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2015.11.20

[書評] ハーバード大学は「音楽」で人を育てる 21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育(菅野恵理子)

 「リベラル・アーツ」とは何かというか、自分がたまたまそうした大学教育を受けてきたこともあり、その体験者の内側の思いを自著にも記したものだが、ひとつ、もどかしい思いも残った。リベラル・アーツと西洋音楽との関わりである。
 この点については、cakesの連載で森有正や「のだめのカンタービレ」について扱ったおりにもいろいろ考えていた。簡単に言えば、「リベラル・アーツ」には音楽教育が不可欠なのではないか、ということだ。だが、さてそれをどう表現したものだろうか。それ以前にそれについてどう記したらよいのだろうか。
 個人的なことだが加えて今年は、「ニーベルングの指環」に取り組む過程から、西洋における教養と音楽の関係も一段自分なりの理解が深まり、西欧におけるリベラル・アーツの美しい姿が見えてくるように思えた。
 その部分も簡単に言えば、教養・知性というのは、音楽を深く愛する、ということに関連している。
 ただ、ここに微妙な陥穽のようなものがある。一つは「音楽」が何を意味しているか。もう一つは、それは音楽教育とどう違うのかである。

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ハーバード大学は
「音楽」で人を育てる
21世紀の教養を創る
アメリカのリベラル・アーツ教育
 こうした思いもあって、本書『ハーバード大学は「音楽」で人を育てる 21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育(菅野恵理子)』(参照)は、とても興味深く読んだ。なかでも「第4章 音楽はいつから<知>の対象になったのか-音楽の教養教育の歴史」は、リベラル・アーツと西欧音楽との関係を簡素に傾倒だってまとめていてとても勉強になった。と、同時に新しくいろいろ考えさせるきっかけにもなった。
 本書は、書名からもわかるように、いちおう「ハーバード大学は音楽で人を育てる」ということでもあり、実際にハーバード大学など米国の大学の例が挙げられている。これには2つの側面がある。音楽を深く愛することで教養人の教養が豊かなものとなり、また企業人であれ社会人として豊かに参加できるようになるということ。もう一面は、従来の音楽教育をリベラル・アーツの枠組みのなかで補充していくという面である。
 されら加えるとすれば、音楽というとき、西洋音楽という部分と、普遍的な音楽活動をどう捉えるという側面もある。こうした多面性は、本書では意図的な面もあるだろうし、実態に即したせいもあるだろうが、区分けされているわけではない。
 いずれにしても、音楽とリベラル・アーツの現状については、「第1章 音楽<も>学ぶ-教養としての音楽教育」「第2章 音楽<を>学ぶ-大学でも専門家が育つ」「第3章 音楽を<広げる>-社会の中での大学院の新しい使命」などに最新の例を含めて詳しく書かれている。
 読みながら個人的に連想することがあった。本書には含まれていないが、私が好きな現代ピアニストであるジョナサン・ビスによるネット講座(参照)のネット講座である。これを学ぶ人が多い。

 また、METのオペラも従来のオペラハウス的な経営から、METライブビューイングを見るとわかるように、教養講座的な側面が強くなってきている。そもそもオペラを深く理解するというのは、音楽・声楽はもとより、時代様式や時代背景など、総合的な教養・知性を必要とするものだ。
 METについて言えば、なによりそこに集う人々が実にオペラを愛する人々の豊かな情景も伝えていることが好ましい。この雰囲気は単にオペラを愛する、または音楽を愛するというより、大学のリベラル・アーツで学んだ音楽愛好をその人生のなかで享受していくように見える。


 日本も西洋文明化された市民社会としてもちろん、音楽活動は盛んだが、それでもどちらかというと、西欧音楽やオペラはハイソな趣味か、特定の趣味のジャンルのようにもまだ見える。本書も、出版社の性質もあってか音楽教育や音楽産業の文脈で受け入れられていくようにも思える。私の誤解かもしれないが、いわゆる「音楽」という世界に閉じてしまってはもったいという思いがする。

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Beethoven's Shadow
 教養や知性を問うというとき、日本ではまだまだ、どれそれの本のリストを読めといった書かれた知識を脳に累積していくという枠組みにとどまっている。西洋音楽を深く理解し、教養や知性を梃子に人生の美を味わうという枠組みはまだ弱いように思える。あるいは、そうしたありかたがいまだに、アミューズメントとして留まっているかのようだ。教養としての音楽というものは、マスメディアとして消費する対象ではないという意味である。
 本書はいくつも例を挙げているが、音楽という教養は、市民社会を形成するかなり上質な手段である。市民社会と音楽はもしかすると抽象的に分離できないものかもしれないとさえ思う。
 本書は読みにくい本ではないが読みやすいとも言えないかもしれない。また、音楽教育という側面が強調されているきらいはあるが、それでも、教養・知性における音楽を学ぶことの意義がきちんと描かれているので、多くの人に一読を勧めたい。知性・教養は読書リストにチェックマークをつけていくことではないのである。
 
 

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2015.11.18

[書評] コーランには本当は何が書かれていたか? (カーラ パワー)

 「コーランには本当は何が書かれていたか? 」という問いかけは、そのままの形で魅力的な問いだと言っていいだろう。私は井筒俊彦の翻訳でコーラン(クルアーン)をすべて読んだことがあり、そして聖書についても一応ではあるが全巻通して読み、それなりに理解はしたが、さてでは、コーランには本当は何が書かれていたか? と問われたとき、私は残念ながらアイロニカルな答えしか出すことができない。それは、聖書には本当は何が書かれていたか? という、自分の、おそらく青春をかけたとしてもよい問いかけがもたらした惨めな姿に近いものである。

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コーランには本当は
何が書かれていたか?
 幸いにしてアイロニーは、ユーモアが一時の気休めであるのと似て、答えではない。だから私は今でも静かにその問いに向き合う。本書『コーランには本当は何が書かれていたか? 』(参照)は、そうした自分の思いに添ってちびちびと、そして対話するように読んでいった。そのように読む書籍でもあった。
 当初思っていたのは、この問いの本書での結論は、かつて自分が聖書学を学んだように、コーランの原典を、いわば批評的に実存的に読み出すことなのではないかという臆見である。だが読みだすにつれ、それはとても間違っていたことを知った。読後の実感として言うなら、本書が示す問いは、「ムハンマドは本当は何を伝えたか?」ということであり、ムハンマドという預言者の息遣いをまざまざまと知ることになる書籍だった。それはこの本の事実上の主人公であるモハンマド・アクラム・ナドウィー師という存在の重みでもあった。率直に思うのだが、もし私が彼のいるコミュニティに育ったなら彼のもとで静かなムスリムとなったかもしれない。
 本書の原題は「If the oceans were ink (もし海がインクであったとしても)」である。海ほどのあふれるインクを筆に充填しても神の御言葉を記すことはできないだろうという意味で、コーランに由来する。このことは同時に、コーランが普通の書籍という意味で書籍ではないという意味合いもあるだろう。
 本書は、一人の西洋現代女性が、正統師のもとでコーランを学ぶ一年の旅といった趣もある。その著者のカーラ・パワーは、結果的に言ってよいだろう、イスラムの文化や世界を専門に扱うアメリカ人ジャーナリストである。彼女はかつてオックスフォード大学イスラム研究センターでの同僚だったこともあがるモハンマド・アクラム・ナドウィー師のもとで、一年間コーランを読んでみようと決意した。その理由は本書にも記されているが、イスラムというものの原点を見つめなおすということだと、とりあえずしてよいだろう。
 他方、アクラム師は、イスラム教文化のあるインドの貧しい生まれ育ったイスラム教学徒である。幼くして天才的な才能を現したこともあり、英国教育も受け、コーランの文献学的研究者となり、傍ら、同地のコミュニティ指導者としての役割も果たしている人物である。彼の主要な研究成果は、現在では歴史に埋もれたかに見える女性イスラム学者・指導者を9000人近くも再発見することだった。もちろん、この話題も本書の面白さである。
 アクラム師の語るコーランの世界は、まったくの原典主義であり、近代的な批評観といったものは含まれていない。だが、彼の描き出すその原理主義は、イスラムの歴史のなかから生き生きとした女性像を示すように、現代の女性に対しても示唆的である。よく議論の話題となるスカーフなどはイスラムの教えとは無関係な中近東の文化にすぎないことをあっさりと示してしまう。いわゆるイスラム原理主義とはまったく逆の方向を示している面は多い。
 また、他面、いわゆるカルチュラル・スタディーズ的な、現代西洋の批評の文脈をも脱構築してしまうのである。文化的な活動をそれ自体の生態のなかで政治や権力から読み取ることは、イスラムの根源的な信仰からすれば、西洋主義の亜流であり、意味のない行為なのである。
 本書は一年の旅の記録のようでもあるが、こうした知的な興味深さの他に、終盤に向かって、特に二人の親の死についての話題などから、著者のカーラのなかに、ある信仰への渇きといら立ちのようなものが読み取れるようになり、そこに文学的な面白さも感じられる。本書のはじめから、彼女は自身が脱宗教的な世界で、かつ父親のオリエンタリズム趣味で育ったとし、また母はユダヤ人であるがフェミニスト学者であることを述べ、そこに一種の脱宗教的なアイデンティティを語っているのだが、実際のところ、薄くユダヤ人としてのアイデンティティの問いが潜んでくるようになる。この文脈の頂点は、長い付き合いでありながら、親交を深めるなかでアクラム師に自身がユダヤ人であることを告げるところだ。そして、母の死の姿もまたそこに重なっていく。
 おそらく彼女の内的な渇きは、ユダヤ人という存在がイスラム教とどう折り合っていくのか、その精神的なある調和を見出したいのだろう。もちろん、ユダヤ人ということは、単純な意味でのユダヤ教信仰ではない。むしろ、本書で論じられるような、同性愛者の社会的な許容への情熱がもつ脱宗教性に近い宗教性の何かである。
 本書には結末はない。彼女のそうした覆われた精神の渇きは、ある意味で、良い意味でと言うべきだが、中断されていく。そのことは、おそらく私たちのコミュニティが一人のアクラム師を持たないことだとも言えるだろう(いや隠れているのかもしれないが)。むしろ、この問いと渇きの示すことは、信仰の現れとしての人の生き方の姿である。生きたムハンマドの姿を示すアクラム師の活動のなかにある。より希望的に言えば、私たちの世界はなお多くのアクラム師を持つようになるだろう。アクラム師が言うように、本当のジハードはそのそうした世界のあとまで時を待つものだろう。
 
 

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2015.11.17

[書評] イスラム国(著・アブドルバーリ・アトワーン、監修・中田考、翻訳・春日雄宇)

 日本ではこの夏に翻訳された本だが、原著の出版から遅れたわけでもない。扱っているのは表題通り「イスラム国」である。この表題が選ばれている理由も同書の初めに書かれている。全体として、比較的最近までの範囲で、イスラム国を知る上で重要となる基礎的な情報がバランスよくまとまっている好著である。

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イスラーム国
 なにより、この種類の本にありがちな、西側社会への偏向あるいはその裏側の憎悪といった情感的な色合いが引き寄せる文脈からはエレガントに脱していることは、沈着な本書の文体からもわかるだろう。陰謀論的な記述もない。池上彰ならもっと手際よくまとめたかもしれないとも思えるかもしれないが、日本人向けのわかりやすさから抜け落ちそうな微妙なディテールに含蓄深い陰影がある。
 イスラム国をめぐる現状の混乱の、元凶とまではいえないが、大きな要因には、米国の中近東戦略と、フランスの中近東戦略がある。西側として見ると二国とも同一のように見えるが、フランスが問題を悪化させたのはむしろリビア問題の対処であり、その点も本書では簡素に描かれている。また、米国の失策については、日本の思想・知性の空気では十把一からげに子ブッシュ大統領の失政とされるが、本書はそうした浅薄な構図より、より根深い問題と、ブッシュ政権以降になって生じた新事態について公平に言及している。
 日本語で読める情報がないわけでもないが、イラクにおいて、マリキ政権時代の混乱がイスラム国の直接的な温床となった背景についても同書はわかりやすい。個人的には、同書を読んでやや意外でもあったのは、バース党として近代主義のように思われていたイラクの元フセイン大統領だが、政権末期には実質、スンニ派的なイスラム原理主義への傾倒があったことだ。そこにもイスラム国の思想背景があると見るのは興味深かった。
 他、イスラム国をめぐる混乱の背景にオバマ政権時代になってからの米国とサウジの確執が関与していることも理解しやすい。そしてこの問題を扱うにあたって、同書では背景となるサウジが抱える本質的な矛盾についてはかなりのページを割いている。この分野に関心を持つ人にはとりわけ目新しい情報も視点もないかようだが、イスラム国を語るときにサウジが重要な意味を持つことは確認したほうがよいだろう。混みいった話題にもなりがちだが、サウジの引き起こす問題には当然、イランも関係している。ノーベル平和賞の手前もあって、イランの非核化をなんとか功績としたいオバマ大統領の焦りや、この間の米国でのエネルギー事情の変化もこれに関連している。ただ、こうした点については同書には言及はあまりない。
 やや些細な点ではあるが、同書を読みながら、米オバマ大統領がシリア介入のレッドラインの件で、どたばたとした醜態を露わにしたことについては、同書の最終的な問題指摘でもある、イスラム国による化学兵器の使用の可能性が関連している。いやすでに、「可能性」といったものではないという指摘も最近になってなぜかぽつぽつと出てくるが、この件については、ロシアをはさんでアサド政権と米国の間で微妙な連携があった。陰謀論を望むわけではないが、そこにはなにか秘史があるようにも思われるが、同書ではヒントは見つからなかった。
 イスラム国とテロの関連では、日本ではつい、その残虐性が注視される。だが、その「テロの恐怖」という焦点化が自体もたらす問題性について本書は冷静な対応ともなるものとして、「恐怖のマネジメント」という考えを提示している。イスラム国の残虐性は、戦略上演出されたものであるということだ。これに関連する考察もそれなりにページが割かれていて興味深い。この点については私としては、納得する面がある反面、それほど一貫した整合はないのかもしれないとの疑念も残る。
 総じて、日本の精神風土にあってまともにイスラム国を論じるのであれば、一読しておいてよい良書である。逆にいえば、この水準に達しない議論は、けっこうどうでもいいのではないかという、その水準を明確に示しているようにも思われた。
 
 

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2015.11.16

2015年パリ同時多発テロ事件

 フランスのパリで11月13日の夜(日本時間では14日の朝)、パリ11区の若者向け繁華街を中心に、また北部のサッカー場の「スタッド・ド・フランス」で同時多発テロ事件が発生した。この記事を書いている現時点での死者は132人にのぼる。哀悼したい。また負傷者は349人とのこと。犯行は、犯行声明を出したIS(イスラム国)と見られる。日本のブロガーの一人としてこの事件の印象を記しておきたい。
 事件でまず気になったのは、パリ11区という地域だった。11区にはコンサートホールは劇場など文化的な地区であり、どちらかというと若者世代やリベラルな世代の歓楽街である。テロリストとしてはウィークエンドの金曜日の夜に人が集まる地域を狙ったものだとも言える、という点では不自然ではないが、事件の第一印象はこの襲撃対象地で決まった
 同時に、あるいはそれゆえか同時性として仕組まれたの「スタッド・ド・フランス」でのテロに多少の違和感を覚えた。ここでは当時、サッカー・ドイツ代表とフランス代表の試合が行われ、オランド仏大統領も観戦に訪れていたらしい。テロとしてはフランス大統領を狙ったことになり、政治的なメッセージ性は明確になる。大統領のスケジュールを意識したことで、計画的な犯行であることも打ち出しやすい。
 同時性のテロではあり、若者文化という点では11区とサッカー場では共通点があるが、テロ対象として見ると、11区の側に違和感が残る。
 この時点で私が即座に連想したのは、このテロの実行主体はフランスの20代後半でフランスで育った移民二世ではないかということだった。現時点で判明している一人は、ベルギー生まれのフランス人、アブデスラム・サラ容疑者(26)である。
 私が連想した理由は、2005年のパリ郊外暴動事件である。10年前になる。2005年10月27日、フランス・パリ郊外で強盗事件を捜査中の警官に追われた北アフリカ出身の若者3人が変電所で感電死したことをきっかけに、フランス全土に若者の暴動が発生した。背景には民族差別などもあり、先日の27日もこの追悼を兼ねた抗議デモがパリで実施されていた。事件全体を見れば、パリ郊外など郊外部の団地住宅地がスラム化し、その地域の若者の不満が高まっていた。

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最強のふたり
 こうした一端は、映画『最強のふたり』などでもうかがえるえる。今回の事件の非常事態宣言も2005年暴動に次ぐ第2次世界大戦以降4回めである。私が連想し想像したのは、当時10代だった少年が今20代後半に至り、パリの若者文化に共感を持ちながらも憎悪しているのではないかということだった。
 別の言い方をすれば、2005年のパリ郊外暴動事件がいよいよパリの内側に入ってきたというのがこの事件の本質であり、IS(イスラム国)やテロという視点はその、パリの内側に入ることでの必然的な補助だったのでないかということである。
 さらにその文脈でいうなら、今回の事件は1995年東京におけるテロ事件と同質の都市型の市民殺戮事件だっただろう。こういうと不謹慎だが、数名のテロリストが多数の人を殺害することは技術的に難しい。それが可能になるテクノロジーが都市型の市民殺戮事件の本質でもある。その意味で、今回のテロの被害が膨れ上がったのは、その「技術」としての殺戮の様式と標的性だろう。
 こうした思いと並行して、「スタッド・ド・フランス」でのテロで大量殺人が、計画されたようには成功しなかったことは、これまでのフランス政府のテロ対策に基本的な失点がなかったことを示しているようにも思えた。つまり、今回の事件をもってテロ対策を強化するというのは、別の政治的な文脈に載せられる懸念のほうが強いだろうと思えた。今回の事件でテロはソフト・ターゲット化したといった文脈も同様である。
 補足すると、今回のテロ事件の背景にはIS(イスラム国)があると見てよいが、前回のパリのテロ事件はISではなく、「イエメンのアルカイダ」だった。この組織は、ISとも対立しているし、元のアルカイダとも対立していた。少数のテログループが起こしうるテロという点では、ISという焦点化は必然的ではない。
 前日の11日にはレバノンの首都ベイルートの郊外でテロ事件が起こり、44人が死亡している。同じく哀悼したい。対象はシア派のヒズボラの拠点とも言える繁華街で、同じくISが犯行声明を出している。ISにしてみれば、こうしたテロは対象は多様であり、むしろ自身のグループ・アイデンティティの一つのプレザンスの証明でもあり、その点では、「対テロ戦争」というような戦争といった枠組みとは異なっている。
 さてでは、どうしたらよいのか? 私たちはどうしたらよいのか? その問いは避けがたい。
 とりあえずだが、「テロ戦争」や「移民問題」として用意された枠組みが促す焦点化には少し警戒していたほうがいいだろうと思う。例えば、「日本がシリア問題に介入しなければテロの被害はない」といった議論も単に「テロ戦争」という枠組みの変奏でしかなことにも注意したい。
 多文化・他宗教の融和によって国家を組み上げることは難しいものだ。それは当然の難問である。だがこの難問に絶え間なく取り組むことが、都市型の市民殺戮事件を最終的には抑制することになるのだという希望を持ちたい。
 
 

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