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2016.01.31

スピルバーグ作品「エクスタント」は、私にはユダヤ教というものの本質に思えた

スピルバーグ制作総指揮のテレビドラマ(全13回)「エクスタント」を見た。最初の数話はテーマが散漫ではないかなと馴染めない印象があった。また、テレビドラマにありがちなご都合主義展開も少なくはなかったし、映像は意外にチープな作りかもしれないなとか、雑なことも思っていた。が、全体としては脚本の破綻もなく、主要出演者の演技は見事なものだった。主人公のハル・ベリーは女性の内面をとても上手に描き出していた。子役もたいしたものだった。

素材は、いかにもスピルバーグらしい。悪くいうなら、『ET』『レイダーズ』『A.I.』をごっちゃまぜにしたような作品である。驚異の状況でエイリアン対アンドロイドが、暴力的な人間を巻き込み、どたばたと対決するといったような代物なので、いっそマーベル風に純粋にそうしたドラバタにしたほうがよかったのかもしれない。が、作品ははるかに哲学性・神学性が優っていた。私にはユダヤ教というものの本質にすら思えた。エイリアンの子供とそれが幻視的に確約する希望がキリスト教で、知の達成と人間愛と犠牲精神であるのがアンドロイドに比喩されたユダヤ教である。全体としては、非キリスト教的な、ユダヤ教的な、世界の意味を今日的な感覚で表現していたように思えた。

ネタバレを含めた紹介すると、表面的なテーマは家族愛である。女性の宇宙研究者で飛行士のモリー・ウッズはかつて妊娠したまま交通事故で夫と言える恋人と胎児を失っていた。その後、アンドロイド研究者ジョン・ウッズと結婚するが不妊症で子供ができない。そこで、人間社会にあって人間を学習する子供型ロボットイーサンを子供として育てようとする矢先、モリーは宇宙任務にあたり、13ヶ月の別居となる。宇宙でモリーはエイリアンの子供を妊娠し、地球に帰還するのだが、そもそもそうなることが、富豪・安本英樹の思惑だった。彼はエイリアンを通して不死を得ようとしていた。

胎児のエイリアンは安本の庇護で成長する。彼も子供の姿を得る。彼には、人間に幻視を見させるという能力があり、これを使って、人間に死者との幸福な邂逅や憎悪の幻視を植え付け、それによって人間の精神を制御する。つまり、人間はその希望や愛の幻想・期待・恐怖ゆえにエイリアン対抗できない。そこで幻想のない知性と愛のイーサンが対決することになる。

ということで、エイリアンものとアンドロイド(AI)ものが融合するし、そこは「人間とは何か?」という問いに統合されている。ただ、初めの数回は、そうした統合が見えないので、謎だらけになる。SF好き以外では、謎が上手に関心に繋がる人、神学的・哲学的な関心を持つ人にとっては面白いだろう。つまり、私には面白かった。


メディアのカバーになっているハル・ベリーの寝顔の横顔はこの作品にとても象徴的で、一つには宇宙任務、他方では妊婦を暗示している。

13回分のシーズンワンはすでにDVDなどメディア化されている。このシーズンだけの完結性は高い。おそらく、一つの構想としては、エイリアンとアンドロイドが相打ちの形で死ぬことになっていのではないかとも思うが、最後に二人生き延びて、シーズン2に続く。ただし、シーズン2ですでに打ち切りが決まっている。

と、書いたものの、完結性から二者が相打ちであったと見るのは難しいかもしれない。アンドロイドは自己犠牲と愛を理解するが、これを自爆テロのように「大義」に結びつけるかというと、それはありえないかもしれないし、最後エイリアンが生き残るものも、結果として、母なるモリーの愛情であった。

神学性を優先した荒唐無稽な作品ともいえるが、エイリアンの造形は含まれていない。その面でのアート的な面白さはない。一つには、この作品におけるエイリアンは「胞子」(spore)とされているが、実質的にはウイルスと言ってよいだろう。つまり、感染・寄生する身体がないと存在できず、地球生命に関わってくると見てよいだろう。これはSF的な妄想というより、意外にウイルスというものの本質を表している可能性もある。

一昔前に流行ったウイルス進化説を持ち出すのもさすがに古臭いが、さりとて、ウイルスがただの自然選択の機会と見るのも単純すぎる。むしろ、ジーン情報の単純型と見てよいし、情報という水準ではミームの理想形がAIだとしてもよいだろう。テレビドラマなのである程度簡略的な世界観にせざるを得ないが、文学であればもう少しこった修辞も可能かもしれない。往時の栗本慎一郎氏であればその面で豊かな解説をしてくれたかもしれない。


 
 


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2016.01.29

文字の書きやすさと読みやすさは対応しない


点字は、基本的に子音と母音の組み合でできている。その意味では、点字はローマ字のように構成されているし、実際の筆記でも、発音をできるだけそのまま写しとるように記述する。こうした仕組みは合理的なので、通常の日本語の文字もそれに類した合理的なものがあれば便利なのではないかと考案してみた。加えて、書きやすいほうがよい。

すると、5母音の基本記号に基本的な子音の記号を組み合わせることになるのだが、そのための筆記しやすい形状とその弁別性・識別性が問われる。当然ながら簡素な、形状として、棒線と向き、上限の丸め、そして丸といった形状が思い浮かぶ。これらをいわば50音表のように整理して、これらを使って文字として、文字として書いてみるのだが、書くのは面白いし、書きやすい。が、読めないのである。可読性がやたらと低い。規則があったはずなのにデタラメな線と丸の羅列のようになる。

そうこう考案・改良しているうちに、これは速記に似ていると気が付き、速記にはいくつかの方式があることを思い出した。私が少年時代には、通信講座の早稲田式速記にけっこう人気があったものだが、と思い起こすのだが、そのわりにそれを習得したという人を知らない。

調べてみてすぐに気がついた。こうした私のような考えですでにできた速記の体系として、V式というのがあった。面白いなとは思った。だが、すでに自分の試みからわかっていたことだが、このV式も可読性が高いとは思えない。書き慣れることはできるだろうが、読み慣れることはかなり難しいのではないだろうか。

どうやらそうした特性は他の速記の体系についてもいえて、ざっと見たところ、各種の速記体系は、書きやすさと読みやすさのバランスでバリエーションがあるといった印象だった。

もちろん、速記なのだから、素速く書けなくては意味がない。しかし、いずれにしても、発音を写したものだから、書き直すときには、漢字・ひらがな・かたかな混じりになる。これを反訳というらしいが、つまり、このやたら複雑な日本語の書記体系に依存する。

というあたりで、いや、これは逆だなと気がつく。日本語の漢字・ひらがな・かたかな混じりの書記体系というのは、異常なほど可読性が高い。そういえば、そうしたことを、ロシア語をネイティブなみに使いこなしていた米原万里も言っていた。

つまり、通常の日本語の書記体系というのは、そもそもが速読文字の体系なのだと改めて気がつく。しかも、特にカタカナは外来語に当てることが多く、こうした外来語用の文字というのは、イタリア語などにも見られるし、そもそもローマ時代のギリシア語文献の音転写、つまり外来語表記にもあった。どのような言語も外来語というものから結局は独立できないのだから、外来語表示用の文字系を持っている日本語というのは、これはすごいものだなと思う。

そう考えてみると、漢字もどちらかといえば、意味や概念を担わせる書記系として使っているわけで、やはりこれも大したものだと思う。基本的に、日本語の文章というのは、漢字だけ目で追っていけば何が書かれているかはわかる。

とはいえ、最初の問題に戻る。どうやら、日本語の正書法というのはもともと読むために出来ていて、およそ書くためにできてはいない。このあたり、やはり書くための「新ひらがな」のようなものはあってもよいのではないかとも思った。

が、どうもさらにその中間的な表記体系もありそうだ。というか、速記に関する本を読んでいてわかったのだが、速記は、点字のように音声転写が基本でありながら、実際には、略字をよく使う。つまり、実質、略字記号を上手に使うのが速記の上級者ともいえるらしい。

こうした便利な略号は、漢字とはまた少し違うものでもあるだろう。一例を上げれば、「だから」というのは、数学記号の「∴」を使えばいいといったふうのものである。そういえば、学生時代、ノートを取るとき、「例」は、egと書いたものだった。こうした傾向は一種の漢字化のようなものだろう。書きやすさのための擬似漢字というか。

話が散漫になるが、私たち日本人が漢字の文字としてよく目にする明朝体というのは、明朝に作られたという意味合いだが、これは基本的に版木のための文字で、書くための文字ではない。基本的に明朝体のような、また楷書のような文字で漢字を書くのは、いわば、印刷文字の代用であって、日常生活における書き言葉の文字ではない。ではどうしていたかというと、当然、崩すわけで、崩しかたを学ぶ。というか、私の父の代までは、葉書の文字は崩し文字が基本だった。

ところが楷書の歴史を見ればわかるように、実際には、くずし字は楷書を崩したものではなく、崩し字である行書の前にあったわけでもない。

ごちゃごちゃ書いたが、現代では、私も含めて、手書きで文字を書くことはすくなくなり、書くというのは電子機器を使うことが多い。速記などが廃れてきているのもこうした傾向のためだろう。ある程度、キーボードなど機械入力に慣れれば、文章の入力というのは話し言葉と同じくらいの速度で記述できる。つまり、通常の言葉を聞いた速度で書くことができるのだから、速記といった需要が減るのは当然でもあるだろう。

というわけで、その中間的な記法というのは、便利そうだなと調べていくと、またいろいろわかってきた。
 
 

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2016.01.28

点字の難しさ

今年に入って実行しようと思ったことに点字がある。点字を学んでみようと思ったのだ。大学生時代友人が全盲で、また彼女を支えるサポートグループにも友人がいて、点字についてはなんとなく関心をもっていた。いつか学ぶだろうとも思っていた。なのに気がついたら学ばずしてもう30年以上の年月が経ってしまい、このままだと一生点字を学ぶことはないかもしれないと恐れた。そう思ったら、思い立ったまま学習を始めてみた。この手のものは学習教材が比較的安易に入手できるだろう。それで「小学生から学べる!点字入門セット」というのを購入した。これで基本は全部足りる。

長年点字に関心を持ち続けていたつもりだったが、学習を初めて見ると、ごく基本的な点字の仕組みも理解していなかった。いや、横二点、縦三点の六点で一文字が構成されるというのは知っていたが、具体的な構成原理は想像していなかった。こういうのは小学生くらいに知っておくといいものだ。と子供にちょっと話したら、学校で学んだ、と言っていた。現代ではある程度点字の基本を学校で教えていることを知った。

点字の構成だが非常に数学的にできているものだと感心した。基本、点を打つ、点がない、という二進法原理だから、数学的にバリエーションの限界は決まる。それをどう合理的に配列するかだが、重要なのは、この文字は触れることでセンスされるので、六点中一点だけで分別する文字を6つ作るわけにもいかない。点が一つだけだと、六点中どの位置にあるのかわからないからだ。同じことが他の組み合わせにも言える。これには数学的な構造があるなと調べてみると、なるほどきちんとそうした条件は守られていて驚いた。

点字の学習だが、最初はそれほど難しいものではないように思えた。点を黒丸にした記号、墨字というが、これを暗記するのはそれほど時間がかかるわけでもない。意外に簡単だなと思ったのだが、違った。点を打つときは、紙の裏側から打つので、打つためのイメージは墨字の左右対称鏡像になる。つまり、表と裏と2セットの文字を覚えなくてはいけない。しかし、これもそうとわかれば覚えることは可能だ。

表記は音声主義によっているので、「こんにちは」は「こんにちわ」になる。「東京」も「とーきょー」になる(はず)。これらはいわばローマ字に準じている。

間抜けなことに一番むずかしいのは、点字を読むことだった。自分の書いた(打った)点字が読めないのである。指の感覚は比較的に繊細なほうではないかと思っていたが、なかなか判別しにくい。点字をすらすらと読むのは難しいものだと思った。点字を書く(打つ)より難しい。練習はしているが、向上する実感がない。私としては、いつか点字で詩を読んでみたいなと思っている。光のないところで、指で詩を読んでみたいと。

それでも街なかにある点字に触れてみることは多くなった。自販機の金銭投入口に「こいん」と書いてあるのを、自分としてはであるが発見してけっこう感動した。「コイン」は日常語ではもうあまり使わないが、こういうところにはある。それとアルコール飲料には「おさけ」とあった。たしかにこれがないと困る。あと、不思議だなと思うのだが、六点をすべて打つと「め」の文字になる。これは偶然だろうか。

点字は読むという面から考えるとかなり難しいものだなというのが実感なのだが、現代の点字支援はどうなっているかも、この機に見渡してみた。点字図書館にも行ってみた。点字グッズも買った。

当たり前といえば当たり前なのだが、点字文書の作成には、私が大学生だったころの「カニ足」と呼ばれていた点字タイプライターよりも、パソコンの支援システムが普及しているようだった。つまり、点字教材は、ひらがなで点字の規則どおりに書けば、パソコンで点字の印刷もできるようになっていた。それはたしかに技術の進歩でもあるのだろう。が、健常者が点字を読むという機会は減ったかもしれないとも思った。

点字を学びながら、子音と母音の組み合わせの構成をみて、そうだな、ハングルにも似ているなと思い、もしかしたら、点字の仕組みから新しいひらがなが考案できるのではないかと思いついた。生まれてこの方、日本人をやっているが、日本のひらがなやカタカナというのはどうも形状が不合理だと思っていたのだ。ケロロ軍曹のギャグではないが、「ダソヌマソ」みたいなことになりかねない。「あめぬ」なんかもどうだろうか。

ひらがなを個人的に作りなおしてみよう。どうせなら、点字から転写できる子音と母音の形態を簡素に考え、さらに早書きできるものがよい。と、いくつか形態を考えてみて、あれ?これどっかで見たことあるぞと思った。速記文字である。というわけで、速記文字を調べてみると、点字とは異なるが、似たような発想で考案されていて、どれも似たように見える。

つまり、ひらがなを早書きに合理化すれば自然に速記になるのか。というわけで、速記についても少し関心をもつようになった。これはまた。
 
 

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2016.01.27

たぶん、ネット保守はアジア全体の傾向

昨日のエントリーを書いたあと、まいどのことだが、私をネット保守認定とまでいくかはわからないが、俗流の文脈で捉える意見を見かけた。個別の点についてもう少し議論を深めてもよいのだが、基本的にこのブログを長く読んで理解されている人でもなそうなので、誤解が深まるだけだろうなと思った。

とはいえ、俗流の文脈については別途思うことはあった。近いところで言えば、民進党・蔡英文氏が大統領に選らばれるにあたり、ネット保守的な一群からピントがずれたような台湾支援を見かけた。俗流というのは、単純ということでもあり、反中共または反韓国・反朝鮮ならなんでも支援しちゃうような安易さである。

この点についてはしかしたいした議論にもならないだろうなと思っていたが、ジセダイというサイトでこれを扱った「日本で「俗流台湾論」があふれる不思議 台湾総統選に見る「上から目線」」(参照)という考察を見かけた。

 ところで、今回の選挙結果に最も強い関心を示した外国は、(中国政府の関係者を除けば)おそらく日本だっただろう。一昔前までは、中国への配慮から青天白日満地紅旗(中華民国の国旗)が画面に映り込むだけでモザイクを掛け、「中華民国」という言葉すらタブー視していたNHKをはじめとするテレビ各局も、現在は普通に取材班を送り込んで詳しく報道するようになった。台湾がそれだけ「普通の隣国」として扱われるようになった証拠でもあり、かの国はもちろん日本のためにも喜ばしい現象だといえるだろう。

 また、ネットなどを見ると、選挙戦の期間中から蔡英文を応援したり、当選を喜んだりする声もけっこう大きかった。今後の蔡政権は中国と一定の距離を置き、比較的「親日」的な姿勢を示すことが期待できるため、こちらもやはり自然な話である(私自身、どちらかといえば緑色陣営の勝利を喜ぶ側だ)。

 もっとも、日本での動きには現地の感覚から見てちょっと不自然な「解説」や「応援」をおこなう人たちがかなり多く見られたのも事実だ。ことに特定の政治的立場に立つ人ほど、恣意的な解釈をアピールする傾向が強かったように思える。ややお節介ではあるが、本稿では以下、これらにいちいち突っ込みを入れていくことにしたい。報道が増えたとはいえ、台湾は日本国内において情報の絶対量がすくない国であり、小さな誤解でもある程度は訂正作業をおこなっておくほうがいいかと思うからだ。

該当記事はまさに「いちいち突っ込み」が入る趣向だが、重要なのは基軸の「台湾ナショナリズム」の概念だろう。この問題については書籍としては以前このブログで簡素ではあるが扱った(参照)、同題の書籍に背景など含めて詳しいには詳しい。だが、同書は該当記事とやや視点が違う面もあり、端的に言って「台湾ナショナリズ」の捉え方は難しい。

とはいえ、「ナショナリズム」といえばネット保守だ、といった単純な日本のいわゆるリベラル派については、該当記事の次の指摘は示唆深いだろう。

 日本は言論や思想信条の自由が保障された国だ。なので、日本のリベラル層の人たちが、日本国内のナショナリズムの高まりに嫌悪感を抱くのは自由だし、その立場も十分に尊重されるべきだ。だが、いくら嫌いであっても、ナショナリズムという要素自体を「なかったこと」にして外国の現象を解釈するのは明らかに問題ありだろう。ネット保守の人たちと同じく、党派性に凝り固まった考え方の先に事実が見えることはないはずなのだ(事実を意図的に見たくないならば話は別だが)。

「台湾ナショナリズム」については、実際には米側の研究も含め各種の研究はあるだろうが、私が最近、いや最近でもないかな、これを考える際の基軸を、具体的な現存国家の関係のイデオロギーから排すのは当然としても、アジアを含め新興国の基調的な傾向に置いている。

これは、いわゆる第2次世界大戦以降の民族自決といった民族と民族国家の枠組みとは異なる。独自の大衆文化とメディアの均質性が熟成が必然的にナショナリズムを生み出すだろうという考え方だ。学者さんがこれにどう着目しているかは知らないが。

そうした面で、「台湾ナショナリズム」に対応して興味深いのは「韓国ナショナリズム」である。これは韓国という国家、その憲法からも伺われるナショナリズム的な傾向といったものではなく、むしろ昨今の傾向であり、具体的には、「民族統一」というイデオロギーの対立として浮かび上がってきた新しい傾向である。

関連する最近見かけた論考としては、ディプロマット「Young South Koreans' Realpolitik Attitude Towards the North」(参照) がある。若者世代がタカ派化しているというのである。

Those coming of age today (the 20s age cohort: university students and college-age people) are doing so under political conditions very different from their barely older compatriots (those in their 30s and 40s). There are many ways to describe these conditions, but the simplest explanation might read as such: political conditions today have been shaped by post-Sunshine Policy politics and the armed provocations of 2010. The result, for young South Koreans, is a relatively more hawkish political attitude towards North Korea.

現在の若者(20代年齢層:大学生や大学時代の人々)は、概ね上世代の同胞(30~40代のもの)とは非常に異なる政治的条件の下でそうしている。これらの条件を記述するに多くの方法があるが、最も簡単な説明は。このよう読まれるかもしれない:今日の政治状況は、ポスト太陽政策の政治と2010年の武力挑発によって形作られた。その結果が、若い韓国人には、北朝鮮に対する比較的よりタカ派の政治的態度である。

原文ではこの主張を補う統計なども記載されているが、論点としては、太陽政策の失敗と、経済力を背景とした国家プレザンスの向上から、若者層に韓国が単一の国家であるするナショナリズムが形成されつつあるという点である。

別の言い方をすれば、従来型の「朝鮮ナショナリズム」による「統一」の考え・イデオロギーが後退しているとも言える。

私はこれは昨今の、「台湾ナショナリズム」と同じ傾向にあると考えている。若者層のなかには、すでに「一つの中国」といった考え・イデオロギーは感覚としては失われているだろう。

ここから議論が粗くなるというか、端折ることになるのだが、実は日本も同じ傾向にあると私は見ている。つまり、日本の若者層も日本国家や社会の問題が優先された保守的な傾向が基調にあり、それが旧来の文脈なかで影絵のように浮かび上がっているのが、いわゆるネット保守言論やその陰画としてのSealdsなどに見られる対抗リベラルの表層的な現象でないかと。

台湾における「一つの中国」という幻想、韓国における「統一」という幻想、それらに対応した日本の幻想はなにかと言えば、残念ながら、「平和憲法」という幻想なのではないかと思う。もちろん、それを幻想とするとはなにごとかという批判は当然期待されるのだが、私が言いたいのは、それはすでに多数の若者の意識のなかにあるだろうという現実のなかで、どのように非幻想化するかという課題を提出すべきだろうということである。

「一つの中国」が幻想ではないなら現実はどうあるのか。「統一朝鮮」が幻想ではないなら現実はどうあるのか。「平和憲法」が幻想ではないなら現実はどうあるのか。それらを幻想の側にイデオロギー的なあるいは情感的な圧力をかけて幻想を復元的に強化させようとしても、実態は変わらないのではないかと思う。私たちは、現在、アジアのなかで、新しいナショナリズムの大きな潮流を今見ていると考えたほうがよいのではないか。
 
 

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2016.01.26

台湾「大統領」蔡英文が中国を抜いて世界に伝えた日本への謝辞

蔡英文氏が台湾の「大統領」になることは事前の動向からわかっていたし、中共側も今回は早々に敗北を認めていたゆえに、前「大統領」馬氏との対応のパフォーマンスなどを演じていた。つまり、今回の民進党政権の樹立は国際的にはとりわけ新しいネタでもないので、ぼんやりと眺めていたのだが、一つ気になっていたことがあった。蔡氏が当選した際の会見についての、産経新聞での報道、「「尖閣は台湾側に主権があるが、日本との関係強化を続ける」 英語通訳のみ日米名指しで感謝」(参照)である。

ネットなどではありがちに尖閣諸島の帰属への言及が注目されていたが、台湾の大統領として従来からの建前の国是を変えるわけもないので、どうでもいいことではある。気になったのは、英語通訳のみ日米名指しで感謝というくだりである。

 ■なぜか英語通訳のみ日本と米国を名指しで感謝
 「私はこの機会を通じ、台湾の人々を代表して、台湾の民主的な選挙への関心と支持に対して海外の友人たちに感謝したい。台湾は国際社会の一員として積極的に国際協力に参加したいと願っており、全世界の友人と利益を分かち合い、責任を分担し、地域の平和と安定のために最大の貢献をしたい」

 《「海外の友人」に感謝を示すくだりで、なぜか英語の逐次通訳のみ「米国や日本、その他の国々を含む(海外の友人)」という、本人が中国語で発言していない表現が出てきた。本人が原稿の表現を飛ばしたのか、あえて英語のみこの表現を入れたのかは不明だ》

この時点の産経の報道では、中国語(国語)の発言と英語通訳の差について、読み飛ばしか、あえて英語で入れたのか、不明としている。普通に考えれば、失念による読み飛ばしか、中共に配慮した意図的な読み飛ばしであろう。どちらかはわからないが、ふと思ったのは、なんらかのエラーの類であれば、公式文書では訂正されているはずだということだ。そこで、ちょっと原文にあたってみた。民進党のサイトはほぼ公式としてよいだろう。「總統當選人蔡英文國際記者會致詞中英譯全文」(参照)より。

藉由這個機會,我也要代表台灣人民,感謝國際友人,對於台灣民主選舉的關注和支持。做為國際社會的一份子,台灣願意積極參與國際合作,台灣也願意與全世界的盟友共享利益、共擔責任,並且為區域的和平穩定,做出最大的貢獻。

On behalf of the Taiwanese people I would also like to use this opportunity to thank our international friends including the U.S. Japan and other countries for their support towards Taiwan’s democratic election. As part of international society Taiwan is willing to participate in international cooperation efforts sharing the same benefits and shouldering the same responsibilities as our partners from around the world. We will also greatly contribute towards peace and stability in the region.

会見時のままが掲載されている。つまり、中国語では日本への言及がないが、英語ではかなり明瞭に日米が特記されている。つまり、今日台湾で民主選挙ができる最大の貢献者は米国でありついで日本であった、というメッセージが読み取れるし、このことは英文を通して理解される世界に向けて明確に発せられているとしてよい。

では日本ではそのメッセージを受け止めたかというと、蔡氏は他所でも同種のことは述べているので、それなりに受け止めたとしてもよいのだが、先の産経報道の指摘に注目したメディアは見当たらなかった。

というあたりで、ふとでは英文で受け止めたメディアの反応はどうだったのかとBBCあたりを覗いてみると、当然がらそこはきちんと受け止められていた。「Tsai Ing-wen elected Taiwan's first female president」(参照)より。

She thanked the US and Japan for their support and vowed Taiwan would contribute to peace and stability in the region.

かなり明確に、米国と日本と限定されている。

そこで、ふとこれBBCの日本版ではどう報道されていた調べてみた。該当英文記事が示唆されている記事はすぐに見つかった。「台湾総統選で野党・民進党主席が勝利 初の女性総統に」(参照)である。

ところがこの記事には、英文報道にはあった該当の日米への謝辞についての記述がないのである。明らかに翻訳記事ではない。率直に言うと、日本語BBCでは、台湾の大統領が日米に謝辞を述べた部分について、日本語では報道をはずしたのである。

日本版BBCが独自の報道見解を持ってもよいと思うが、こういう台湾国内における中共への配慮のようなものを日本向けに踏襲してくれるのは、やってくれましたね、感はある。

まあ、総じてみれば、台湾問題について日本語のメディアにはいまだに中共の顔色を伺うという空気のようなものはあるのだろう。


 
 


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2016.01.25

[書評] ジョセフィーヌ! アラサーフレンチガールのさえない毎日(ペネロープ・バジュー)

フランスの現代漫画(正確にはBD)の『ジョゼフィーヌ! (アラサーフレンチガールのさえない毎日) 』が面白かったので、その続きが読みたいものだなと、フランス語の原書の二巻目を注文しておいて忘れていたのが、昨日届いた。失敗といえば失敗。続きの本ではなかった。日本で発売されているのは、原書の3巻を合本にしたもので、私が購入したのはその第2巻目であった。しかし、開いてみると、これはこれでよかったなと思った。つまり買って良かった。その話はあとで。

『ジョゼフィーヌ! (アラサーフレンチガールのさえない毎日) 』は邦題のサブタイトルでわかるように、パリジェンヌのジョセフィーヌのさえない毎日が描かれていて、笑える。作者のペネロープ・バジューが1982年生まれだから、今年は34歳になるのかな。女性の年を数えるのも失礼だが、世代の感覚というのを知りたいと思った。もとは彼女のブログらしい。最初の巻が出版されたのは、2010年だから28歳のこと。日本語では「アラサー」として30代を想定しているが、実際に描かれているのは比較的現代の、20代後半のパリジェンヌの生活実態ということだろう。

2009年らしい統計だが、フランス女性の初婚年齢を見ると、29.8歳。厳密に調べたわけではないが、だいたいそのあたりだろうし、日本とさほど変わりない。実際、この漫画(BD)を読んで思うのは、日本のその年代の女性と似た感覚なんだろうなと思えることは多い。もっとも、そうでもないなあと思えるところも多く、私などはそのほうが興味深い。

という話をしたのは、平均的な婚礼年齢の意識というのがこの物語の背景にどうあるのかということだった。ざっと見た印象の一つでいえば、この物語は、恋愛に不遇な二十代後半の女性がそれほど冴えないけどやっていけそうな男性と暮らして、妊娠したというあたりまでの話になっている。というわけで、子供が生まれたあとはどうなのか、気になって続巻を求めたつもりだったわけである。が、つまり、そこまでの、妊婦になるというまでが、『ジョセフィーヌ』のテーマとも言えるし、なんというのか、子供を持ちたいという内的な感覚が、とても上手に表現されている。

ネットを眺めたら、著者のペネロープ・バジューさんは、2014年、在日フランス大使館とアンスティチュ・フランセ日本が主催の文学とBDのフェスティバル『読書の秋2014』に来日していて、そのインタビュー記事もあった(参照)。インタビューがまずいとも思わないが、パジューさんの思いと少し違っているかなと思われるのは、BD(バンド・デシネ)の感覚だろう。

ペネロープ いいえ、そうした目的で作品を描いているのではないのでまったく考えていませんでした。私がやりたかったのは、自分の作品を作ることなんです。ただ、ひとつ困惑したことがあります。2008年に出版したブログ本『あたしの人生、なんて魅力的なのかしら』がすぐに売れて、マスコミに数多く取り上げられました。そのうちにさまざまな社会的事象について、マスコミからコメントを取り上げられる機会が増えました。私自身や作品には関係のないことも、です。そういうことは決して得意ではないし、好きではありません。  マスコミに自分が露出することは好きではないんです。私の目的は、作品を世に出すことですから。ただ、これはひとつのチャンスだと考えて、最近では今の立場を利用して意見を発表するようにしています。そうした露出の管理はできるようになったな、と思っています。
ペネロープ 日本のマンガと違って、バンドデシネは制作にとても時間がかかるので、あと10作品描けたらいいなと思っています。すでに頭の中にあるアイデアを作品にしたいというのが、正直な思いです。私はそんなに描くのが早くないので。

この思いは作品を手にするとよくわかる。この手の自虐ギャグは日本にも多いが、この作品で特徴的なことは、まずカラーセンスだろう。基本的に1ページで終わるネタが多いが、それには基本のカラーが選択されていて美しい。それと、風景というものへの感性がとても精神的な遠隔性を表現しているのも美しい。

そして、原書を手にしてわかったのだが、セリフはすべて手書きだった。そして、この手書きが、筆記体だったのである。この筆記体の手書き文字というものの、人間らしいカリグラフィックな感触が全体のアート性ととてもきれいに調和している。1ページをそのまま切り出して、額に入れて壁に飾ってもいいくらいだ。

このところフランス語の文字、とくに筆記体のことをブログにも書いているが、お手本としているのは、筆記体のフォントやいかにもきちんとデザインされたお手本ばかりで、実際にフランス人がある程度美的なセンスを意識した普通の筆記体のフランス語の文字という意味でのお手本がない。この本は、その部分でとてもいい「教科書」になった。ああ、そこで続け字を切るのかとか。またところどころ、活字体風の手書きを効果的になっているのも面白い。

原書が手に入ったので、翻訳の状態はどうかなと付きあわせてみた。誤訳の有無については私などにはわからないが、購入した2巻の最初のページでも、あれ?と思った。

パリだろうカフェの道側の一人席でジョセフィーヌがサングラスして雑誌を読んでいる。ポジティブ心理学というものらしい。まあ、日本の雑誌やネットなどにもよくあるあれだ。

「理想の恋をしてますか?」
«Étes-vous sûre de mener la vie amoureuse dont vous rêvez depuis toujours ? ...
(ずっと夢見てきた愛の生活を確実に送っていますか?)

「もっと前向きに」
...Et, si vous osiez enfin dire oui au bonheur ?
(で、つまり幸福にイエスと断言するか?)

そして、幸せもまた鍛錬すべきだという話のあと、細身のイケメン男性が店内から瓶とグラスを下げにくるところで彼女はこう読む。

「自ら働け!」
...Prenez des initiatives !
(いろいろ主導しろ!)

で彼女は、サングラスを外し、どきまぎ汗して(これは日本漫画様式かな)、上目でで彼にオフになったらどうするの、ときく。そのときの彼の答えが、

「彼氏とご飯かな!」
Mmh... À priori, je dûre avec mon amoureux !
(当然、恋人(男性形)と過ごすよ。)

そのあと、ジョセフィーヌには空笑いしてから、ブチ切れる、というオチだが、フランス語だと、la vie amoureuse と mon amoureuxの対比がとても面白いし、主導権を取ろうとしてコケるあたりも面白い。

きちんと読むと、フランス語のお勉強にもなってしまいそう。そういえば、ヴァカンス先で、机にしまった「お寿司」を思い出すというシーンがあり、原文ではどうかなと調べたら、寿司だった。

ところで原書の帯に映画化されたとある。あった。これ見たいなあ。


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2016.01.24

Y はギリシアの I

そういえば、イタリア語のキーボードはどうなっているのかと調べてみると、普通に、というのも変だが、QWERTY配列を使っていた。もともとラテン語を継ぐ言語なのだから、ラテン字母を並べたキー配列を使うだろうと思ったのだが、考えてみると少し奇妙である。もともとキーボードの元になるタイプライターは米国人の発明だから、イタリアには米国経由でそのまま入り、フランス語ではフランス語に合わせて変化したということだろうか。

気になってスペイン語やポルトガル語のキーボード配列を見たら、イタリア語同様、QWERTY配列が基本であったようだ。これらは、タイプライターのニーズの歴史にも関わっているのかもしれない。

ついでにイタリア語のアルファベットを見ていて気がついたのだが、英語と同様、またフランス語とも同様に、26文字を使うのだが、英仏語とは異なって、26文字がフラットに同様の文字として扱われているのではなく、KJWXYの5文字は外来語表記用として別途意識されている。なので実際のところは、イタリア語のアルファベットは21文字だけとしてよい。別の言い方をすれば外来語を廃するなら、イタリア語では21文字で足りるということになる。このあたりの文字セットの意識はイタリアの子供でも意識されてはいるのだろう。

イタリア語のネイティブではないその5文字の読みを見ると、Kが「カッパ」、Jが「イ・ルンガ」、Wが「ヴ・ドッピャ」、Xが「イクス」、Yが「イプスィロン」、Zが「ゼータ」となっている。Jに「ヨータ」の読みもあるところから、これらはW以外はギリシア語のアルファベットの読みに関連する意識を継いでいることがわかる。それはラテン語のアルファベットがそもそも、そういう意識、つまり、ギリシア語の外来語を表示するために作られたという意識を反映しているのだろう。

ラテン語のアルファベットについて言えば、母音Iの子音表現がJ、母音Uの子音表現がW、でもあるだろう。英語では、これがIがYに対応している。Cityの複数形がCitiesになるのは広義にはこのため。

また、イタリア語では、Jの「イ・ルンガ」は「長いI」、Wの「ヴ・ドッピャ」は「Vがふたつ」である。英語のWは「Uがふたつ」ではある。

ということをぼんやり考えていたら、ああ、なるほどと思うことがあった。フランス語のYが「イ・グレック」、つまり「ギリシアのI」なのは、同じ理屈からだろう。イタリア語でも、Yについてはいちおう「イ・グレーカ」の読みもあるにはあり、同様に「ギリシアのI」ではあるが、イタリア語の場合は、Y自体が外来語用の文字だが、フランス語の場合、Yは、外来語的ではあるが明確に母音体系として意識されている。つまり、そのことがフランス語における「イ・グレック」という呼称の、Iを強調する含みなのだろう。

そもそもラテン字母は、ラテン語がギリシア語の関わりで子音字母を拡張してまとめられたとも言えるし、これらの母音字がラテン語の母音5音でそのまま維持されたために、フランス語やドイツ語などの言語では母音字の拡張として音表記にアクサンやウムラウトなどができたのだろう。これがキーボードの困難さの起源とも言えるかもしれない。

この点、ロシア語の場合は、文字セットそのものを作り変えたとも言える。ただ、ふと思うのは、ロシア語の場合は、軟母音に独自の字母を当てなければ、ラテン語の5母音で足りたので、ラテン字母の表記もあっても不思議でもないように思える。

英語のアルファベットは、元来は、ドイツ語のようにラテン字母と音を意識して変遷するはずだったが、大母音推移が正書法改革を起こさないまま続いて、なんとも恣意的なものになってしまった。逆にいえば、ラテン字母のまま表記できる言語のまま維持された。母音の特性を母音字に反映するための規範という考え方が、国民国家として十分に発達しなかったことから、そもそもなかったのかもしれない。

こうした英語の奇妙な性質は、英語に閉じた外国語教育からは見えにくいだろうなとも思った。
 
 

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2016.01.23

フランス語入力に向かないフランス語キーボード

そうなんじゃないかと思っていたが、はやりフランス語のキーボードはフランス語入力に向いてないようだ。AFPのニュースが面白かった。「正確な仏語作文、キーボードが妨げ?仏政府が指摘」(参照)より。

【1月22日 AFP】言葉を正しく使用することにこだわるフランス人にとって、完璧な文章を入力する際の妨げとなっているものはキーボードの配列だった──。仏文化・通信省は最近発表した報告書で、フランスで使用されるキーボードの配列が「正しいフランス語の入力をほぼ不可能にしている」と指摘した。

 文字の上にアクセント記号を付けることはおろか、極めて重要な記号やユーロ通貨の記号のような簡便な記号を入力することさえ不可能な現状に対し、同国政府はキーボードの配列を微調整するよう求めている。

ちなみにフランス文化省のソースは、"Vers une norme française pour les claviers informatiques"である(参照)。

Saviez-vous que, contrairement à la plupart de ses voisins européens, même francophones, la France ne dispose pas, aujourd’hui, d’une norme décrivant le clavier utilisé sur les différents matériels informatiques traditionnels ?

BBCなんかでもこの話題はけっこくしつこく扱われていた(参照)。

実感としていうと、フランス語のキーボードはそこまでひどくはない。とはいえ、フランスで標準とされるAZERTY配列は、通常英語で使うQWERTY配列と主要なキーの位置が少し違うので、英語を書いているときと、フランス語を書いているときのキー操作の意識を切り替えるのがいらいらする、というか混乱する。

この混乱は二つの方法で回避できる。一つはカナダで使われているカナダ方式のキーボードを使うことだ。まあ、これでかなり解決する。英語のキーボードを拡張したようになっているからだ。もう一つの解決策は、英語のキーボードにinternationalというのがあり、これだと、フランス語もドイツ語も入力できる。

じゃあ、それでほとんど解決かというと、シルコンフレックスがうまく行かなかった。というわけで、英語を頻繁に使う日本人がフランス語も入力するというなら、カナダ方式でよいし、以前も書いたが、Chromebookだとこのキーボードの切り替えがかなり簡単にできる。

ところがまだ問題はあるのだ。フランス語の引用符である«»の入力方法がわからない。このあたりはかなり機種依存の問題でもある。Chromebookだとどうなるのか調べてみたら、どうもカナダ方式のキーボードに多言語というのがあって、それだとできる。じゃあそれでいいかというと、日本人が使っている日本語キーボードだと左Shiftキーがでかくて、Zの左のキーがなくùが入力できない。とほほ。通常のカナダ方式のほうがまだましだった。

そのほか、キーボードについてはユーロ記号などいろいろ微細な問題があるが、どっかで妥協するしかない。

さて、今後フランス本土ではキーボードはどうなるかだが、フランス文化省としても急いで変更するというのでもないようだ。BBCではドヴォラーク方式に近いBÉPOという方式も紹介していたが、時が経てば意外とカナダ方式が普及していくかもしれない。とはいえ、このQWERTY配列もなかなかに不合理なものだ。

そもそも問題として、どいうしてフランス語にはラテン字母がアクサンなどで拡張されているかというと、基本はそのほうがフランス語の音声や歴史的な音変化を写しやすいからだろう。それも言語の伝統であるし、慣れると、英語のように無理やりラテン字母で正書法を抑えこんだ言語のほうが不思議にも思えてくる。

ラテン字母の拡張といえば、エスペラント語にもあるのだが、このキーボードもあるのかちょと調べてみたら、ちゃんとあった。昔はタイプライターでエスペラント語を書くのはけっこう大変だったが、隔世の感はある。と、見ていったら、先ほどのBÉPOはエスペラント語にも使われているようだ。へええ。

キーボードなんて変な入力インタフェースだなとも思うが、根本的な改善は難しい。個人的にはせめて入力方式だけでもドヴォラーク方式にしたいと思っていたのだが、いまだ果たせない。

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2016.01.22

Chromebookを買って変わったこと

年初Chromebookを衝動買いした。この手の衝動買いで当たる確率は、高くない。低い。一割行くだろうか。それでも一割のヒットは自分を変えるのだが、ハズレの多さに自己嫌悪と、そして、安物買いがつきまとう。そしてこれがヒット率を下げて、さらに悪循環に至る。ふつう、たいてい。しかし、今回はとりあえずここまでの現状では、そうでもない。安物Chromebookはとりあえず当たり。どう当たったかということは、どう自分が変わったかだが、気軽に文章を書くようになった。

思えば思春期から何かと書く人ではあったし、自分としてはそれでも、さほど書く人でもないとも思っていたが、まあ、話を端折るとそれがいつからか、書くことはパソコンに向かうことになり、パソコンとの関わりが書くことに影響しだした。簡単にいうとパソコンに書くことが支配されて、うざったいのである。特に、パソコンがである。うざい。何がよくないのか。固定される、その上、起動が遅い。

デスクトップパソコンは字義通りデスクに固定され、利用者が固定される。良い面もあるが、強制感が強い。じゃあ、ノートパソコンでいいじゃないか。これが嫌いなのである。重いからだ。ノートじゃないだろこの重さ。関連して重たいからそれほどほいと持ち歩かない。結局、ノートパソコンといっても使っているときは、デスクトップと変わりない。

これがChomebookだと、けっこうそうでもない。軽いというほどではないが、ずいぶん軽い。読みかけの本に栞をする気軽さで、デスプレイをぱこっと綴じて、適当に片手で本みたいに置いておける。

だったらMacbookでいいんじゃないか。そのとおり。Macbookはいいなと今頃思うようになった。

Chromebookは意外なほど電池の保ちがよい。日なが使ってもそれほど充電を気にすることはない。それでも逆に長時間使うようになり、もっと電池が保っていいのにとは思う。もっと軽くてもいいとも思う。

起動はめっちゃ早い。デスプレイをぱかっと開くとすぐに使える。アプリも機能が制限されていることもあるが、もたつきはない。このドアを開けたらすぐしば漬け(古いなあ)感はパソコンというものの感覚を変える。まあ、これもMacbookは同じだろう。

と書いていくと、Macbookに勝るメリットはなんもないぞと思う。まあ、そうだな。

メリットばかりを書いたがデメリットも多い。基本、Wifiがないところでは使えない。しかし、どうも世の中、けっこう使える方向にはなっていく。クラウドへのセーブもすっかり慣れてしまった。ちなみに、オフラインでの保存もできるし、文章書きくらいならオフラインでもできる。

他、デメリットでは、使いたいアプリケーションが使えないこと。例えば、イラストレーターは動かない。Wordすら動かない。Excelも。だめじゃん。じゃあ、なんも使えないじゃないというと、まさしくそれはそう。ただ、この手の作業は基本部分ならけっこうなんとかなってしまう。それは使い分ければいいのだなと思う。

あと、アンドロイド端末のアプリも動くといいなと思って、移植してみたら、けっこう動いた。ネットの情報を見ると動かないという話が多いが、単純なアプリなら動く。FlipboardもWeb版が出たらしいが、試しに移植したら動いた。

Chromebookが自分の生活に定着してきて、使い勝手の広がりが合わせて、あれを買ったのである。あれ。先日、IKEAに行ったおり、Byllanという、ラップトップ膝のせ台。これも多分に衝動買いである。外国人を見ていると、日本人がノートパソコンと呼ぶラップトップパソコンを椅子に座ってマジでラップトップに載せて、よくぱこぱこ操作しているが、あれのサポートによいのだろうなと思ったのである。使ってみると、意外によい。なるほど、ラップトップ(膝のせ)かと思う。膝も暖かいし。アフィリを貼っておくが紹介のためで、実際に欲しいならIKEAで買ったほうが安いです。

結局、Chromebookと限らないが、ノートパソコンというのは、できたらせいぜい800g程度での重さでサイズは、学校とかで使う普通のノートより少し大きめがよいだろう。キーボードの打ちやすさにはある程度の大きさが必要だし。

というので言い忘れていたが、Chromebookもものによるのだろうが、キーボードがとても打ちやすい。この手のもので打ちやすいなんてないと思っていたのだけど、考えを変えた。タッチバッドも当初は使いづらいと思っていたが、慣れた。これってマウスより便利かもとも思う。二本指スクロールは便利だなと思う。スリータップ操作も便利。

他、いろいろキーボードショートカットがあって(Ctrl+alt+?でヘルプが出てくる)、使えるショートカットを増やしていくと、操作はさらに簡便。昔、Vzエディターを使っていた感じになる。外国語を使う人にもいい。以前にも書いたが、フランス語とロシア語のキーボードの切り替えているが簡単。C'est facile.Это просто.それ以前に日本語と英語の切り替えも簡単。

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2016.01.21

[書評] ぼくがいま、死について思うこと(椎名誠)


どう生きたらよいのか。そう迷うとき、何気なく実践していることがある。自分より10歳くらい年上の人の生き方を見つめることだ。身近な人や著名人など。10年の差は、時代にもそれなりに差が生まれるので、自分の参考にならないことも多いが、それでも自分の年齢と10年以内だと近すぎるし、10年以上だと遠い。とはいえ、それで割り切れるものでもなく、曖昧なレンジのなかで、その人はどう生きているのかと考えることはある。そして、そろそろ、どう死ぬのかということも。

そうした思いに比較的に日常的に浸されている自分としては、cakesの連載(参照)でも取り上げた椎名誠さんが死についてどう考えているかは気になるので、表題につられて「ぼくがいま、死について思うこと」を読んでみた。というか、文庫本で見かけたので読んだ。

実はこう言うとなんだが、椎名さんなら、死についてその歳まで考えたことがない、そして世界の見聞の広い椎名さんのことだから、いろいろ酒席で聞くには楽しい話題を花束のように展開されるのではないかと思っていた。予想はあたった。その意味で、面白い本ではあったが、私が読みたいと思っていた本ではなかった。

ではどんな本が読みたかったのか、おまえは何を期待していたのか、と問われると、当然ながら判然としない。なにか痛みや不安を伴う、真摯な表現だろうか。しかし、それこそが椎名さんに求められるものではない。

この本はなんだろう。そういう思いを心に据え直してみると、軽妙に語られる椎名節から、いつもながらのある薄暗い調性のようなものは感じられた。それは、むしろ、表向き死について語られている部分ではないところで。

例えば、「ぼくは体型や体重が高校生のころからほとんど変わっていない」と彼は言う。嘘だとは思わない。彼はだから昔の服がずっと着られるとも語る。そしてそれが日常的なストレスになっていないともまで言う。体と精神のコントロールが保てるとして、「それがたぶん、今ぼくが生きていく上でのアクティブな精神の基礎になっているような気がする」とまとめる。

私も若いころから体型が変わらない。30歳ころ父が死んで葬式に喪服を作ったおり、叔父が、これから君も中年になって太るからゆったりした喪服を作っておきなさいと言われて作ったが、その必要はなかった。それでも変わるきっかけはあった。自著にも書いたが結婚して沖縄暮らしをしたら体重が10kg増えた。驚いて普通を意識したら半分戻した。以降20年くらいそこからは変わらない。あと、菜食していたとき50kgを割ったことやヨガで肺が大きくなった、筋トレで少し肩がついた、とかあるが、微細。変わったといえば、これも自著に書いたが徐々に禿げた。もし機会があったら、禿げることについて本を書きたいとも思っているが、禿げるということは、禿げる自分に慣れるということである。と、同時に禿は差し歯と同じように繕ってもどうということでもないので、選択の問題でもある。

で、何が言いたいのか。私は結婚と禿で、体型ではないが見た目を変えたことで、少し死を受け入れたように思う。たぶん、椎名さんはそれがない。羨ましいかといえば、その文才のように羨ましいと思うのだが、では自分が禿で学んだ死の思いはどこに行くのだろう。ついでだが、この件ついては、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」に意外に長い考察がある。

つまらない自分語りになってしまったが、ああ、椎名さんは遠い、と思う。遠くて構わない。しかし、その羨望の歪みからか、なにかが語られていないという感じは残る。

椎名さんは、鬱も経験したが「それまでの人生、常にポジティブシンキングが基調だったぼくをネガティブな意識がはじめて侵食し、そいつをなだめながら二十数年。まがりなりにも今は毎日まあけっこう楽しい。といえるような日々が続いているので、まだ僕の前には「あらかさまな」死の意識やその影はちらついていない、と思っている」と記す、が、私からは、なにか若い身体に封じられているように見える。それは椎名さんにとっては、運の強さかもしれないが。

本書のきっかけとなったのは、彼の「主治医」中沢正夫医師の、死についての問いかけだったこともあり、文庫本では彼の解説がある。そこで中沢医師は椎名さんのこの本について「一人称の死(やがて来る我が身の死)については、まだ書く気分になっていないように見える」と静かに語って、見せている。少しきつい言い方だが、中沢医師の言葉は椎名さんには届いていなかった。届くべきだったかはわからない。椎名さんが届いた先の言葉を書く日が来るかもしれないし、そういうことは永遠にないかもしれない。それが悪いことでもない。本書に描かれる彼のお爺いちゃん姿の幸福と同じように、それも幸福というものの形かもしれないのだから。

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2016.01.20

[書評] ぼくは科学の力で世界を変えることに決めた (ジャック・アンドレイカ, マシュー・リシアック)

15歳の少年が独自に、初期段階の検査が難しいとされてきた膵臓癌の画期的な検査法を発明したという話題は、ネットで見かけてから気になっていた。ジャック・アンドレイカ君の話である。

まず、本当かなということが関心だった。なので、そのことが書かれいた本書を読んでみた。なんと言っていいのか、奇妙な本だった。「本当かな」という部分については、本当だったという点で、天才少年と天才的な発明の物語のドキュメント性はある。それだけでも面白い。そして当然だが、物語はその成功譚と苦難の物語になるのだが、そこがちょっと思っていたことと違っていた。というかかなり違っていた。

まず、ジャック・アンドレイカ君がどれほどすごいかというのは、TEDにある彼自身の話がわかりやすいかと思う。

天才というのはこういうものだなというのがよくわかるスピーチだが、見ていると、強調されているGoogleとWikipediaのほかに、さりげなくPLOS Oneが出くる。批判もあるが、この威力はすごいなと思う。

英語だが内容がわかりやすいので、もう一つわかりやすいドキュメンタリー風のものも紹介しておこう。

さて、ジャック・アンドレイカ君の主要な話はTEDに尽きているとも言えるし、邦題も副題とこのTEDから付けられたように思える。その意味で、この物語のメインロードははっきりしている。書籍のほうを見ると、さり気なくだが、彼の天才性はぎしぎし伝わってくる。

で、そう、で? 実は物語としてこの本を読むともう一つのテーマがある。LGBTの青年の物語なのである。うかつではあったが、ジャック・アンドレイカ君は、天才的な発明の連鎖ではあるだろうが、その面でもある種、ヒーローというか著名な唱導者にもなっている。

その意味では、本書は、天才少年の物語や、米国という国がどのようにイノヴェーションに開かれているかということに加え、普通に、と言ってよいと思うが、LGBTの青年の物語であり、さらに広義には、いじめられる青年の物語である。その部分は、読みやすく書かれてもいる。

翻訳書としての少し残念に思うのは、解説がないことだ。訳者の中里京子さんが一文書いてもよかったのではないだろうか。

原書はKindleにもあった。冒頭を読んでみると、現代米語らしい雰囲気だが平易な英語でもある。高校英語の副教材にも使えるのではないか。

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2016.01.19

IMF的に見た日本の経済の課題と労働政策提言で思ったこと

IMFは毎年日本経済の審査を行っているが、最近の審査状況が公表される前に概論的な発表の会があり、主に学生を対象としたようでもあるので、経済の勉強がてら聞きに行った。端的なところ、IMFが日本をどう見ているのか、文書以外な部分で感じ取れるものがあればよいと思っていた。

話題は大きく分けて二つあり、IMFによる、日本経済(主に財政・金融政策)への提言と労働状況についての提言である。

まず日本経済の課題だが、展望の条件が4つ提示された。まず、先進国間の金融政策の非対称性である。ごく簡単に言えば、米国の金融緩和政策が終わったことへの世界経済への影響と見てよい。発表会では言及がなかったが、その影響はマレーシアなどにすでに大きく現れている。つまり新興国マネーの問題になるだろう。

二点目が中国経済のリバランシング。これもごく簡単に言えば、中国バブルのソフトランディングとしてよいだろう。このあたりはIMF的な視点では、中国政府による対応が進みつつあることの評価が前面に出て、さほど危機感としては意識されてはいない印象を受けた。ようするに、中国の過剰な生産能力の解消に経済が内需主導型に切り替わることを期待するというものである。まあ、それ以外は結論もないだろうが。

三点目は貿易の縮小。四点目はコモディティ価格の不安定性。後者は基本的には原油と見よく、この二点合わせて実質、世界的な需要不足の問題である。

こうした条件認識からIMFとしては世界経済のリスクを捉え、日本経済のあり方を位置づけるということで、特段に目立った結論はでない。だが、印象としては、通称アベノミクスとされている金融緩和は好意的にかつ成功として受け取られているようだった。日銀についても、方向転換ではなく、現行政策の延長でいっそうの市場との対話よよくすることが求められていた。インフレターゲットで見ると、2%を割るようではあるが、その適度な安定した弱インフレが望まれるというものである。加えて構造改革が求められるという、毎度の話もあった。

日本の場合、近年の消費の落ち込みは統計上も目立つ問題である。そしてそのきっかけは消費税というどう見ても税政策の失態でしょう、というような指摘は微塵も感じられなかったし、これから来る消費税増への問題指摘もなかった。このあたりの暗黙の了解の空気はなんだろうかという違和感はあった。

構造改革については依然指摘されている項目が並び、新味はないが、その背景としては、少子高齢化の人口要因が強く意識されていた。これはつまり、労働状況の問題でもある。

そうした流れもあり、二つ目の議論は、日本の労働状況をどう改善するかという提言になる。こちらの話題は、各種の見栄えのしない徳目の羅列ではなく、日本の労働状況の分析から始まっていて興味深いものだった。要点はなにかというと、日本の労働状況の問題は、正規労働者と非正規労働者の二重性に問題があるとするものだった。

それだけ取り上げらればどうという話でもないのだが、方針としては、日本では正規雇用の保護が厳しすぎることと、非正規雇用の低賃金ということの解消が課題であり、それにはその中間的な労働形態を推進すべきだというのである。具体的なレベルの話ではなかったが。

会合は終始英語で勧められたのだが、この話題については、日本語で異論も出ていた。一つは、こうした二面性の問題は、原因ではなく、かつての日本経済の成功の惰性的な結果にすぎないということ。もう一つは、労働の二極性は停滞の結果であるとするものだった。どの議論もそれなりの支持は可能だが、大局的な労働人口の変化を考えると、いずれ、現状の正規雇用と非正規雇用の中間的な形態を取らざるをえないだろうという考えには落ち着く。

さしあたっての労働問題としては、賃上げがある。これが日本の場合、形の上での労働闘争より、政権主導で推進されているふうに見えることは、現在日本の奇妙な現象のようにIMF的には見えるようでもあった。

この点については、私などの印象からすれば、正規雇用の側から非正規雇用の視座を取り組んだ労働政策の不在があると思う。

個人的な印象でまとめるなら、この数年間のアベノミクスによる企業の貯め込む分を早急に労働者に還元することで消費を活性化する必要はあるだろう。

最後に、社会派ブロガーばりにおちゃらけた締めを言うのもなんだが、ネット的な正義に多い、いわゆる福祉的な再配分よりも、非正規雇用をまでも含めた賃上げの動向を生み出すことが重要には思える。

しかし実際のところ、こうした議論では、ルサンチマン的な視点を超えることが難しい。たとえば、正規雇用と非正規雇用の中間形態の模索のような提言は、擬似的なイデオロギー論のなかでかき消されるだろう。そのこと自体、つまり、日本における現行の政治的な言説は、実際には構造改革の抵抗として機能していく(正規雇用の高齢者保護)、ということなのだろう。
 
 

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2016.01.18

スウェーデンとイスラエルの関係悪化の関連でIKEAまで

日本での最近の報道では見かけなかったように思うが、スウェーデンとイスラエルの関係がいっそう悪化している。最近の話題としては、スウェーデンのマルゴット・ヴァルストローム外務大臣(H.E. Ms. Margot Wallström)がイスラエルを訪問しようとしたが、イスラエル首相など政府要人から面会が拒絶され、訪問はキャンセルされた、という話がある。イスラエル側の硬化の理由は単純で、一昨年スウェーデンがパレスチナ国家を承認したことや、ガザ空爆などでイスラエルの罪を追求しようとしていることがある。ただ、それがイスラエル側の公式の見解というのでもなさそうではあるが。

他愛のない話のようだし、日本のネットによく見られるリベラル派があまりこの事態に関心をもってなさげないのも、スウェーデンの対応は当然と見られていることもあるかもしれない。とはいえ、国際紛争を対話によって協調していこうという外交戦略をスウェーデンがもっているなら、自己満足的な外交を展開しても意味はないだろう。

この話題に私が関心をもったのは、そのディテールのほうだった。そもそもなぜ彼女はイスラエル訪問をしようとしたかというと、テルアビブでの、ラオル・グスタフ・ヴァレンベリ(Raoul Gustaf Wallenberg)についての会合に出席するためであった。ヴァレンベリについては改めて記す必要もないと思うが。第二次世界大戦のハンガリーで迫害されていた10万人ものユダヤ人の救出した外交官である。

オスカー・シンドラーや杉原千畝を思えばイスラエルとしても、この件についてはスウェーデンを厚遇してもよさそうなものだがなという思いがあった。ちなみに、マルゴットさんこうした活動に深く関与してきた。

日本などのリベラル派の文脈はこのあたりで終わりだろうと思うし、この先のイスラエル側の言い分を聞いてもさほど意味もないように思うのだが、なんとなくニュースを読んでいくと、ちょっと意外な話があった(参照)。リーバーマン外務大臣は、第二次世界大戦時のスウェーデンを評価していないどころか、当時のスウェーデンは富に目がくらんで、ユダヤ人強制収容所のことを知りながら看過したのだと批判しているのである。一種、スウェーデンの間接的な戦争責任を追求しているようでもある。

しかしそれは別のことのようにも思うし、戦争責任の話題を現在の外交問題に引き出すというのも外交という点では大人げないようにも思うのだが、大人げない話はさらに笑い話のようにつづく。彼は、IKEAのボイコットを提案しているのだった。IKEA不買運動でスウェーデンに圧力をかけるというのだ。なんだそれ? というわけで、これ自体がネタになってしまった。テレグラフなども取り上げていた(参照)。

バカバカしい話ではあるが、逆に考えれば、IKEAがまったくスウェーデンの外交と無関係とまではいえないだろう。一種のソフト戦略の一貫でもあるだろうし、スウェーデンの国家としてもその自覚はあるだろう。実際のところ、IKEAはイスラエルで、そのレストランなども含めて大人気ではあるし、私などもIKEAスタイルというのは好きなほうだなと思っている。スウェーデンといえば、IKEAスタイルというのがソフト戦略である分だけ、その文脈での衝突もあるだろうし、それは国際社会ではビジネス上の課題としても想定していくべきでもあるだろう。
 
 

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2016.01.17

ポーランドの現状の、「立法」と「法の支配」について

日本で報道がないわけではないが、あまり話題になっていない印象があるのが、ポーランドの現状である。私のごく主観に過ぎないかもしれないが、逆に私が気になっている部分をブログで書いておきたい。

ポーランドでは去年11月、右派政党である「法と正義」党による政権が発足し、国家の進行方向に変化を見せ始めている。先月には、憲法裁判所決定に必要な判事同意を従来の過半数から3分の2に引き上げた。これによって立法の違憲判断する条件が厳しくなる。つまり、違憲の疑念の強い立法が可能になる。

そして現在ポーランドでは、公共放送局を統制する法案の成立を進めている。公共放送による批判を抑えこむためである。簡単に言えば、報道の規制である。「法と正義」党は、前与党「市民プラットフォーム」党が任命した幹部が公共放送を支配していると見ている。

こうしたことに世界のリベラル派は懸念の声を大きく上げている。EUも批判の声を上げた。13日、EUの執行機関に当たる欧州委員会がこの問題を協議する会合を開き、加盟国に義務づける「法の支配」の原則にポーランドが違反するおそれがあるとして本格的な調査に乗り出した。

ここで私は単純な疑問を持った。主権国家であるポーランドが、正当な立法手順を経て成立した法で国内を統制することに対して、EUが「法の支配」を元に規制できるのだろうか? もちろん、そのことが加盟国義務であるからできるのだとは言える。だが、愚問に近い疑問は、「EU加盟義務」が問われているのではなく、「法の支配」が問われている点である。主権国家の上位に「法の支配」を置くことができるのだろうか、ということである。

EUの言い分は正確にはこうである(参照)。

ジャン=クロード・ユンカー委員長率いる欧州委員会の委員たちは本日、ポーランドの最近の動きと法の支配について、初めての討議を行った。法の支配は、欧州連 合(EU)が礎とする基本的価値の一つである。欧州委員会は、EU法の遵守を確保するという役割のほか、欧州議会、EU加盟国およびEU理事会と共に、 EUの基本的価値を保証する責任がある。特に憲法裁判所の構成員をめぐる政治的・法的論争など、ポーランドにおける最近の動きは、法の支配の遵守に関する 懸念を引き起こした。このため、欧州委員会は、憲法裁判所および公的放送機関に関する法の改正について、情報を求めた。フランス・ティーマーマンス第一副 委員長(法の支配担当)、ギュンター・エッティンガー委員(メディア政策担当)およびヴェラ・ヨウロヴァー委員(法務担当)による状況説明に続き、委員ら は、法の支配の枠組みの下でポーランドの現状を評価すべく、初めての討議を行った。本日の討議を受け、欧州委員会はティーマーマンス第一副委員長に対し、 法の支配の枠組みに基づく体系的な対話を開始するためにポーランド政府に書簡を送る権限を与えた。欧州委員会は、欧州評議会の「法による民主主義のための 欧州委員会」(ヴェニス委員会)と緊密に協力しつつ、3月中旬までに再度この問題を取り上げることに合意した。

仮訳らしいが、ここで主張されていることは、「法の支配」は、EUの「基本的価値」であると読める。

つまり、今回のポーランドの事態は、「法の支配」そのものが問われているということであり、これは、主権国家の限界に接している。

こうした議論でややこしいのは、よく言われていることだが、「法の支配」が「法治主義」と異なる点だろう。「世界大百科事典 第2版」では強調していた。

法の支配は法治主義とは異なる。法治主義という言葉も人によって若干用法を異にしているが,基本的には,統治が議会の制定した法律によって行われなければならないとする原理であるといってよい。これに対して,法の支配は,統治される者だけでなく統治する者も〈法〉に従うべきであるということを意味する。そこでの〈法〉には,議会が制定した〈法律〉を超えた,自然法的な響きがこめられることになる。そのような〈法〉が,統治の各面を支配すべきだというのが,法の支配の精神の真髄なのである。

この説明だと、一国の議会が制定した法を、自然法である「法の支配」が凌駕するということになる。また、日本国憲法のような成文法とも限らないことになる。

ところで、EUがポーランドを規制しようとしても、実際的にはEUの投票権停止くらいの罰則しかできない。結局のところ、「法の支配」を担保するものは、何になるのだろうか?
 
 

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2016.01.16

「ニーベルングの指環」ライトモチーフをどう学ぶか


「ニーベルングの指環」について書こうとするとき、前回もそうだったのだが、これを「オペラ」と呼ぶことに非常にためらいがある。もともとワーグナー自身がこれをオペラではなく「楽劇」(Musikdrama)と分けて呼んだこともだが、いわゆるオペラとは異なっている。一番の違いは、いわゆるアリアがないことだろう。歌と演奏と言葉は渾然一体となっている。その他いろいろ違いもある。しかし、広義にはオペラとしてもいい。

この「ニーベルングの指環」の特性だが、ライトモチーフ(Leitmotiv)の多用がある。もともとライトモチーフが意識的に組み入れられたのがこの作品でもある。「指示動機」とも訳されるが、人物や事件などを表す特定の旋律などである。と、いうと難しそうだが、実は私たち現代人がハリウッド映画で聴く音楽はこれがもう前提となっている。ごく簡単なところでは、スター・ウォーズのダースベイダーのテーマとかもライトモチーフと言っていいだろう。

ちょっと話が捻じれるが、「ニーベルングの指環」は高尚な音楽だという側面も当然があるが、別の面で言えば、ハリウッド映画の原型だとも言える。「スター・ウォーズ」と比較してしまいたくなくのもそのせいだ。

ライトモチーフが難しいのは、人物や事件に一対一に音訳のように対応しているのではなく、それ自体が一つの記号言語になっていて意味を持っていることだ。ちょっと大雑把な言い方になるが、「ニーベルングの指環」の最初の作品「ラインの黄金」のその最初の序曲にはあたかもライン河の流れを示すような音楽があるが、この旋律のライトモチーフが「自然」を表し、さらに物語の主人公の一人であるブリュンヒルデのライトモチーフにまで変化してつながっていく。

どういうことかというと、「ニーベルングの指環」を理解するには、台本を理解することに加え、ライトモチーフに示された記号言語による物語も理解する必要がある。そこには微妙な緊張や対立もあるので、評論的に扱うときは、二系統の記号言語の理解が必要になる。

鑑賞においても、ある程度、「ニーベルングの指環」に慣れたら、ライトモチーフのお勉強が必要になり、これには、率直に言うと、楽譜を読む技術が求められてしまう。

いや、そこまで観衆に音楽の能力が求められる作品なのかというと、結論から言えば、それはさすがに無理だし、「ニーベルングの指環」には、村祭りのコントみたいに民俗的で滑稽な要素も多く、その面を考慮すれば、誰もが楽譜を理解することが必要とは思えない。あくまで、深層的なメッセージを読みだすには、楽譜読みが欠かせないだろう、くらいである。

とはいえ、ライトモチーフは理解したいものだ。そこでそういう解説はないのかというと、ある。現在では入手できないようだが、ライトモチーフ解説付きのショルティ指揮のレードがあり、1997年にはポリグラムからCD化されてもいる。戦前の放送を思わせる篠田英之介NHKアナウンサーのナレーションはわかりやすい。これが入手できれば、日本人には一番便利だろう。CDで三枚分ある。アマゾンで探したが見つからない。

英語がある程度わかる人ならこれの元になったと思われるデリック・クックのCDがある。楽譜もついていて便利だ。

ライトモチーフに特化はしていないが、音楽と合わせた解説には、オーディオブックのものもある。これを日本語化してくれるといいなと思うが。

上二点、紹介の都合でアフィリエイトのリンクを貼ったが、どちらもGoogle Play Musicにあるので、会員なら無料で聞ける。オーディオブックのほうのはアマゾン・プライムにもある。

ある程度、ライトモチーフがわかるようになると、「ニーベルングの指環」自体も楽しくなるし、あずみ椋の漫画本の解説でイチオシだった、ジョージ・セル指揮によるハイライトのオーケストラ演奏CDなども楽しくなると思う。

オケとしての「ニーベルングの指環」を楽しむには、このセルの演奏はとてもよいと思うし、なんというか、一種、中毒性がある。
 
 

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2016.01.15

ユダヤ人とアラブ人の恋の物語をめぐって

日本の、特にネットの世界ではというべきか、民族的な差別をやめようという声が多いように思う。それは当然だと思うが、実際はというと、差別的な発言をした人を一斉にバッシングするというこのほうが多いのかもしれないと思う。否定的な処罰感情が先行しているみたいだ。まあ、それはそれとしても、もっと肯定的に、「民族を超えて愛し合おう」という声や運動はどうかというと、日本ではあまり見かけない気がする。文化的な問題だろうか。そんなことをなんとなく思っていたので、最近見かけたイスラエルの話題は興味深かった。

話は、イスラエルで高校の教師が教材にしたいと願っていた小説を、イスラエルの教育省というのか政府が禁止したらしい。教育上、よろしくないということなのだが、どういう話かというと、アラブ人男性が、イスラエル人、つまりユダヤ人の女性とニューヨークで恋に落ちるという恋愛小説、「ボーダーライフ(Borderlife)」。2014年に出版され、イスラエルの文学賞も受賞した。今年中に英訳も出るらしい。作者は、1972年生まれのイスラエル女性ドーリット・ラビニャン(Dorit Rabinyan)。ちょっと調べたら、ツイッターのアカウントもあった。

民族間の恋愛に教育行政が関与するとか、いやさすがにそれはないでしょと私も思う。そんなことで社会的な問題になるのか、と。しかし、教育省としては、ユダヤ人とアラブ人の緊張になるのを懸念してということらしい。当然、こうした威圧的な政府の態度に反発は起きるでしょう。でも、日本のようにたたバッシングで炎上するというのではなかった。

どうしたか。こうしたのである。

作成したのは、タイムアウト・テルアビブ。アラブ人とユダヤ人の6つのペアが「禁じられた行為」をしているのだが、見てわかるように、同性愛も含まれている。

日本でもこういうのをすればいいんじゃないのかと思った。
 
 

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2016.01.14

「ニーベルングの指環」入門というか

昨年の目標の一つは、ヴァーグナーの「ニーベルングの指環」を通して見ることだった。最終的な目標とまで行かなくても、本来ならオペラハウスできちんと見ることだが、さすがにこの超大作となると事前の勉強なしで見ることは、事実上無理ではないか。作品は4作のシリーズで合計で15時間くらいになる。本来ならこれを4日で上演するらしいが、現実のところかなり難しく、毎年1作で4年がかりということも多い。日本でも現在4年がかりの2年目が終わったところ。私などはとりあえず、DVDで見るくらいである。

しかし、そもそも、そこまでして見るべき大作なのかというと、人にもよるだろう。好きな人は好きだろう。が、事前のお勉強を超えてまで見るほどの価値があるかというと、なんたらかんたら、ということで私などこの歳まで先送りしてきた。ヴァーグナーについては、先送りする理屈なども何かとつけやすい。しかし、とりあえず、見終えてみると、圧倒的にすごい作品だった。現代の人類の一員なら見ておいていいんじゃないかくらいすごい。

もっとも、「スター・ウォーズ」よりすごいかというと、時代の差みたいのを平滑化すると意外と同じかもしれない。これの6作までだと通し時間で15時間くらいではないだろうか。つまり「ニーベルングの指環」と「スター・ウォーズ」は上演時間では似ている。実際、テーマや情感も似ていたりする。それだけで評論も書けるだろう。

だから、「ニーベルングの指環」入門というか、この作品に取り組もうと思う人それ自体、この作品の魅力に縁のある人だろう。そして、そういう縁のある人にとって、この作品はあまりに圧倒的だと言ってもいいだろう。

そこでどこから、事前のお勉強を始めるか。よく言われているのが、漫画である。オペラは基本的に筋書きが単純だし、文学的な言葉の深みというのは純粋な文学ほどないので、とりあえず、ストーリー展開や登場人物関係を知るには漫画向いている。そして、「ニーベルングの指環」も神話が題材なので漫画にそもそも向いている。

そこまではいいし、日本では二作ほど、「ニーベルングの指環」の漫画本がある。あずみ椋のと里中満智子のである。他にもあるかもしれない。


詳しくはわからないが、あずみ椋のこの漫画は絶版のようだ。さらにそれ以前の版も絶版になっている。中古本ならまだ手に入るだろう。

で、どうか。少女漫画タッチの絵に抵抗がなければ、漫画としての作品を意識した構成になっているので、その点では読みやすい。原作との対応で見ても丁寧な作品になっている。これをきちんと読んで理解すれば、概ね、「ニーベルングの指環」の筋書きや登場人物などは理解できる。

ただ、それが裏目になっている面もある。特に、ローゲの扱いが漫画ではストーリーの紹介役も兼ねているが、原作ではなそうではない。漫画の欠点ともいえないが、そうした点は注意したほうがよい。あと、この漫画の本には冒頭で音楽についてかなりうんちくの解説文がついているだが、それがかえって原作に触れる敷居を高めてしまっている面もあるかもしれない。「ニーベルングの指環」は基本は大衆作品だと理解してよいので、最初からそう構える必要はないと思う。

もうひとつの漫画は里中満智子のものである。



こちらは、普通に「ニーベルングの指環」という作品を漫画で紹介したという感じの作品で、里中満智子らしいユーモアは含まれてはいるものの、ごく普通の学習漫画である。その分、物足りなさはあるが、割りきってしまうなら、十分役立つ。

さてこの漫画を――あずみでも里中でも――読んで、ストーリーと登場人物の関係を頭に入れれば、「ニーベルングの指環」を見ることができるかというと、できる。あとは、字幕(Subtitle)は日本語のほうがよいだろう、くらいである。

ただし、「入門」ということであれば、それを真正面から取り組んだ、山本一太「はじめての『指環』―ワーグナー『ニーベルングの指環』聴破への早道」が手元にあるとよいだろう。実にわかりやすく書かれているうえ、音楽を聴きこんだあとでも役立つように書かれている。




ただし音楽の部分解説は、文字だけで書かれているので、わかりにくいといえばわかりにくい。思うのだが、この文章を元に、「ニーベルングの指環」の学習ビデオ教材があるとよいのではないだろうか。

あとひとつ、余計なお世話かもしれないが、こうした比較的容易い入門書は、基本なので当然なのだが、原作に忠実に書かれている。ところが、実際に近年の「ニーベルングの指環」の演出は、その大半が、現代演出になっているので、そこの心構えというか、事前知識みたいのがないと戸惑うのではないかと思う。

オペラの現代演出というはどういうことなのかというのは、cakesのほうに「死の都」を題材に「20世紀最高の傑作オペラ、その無限の可能性——『死の都』という文学」(参照・有料)で論じたので関心のある人は読んでいただきたい。結論だけいうと、オペラというのは現代演出が面白いのである。

DVDや音楽の構成については、また別途書こうかと思う。とりあえず、漫画本は入門になるという話で今回はお終い。

 
 

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2016.01.13

フランス語の筆記体を学ぶこと

年が変わるころ、さて来年は何かをするかなと思う。新年の決意である。英語で "New year's resolution" 。そういう歌もある。なにかを決意する。私はというと、さすがにそれなりに長く生きてきた、できもしないことの廃墟のようなものなので、たいそうな決意はしない。些細なことを決意する。2015年はなんだっかというと、「ニーベルングの指環」をDVDで見ることだった。ちなみにそれは達成した。思っていた以上に自分の満足があったが、思っていた以上に難しいことでもあった。それはまた別の話。

今年はどうかか。いくつかある。一つはフランス語の筆記体を学ぶこと。フランス人の書く筆記体は英米のそれと字体が違うし、なんとなく見た目もかわいい。それにどうもフランス人は筆記体を使う人が多いようだ。真似してみたい。また、この歳こいて、小学生みたいにノートで鉛筆書きで書き取り練習というのもよいんじゃないか。いかにも老人くさくて(とか書くと洒落の通じない人もいるが)。

始めるにあたって、戸惑う。簡単なことだが、どうしたらよいのか。フランス語筆記体の手本はネットを探してもあるし、調べたらiPad用に専用の学習アプリもあった。しかし、鉛筆で手書きがしたい。

じゃあまずノート。ということで文具屋に行く。意外でもないが、いまだに英語の筆記体練習用のノートが販売されていた。あれである。五線紙みたいなやつだ。今でもこんなの使って子どもたちは英語の筆記体を学んでいるのだろうか。身近な経験だとなさげだったが。

とりあえずペンパンシップというのか筆記体練習のノートを買うが、さて、何を書くか。そこで行き詰まる。もちろん、何を書いてもいいが、そのなあ、そう言われても。かくしているうちに、ノートを紛失した。そんなものだな。

元旦はそんなわけで、フランス語の筆記体を今年は学ぶぞと思っても、なんにもしなかった。これがおそらく364日続くと思われたが、たまたま「毎日1文 筆記体でフランス語」という本を見かけた。これ、いいんじゃない。とりえず買った。



どういう本かというと、こうある。ラジオ講座やってた先生ではないかな。


楽しみながら、正しく美しく書くための練習帳

最近は欧文を筆記体で綴る機会が少なくなりました。しかし手で書くという行為は、言語を覚えるためにもたいへん有益です。
この本は、フランス語の筆記体を毎日少しずつ、楽しみながら綴るための練習帳です。小説や詩の一節、戯曲の台詞、シャンソンの歌詞、芸術家の言葉、ことわざなど、365日分を用意しました。いずれも短い文章ですので、暗誦することもできます。さっそく、今日のページを開いて、綴ってみませんか。

始めた。最初の日は少し戸惑うが、数日して慣れると、日課はせいぜい5分くらい。つまり一日5分維持できるかということだ。三日坊主になるだろうか。否! 今朝も日課を終えた。13日。三日坊主はクリアである。ちなみに、それいいんじゃねという人は今から初めても、日課を二倍にすれば月末前には追いつく。

意外と楽しい。古典からの引用やことわざみたいのが多く、知らない語句もあるし文法もわからないところがあるが、概ねわかるのもいい。ちなみに今日の日課はこれ。

La prose n'est pas une dance. Elle marche.

コクトーの「La difficulté d'être.」から。いわく、「文章はダンスではない。それは歩く。」 自分なりに咀嚼すれば、文章というのは感情を動かすようにリズミカルに続けるものではなく、理性を持って一定のテンポで周りの気配を見ながら淡々と進めるものだ、だろうか。当たり前のことのようだが、文章がそれなりに上手い人や、上手になった人には、それなりのリズムがあって、しかもそこになにかメリットを見てしまいそうになるものだ。それじゃ、だめ、ということなのだが。

この本、書き込みができるようになっているのでそこに鉛筆で書けばいい。綴じ方が普通の本なので、書き込みにくいがしかたないだろう。ノートに書けばいいのかもしれないが。で、この本の手書きのお手本は、筆記体風の活字。率直にいうと、そこは安直すぎてあまりよい本ではないなと思う。きちんとしたハンドライティングをお手本にすべきだろう。「千字文」の書道の本のように。

巻末には現代フランス人の手書きがいくつか掲載されている。ヴァリエーションを見せるためもあるが、概ね、美しくない。ただ、見ていて思うのは、現実のフランス人の筆記体は、私たちの世代が英語の筆記体として学んだものとあまり違ってはいない。

実際のところどう書くべきかだが、これの参考になる本はすでに買ってある。「フランス語筆記体レッスン」である。絶版だが、たまたま本屋で見かけて買っておいた。



そこで話が戻る。これで解決かというとそうもいかない。どうも、この筆記体は不合理なのだ。これで続けて書けるわけないんじゃないかと思う。現実、フランス人でもできていない。どういうことなのか。

これ、筆記体としているけど、一つの書体なのではないか。文字をくっつけるように書いているけど、たとえば、"a"の一文字でも3ストロークで書く。つまり実質ブロック体なのだろう。そうわりきると、それなりに進む。あと、見た目フランス語らしのは、冒頭の一文字の大文字だけで、つまり、これは飾り文字なのだろう。

この手の本で、ギリシア語やアラビア語もあるとよいと思うなあ。

ἀνερρίφθω κύβος.
 
 

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2016.01.12

外国語の入力にはChromebookがとても便利だった

一ヶ月くらい前からだっただろうか、Duolingoにロシア語が加わった。当初の話では昨年の8月くらいということだったが、それなりに遅れた。しかもまだベータ版である。それでも、Duolingoでロシア語が学べるというのは感慨深い。おっと、英語からロシア語を学ぶということで、日本語からはまだ対応していない。

教材の組み方は、ざっと見た感じ、他の言語の学習と同じようだ。基本的に語彙の学習を中心に文法学習も語彙から派生したようにする。公式にはモバイル系のアプリでは対応していないはずなのだが、ブラウザー側でロシア語を選んでおいたままiPadのアプリに移動すると、ロシア語が出てくる。いずれにせよ、そのうち対応するだろう。

ロシア語の学習で気になるのは、フランス語やドイツ語と違って文字である。キリル文字をどうやって入力させるか。これまでのDuolingoだと、フランス語やドイツ語で英語にはないアクサンやウムラウトの文字については、表示されている専用のパネルから文字ごとに選択できるようになっている。こうしたラテン字母の拡張はそれほど数が多いわけではないから、これでいい。これがロシア語のキリル文字となると、そう簡単にはいかない。どうするのだろうと気になっていた。

参考として、Googleの翻訳のオンライン・サービスを見ると、こうした入力についてはいくつかの手法を採用している。ロシア語については、ローマ字変換、ソフトキーボード、手書きの三通りがある。さて、Duolingoはどうするか? ソフトキーボードあたりかなと思っていた。

どうだったか。意外なことに、そのいずれも採用してなかった。ということは、そのままロシア語キーボードでキリル文字を入力せよということか。概ね、そうだと言っていいのだが、驚いたのは、最初から入力に際して、ローマ字入力を認めていることだった。"Я студент."というのだと、"Ya student."のようにしてもよいのである。実際にこの例が採用されているかちょっと確認していないが、それにしても、最初からローマ字表記が選べるようになっている。

たしかにロシア語といえばキリル文字というのが普通だが、ロシア語自体はローマ字で表記してもよいし、実際、ロシア語のローマ字表記は芸術家名のローマ字表記のようによく使われてもいる。それはそれなりに便利なのものだ。

とはいえ、ロシア語を学ぶならキリル文字もなんとかしなくてはならない。そして大抵のパソコンだと、一応各国語のキーボード設定はできる。Windowsでもできる。Macでもできる、が、具体的にどうなるかはちょっと確認していない。話を、Windowsで進めると、ロシア語のキーボードは選択できるのだが、切り替えがめんどくさい。設定もそもそもめんどくさい。専門にロシア語を使うならしかたがないが、学習者がいちいち切り替えるにはやっかいだなあと思っていた。

ところが、今年の正月、衝動買いしたChromebookだとこれが実に簡単だった。設定はやや深いところにあるが、それでもわかりづらいというほどでもない。インストールは瞬時。切り替えもShift+Altでトグルするし、フランス語キーボードを混ぜてもトグルに時間はかからないうえ、日本語に戻すには「かな」キーですぐに戻る。ということは、英語は「英数」キーで戻る。

さらに驚きは、いや驚くことでもないのだが、ラテン字母キーボードと折衷した入力方法が利用できる。どういうことかというと、"student"と入力すれば"студент"と出てくるのである。一種のローマ字入力といってもいいけど、これならラテン字母と対応していない部分の文字キーをいくつか覚えるだけで、すらすらキリル文字が入力できちゃうのである。えええ? すごいんじゃないの? Хорошо. Браво. Ура!

実は、フランス語のキーボードも結果的にこれに似たのがあって、つまり、カナダで使われているフランス語キーボードである。英語キーボードとほとんど同じ。アクサンなどはちょっと入力に手間取るが、頻繁に使う"é"はワンストロークでいい。慣れるとこれもフランス語キーボードより使いやすい。まあ、これでいいのかなあという感じもするが、キーボード入力は無意識に近くなるから、慣れまでの敷居が低いほうがよい。

ちなみに、購入したChromebookは、HPの11インチ。最初はこれ使えるのかなといじっていたが、これでたいていのことはできるし、キーボードもゆったりとしているにし押す深さもあり、けっこう楽に打てる。

Macbookとかだと各国語対応はどうなっているのかわからないけど、少なくとも数カ国語使う人には、Chrombookは、かなり便利。ちなみに中国語もチェックしてみたけど、便利。ただし、韓国語については基本的にれいのハングル入力になるようだ。それでもいくつか手法が選べる。




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2016.01.10

「暴走地区Zoo」が残念ながら面白かった

正月、まあどちらかというと偶然なんだが、「暴走地区Zoo」というWowow洋ドラマを見ていた。当初、つまらないだろう、大したことないだろう、と高をくくっていた。のだが、ちょっと見始めると面白くて、結局、夢中で見てしまった。

これが、動物全体が突然変異で人間を駆逐しようとするのに対抗して男女5人が戦う、というありえない設定であるうえに、ストーリーの展開はてんこ盛りのご都合主義。おまけに日本の原発事故関連の都市伝説的な話題や遺伝子操作産業の陰謀論とか、ネットに転がっているお子ちゃま向けのアホ話を切り貼りしたような内容。これはアカン、というか、こんなもの面白がって見ている私はそうとうにアカンのじゃないかと思ったが、面白かったんだよ。



「ブレイキング・バッド」や「アフェアー」とか、洋ドラマは、中年から初老に向かう男の心情にもぐいぐいと迫るのがあるものだなと注目していたのだが、すべてがそういうシリアスにプラスしてエンターテイメントという作品というわけでもない。映画の「Xメン」や「アヴェンジャーズ」みたいなバカバカしい設定があってもいいし、そういうふうに考えれば、「暴走地区Zoo」も同じじゃないかと思うのだが、なんとも面白さのツボが微妙に違う。

まず凡庸な要素なのだが、登場人物のキャラがいい。美人に魅了されるのはもうナスターシャ・キンスキーで十分だと思っていた私だったが、クロエ・トゥシニョンを演じるノラ・アルネゼデールには魅了された。嫌だなこうセレブ好き心理は、と思うが、しかたない。美しい。ドラマの上では、いかにもフランス人らしいフランス人として出てくるし、英語やフランス語はどうも完璧っぽいし、スペイン語もできそう。何者?と調べると、母親はエジプト系ユダヤ人ということらしい。ほぇ? 両親が出会ったきっかけはバリ島旅行らしいのだが、そのころ私も外国人の友人たちとそのころ同地に半月ほど旅行していたので、ああいう人々のなかの二人だったのかもしれないなと感慨深かった。



エイブラハム・ケニアッタ演じるノンソー・アノジーも大した役者だった。あとから背景を知るとなるほどねと思う。「ブレイキング・バッド」とかだと著名俳優を使わなくても、すごい演技のできる役者はいるものだなとは思うし、そういうドラマでいいんじゃねと思っていたが、役者をきちんと使うとドラマには厚みが出るものだ。

話は最初のシーズンが13話。次のシーズンで終わりらしい。たぶん、私はまた見るのだろう。が、最初のシーズンも事実上、12回でハッピーエンドとしてもよいもので、次シーズンのつなぎはかなり無理はあった。伏線がないわけでもないが。

とにかくスリラーを繰り出すという必要性から次から次へとご都合主義的な展開で、かえって村上春樹のシュールな小説のようで、その意味でも面白かった。ところで、これ、ジェイムズ・パタースンの原作ではどうなんだろうかとちょいと調べてみると、どうもかなり別物っぽい。それはそうだろうなと思う。

いろいろネガティブなふうに書いてしまったが、面白かったことはこの上ない。動物たちの演出もありがちといえばありがちだが、それほど無理なくよくできていた。動物を演劇に使うという、こうした産業もあるのだろう。というか、ニューヨークMETなんでも動物専用の対応があるらしい。それと脚本家の力量のうちでもあるが、ところどころ米国社会の日常生活の内情(養子や難病家族など)も普通に面白かった。
 
 

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2016.01.09

北朝鮮の「水爆実験」で思ったこと

北朝鮮は6日、日本が採用している日本時間だと午前10時半ころ、水爆実験に成功したと発表した。私がそのニュースを知ったのは昼ごろだった。ラーメンを一緒に食ってからスマホを見ていた若年が「北朝鮮、水爆したってよ」とつぶやいたのである。声で。私は「はあ?」とか間抜けな応答をしたと思う。意味不明だ。私は「水爆って、あれだよ、水素が爆発するというのはわけが違うんだよ」と言った。そのあと、原発がらみの不謹慎なジョークを言いそうになって、やめた。ニュースを見た。そういう報道が本当にあって驚いた。

端的に言えば、嘘だろう。水爆の技術は、ほいっとできるものではないし、小規模の核実験であれ衛星監視から逃れきれるわけもない。口には出さないが「ばっかじゃねーの、このキチガイ国家」と思ったが、いや、これまで北朝鮮という国を見ていて思うことは、それなりに合理的に物事を進めているということ。なので、今回もそうした合理性から考える。いったいなんの意味があるのだろうか。わかればブログのネタにだってなる。が、わからなかった。表面的に言えば、金正恩の誕生日を祝う爆竹みたいなものだし、これに一番困惑するのは中国だから、対中的な意味合いはあるだろう。そして日本の識者みたいな人たちは、きっと瀬戸際外交論でも語るのだろう。

報道やマスメディア、ネットのその後の反応を見ると、特段に予想外のことはなかった。水爆実験のわけないじゃないかというは誰もが暗黙の了解なのだが、同時に、「ばっかじゃねーの」的に端的に否定する人も見かけないようだった。物ごと100パーセントの断定というのはできないものだが、しかしあんな小規模爆発の水爆実験なんてありえるとでも思っているのだろうか。こんなことを言うと「ありうる」という反応もあるかもしれない。なんせ試験管の中ですら核融合は起こるかもしれないのだから(言うまでもなく冗談です)。

はっきりしていることはある。北朝鮮は水爆を保有したいのだ、ということである。そして次に、ほぼはっきりしていること、いや、そう言えるかどうかここから考えないといけないのだが、今回の「水爆実験」というのはささいな爆発だが、それなりに放射性物質の放出があったのではないか。虎の子のプルトニウムを使っているのかもしれない。水爆実験が大法螺であっても、なんらの核実験であれば、それだけでも国連が動く戦争の理由にはなりかねない。それはまずいな、というのが国際社会の現状の合意なので、そのため北朝鮮はまだ正式に核保有国になっていない、ことになっている。別の言い方をすれば、北朝鮮が核爆弾を保有しているかは明確にするのが、やばいことになっている。そのわりに保有推定個数の議論はあるが。

三番目にはっきりしているだろうことは、先にも触れたが事前に米国は今回の事態を察知していたか、ということ。NBC報道などからすると概ね察知していたと見てよさそうだ。であれば、日本政府にも事前に通告はあっただろう。そこまでは、「そういうものだよね」だが、そこからちょっと奇妙な話が起きる。韓国には知らされていなかったらしい。

日本に通知されていたら当然、韓国にも通知されていただろうと考えるのが妥当だが、朝鮮での報道を見ると、そうでもなかったらしい。韓国は蚊帳の外に置かれていたようだ。とすると、二つ理由が思いつく。一つは今回の事態は韓国の安全保障には直接影響しないと米国が判断したから、「君は事前に知らなくてもいいよ」だったということ。もう一つは、韓国への圧力である。なんのための圧力かは、すでにこのブログで二回くらい書いたので繰り返さない。

蚊帳の外ということではないが、北朝鮮から中国への事前通知もなかったらしい。少なくとも中国はそう公式コメントをした。というか、してしまった。先に今回の事態の中心は、北朝鮮の対中問題ではないかと思ったことを記したが、そういう文脈はありそうだ。

日本はどうするかというと、基本、何もできない。米国としては、国際社会が北朝鮮を核保有国として認めなければ当面、問題はない。中国にすると北朝鮮は厄介なお荷物になりつつある。韓国にとっては、そこがよくわからない。韓国は北朝鮮とどう向き合っていくのか、韓国自身もわからないのではないか。ということでわかりやすい日本に向き合っているのもかもしれない。

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2016.01.08

2016年、明けましておめでとうございます。

2016年、明けましておめでとうございます。というのを8日になって書いているのが、すでに今年のボケぐあいを示しているようで恥ずかしい。昨年末には、来年はブロガーらしくもっとブログを書くべきなんじゃないかとか多少は思っていました。

年頭にあたり、といった話は抜きで、くだらない話がしたい。年末のショッピング風景で見かけて気になったランドセルのことである。知らなかったわけではないが、ランドセルがとてもお高い。正確に言えばお高いものがある。お安いのはというと、それでもざっと見ていて、一万円代でどうかなと思う。詳しくは見ていないのだが、どれがいいのか選ぶにあたり、なにか基準もないわけではないだろうが。

高価なランドセルを見ながら、こんなのを背負っていく小学校1年生がいるのだろうかと思う。が、いるから売っているわけで、もうちょっと言うと買う人がいるから売っているのだろう。誰が、買うのか? 多分、お爺さんお婆さんではないか。孫へのプレゼントなのではないか。想像で言っているので、裏はなんもないが。

見るからに高価なランドセルがあるということは、例外はあるにせよ、金持ちと貧乏人の差を示しているようなものだから、これでいいのかと疑問に思う。学校や教育員会で、奢侈にならない基準があればいいのではないかと思う。あるのかもしれないし、これは社会問題になってないのかと、ググるとまったくないわけではない。ただ、こういう貧富差のディスプレイゲームはバカバカしいからやめましょうという議論は見かけなかったように思う。

私はそもそもランドセルはバカバカしいと思っていて、以前ネットでつぶやいたことがあるが、まあ、反感を食らった。もうブログを10年以上やっているが、歩道を走る自転車どうにせかしろよとか、腹筋運動やめとけとかいうと、反感を食らう。そのうち、反感が予想される話題は避けるようになる。

とはいえランドセルはバカバカしいと思っている。第一の理由は、危険だからだ。ところが、これがまたまた反感の的であって、転倒したときの保護になるという、ああ、バカバカしい議論に巻き込まれる。ランドセルが歩行を阻害して危険なことくらい少し調べたらわかるんじゃないかと思うが、そういう点で調べられたことがない。でも、調べて、私の思いがまったく逆でしたというのも、あるのかもしれない。

バカバカしいの二点目は、重たいものは学校に置いておけと思う。それでは家で学習できないとかいうのだろうが、小学生がそんな重たいものを持ち運んでまで家でやるべきことがそもそもあるのか。軽量な別教材にしてもいいんじゃないか。それ以前に重たいものを成長期の子供に負わせないというのは、先進国の普通の常識で医者も注意を出していたりする、はず。

というか、ランドセルって極めて日本の風習で、だからいかんともいわないが、スクールバックくらい一定の基準を設けて自由化すればいいだろう。でも、しない、らしい。なぜなんだろう。交通安全の黄色いカバーを付けるためだろうか。いやこれは素朴な皮肉です。

とかまるで社会派おちゃらけブロガーみたいなことを言ってみたが、実はそれほどこの問題には関心ない。何を言ってもだめだよなということで、とっても納得しているからだ。小学校生活みたいな糞な時代はさっさと過ぎていけばいい。戦争に庶民が向かうのとのおんなじことだとかいうと顰蹙になるだろうから言わない。

じゃあ、何が言いたいのか。結局、ランドセルなんかどうでもいいのか。いや、そこなのだ。私がそれを心底どうでもいいや、ネットで炎上してビュー稼ぐ気もないし、というある種の、どうでもいいや感がじんわり生活全体を覆っているなあと思うのである。

消費税増税なんか、ばっかじゃないのとか思う。すると、バカじゃなーいという議論が起こる。でも、バカでしょ。ということでこれ自体立派な「バカの壁」になっている。どうしたものか。

どうしたものか。諸事、どうしたものかと、思うのである。ネタとして考えると混乱するが、自分に何ができるかと考えると、さして何もできない。逆に言うとできることはある。ランドセルのネタの関連でいえば、小学生の通学の安全指導や放課後の見回りボランテイアをやったこともあるし、やればできる。やってどうなったかというと社会的にはなんもないが、世界の見方は変わる。

そうなのだ、世界をもっとリアルに見ようとは年頭思った。とりあえず。正義とかから考えず、自分が関われるならその視点を大切に世界を見ていこうと。

実際それができるかどうかわからないし、バーレーンの状況とかはそうしたアプローチではわからない。それでも、ある関与の感覚は、そうした実体験のなにかに起因するだろうし、それはとても小さいことで、小さくあるべきだろうとも思った。

 
 

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