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2016.02.16

荒地派と三島由紀夫

戦後詩を形成した荒地派の生年をスペクトラムとして見ると、おおよそではあるが、大正8年の黒田三郎から大正13年の吉本隆明くらいの、5年くらいの幅がある。彼らが戦後を迎え、「荒地」を形成するころの20代以降では、彼らのなかではそれほど大きな年齢差としては意識されなかったのではないか。が、実際のところ、そのスペクトラムに出征の有無がある。

今、たまたまではあるが、世界大百科事典を覗いたら、「荒地」について「鮎川、加島祥造、北村太郎、木原孝一、黒田三郎、田村隆一、中桐雅夫、三好豊一郎ら戦争体験を経たモダニズムの詩人たちがこの雑誌に結集し」とあり、そこでは「戦争体験」として一括されていた。間違いだとは言えないし、そこで出征経験の有無が差異として強く問われたこともなかっただろう。またおそらく、彼らの多くが戦後、海外文学の翻訳者として関わっているように、西洋的なモダニズムの基礎があり、それにがドメスティックな戦争観からは少し距離を置かせたかもしれない。

それでも出征の有無や戦地体験は、戦争の意味や感触に微妙な差異としてあっただろうと、彼らを見ていて私などには感じられる。特に吉本隆明に顕著だが、彼には、戦争は当時の少年期の課題として意識され、現実の軍という集団の生活経験は不在である。戦争についても理念的な構成的な理解になる。そしてそこには、これも微妙にではあるが、その経験のなさということの負い目のようなものが感じられる。例えば、吉本隆明については、山本七平との対談などでの、ある種のこわばりが感じられた。山本側からすると、吉本についてはあまり関心がないようでもあったが、それも戦争実体験を基盤とする共感のなさに思えた。

こうした、わずかとも言える大正後期の生年のスペクトラム、あるいはその最後に大正14年生まれの三島由紀夫がいる。彼も改めて見直してみると、西洋的なモダニズムの詩の少年期を過ごしている。学習院の初等科から詩をその学内誌に発表し、高校生時代には熱心に詩を創作している。なにより30歳ころに書かれた自伝的作品『詩を書く少年』が示すように、自身でも詩を書く少年として理解していた。その意味で、少しの差異で三島由紀夫も戦前のモダニズムの気風にあった荒地派をなぞっている。もちろん、三島由紀夫はこの作品が示唆するように詩人にはならなかったし、そこには戦争の影響が直接問われているわけではない。

それでも荒地派のスペクトラムのなかに参照として三島由紀夫を置いてみると、その構図からは吉本隆明に近い。両者は、実際のところ戦争に遅れたモダニズム詩の少年として、戦後は詩の言葉の空転からイデオロギーとしての社会認識に転換していった。黒田三郎や北村太郎とは逆の方向であり、たまたまなのか、性と他者の対峙のあり方も理念的・美的にずれていく。

現在cakes向けに書いている隆慶一郎論も大正12年生まれで、アルチュール・ランボーなどフランス象徴詩に傾倒した少年期を送っていた。彼の場合は、直接小林秀雄の影響もあった。小林秀雄は明治35年生まれ。「荒地」の元になったエリオットの詩も荒地派には、明治27年生まれの西脇順三郎を経由している。そのあたりの生年に、「詩と詩論」がある。

cakesに黒田三郎論を書いたおり、黒田が詩壇に躍り出て村野四郎との関係に悩む風景を見たが、黒田などからすれば、「詩と詩論」のモダニズムと自分たちの差異は大きく感じられたのだろう。逆に、「詩と詩論」のモダニズムから太平洋戦争がどう見えたかというのも、改めて気になる。

というのも、最近思うのだが、現在、老人とされている世代がせいぜいのところ昭和8年世代くらいであり、むしろ、明治時代からのモダニズムから一端途切れ、戦後文化として形成された潮流にある。そこではあたかも、「戦争」の意味合いが、近代文学的な系譜とは別系譜的に創作され、そしてさらにその創作のうえに現在の「戦争」観が乗っかっているように思えてならない。あるいあ、そうした中では、荒地派の出征のスペクトラムはちょうどその微妙なつなぎの意味を持っているように思える。

 
 

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