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2015.12.29

交通量も少なく誰も見ていないとき横断歩道の信号機に従うだろうか?

 年末の連休に入った静かな明け方。ふと、散歩に出かけたくなり、出かけた。いつもなら早朝の通勤の人などもそれなりに見かける時間だが、今朝は少ない。自動車も少ない。そのまま私は、空虚に魅せられたようにさらに人の気配のない、死んだような朝の街を選んで歩いて行くと、横断歩道の信号機に合った。赤である。私は立ち止まる。
 自動車は来ない。信号が青になるのを待ちながら、ふと、信号機が青に変わるまで待つ必要なんかあるのだろうかと思う。
 見渡しが悪いわけでもない。自動車も来そうにない。信号機に従わなくても誰も見咎める人もいそうにない。つまり、信号機を無視してもなんら問題がない。
 そういうとき、若いときの私は信号機を無視したものだった。欧米人は普通そうする。そもそもルールなんて人の世界の相対的なものである。などと思っていた。しかし欧米人ならすべてそうするわけでもない。フランス人は、自動車が来なければ信号を守らない人が多いらしいが、ドイツ人は、交通量にかかわらずきちんと横断歩道の信号を守るという。
 私はその後、この件ではドイツ人のようになった。なぜかと考える。それほど深い理由はない。しいていえば、世の中の規則はさして考えもせず守っておけばいいものがある、というくらいものだろう。また、こうも思った。私のような人間が、横断歩道で急ぐ必要などまるでないのだ、と。
 愚考して待っている間に信号は青になった。これで問題なく渡ればいいのだが、私はなにかに心がひっかかって、硬直したように立ち止まっていた。
 横断歩道では青信号であれば渡ることができる、というだけで、渡れ、という命令の意味でなければ、渡らないでいることで罰則があるわけでもない。
 そうした奇妙な思いは少し滑稽に思えた。空はだいぶ明るくなってきた。鳥の声がする。そうしているうちにまた横断歩道の信号機は赤になった。
 もう一度考えていた。交通量も少なく誰も見ていないとき横断歩道の信号機に従うだろうか? 
 誰も見ていなくても信号機の規則に守るという理由に、こう答えた人のことを思い出した。曰く、実はこっそり誰かが信号機の規則を守るのを見ているかもしれない。そして、その人は、ああ信号機の規則を守らない人がいるのだと認識することで、その人の信号機への信頼も崩れていくきっかけになる。だから、それは道徳的によくないのだ、と、そういうのである。
 それもそうかなと私も思ったので、その理屈を覚えていたのだろう。倫理というのは誰が見ていなくても、自分で守っていけるものであるべきだろう。
 と、そのとき、「誰も見ていないとき」という条件の意味を考えた。そして、この世界に私が最後の人間あって、この横断歩道の信号機の赤の前に立っているとする。だとすると、どうなのか?
 滑稽な想像だが、人っ子ひとりいない早朝の横断歩道の条件はまさにその想像のままのようにも思えた。
 「ああ、人類はもう滅亡したのだ」と、つぶやいてみる。私は、信号機に従うだろうか?
 わからない。そもそもそんな滑稽な状況は起こりえない、とも思った。
 しかし、と思う。自分が死ぬ、自分がたったひとり死ぬということは、人類が滅亡したときの横断歩道の信号機と同じことなのではないかとも思った。死んだ私をもう誰も見ていることはない。
 いや、そうじゃないだろと思い、やはり人類が滅亡したときの横断歩道の信号機の意味を考えなおした。
 想像し思考することには奇妙な抵抗感がある。そもそも、「誰も見ていないとき」ときという条件への確信(明証)が、私にはないのだということに気がつく。
 生きているかぎり、誰もいないかに見える横断歩道ですら、私はたぶん、逆に誰かがいることをどこかで信頼しているのだろう。そもそもそうでなければ、横断歩道の信号機自体に意味がないだろう。
 信号機が再び赤になる、その数秒前であった。横断歩道近くだが道路の車道側にカラスが一羽舞い降りた。まるでなにかの象徴のように、そいつは私を見ていた。私が信号機を守るのを確認するかのように見ていた。
 
 

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