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2016.01.29

文字の書きやすさと読みやすさは対応しない


点字は、基本的に子音と母音の組み合でできている。その意味では、点字はローマ字のように構成されているし、実際の筆記でも、発音をできるだけそのまま写しとるように記述する。こうした仕組みは合理的なので、通常の日本語の文字もそれに類した合理的なものがあれば便利なのではないかと考案してみた。加えて、書きやすいほうがよい。

すると、5母音の基本記号に基本的な子音の記号を組み合わせることになるのだが、そのための筆記しやすい形状とその弁別性・識別性が問われる。当然ながら簡素な、形状として、棒線と向き、上限の丸め、そして丸といった形状が思い浮かぶ。これらをいわば50音表のように整理して、これらを使って文字として、文字として書いてみるのだが、書くのは面白いし、書きやすい。が、読めないのである。可読性がやたらと低い。規則があったはずなのにデタラメな線と丸の羅列のようになる。

そうこう考案・改良しているうちに、これは速記に似ていると気が付き、速記にはいくつかの方式があることを思い出した。私が少年時代には、通信講座の早稲田式速記にけっこう人気があったものだが、と思い起こすのだが、そのわりにそれを習得したという人を知らない。

調べてみてすぐに気がついた。こうした私のような考えですでにできた速記の体系として、V式というのがあった。面白いなとは思った。だが、すでに自分の試みからわかっていたことだが、このV式も可読性が高いとは思えない。書き慣れることはできるだろうが、読み慣れることはかなり難しいのではないだろうか。

どうやらそうした特性は他の速記の体系についてもいえて、ざっと見たところ、各種の速記体系は、書きやすさと読みやすさのバランスでバリエーションがあるといった印象だった。

もちろん、速記なのだから、素速く書けなくては意味がない。しかし、いずれにしても、発音を写したものだから、書き直すときには、漢字・ひらがな・かたかな混じりになる。これを反訳というらしいが、つまり、このやたら複雑な日本語の書記体系に依存する。

というあたりで、いや、これは逆だなと気がつく。日本語の漢字・ひらがな・かたかな混じりの書記体系というのは、異常なほど可読性が高い。そういえば、そうしたことを、ロシア語をネイティブなみに使いこなしていた米原万里も言っていた。

つまり、通常の日本語の書記体系というのは、そもそもが速読文字の体系なのだと改めて気がつく。しかも、特にカタカナは外来語に当てることが多く、こうした外来語用の文字というのは、イタリア語などにも見られるし、そもそもローマ時代のギリシア語文献の音転写、つまり外来語表記にもあった。どのような言語も外来語というものから結局は独立できないのだから、外来語表示用の文字系を持っている日本語というのは、これはすごいものだなと思う。

そう考えてみると、漢字もどちらかといえば、意味や概念を担わせる書記系として使っているわけで、やはりこれも大したものだと思う。基本的に、日本語の文章というのは、漢字だけ目で追っていけば何が書かれているかはわかる。

とはいえ、最初の問題に戻る。どうやら、日本語の正書法というのはもともと読むために出来ていて、およそ書くためにできてはいない。このあたり、やはり書くための「新ひらがな」のようなものはあってもよいのではないかとも思った。

が、どうもさらにその中間的な表記体系もありそうだ。というか、速記に関する本を読んでいてわかったのだが、速記は、点字のように音声転写が基本でありながら、実際には、略字をよく使う。つまり、実質、略字記号を上手に使うのが速記の上級者ともいえるらしい。

こうした便利な略号は、漢字とはまた少し違うものでもあるだろう。一例を上げれば、「だから」というのは、数学記号の「∴」を使えばいいといったふうのものである。そういえば、学生時代、ノートを取るとき、「例」は、egと書いたものだった。こうした傾向は一種の漢字化のようなものだろう。書きやすさのための擬似漢字というか。

話が散漫になるが、私たち日本人が漢字の文字としてよく目にする明朝体というのは、明朝に作られたという意味合いだが、これは基本的に版木のための文字で、書くための文字ではない。基本的に明朝体のような、また楷書のような文字で漢字を書くのは、いわば、印刷文字の代用であって、日常生活における書き言葉の文字ではない。ではどうしていたかというと、当然、崩すわけで、崩しかたを学ぶ。というか、私の父の代までは、葉書の文字は崩し文字が基本だった。

ところが楷書の歴史を見ればわかるように、実際には、くずし字は楷書を崩したものではなく、崩し字である行書の前にあったわけでもない。

ごちゃごちゃ書いたが、現代では、私も含めて、手書きで文字を書くことはすくなくなり、書くというのは電子機器を使うことが多い。速記などが廃れてきているのもこうした傾向のためだろう。ある程度、キーボードなど機械入力に慣れれば、文章の入力というのは話し言葉と同じくらいの速度で記述できる。つまり、通常の言葉を聞いた速度で書くことができるのだから、速記といった需要が減るのは当然でもあるだろう。

というわけで、その中間的な記法というのは、便利そうだなと調べていくと、またいろいろわかってきた。
 
 

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