今や女性が育児のためにキャリアを完全に中断するなんていうことは、ほぼないに等しい。もちろん、1年間育児休暇はとるけれど、いいポストについて出世する可能性が高かったり、経済的に働く必要があったりする女性たちは、より早く仕事に復帰する傾向にある。

こうした背景には、主に女性といえるが、出産・育児を経験しても継続して労働を継続することが当然の権利として認められているという前提があり、その上で社会の制度が設計されているということがある。

さて、このフランスのヌヌーだが、日本でいえば「保育ママ」に相当するので、日本社会もその方向に進むのか。この議論は難しい。というか、いろいろと厄介な問題を孕んでいる。

こうした経緯は、日本国政府の対応のなかでも伺える。日本でも内閣府で、現在容易に取得できる範囲では、平成16年度から「少子化社会対策白書」が公開されているので、これを経時的に追っていくとわかることだが、平成17年度には、このフランスのヌヌ−である「アシスタント・マテルネル」についての参考・参照的な言及があるものの、平成18年度には短くなり、以降はあたかもその言及は避けるかのような印象を与えるほどに途絶えている。

もう10年も前の状況だが白書を省みてみよう。

(フランスの保育サービス)

 フランスでもフルタイムで働く女性が多く、こうした人々のニーズにこたえるために保育サービスが提供、利用されている。まず、Crecheと呼ばれる保育所(3歳未満が対象、施設型、親管理型、家庭型等がある)があり、約18.2万人が入所している。3歳未満の人口(約227万人)に対する割合は8.0%にとどまっており(2002年、EU統計局資料による)、この保育所によるサービス提供体制は十分ではないといえる。この他に、一時託児所(Les Halte-Garderie)や2歳から入所できる保育学校(Ecole maternelle)がある。
 その一方で、フランスでは在宅での保育サービスが発達している。その代表が、認定保育ママ(Assistantes maternelle)である。これは、在宅での保育サービスを提供する者のうち、一定の要件を備えた者を登録する制度で、県政府への登録者数は34.2万人、このうち就業している者は25.8万人である(2001年、EU統計局資料による)。この認定保育ママが現在の保育需要の約7割を担っているとされている。認定保育ママは、その利用者が雇用し、賃金や社会保険料を負担する。この費用については、「乳幼児迎入れ手当」から、6歳未満の子どもの保育費用(認定保育ママの雇用の賃金の一部と社会保険の使用者負担等)が補助されている。また、後述のように税制を通じた支援も行われている。このように、スウェーデンと異なり、フランスでは家庭的な保育サービスが中心となっている。
第1‐4‐14

10年前の資料だが、カリンさんの本などを読むと、現状でも大筋での変化はなく、つまり、フランスでも保育園は不足しているし、社会がヌヌ−に依存している状況は大きな変化がない。ただし、変化はおそらく別に生じつつあるが、これは別次元で難しい問題がある。

平成17年時点に政府内でも検討されていたヌヌ−だが、これを外国人的な文脈からとりあえず分離して、日本の「保育ママ」の制度の拡大施策として見たらどうだろうか。

これも意外に難しい。基本的には、保育ママの資格制度と補助制度を充実させればよいと言えるし、その推進力は、保育ママの賃金を市場に任せるのでなければ、地上自治体の補助金ということになる。実際にはその方向で進んでいるし、高齢者介護も同様の路線にある(というか、こちらはさらに学校制度にまで及んでいて思いがけない副作用があるようにも思えるが)。

こう言う問いを出すだけで、禁忌の空気を感じないでもないが、これを仮にではあるが市場的な社会サービスとして見ると、保育ママ(ヌヌ−)と保育園は、市場を奪い合う形になり、さらに少子化なので、市場それ自体のニーズは弱い。すると、この線では、保育ママの制度と助成が、保育園制度及び保育士の制度が助成という点で向き合うことになる。

保育園と保育ママ(ヌヌ−)を対立の構図で捉える必要はまったくがないが、そうは言っても、いわゆる「待機児童ゼロ」に関連して、この構図とその前提がうっすらとかいま見えるように思えることがある。

一例だが、ぐぐったところ「はれぽれ」というサイトにこうした記事があった。「待機児童ゼロとうたう横浜市、「保留」の扱いとは?」(参照)。

育休延長や求職しながら入所待ちは「待機」ではない!?

さて、安形係長の言う「国の指針」とは、2003(平成15)年8月に厚生労働省雇用均等・児童家庭局長が出した「児童福祉法に基づく市町村保育計画等について」という通知を指す。

これは「待機児童」の定義を一新したもので、横浜市の解釈によると、以下の条件に当てはまる子どもは、「待機児童」としてカウントされないことになるのだ。
  
(1)横浜保育室、川崎認定保育園、預かり保育幼稚園等の利用者
(2)育児休業中の家庭の児童
(3)第一希望のみの申込の方
(4)園や自宅の近くに利用可能で空きがある保育施設があると判断できるにも関わらず利用を希望しない方
(5)主に自宅において求職活動をしている方
(6)区役所職員が電話や手紙などで複数回所在を確認した結果、連絡がつかなかった方

・・・ん?

別施設に子どもを預けて働きながら認可園の空きを待つケース(1)や、保育所が決定するまで育休延長制度を利用し、職場復帰日を明確にしないまま入所申請を出すケース(2)、保育所の空きを待ちながらインターネットなどで求職するケース(5)は身近にもよく聞くが、すべて「待機児童」から除外される。

また、認可保育所の入所待ちをしていても、近所の保育ママ(家庭的保育事業)などに空きがあれば「待機児童」とはみなされない(4)ことになる。

保育ママ(ヌヌ−)を待機児童にカウントするかどうかがここでは議論され、認可保育所の入所が焦点化されている。別の焦点化をするなら、保育ママ(ヌヌ−)は、認可保育所までの暫定措置であるという前提があるように読める。

こうした問題にどう対処したらよいのか?

実は、この横浜市の対応自体が、一つの対処事例として出てきたもので、それをどのように参考事例とするかは、他の地方自治体ごとに任されているので、単純な答えは出ないし、そもそも横浜市の事例がその問題の難しさを暗示している。

関連してということだが、先日、NHK「ママたちが非常事態?」という番組で、日本のベビーシッター利用のグラフが出てきた。

ここで言うフランスの「ベビーシッター」にヌヌ−がどのように含まれているのか、あるいは別扱いとされているのかはわからない。別扱いのようには思える。が、いずれにせよ、日本での比率は例外的に低い。

このことは、日本では自分の子どもを他の市民に預けるのを好まないという文化的な傾向でもあるかのようにも見える。ただ、それが日本の文化的な傾向なのか、戦後の家族形態が変化したのと同様の変化の影響なのかは、社会学的に研究してみないとなんとも言えないだろう。

つまり、新しい日本社会のありかたとして、日本人が日本社会に調和したヌヌ−の制度構築ということもありうるだろうし、現行の「保育ママ」はその潮流にあるのかもしれない。

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2016.04.06

[書評] 「フランス人ママ記者、東京で子育てする」西村・ペプ・カリン著

現代日本の育児事情にはさまざまな側面がある。地域や所得、教育による違いも大きい。全体像を知ることは難しいし、それには統計的な調査も必要になる。というのは確かなところだが、それはさておき、日本人男性と結婚したフランス人女性が日本で出産して子育てをするという、ちょっと珍しい事例の物語を読むと、むしろその特異な事例によって現代日本の育児事情というものの本質がくっきり見えてくる。フランス人から日本の育児を見ると、その異なる視点から、日本人としては「ああ、育児というものは、こういうものなんだなあ」というのがはっきりわかる。そして、ちょっとびっくりする。つまり、この本はとても面白い。これから結婚や出産を考える日本の若い世代の人は、一読しておくと良いと思う。

話は帯にあるように、「日本人マンガ家と結婚したフランス人ママ記者による日仏子育て比較エッセイ」である。夫は、この本の表紙や挿絵を描いているじゃんぽ~る西さん。この人のマンガはいくつか読んだけど面白い。そして、そのマンガから伝わってくる人柄の良さというか、男性としての素敵な感じも伝わってくる。イクメンという言葉はそこだけ抜き出して強調したようで私は好きではないが、彼が自然にイクメンを実行している姿は微笑ましい。

奥さんのカリンさんはAFP通信の記者。パリ第8大学卒業でテレビ局のエンジニア的な立場から記者になっていった人。二人の馴れ初め話も本書にある。初産は彼女が40歳か少し過ぎたころ。日本で言う高齢出産だった。夫のじゃんぽ~る西さんは彼女より少し年下だろうか。それでも30歳半ば過ぎて結婚するとも思ってなかったらしいし、ましてフランス人女性と結婚は自分でも驚いたらしい。この話は彼のマンガにもある。

その意味で、本書は、いわゆる高齢出産の物語としても読めるし、日本社会で出産、ということに際して、なにからなにまで異文化として触れた体験記である。日本人が当たり前に思っていることも、フランス人の感覚からは奇妙にも思えるものだ、ということだが、考えてみるとカリンさんの感じ方のほうが、なるほどなあ、納得するなあ、と私などには思える。意外と現在の日本人の感覚もフランス人に近くなっているかもしれない。読後少なからぬ読者もそう感じるだろう。

本書には興味深い話題が多い。読後、私の心に大きく残ったのは三点。無痛分娩、羊水検査、それとヌヌ−と呼ばれるフランスの「保育ママ」の話題だった。

こうした話題はすでに知識としては知ってはいたが、カリンさんの言葉を通して知るというのはまた違うものだった。率直に言って、こうしたものがなぜ日本にないのだろうか、あってよいののではないかとも思えるようになった。こうした対応こそ、国のレベルで対応可能である。が、同時に、私などもこれでもべた日本人なんで、これらを排除する日本社会の空気というのがわからないでもない。

保育園の話題も多い。意外にも思えたのだが、保育といった面では、なにからなにまでフランスが最先端社会かというと、どうもそうでもなさそうだ。フランスでも保育園は不足しているようだし、日本でも話題になったベビーカー問題もある。他方、日本社会の保育事情にもフランス人から見て良い面があるという指摘も興味深い。余談だが、先日立川ららぽーとに行ったのだが、乳児へのいろいろな配慮があって驚いたりもした。海外から見てもああいう商業施設は珍しいのではないか。

それでも総じて見れば、フランスの出産・育児の制度は日本より格段に優れているし、本書からその優れた点が学べる。併せて書かれているカリンさんからの、子供を持つことへの励ましの言葉も力強いし、感動させられる。

快く笑える逸話も多い。個人的には「システムD」の話には爆笑した。Dは、”débrouille”の頭文字である。この言葉、私が英語からフランス語を学んだピンズラー教材でも、英語にはない言葉として強調されていた。日本語ならありそうだなと思うけど、ちょっと思いつかない。「なんとかしましょう」という感じだろうか。「どさくさ」「その場しのぎ」という感じもありそうだ。つまり、「システムD」というのは、正しい対応法がないとき、なんとか急場を凌ぐことである。

育児というのはけっこうシステムDで成り立っているのだよねと、4人子供を育てた私も思うのである。

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2016.04.05

実際、保育園に落ちたらどうするか?

実際、保育園に落ちたらどうするか? この話題の経験談的な側面は当初自著に含める項目のつもりだったが書籍全体のバランスを考えて落とした経緯がある。他にも家事分担のコツのような話題も考えていたが落とした。また何か機会があれば書籍として書きたいものだと思いつつ、ブログに書くような話題でもない。そうこうしているうちに時は過ぎてしまった。が、よい機会でもあるので、現時点で少し整理してというか、思い起こしつつ書いてみたい。あまり正確ではないかもしれないし、なんの役にも立たないかもしれないが。

保育園落ちて「日本死ね」という気持ちになるのはわかるという人は多いだろうし、それはその文脈の議論があるだろう。ただ、他方、現実的に保育園に落ちた子供をどう対応するかという現実的な問いは依然残る。

今回、そうした現実対応の話題が出てくるのか、とざっと見ていたが、見ていた範囲では見かけなかったように思う。いくつかざっと検索してみたが、あまり現実的な示唆もないように思えた。どこかにあるのかもしれないが。それはそれとして、自分の思うところを書いておこう。

まず、この話題は、正直に言うと、しづらい、というのがある。対応策があまり市民社会の観点から見て正しいとは思えないのだ。結局のところ、制度が不備であることの応急対応なのでしかたないとも言えるのだが、正当ではないという疑念は去らない。

もう一つ話しづらいのは、その後の私自身が子供たちの成長に合わせる形で生きてきて、保育という時期の問題に特化して深く関わってきたわけでもないことがある。まあ、現実的にできなかった面もある。他方、受験のことなどは理解できたが。

さて、私のように、子供が保育園に入れなかった、というとき、どこから対処したらよいのだろうか? 

すでに書いたように、地域に「ヘルプ(助けてほしい)」という声を出すことが原点だろう。ただ、この時点で、それは公的制度が機能していないということと同義でもある。

あなたが具体的に保育園に落ちた子供を持つ新しい親だとしよう。原点は「助けてほしい」であるのは確かだが、その前にできたらしたほうがいいことがある。

想像して欲しいのだが、そうした保育の厳しい状況、つまりあなたが住んでいる地域におけるそうした保育の問題は、今回のあなたが特例ではないはずだ、ということだ。

すでに数年、あるいは十数年スパンでこの問題がその地域に堆積しているという状況を認識するとよいと思う。

この意味は、政治的な改善のための認識に直接つなげるのではなく、この問題を体験した地域の人々がどうやってこの問題を具体的にくぐり抜けてきたかという事例をできるだけ知り、そのなかで自分にあった解決策はないか参考にすることである。

「保育園に子供が落ちて困っているから助けてほしい」ということと併せて、地域保育の現状認識を並行して始めるとよいだろう。こういうとなんだが、妊娠時期から想定しておいたほうがよい。

言いづらいのだが、このようにして、保育について自分を助けてくれる情報を探るということは、あまりたやすくない。情報が公開されてないことではなく、そもそも公的な制度ではないため、こういうとよくないのだが、知った人が得するというような、本質的な不平等が潜んでいるためだ。そして、これもあまり良いことではないが、この不平等は現実には、費用にだいたい比例している。そしてお金が絡むと制度の不備と善意は不平等を広げてしまうものだ。(実際現下の問題で重要なのはこの部分、つまり高額な保育の市場にあるかもしれない。ただ、昨今の話題はその動向を踏まえて、現状規制された保育士の労賃に焦点化されているのでこの文脈に浮かび上がりにくい。)

さて、助けてほしいと声を上げる先の、地域コミュニティとは何か。それがどこにあるのか?

地域で育児経験のある家庭が第一なのだが、もう一つ比較的公開的なのが、幼稚園である。幼稚園の現状は地域によって異なっているので一般論はできないが、ざっと見たところ少子化もあって市場原理的に幼児の獲得に経営努力をしているところが多い。このため、幼稚園に入る前の子供も潜在的な顧客として対応の情報を持っていることがある。さらにそれ以前に、幼稚園が「認定こども園」や期日を限定した預かり保育のような事業を展開していることがある。直接幼稚園に対して、「子供が大きくなったら入れたい幼稚園を探しているのです」みたいに話を切り出してもよいかもしれない。

さて、レベルアップ。認可保育施設などが利用できないレベル。となると、認可外保育施設や「保育ママ」といった施設を使うことになる。私もそうなった。

私の場合、篤志に助けられた。子離れもして老夫婦二人で一軒家に暮らしていた、保育士資格のある婦人が、人に頼まれて地域の子供を預かるうち、子供が集まり、また支援できる母さんなどがグループとなった。一軒家も保育用に改造までして対応していた。それはもう後光が出るくらいの善意の集まりで、それを知ったときは、救われたと思えたくらいだった。いまでもありがとうございますと思う。

こうした支援グループを地域に広げていけばいいかのようだが、すぐに察せられることだし、先ほどからの奥歯に物が挟まるような言い方になるのだが、こうした支援グループは制度の尻拭いをしているだけで、市民社会の問題解決にはならない。

そのことは支援グループ内でも理解されていて、地域コミュニティから地方自治体に働きかける活動にもつながっていた。

理想的にはこうした草の根の運動を地方自治体につなげていく政治活動にすればよいのだが、現実的にはそこで、既存の政治活動団体との接面が生じてくる。それが潜在的にはらむ問題を起こさないような政治的なバランスも問われる。それなりに気を使うことになる。

私の知るこの事例だが、そうこうして数年。いろいろな経緯があって、その保育グループは解消された。中心を担っていた婦人がもうかなりのお年になったことが大きな要因だった。少子化でいちだんと子供が減ったということもあった。広域化して対応が難しくなったり、他の施設の充実もあった。

こうした地域コミュニティの善意による保育の解決は結局のところ、善意であればあるほど、結果的に制度不備の尻拭いになり、本質的な市民社会としての、保育の活動にならない。

「保育園落ちたのは私だ」として国会前でデモするのもよいのだが、比較すれば継続的に地方自治体に働きかけるほうが重要になるのはその理由からだ。

そして、残念ながらというか、保育はビジネスでもあるのでその利害調停のような作業も必要になる。コンビニや歯医者のように市場原理だけに任せるわけにもいかない。大きなマンションが地域に建つと予想されるだけで変わる。本当に市民生活に必要な地域政治の調停をどう行うのかというのは、保育でも難しい。

まとめると、保育園に落ちたら、地域の実情を探り、その過程で各方面に助けを求める声をあげよう。そのなかで保育を助け合う仲間ができたら、そこを足場に地域行政に改善を求めよう、ということ、ではないだろうか。

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2016.04.04

脱文脈化ということ

昨日、一昨日と、書いてみました的な話題だったが、はてなのinumashさんが二つともう読んでくださって(ありがとう!)、昨日のには、こうしたコメントをされていた。まあ、こう。

inumash こうやってごく基本的な経緯すら把握していないくせになんぞ深刻ぶった顔で的外れな分析ばかりしてるから、「ブログを10年以上も続けてきた」にもかかわらず貴方の声に動かされる人間が出てこなかったんでしょうね。

愉快だった。読み違えしているかなと思えるのは一点、「深刻ぶった」というくらいで、どうも「バブー」のベタは受けなかったようだ。つまり、他の指摘は当たっていると思った。二つある。

一つは「こうやってごく基本的な経緯すら把握していないくせに」である。まあ、それでいいと思う。他のはてなーず(「女子ーず」みたいだな)のコメントに、「私はシャルリだ」の背景もわからんのか爺、みたいのもあった。

どう理解されているかの弁解でもないが、私は、この話題を「脱文脈化」したいのである。

ネットスラングというか、社会で市民の情念を煽るような「死ね」的表現が出てきて燃える。でも実はその情念が話題の核に思えたので、それを脱文脈化できなものだろうかと思ったのである。考えるというか。自分なりのデリダ的な実践でもあるが、そう言うとまた違うだろうけど。

脱文脈化というのは、人々がある方向性の受容している前提となる文脈を入れ替えることである。そうしたとき、命題はどのような意味を持つだろうか。

今回の事例で、脱文脈化を考えたのは、脱文脈化という「ため」の目的ではない。気づかれた人がいるか種明かしみたいな話をするのも野暮だが、「日本死ね」と言いうる主体の解体、「保育園落ちたのは私だ」という言いうる主体の解体、をすべきだろうとこの件について私は思った。

「日本死ね」というように「死ね」という言葉よくありませんね(by 67歳の主婦)という話ではなく、「日本死ね」と言いうる主体を形成している特権性のなかに、ナショナリズムを見てそのナショナリズムと主体の関係を問い直したかった。そして市民社会を構築する「言葉」の道具性を考え直したかった。ネットスラングが国会を通して「脱文脈化」される傾向を再脱文脈化で脱文脈化してみたかったとも言えるか。

「保育園落ちたのは私だ」というのを、まず子供を持っている母という主体から解体したかった。そしてその「私だ」という特権性の呪縛が外されたとき、具体的な市民に具体的に問われた問題にはどのような解法があるのか問い直したかった。

そしてこの二例でいうなら、そこで発言主体の権利であるかのように見える権利性を支える正義を、市民原理から批判できなものだろうかと思った。

なぜ、そんなことが求められるのか。私の意図は単純である。市民と原理性と市民の具体性において、マスメディアを介して怒りの情感を醸成するものに危惧を抱くからだ。

一種の被害者正義に憑依する主体は、市民社会の言論の一種の自浄性として解体される傾向もあるべきだろう。

だから、inumashさんが「「ブログを10年以上も続けてきた」にもかかわらず貴方の声に動かされる人間が出てこなかったんでしょうね」というのは、まさにそうあるべきなのだと肯定的に思う。

ブログの書き手の多くは、「貴方の声に動かされる人間」を求めている。それが正義であったり、アフィリエイトであったり。名声であることであったり。そして、それに大半は失敗してブログから立ち去る。あるいは、それに成功して「動かされた人々」を生み出していく。

私は、そうではないのだ。私はただ一人の市民として、アーレントが民主社会に求めたように社会のなかにできるだけ異なる声を上げること、そして異なる声を届けようとすること、それが市民ができることであれば、それでいいのである。私でなくてもいい。「貴方の声に動かされる人間」のようなゾンビに問いかけること。ブロガーというのはそういうものだと考えるし、それって本当なのかということは、誰もが自分なりに10年くらい実践してみるといいのではないかということだった。最後に毒杯を仰ぎたくはないけれど。

Think different !


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2016.04.03

「保育園落ちたの私だ」ということはどういう意味だろうか

ツイッターで「保育園落ちたの私だ」というタグを見たとき、その後ろに「ばぶー」とかつくのかと思った。そうではなかった。「私の子供を保育園に預けることができなかった」という意味だと理解したのは、しばらくしてからだった。それから、ゼロ歳児を保育園に預けるのは大変だろうなと思った。なぜ、そう思ったかについては後に回したい。

この話題でそうこうしているうちに、「保育園落ちたの私だ」という国会前デモがあることを知り、少し奇妙な違和感を覚えた。これも後で触れると思う。ただ、当然、反感とかではない。市民がどのような示威活動をするのも自由であるからだ。

それから、その文脈の報道に接して「女性」という言葉がよく現れることにまた少し奇妙な違和感を覚えた。これもまた後で。その前に、そうした文脈の一つを上げておくと、たとえば表題に「母親ら」とある次のような記事である。毎日新聞「母親ら、改善求め厚労相に署名提出」(参照)。

 保育園に入れなかった母親らが9日、国会内で塩崎恭久厚生労働相に保育園の整備加速や保育士の処遇改善などを求める2万7682人分の署名を手渡した。「保育園落ちた日本死ね!!!」と題したブログをきっかけにネット上の署名サイトで集まったもので、午前中の衆院厚生労働委員会で民主党の山尾志桜里議員が塩崎氏に署名を直接受け取るように求め、実現した。

いくつかのもわんとした違和感が何なのか、いくつか補助線のようなものはすぐに自分の内面で察することはできたが、今ひとつもどかしい感じ続き、そのもどかしさの由来自体もある違和感を形成していた。自分には何も言えることはないだろうという思いの中でのことだった。

が、ある明瞭な直感を得たのは、毎日新聞に掲載された香山リカさんの「香山リカのココロの万華鏡 「保育園落ちたの私だ」 /東京」(参照)を読んだことがきっかけだった。

興味深いのは、この訴えに参加しているのは、実際に子どもの入園を断られた経験を持つ母親ばかりではないことだ。保育園に入れた人、それどころか子どもを持たない人や未婚の男性までが、「保育園落ちたの私だ」というキャッチフレーズとともに意見を述べている。これは社会全体の問題だ、という意識のもと、立場の違いに関係なく、誰もが「これは私のこと」として発言している。


しかし、この保育園の問題などを見ると、直接の当事者ではなくても「これは私のこと」として発言する人が確実に増えつつあることがわかる。今後、この流れが広がっていくのだろうか。うつ病ではない人が「うつ病なのは私だ」として心の病への差別に抗議し、大学時代の奨学金の返済で苦しんでいる若者の問題を「奨学金を返せないのは私だ」と高齢者が訴える。こうして誰もが「人ごとではない、私のことだ」と問題をとらえ、声を上げていけるようになるのは、とてもすてきなことだ、と私は思っている。

 私にも実は子どもがいない。でも、ここで大きな声で言わせてもらおう。「保育園落ちたの私だ」

ここで香山リカさんはとても重要な指摘をしていると私は思った。そしてそれが非常にクリアな正論であることで、先のもわもわとした違和感の大半は整理されてきた。

それは、「保育園落ちたの私だ」という言明の主体には、女性であることも、また香山リカさんのように子供がない人も、また運良く保育園に預けることができた人も含め、そうした人々に限定されないことだ。「保育園落ちたの私だ」という言明は発言者の特権性のない市民としての課題であるということだ。つまり、「私だ」という「私」の特定性は、原理的に一般的な市民に還元できる。ここでは前提として「誰が」は問われない。

逆に言えば、「保育園落ちたの私だ」というのは、市民の原理性においては、「誰が?」と問われることではない。女性のという文脈さえも解体される。

他の側面はどうか。この話題の意味を「難しい」と私が了解したのは、私の経験的な了解だった。自著では明らかにしたが私には子供が四人いる。四人も子育てすれば、「保育園落ちたの私だ」という問題に触れずにはいられなかった。しかし、そうした私が「保育園落ちたの私だ」という問題の中では、困難経験を基礎としてたある種の特権的に「私」を語ることはできない。

違和感の曖昧な沈殿先のほうはしかし、香山リカさんの指摘によるものではなく、矛盾するようだが、自分の実体験の掘り起こしからだった。こうした問題に直面したとき、私はどうしたか。「保育園落ちた日本死ね」というふうに、「日本」という課題と保育園の課題にある「私」を結びつけなかった。それがプライベートの問題領域だったからかというと、そうでもなかった。それは一義に、地域コミュニティの問題であり、次に地方行政の問題に思えていた。

もちろん、保育について地域コミュニティの問題や地方行政の問題の上位に国の問題があることは理解できる。しかし私にはそこに直結することはできなかった。なぜそうだったのか。とその視点から思い起こすと、まず、現実の保育の問題から国を批判することでは眼前の解決に至らず、まず解決自体が必要とされると思っていたことがある。次に、こうした保育に関する国の制度が充実しているとして想定されがちなフランスの保育の内情についてある程度知識があり、その国家レベルの困難さを参照しても、日本の国政で短期に解決できるようには思えなかったことがある。

では、どうすればいいのか?

同じ文脈を繰り返すと、私の場合には渦中ではその問いの答えはなかった。そのなかで、時は過ぎていき、子供を育てた。そのことの体験的な意味合いの一部は読者が限定される自著のほうに書いた。

しかしそれでいいのかと市民のレベルで問いを新たにするなら、それでいいわけはない。そして、その問いが再び、香山リカさんが指摘されたように市民の文脈で考えるなら、加えて現実に短期間にある具体的な対応が求められるなら、まず地域コミュニティに直面するし、その次に地方行政の問題として浮かび上がるだろう。そこでは国家との対応で匿名的である市民が具体的な市民となる。今回の話題の元になった匿名者もその具体的なありかたとしての解決はその次元に向かっているのだろうと思うし、その次元で発せられる別の言葉がとりあえずであれ短期的な解決を志向するだろう。

そこでは、私たち市民はどのように育児で地域コミュニティと関わっているのか、地方行政と関わっているのかが問われることでもある(場合によっては保育の行政が充実した地域に転居することもあるだろう。基本的に自由主義国では市民は税制では厳しいところからは移転しがちになる。奇妙な逆説だが、非自由主義国である中国などでも同様の傾向は見られる)。その先に、国政の制度設計や現状の見直しが政党の持つ政策の次元では並行して進められるべきだろう。

それでも現実的にもっと具体的に対応できないのか?

具体的であることは、具体的な個々の市民が育児で地域コミュニティと関わっているのかという文脈にあるだろう。そこには具体性だけがあるとも言える。例えば、3ヶ月の赤ちゃんを2時間預かって扱える能力が、災害時の市民の行動のように、市民の基本的な行動となるように支援する学習が推進されてもよいのではないだろうか。

もちろん、それは地域コミュニティや地方行政の文脈であって、国家によって社会から保護された市民としては、そうした支援活動から自由であってもよいだろうし、にも関わらずそれが市民の課題だと主張してもよいには違いない。国会前の女性団体のデモであってもよいだろう。保育の支援は国家がするべきで個々の市民の課題ではないという主張であっても正当ではある。

ただ、国家に迂回した解決は具体的な市民の短期的な問題解消の充足とは離れてしまう。このことがより切迫して問われるのは病児預かり(病児保育)のほうだろうと思う。この側面での国の対応だが、国はようやくこの4月から対応が始まった、とはいえ、財源は企業が負担する「事業主拠出金」の新年度からの引き上げによる約27億円なので、焼け石に水の状況にある。現状では、市区町村が民間の小児科や保育所に委託して併設されることが多いが、容体の急変にも備える諸制度には人命が直接関わる点で国の関与がより強く求められるだろう。

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2016.04.02

「日本死ね」と言うべきだっただろうか?

すでに旧聞になると思う。というか、そうなるのを待っていた面もあるし、考えていたらそうなってしまったという面もある。話題は、れいの、と言ってもいいだろう、「保育園落ちた 日本死ね!」ということだが、私が気になっていたのは、「日本死ね」という表現だった。そう言うべきだったのだろうか?

言葉狩りがしたいわけではないが、これが仮に「中国死ね」や「韓国死ね」という表現であったら、ヘイトスピーチになるのではないか。なのになぜ、「日本死ね」ならそういう問題にならないのだろうかと疑問に思ったのである。

おそらく日本人なら「日本死ね」と言ってよいという暗黙の前提があるのではないだろうか。だとすればそこで疑問が続く、日本人なら「日本死ね」と言ってよいのだろうか? あるいは、日本人なら「日本死ね」と言えるという特権のような意識があるとすれば、それは何に由来するのだろう? その特権を支える正義はなんなのだろう? おそらくなんらかのナショナリズムではあるだろう。

こうも思った。「日本人死ね」なら誰が言ってもヘイトスピーチになるかもしれないが、「日本死ね」であって「日本人死ね」ではないから、だから、よいのではないか?という理屈ならどうだろうか。

仮にそうだとすると、それは「日本」という国家の体制を転覆してよいのだ、ということになる。しかも、それが日本を構成する市民を通して日本を民主主義的に変革するというのではないのだから、結局のところ「日本死ね」は、「江戸幕府死ね」の気風や、国家を支える首相である犬養毅を暗殺する情念と繋がる。そんなものがいまだに日本にはあるのではないか。

私は、「日本死ね」という言葉が共有される社会に恐怖を覚えたのだが、ツイッターを見るとそうでもなかった。朝日新聞の冨永格記者は次のように「日本死ね」を肯定していたし、彼の考えからすれば、私は「本質が見えていなかった」ことになる。

冨永記者はこのことを「言葉の荒らさ」として見ていたということは、政治の本質が伝えられる有効な修辞であれば「日本死ね」という表現は有効であるという認識なのだろう。

私はまったくそう考えないのである。つまり、本質を隠した修辞よりも、市民が共有する言葉というもの自体にもっと価値を置くべきだと思う。そのためには「日本死ね」という比喩的修辞はふさわしくないと思う。

冨永記者は朝日新聞の記者ではあるが、朝日新聞全体の論を代表としているわけではない。では、朝日新聞としてはそこはどうなのだろうか。特にそういう問題意識はないのだろうか。そうした疑問を持っているとき、高橋純子政治部次長のコラムを見かけた(参照)。なお、未登録ではネットではこの先は読めないが、私はこの記事は紙面で読んだのだった。

全国各地から桜の便りが届いていますが、みなさまいかがお過ごしですか。こんにちは。「チリ紙1枚の価値もない」記事を書かせたら右に出るものなし、週刊新潮にそう太鼓判を押してもらった気がして、うれしはずかし島田も揺れる政治部次長です。

そう始まる。気になった部分を紙面から引用する。

    ◇

 前回書いた「だまってトイレをつまらせろ」に多くの批判と激励をいただいたが、どうにもこうにもいただけなかったのが「死刑にしろ」だ。
 どんなに気に食わなかったにせよ、刑の執行というかたちで国家を頼むのは安易に過ぎる。お百度踏むとかさ、わら人形作るとかさ、なんかないすか。昨今、わら人形はインターネットで即買いできる。しかしそんなにお手軽に済ませては効力も低かろう。良質なわらを求めて地方に足を運ぶくらいのことは、ぜひやってほしいと思う。
 訪ねた農家の縁側で、お茶を一杯よばれるかもしれない。頬をなでる風にいい心持ちになるかもしれない。飛んできたアブをわらしべで結んだら、ミカンと交換することになり……「わらしべ長者」への道がひらける可能性もゼロとは言いきれない。
 ひとは変わる。世界は変わる。その可能性は無限だ。
 だけど、「死刑にしろ」と何百回電話をかけたところで、あなたも、わたしも、変われやしないじゃないか。
    ◇
 反日。国賊。売国奴。
 いつからか、国によりかかって「異質」な他者を排撃する言葉が世にあふれるようになった。批判のためというよりは、排除のために発せられる言葉。国家を背景にすると、ひとはどうして声が大きくなるのだろう。一方で、匿名ブログにひっそり書かれたはずの「保育園落ちた日本死ね!!!」が、言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう。
 なにものにもよりかからず、おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている。
 スプリング・ハズ・カム。
 窓を開けろ。歩け歩け自分の足で。ぼくらはみんな生きている。

一読して私はよくわからなかった。

が、まったくわからないわけではない。まず、「日本死ね」という言葉に「おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている」と肯定的に評価しているという点である。つまり、「うれしはずかし島田も揺れる政治部次長」も冨永記者と同じ考えで調和しているという点である。そこは理解できた。朝日新聞は政治部としても、「日本死ね」という表現を肯定的に受け止めているようだ。

わからなかったのは、「日本死ね」も「反日。国賊。売国奴」と同じく、「「異質」な他者を排撃する言葉」ではないかと思えたので、そうしてみると、このコラムは主張が矛盾している。そう私には思えたのである。

別の切り口でいうなら、「言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう」というのを肯定するなら、「反日。国賊。売国奴」という言葉も「言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げ」ているのである。

このコラムに論理的な整合性があるなら、いや、たぶん書き手はそう思って書いているはずだ、となんどか読み返して思ったのは、「日本死ね」が「反日。国賊。売国奴」と違うのは「国によりかかって」ということなのだろういうことである。つまり、「反日。国賊。売国奴」という言葉は「国によりかかって」いると書き手は想定しているのだろう。

しかし、それもおかしな話である。「日本死ね」が先にも触れたように、実際のところに日本人の特権のようなものであれば、結局は、それもまた「国によりかかって」いると言っていいだろう。

この件では、朝日新聞は奇妙な論調の新聞だなとは思ったが、そうした奇妙な論調の新聞ということであれば読売新聞や毎日新聞、産経新聞も変わらない。新聞とはそういうものだ。

という順で書いてきたが、実は私は、朝日新聞のなかではそうした論調に疑念もあったのではないかと感じていた。この間の3月20日の読者欄に「「死ね」という言葉に危惧を抱く」と題する67歳の主婦の声が取られていたからである。

 「保育園落ちた日本死ね!!!」と題した匿名のブログが話題となり、賛同する声が広がっています。でも、私は共感する気持ちになれません。
 待機児童の多さと事柄の重要さは理解しているつもりです。しかし、政治への不満や怒りを表すために「死ね」という言葉を使うのはどうでしょうか。
 「死ね」という配慮のない言葉が公に放たれ、それが肯定されているかのような現状を、私は大いに残念に思いますし、胸が痛んでいます。
 例えば、子どもたちのいじめやケンカでこの言葉が使われれば、どんな悪影響を及ぼすか考えて下さい。生きていく希望を奪ってしまうかもしれない言葉なのです。大きな危惧を抱かざるを得ません。
 そこまで言わせる政府にふがいなさも感じます。しかし、大人が「死ね」という言葉を発信し、社会に蔓延するとしたら、警告が必要ではないでしょうか。

私はこの方の「声」に共感した。「大人が「死ね」という言葉を発信し、社会に蔓延するとしたら、警告が必要ではないでしょうか」と私も思うのである。

おそらく朝日新聞の主要な声は、「大人」ではなくなっているのだろう。その中で残された「大人」はこの声を朝日新聞の紙面に静かに拾い上げたのではないか。

しかし、私はこの方が言われる、「そこまで言わせる政府にふがいなさも感じます」とは思わない。私たち市民は、そして大人は、政府によって言葉を言わされているわけではない。私たち市民は、市民の言葉を大切にするがゆえに、私たちの市民が政府を作り上げる。つまり、作為の契機をもっている。だから、変革が可能な日本という政体に向けて「死ね」と言うのではなく、変革への責務を持たなければならないはずである。私がブログを書いているのも、けして政府によって言わされているわけではない。市民はブログを通して、直接自由に声を挙げられることができる。それを実証するために、ブログを10年以上も続けてきた。


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2016.04.01

O沢一郎共同代表主催「日本経済を考える会」議事録


「S活の党とY本太郎となかまたち」は日本経済をどのように考えているのか。その参考資料になる、O沢一郎共同代表主催の勉強会「日本経済を考える会」の書き起こし文書を某所から入手した。会合の日時は2016年4月1日である。

       ☆  ☆  ☆  ☆

Y本「O沢代表と一緒に学ぶ今回の経済政策学習会開催にあたり、私たちの経済政策をまとめます。

私たちの党には経済政策がないとよく批判されます。そんなことはありません。まず、深刻なデフレが依然継続している現状では、もはや消費税の増税をしないということが基本にあります。

また、内需拡大と完全雇用を目標とした金融緩和政策を推進することに加え、これに呼応した適切な財政出動を持続的に行う必要性を掲げています。そしてその相当部分を地方分権として地方の裁量に任せるよう求めています。

その上で、小泉政権以降の行きすぎた規制緩和の見直しを行うとともに、日本の活力の原点である中小企業支援の融資支援制度や各種税制の改革を行う必要性も認識しています。

基本は以上です。が、こうして私たちの党の経済政策を再考すると、実は現状の安倍政権の経済政策とそれほど違いはないのではないか、そういう疑問も湧き上がってくるでしょう。そのため、私たちの党の経済政策を強く前面に出すことがためらわれることがあります。

あまり大きな声ではいえませんが、私たちの党の経済政策が現状の安倍政権の経済政策に似ているということが、私たちの党の信頼やイメージに関わる大きな問題ともなっています。

そこで、この件で党内が民進党のように紛糾しないように、またせっかくメディアが盛り上げてくれた若者の政治意識を配慮して、私たちの党は、戦略的に安全保障の問題や憲法問題に焦点を当ててきました。しかし、それだけではもはや政策集団としての私たちの党の意義はありません。

現在の安倍政権、さらには看板を書き換えたばかりの民進党との経済政策の違いをより鮮明に党員は意識する必要があります。

では、O沢代表、私たちの視点から、どのように現状の日本経済を俯瞰するのか、また今後の日本経済政策の指針はどうあるべきか、提示していただきたいと思います。」

O沢「今、Y本君から、わが党の経済政策の要点をまとめていただいたが、論点は、私たちの党と安倍政権とで経済政策にどこに違いがあるのか、ということだ。そこを鮮明にする必要からもう逃げるわけにはいない。少なくともこの党を維持している中心メンバーにはこの点をはっきりと理解していただきたい。

前提となるのは、黒田日銀が実施している非伝統的金融政策の有効性には限界があり、現在まさに、強力な財政政策推進の必要があるということだ。

これが可能なのは、財務省が財政破綻の物語をどれほどぶち上げても、現在の日本の金利が驚くほど低い状態で維持されている現実による。現状、長期債券にいたるまでマイナスである。ということは、当然のことだが政府による投資がまだまだ可能だ。政策はまさにその選択をすべきことを意味している。

否。重要なのは、政策の形を取らずとも、それがいずれ何らの形で実現されてしまう可能性があることだ。危険性があるのだと言いたい。

その投資先はどこか? 私たち「S活の党とY本太郎となかまたち」が本当に考えなくてはならないのはここだ。

第二次世界大戦に至る歴史を顧みればわかる。それは戦争だった。泥沼のような需要不足を埋め合わせたのは戦争という投資だった。

安倍内閣は意図的であれ、あるいは意図的でないにせよ、このままの日本の状況を見過ごしていけば、いずれ戦争という支出を選択しなければならないように追い込まれてしまう。日本がどれほど戦争を避けようとしても、外圧的に追い込まれてしまうかもしれない。これをどう阻止したらよいのか。平和という課題は経済の深刻な課題につながる。そうだね、Y本君」

Y本「ええ。私たちは、日本が、経済停滞な理由から戦争を選択する道を断固阻止しなければならないわけです。そしてその最終的な課題は私たちとって明白です。ですから……」

O沢「私の言葉を待たなくていい。先日述べたY本君の持論がそこでつながる。」

Y本「では、私が続けます。つまり、明白な形で、いっそう反原発運動を推進することです。

ただし、ここで私たちの党の新しい課題になるのは、従来のように、核開発そのものが悪だから核を廃絶するのだという一面に加え、もう一面として、国家の投資を吸収するような形で自然エネルギー開発を進めることが可能だからこそ、核は不要なのだと主張することです。

さらに言えば、その全貌を投資のビジョンとして国内外に提示することで、財政政策を誘導することです。」

O沢「そしてその自然エネルギー開発を新たな国土再利用という形で補助し、さらに地方と都市圏をつなぐインフラを整備する。ここで地方分権が大きな意義を持つ。地方の中核都市の形成は、都市圏とのシステマチックな連携なくしては実現できない。

とはいえ現状、この議論をこの夏の参院選にすぐに結びつけることは難しい。選挙という戦場では戦略論にならざるを得ない。」

Y本「そこはしかたがありません。しかし私たちは、反原発・平和主義・護憲といったこれまでの政治運動をより未来的なビジョンに置き換えていく不断の努力も、必要になってきています。

というところで、これから出席者を交えた討論に移ります。」

       ☆  ☆  ☆  ☆

残念ながら討論会の議事録までは入手できなかった。

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