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2015.01.27

クーデター下のイエメン情勢など

 「イスラム国」の人質になった後藤健二さんへの連帯を示すため、フランスのシャルリー・エブド襲撃事件でのフランス人に習って、「I am Kenji」と示す日本人がいた。イスラム過激派からの攻勢に対応するということだろう。そうした気持ちはわからないではない。が、シャルリー・エブド襲撃事件で攻勢をかけたのは「イスラム国」ではない。
 もちろん、「イスラム国」ではないからシャルリー・エブド襲撃事件対応を真似るなということでもない。フランス極右勢力が「Je ne suis pas Charlie(私はシャルリーではない)」と掲げたように、日本人の一部が「I am not Abe(私はアベではない)」と掲げていけないということでもない。表現の自由が保障された国での表現は自由なのだから。
 シャルリー・エブド襲撃事件の真相が十分に解明されたわけではないが、この攻撃の主体は「イスラム国」ではなく、犯行声明を出した「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」だと見てよい。
 AQAPは、以前からその宣伝用オンライン誌「インスパイア」で、ムハンマドの風刺画を掲載してきたシャルリ-・エブド誌編集長の殺害を呼びかけていた。
 対して、「イスラム国」で、特に人質を惨殺する担当のジハード・ジョンは、これまでは米英に対して「イスラム国」への空爆中止を求めていた。今回の日本人人質についてはいつものジハード・ジョンらしくない要求だった。
 いずれにせよ、AQAPと「イスラム国」は異なる勢力であり、それどころか、敵対している。繰り返すことになるが、シャルリー・エブド襲撃事件を起こしたイスラム過激派と、日本人人質事件を起こしたイスラム過激派は対立している。「イスラム国」としては、日本人人質事件は案外、対立するAQAPの目立った活動に嫉妬覚えての対抗措置だったかもしれない。
 AQAPだが、原点はサウジアラビアでのアルカイダだった組織が、サウジアラビアでの弾圧によってイエメンに拠点を移したものだ。
 難しいのは本体のアルカイダと「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」の関連である。
 AQAPがアルカイダの支部的な意味合いはあり、ゆえにAQAPもアルカイダの活動だと言えないこともない。だが、アルカイダ本体がどうなっているかは、よくわからない。オサマ・ビンラディンがパキスタン国内で米国によって暗殺されたように、パキスタン近辺が拠点ではないだろうか。この地域は後の話に関連する。
 対して、「イスラム国」だが、よく言われているのは、シリアのアサド政権に対立するアルカイダ系組織でありイラクのスンニ派の過激派勢力が加わった「イラク・イスラム国(ISI)」から出来たものである。
 簡単に言えば、「イスラム国」は、アルカイダとイラク・フセイン残党と反欧米が「カリフ制」再興を目標に結託してできた。当然その文脈から言えば、「イスラム国」もアルカイダ分派とも言えるが、同じく分派のAQAPとは対立している。
 ちなみに、どちらもシーア派に近いシリア政府(およびイラン)に対立しているスンニ派の勢力である。この点も後の話に関連する。
 ここで興味深いことは、「イスラム国」のジハード・ジョンがなぜか登場しない、日本人人質を使った第二の要求において、ヨルダンにいるリシャウィ死刑囚の解放を求めていることだ。
 リシャウィ死刑囚は「イラクのアルカイダ」の指導者ザルカウィ容疑者の指示を受けて多数の殺害を起こったことで有名だ(悪名高い)が、つまり、リシャウィ死刑囚はアルカイダ本流のシンボル的存在である。
 「イスラム国」としては、リシャウィ死刑囚を持ち出して、敵対するヨルダンを困惑させたいのだろうが、なぜ対立するアルカイダのシンボルを取ろうとしているか。
 意外と「イスラム国」やそのジハード・ジョンが、単に支離滅裂というだけのことかもしれない。だが、26日に出された「イスラム国」の公式とされるバグダーディ名の声明との関連もあるかもしれない。
 今回の「イスラム国」の声明では、欧米のイスラム教徒に現地でのテロを呼びかけたが、日本への言及はまるでなかった。日本も敵対的なターゲットとされているなら、もう少し日本への配慮をしてもよさそうなものだが、なかった。実際のところ、「イスラム国」は日本には関心がない。
 声明で重要なのは、シリアとイラクに渡る現在の支配地域をさらにアフガニスタンやイラン北東部に拡大し、そこを「ホラサン州」とすると宣言したことだ。
 「カリフ制」を理念とすることから考えれば領土拡大は不思議でもないが、その地域にはタリバンがすでにいる。そのため、その州の総督は「パキスタン・タリバン運動」(TTP:Tehrik-i-Taliban Pakistan)の元幹部ハーフィズ・サイード・ハーンをすでに任命している(参照)。彼はTTPからイスラム国への離脱組である。基本的にタリバンと「イスラム国」も対立していると見てよい。
 アルカイダ本体が「ホラサン州」にあるとすれば、「イスラム国」としてはアルカイダを支配下に置きたいという欲望を持っていると見てよい。そうしてみると、リシャウィ死刑囚解放の要求もそうした文脈にあるのかもしれない。
 さて、日本との関連で注目したのは、AQAPである。だが、シャルリー・エブド襲撃事件の文脈ではない。
 AQAPの拠点であるイエメンで、AQAPを弾圧する政府と、シーア派の武装勢力(部族勢力)「フーシ」が新憲法制定を巡って24日に対立し、同派によって大統領宮殿や国営テレビ局などの政府機関が制圧され、ハディ大統領が辞任に追い込まれた。クーデターである。
 当然ながら、この両者の抗争の漁夫の利となるのが、AQAPである。そしてAQAPに対立する「イスラム国」もイエメンに乗り出してきた(参照)。
 これがどう日本に関連するかだが、直接的な関連はない。紅海からアデン湾に抜けるバブ・エル・マンデブ海峡の安定がイエメン政情が不安になることで、スエズ運河経由の輸送に問題が生じる可能性があり、その間接的な影響があるかもしれない、ということだ。
 世界貿易の8%がここを経由しているのでここが封鎖されると大混乱が起き、結果日本にも影響を与えるだろう。
 このあたりの情勢変化は、原油が高騰しはじめると、その懸念が高まると見てよい。
 この構図でやっかいなのは、フーシはシーア派であることから推測できるように背景がイランであることだ。
 以前フーシをサウジアラビアがイエメン領内で空爆したように、フーシを含んだ対立構造は、イランとサウジアラビアの代理戦争的な意味がある。そうした構図でみると、サウジアラビアのアブドラ前国王の死去を突いたのかもしれない。加えていうと、王位を継ぐサルマン皇太子は日本では報道されていないようだが、認知症かパーキンソン病を患っていると見られている(参照)ので、そのあたりもサウジアラビアの弱点と見られるだろう。
 さて、AQAPも「イスラム国」もサウジアラビアと対立しているが、いずれもスンニ派であり、イランのシーア派との協調はないので、フーシと、AQAPや「イスラム国」との連携はない。
 サウジアラビアとイスラム過激派とイランは、シリア情勢と同様の三すくみのようになっている。
 ただ、今回のイエメンでのフーシの動きを見ていると、背後にいるイランの焦りのようなものもあるかもしれない。
 だとすると、シリア、イラン、そしてロシアという連携の勢力の動きも今後活発になるのかもしれない。
 
 

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2015.01.26

[書評] ベートーヴェンとベートホーフェン―神話の終り(石井宏)

 先日、同著者の『反音楽史―さらば、ベートーヴェン』(参照)を読んで面白かったのと、最近ベートーヴェンに関心を持っていたので『ベートーヴェンとベートホーフェン―神話の終り』(参照)も読んでみた。これも面白かった。基本的に前著のトーンでベートーヴェンの評伝をまとめてみたという感じの本である。

cover
ベートーヴェンと
ベートホーフェン―神話の終り
 表題のベートーヴェンとベートホーフェンだが、日本ではベートーヴェンと呼ばれているが、当時はどちかというとベートホーフェンではないか含みがある。そして二枚の想像画を組み合わせた表紙の絵が、その二つを暗示している。簡単に言えば、楽聖と言われるベートーヴェンと、なにかと人生に苦労したコンプレックス多きベートホーフェンである。余談だが、先日、ドイツ人の演奏家の話を聞いていたら、発音はベートーヴェンに聞こえた。現代では「ベートーヴェン」という表記でもいいんじゃないかと思えた。
 ベートーヴェンの実像はこういうもんだった、とほほ、という感じで楽しく読めるし、彼の生存していた時代についての描写も面白い。ベートーヴェン好きには関心の高い「不滅の恋人」についての言及も面白いには面白いが、この考察が決定版とは言えないのではないかとも思った。
 自分は知らなかったのだが、生前一番人気を博していたのが、通称戦争交響曲「ウェリントンの勝利」だという話が面白かった。というか、同時にあの第七が公開されていのかというのは感慨深い。まあ、なんだかんだいっても名作は古典として残っていくじゃないかという感じもした。
 基本的に面白ろ可笑しく読めるし、ベートーヴェンの脱神話化ということなのだが、それでも後期作品の圧倒的な音楽性については、著者も認めるところだし、この機会にいろいろベートーヴェンの後期作品を聞いてみると、さすがにこれはすごいやと改めて思った。
 この本で描かれている、ぽんぽん痛いよのベートーヴェン君だが、その可哀想な滑稽さがなんであれ、偉大な音楽家であることはまったく変わりようもないし、改めて「楽聖」っていうことでいいんじゃないかと思う。
 というか、そういうふうに後期作品を味わって、逆に中期から初期を下ってみると、それはそれでいい作品が多いなと思う。
 いろいろ面白い。

 こうしてカント哲学の”美は崇高にあり”という理念の体現者だったようなベートフォーフェンの”高きを目指す”音楽の座はゆらぎ、戦前には至高のベートホーフェン演奏とされたシュナーベルの全曲録音も、いまの人たちが聴けば「なに、この人、テンポがでたらめじゃない。音もまちがっているわよ」となる。そうした批評にはもはや古き佳き日の精神主義、教養主義のカケラも見えてこない。偶像は落ちたのである。

 シュナーベルの全曲録音へのその評も笑えるところがあるが、最近のピアニストのベートーヴェン演奏を聴けば、偶像というのではないにせよ、ベートーヴェンの音楽の本質は依然新しく輝いていることがわかる。
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ジョナサン・ビス
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集
 っていうか、レオン・フライシャーを介してシュナーベルの孫弟子になるジョナサン・ビスのベートーヴェンのピアノソナタとか、陶酔的によいです。最初は甘いなあ、凡庸だなとか思っていたけど、なんどか聴いているうちにすっかり惹かれてしまいましたよ。ビス先生についてはまた何かの機会に書くかもしれないけど、この最初の「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集」の「悲愴」もいいのだけど、 「ピアノ・ソナタ 第30番」はいいですよ。とくにその第3楽章はあるときふとその美しさに、なんか初恋のように心臓がときめいてしまいましたよ。(僕は手フェチではないけど、あの手もすごい。)
 ああ、いつか、ビスが31番や32番の演奏を公開する日もあるんだろうなあ、聴いてみたいな、と思いました。(すでにあるの?)

 
 

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2015.01.25

「イスラム国」による日本人人質事件で思ったこと

 「イスラム国」による日本人人質事件について思ったことをとりあえずブログに記しておきたい。
 ツイッターのほうではすでに前もってコメントしたが、72時間の期限でのリアクションはないだろうと私は見ていた。理由は、どちらかというと「イスラム国」に対して欧米ほど危機感ももたず、脅威にも感じていない日本国民を、期限通りの処刑によって激怒させ、その結果いっそう欧米側に付かせることにすれば「イスラム国」にとって利益にはならないだろうと思われたからだ。
 「イスラム国」としては国際世界が一致するよりは、割れていたほうがよい。この手法は北朝鮮の外交戦略と同じである。ついでにいえば、西側諸国としても中東の利害は割れていたほうが、ローマによる分割統治的な意味合いで、利益にはなる。ただしシリアに端を発した今回の事態は三すくみのような複雑な分割にはなり、誰が利益かという構図は崩れてしまった。
 「イスラム国」側の思惑だが、安倍首相による17日のエジプトのカイロでの声明のタイミングが重要だろう。そこから考えれば、「イスラム国」側としてはこの声明をもって日本が西側に付いた表明と見なして、日本国民を恐怖に陥れ、自国政府への批判を高めさせることで、西側の結束を崩す狙いがあったのだろう。
 だが結果、「イスラム国」の情報戦略はしくじったと見てよいだろう。一つは安倍首相の声明は人道支援やインフラ整備など非軍事分野での平和国家日本の戦略の一環であり、直接西側に付くという表明ではない。当然そこを衆知している日本国民は「イスラム国」の無理解に違和感を覚え、他の西側諸国なら期待される「イスラム国」への共感は得られなかった。
 もう一つの失態は、これは他の西側諸国も驚いたことだが、日本人が今回の脅しに想定されたほどパニックにもならず、恐怖もしなかったことだ。
 フランスの場合は、仰々しく大まじめに反テロのデモが実施されたが、日本人では反テロデモはない。人質救出のためのデモといったものも見られない。むしろそうした動向は日本国内のイスラム組織がその代理をしてくれた。
 さらに「イスラム国」はツイッターなどSNSを使った独自の広報で西側の反政府共感者を誘導してきたのだが、日本の場合、多数のネット利用者が、逆にツイッターなどでクソコラと呼ばれる不真面目な画像を「イスラム国」に送りつける事態となった。
 日本は江戸時代の黄表紙などもそうだが、体制を洒落のめすふざけた批判文化を持っていたのに、明治時代以降、真面目な展開が多くなってきたものだが、戦後の平和期間が延びたことで、江戸時代的なふざけた国民性に回帰してきたのかもしれない。あるいは、そうはいっても、同胞が殺害されるかもしれない状況でふざけるというのは、同胞への同情という感性がそもそも薄いのか、薄れてきたということかもしれない。
 いずれにせよ、日本が、同種の恐怖を突きつけられた西側諸国とは異なる、奇妙な反応を示したことは事実であり、それは「イスラム国」が想定したものではなかった。
 こうした「イスラム国」側の失態から、日本国に恐怖を与えるという戦略は変更されることになり、ヨルダンに拘束されているサジダ・リシャウィ死刑囚の釈放という無理難題に切り替えられた。ヨルダン側としてはいくら金満日本からの懇願があってものめるような話ではない。「イスラム国」としては、日本を困らせるというよりはヨルダンを困惑させるということが意図である。実質的には対日本への情報工作は失敗に終わったと見てよい。もちろん日本政府としては、人質の解放に尽力しなければならないのは当然だが、こうした政治的な構図のなかで対応していくしかないだろう。
 今回の事件について、「イスラム国」の情報戦略の失態もだが、その前提にいくつか奇妙な点も感じられた。人質を脅す映像やその後の映像が、西側での同種の事件と違っていたからである。
 最初に公開された人質を脅す映像だが、合成されたものと見てよいだろう。ネットでは合成ではないといったネタも上がっていたが、背景の石の影向きなど不自然であり、そもそも他国向けにこの手の映像が上がったときは、偽映像ではないかという懸念を織り込んで、ジハード・ジョンは人質に触れているのだが、今回はなかった。
 また、人質の殺害映像についても疑われないようにスティルを避けて動画にしていたのだが、日本向けは異なっていた。
 とはいえ、日本政府側は、どのような情報をもとにしてかは公開していないが、人質の一人、湯川さんは殺害されたと見ている。日本政府側がどのような情報を持っているかは不明だが、その様子からすると、すでに湯川さんが殺害されてから、あの合成映像が作成された可能性は高いように思われる。
 また、人質の一人、後藤さんへの「イスラム国」からの身代金請求は以前からあったらしく、それをなぜ今回おもてに出したのかも疑問が残る。
 「イスラム国」にとって身代金獲得は組織化されたビジネスであり、ゆえに効率よく行わなければならない。現実に金銭を得るなら、トルコ側のルートを使わざるをえないし、そのルートなら日本政府側でも対応できただろう。だが、どこかで、そのビジネスの見込みが途絶えたのだろう。印象では、この部門の担当者ジハード・ジョンと「イスラム国」の外交政策はそう整合していない結果なのではないだろうか。
 今回の事件の報道に関連してもいろいろ思うことはあったが、特に同種の事件が起きた昨年9月のAFPの対応は、日本のジャーナリズムの参考なるだろう。「【AFP記者コラム】「イスラム国」の斬首動画が報道機関に突きつけた課題」(参照)より。


 私たちに突き付けられた課題は、報道する義務と、記者たちの安全を担保することのバランスをどう取るか。さらには暴力のプロパガンダに利用されないように、そして犠牲になった人の威厳も守りながら、過激派が公開する写真や動画をどこまで報じるかという問題だ。


 ただ昨年の8月以来、私たちは、反体制派が支配している地域に記者を送ることはやめた。危険すぎるためだ。外国のジャーナリストがそうした無法地帯に飛び込めば、誘拐や殺害されるリスクが高い。AFPに定期的に動画などを提供していた米国人ジャーナリストのジェームズ・フォーリー(James Foley)氏が8月に、ISに殺害されたような悲劇が起こり得るのだ。反体制派が支配する地域では、外国人ジャーナリストはもはや地元住民の苦しみを外部に伝える目撃者としては歓迎されておらず、攻撃のターゲット、あるいは身代金のための「商品」として見られている。

 すでにジャーナリストが身代金ビジネスの「商品」になっていた。

 そのため、AFPはフリーのジャーナリストが、私たちが足を踏み入れない地域で取材してきた素材を受けつけないことにした。これは明確な決定であり、周知するためにもここで念を押しておきたい。フリーの記者がシリアに行って取材してきた情報も写真も映像も、私たちは使わない。
 フリーランスはシリア内戦で大きな犠牲を払ってきた。大きすぎる犠牲だ。そのようなリスクを背負おうとする彼らの背中を、私たちは押したくはない。

 この点は日本のメディアも再確認することになるだろう。
 「イスラム国」が使う残酷な動画について、どうジャーナリズムは対応するべきか?

 同時に、数々の編集倫理の問題も突きつけられることになる。人質が首を切断された動画を見たとき、最初に私たちが思うのは、ISのプロパガンダ戦略に手を貸さないためにも契約メディアに送るべきではないということだ。だがそのイメージに情報がある限り、私たち通信社にはそれを伝える責務がある。
 そのため、私たちはこうしたイメージを報じる際には、慎重に行っている。まず、その動画の情報源を特定し、どうやって入手したかを説明する。次に、プロパガンダのための暴力シーンは報じない。これが、先月から相次いで公開された人質の斬首場面をAFPが流さなかった理由だ。

 恐怖映像そのものがプロパガンダなので、それに同調しないほうがよい。
 また、彼らの主張をそのまま流すことはしないのも同様の指針になる。

 殺害場面を編集なしにすべて公開し、人質がバラク・オバマ(Barack Obama)米大統領の中東政策を非難している場面まで流したメディアもある。だがAFPはそのように強制的に言わされている動画は公開しない。

 今回の事例では、「イスラム国」側では、「安倍首相」を名指している。
 この点、ハフィントンポストでは動画そのままではないが、「後藤健二さんとみられる男性の声明全文」として論評もなく全文を掲載した。
 メディアでその全文を伝えるということはジャーナリズムの判断としてはありうることだ。しかし、テロリストの声明をなんの明瞭な論評もないままベタに掲載したという点は、ハフィントンポストはジャーナリズムとして恥ずかしいことであると、私は思う。

追記(同日)
 その後、読売新聞サイトでも「後藤健二さんとみられる男性のメッセージの和訳」を見かけた。ハフィントンポストだけの対応ではなかった。
 
 

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