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2015.08.29

Les Misérablesの民衆の歌(A La Volonté Du Peuple)

 ツイッターのタイムラインを見ていたら、30日の抗議で、高校生100人がLes Misérablesの民衆の歌(A La Volonté Du Peuple)を歌うという話題が流れてきた。



 何語で歌うのかなとふと疑問に思った。日本語訳だろうか。あるいはオリジナルの英語だろうか。
 あるいは話題にちなんでフランス語訳で歌うだろうか。するとこんな雰囲気になるだろうか。力強く美しい歌である。

 フランス語の歌詞がなかなか面白いので、誤訳しているかもしれないが、雰囲気を知る手がかりに試訳を添えておく。

フランス語版フィナーレ

À la volonté du peuple dont on n'étouffe jamais la voix
Et dont le chant renaît toujours et dont le chant renaît déjà
Nous voulons que la lumière déchire le masque de la nuit
Pour illuminer notre terre et changer la vie

国民の意志に向けて声を恐れない
歌声は生まれ変わるし、もう生まれ変わった
私たちはこの光で夜の帳を一掃したい
国土に光をもたらし、私たちの人生を変えるために

Il viendra le jour glorieux où dans sa marche vers l'idéal
L'homme ira vers le progrès du mal au bien du faux au vrai
Un rêve peut mourir mais on n'enterre jamais l'avenir

栄光の日が訪れ、それは理想へと行進する
人類は進歩するのだ、悪から善へ、虚偽から真実へ
ひとつの夢は死ぬかもしれないが、人は未来に埋葬されはしない

Joignez-vous à la croisade de ceux qui croient au genre humain
Pour une seule barricade qui tombe cent autres se lèveront demain
À la volonté du peuple un tambour chante dans le lointain
Il vient annoncer le grand jour et c'est pour demain

人類を信じる君たちは十字軍に参加せよ
ひとつのバリケードのために。それが崩れても明日百のバリケードが起きるだろう
国民の意志に向けて遠くから太鼓が歌っている
それが偉大なる日を告げにくる。明日のために。

Joignez-vous à la croisade de ceux qui croient au genre humain
Pour une seule barricade qui tombe cent autres se lèveront demain
À la volonté du peuple un tambour chante dans le lointain
Il vient annoncer le grand jour et c'est pour demain

(繰り返し)

C'est pour demain!

明日のために!




 歌の雰囲気よりも歌詞を重視して聴くのであれば、次の版(コンセプト版)のほうがわかりやすいだろう。こちらは歌詞が少し違う。

コンセプト版

A la volonté du peuple
Et à la santé du progrès,
Remplis ton cœur d'un vin rebelle
Et à demain, ami fidèle.
Nous voulons faire la lumière
Malgré le masque de la nuit
Pour illuminer notre terre
Et changer la vie.

国民の意志のために
進歩の健全のために
君の心臓を反逆のワインで満たせ
明日のために、忠実な友よ
私たちは夜の帳にもかかわらず
この光をもたらしたい
私たちの国土を照らすために
私たちの人生を変えるために

Il faut gagner à la guerre
Notre sillon à labourer,
Déblayer la misère
Pour les blonds épis de la paix
Qui danseront de joie
Au grand vent de la liberté.

この戦争に勝利しなければならないのだ
私たちの畑を耕し
悲惨を一掃するのだ
平和の麦の穂のためにだ
その穂は歓びに踊る
自由の偉大な風にあって

A la volonté du peuple
Et à la santé du progrès,
Remplis ton cœur d'un vin rebelle
Et à demain, ami fidèle.
Nous voulons faire la lumière
Malgré le masque de la nuit
Pour illuminer notre terre
Et changer la vie.

(繰り返し)

A la volonté du peuple,
Je fais don de ma volonté.
S'il faut mourir pour elle,
Moi je veux être le premier,
Le premier nom gravé
Au marbre du monument d'espoir.

国民の意志のために
私は自分の意志を捧げる
その意志のために死なねばならぬなら
私はそのさきがけでありたい
私の名前が最初に刻まれよ
希望を記念する大理石に

A la volonté du peuple
Et à la santé du progrès,
Remplis ton cœur d'un vin rebelle
Et à demain, ami fidèle.
Nous voulons faire la lumière
Malgré le masque de la nuit
Pour illuminer notre terre
Et changer la vie.

(繰り返し)

cover
Les Miserables: Original French Concept Album

 なお歌詞中、"à la santé du progrès"の"à la santé"は「乾杯!」の慣用句なので、"Remplis ton cœur d'un vin rebelle"というように、お酒のワインが出てくる。




 歌詞にはさらに別版(1991パリ版)もあるので併せておく。

1991年パリ版

ENJOLRAS:
À la volonté du peuple
Et à la santé du progrès,
Remplis ton coeur d'un vin rebelle
Et à demain, ami fidèle.
Si ton coeur bat aussi fort
Que le tambour dans le lointain,
C'est que l'espoir existe encore
Pour le genre humain.

国民の意志のために
進歩の健全のために
君の心臓を反逆のワインで満たせ
明日のために、忠実な友よ
おまえの心臓の高鳴りが
遠くの太鼓ほどに強ければ
それは希望がまだあるということだ
人類の希望が

COMBEFERRE:
Nous ferons d'une barricade
Le symbole d'une ère qui commence.
Nous partons en croisade
Au coeur de la terre sainte de France.

私たちはバリケードを築こう
それはひとつの時代の始まりの象徴だ
私たちは十字軍に旅立とう
神聖なるフランス国土の中核へと

COURFEYRAC:
Nous sommes désormais
Les guerriers d'une armée qui s'avance.

私たちはいまや
前進する軍隊の兵士となったのだ

TOUS:
À la volonté du peuple
Et à la santé du progrès,
Remplis ton coeur d'un vin rebelle
Et à demain, ami fidèle.
Si ton coeur bat aussi fort
Que le tambour dans le lointain,
C'est que l'espoir existe encore
Pour le genre humain.

(唱和)

FEUILLY:
À la volonté du peuple,
Je fais don de ma volonté;
S'il faut mourir pour elle,
Moi, je veux être le premier:
Le premier nom gravé
Au marbre du monument d'espoir!

国民の意志のために
私は自分の意志を捧げる
その意志のために死なねばならぬなら
私はそのさきがけでありたい
私の名前が最初に刻まれよ
希望を記念する大理石に

cover
Les Miserables-Paris Cast Recording

 なお、歌詞中の「Au marbre du monument d'espoir!(希望を記念する大理石に)」は「パンテオン」(参照)を指すと思われる。ウィキペディアの言葉を借りると、「フランス革命期の国民議会によってフランスの偉人たちを祀る墓所として利用されることが決定された」とある。日本で言えば、現状では、靖国神社のような考え方に近いのかもしれない。
 
 

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2015.08.28

2020年東京オリンピックが抱えているタバコ問題

 「保険医療2035」のシンポジウムのなかで、ある意味印象深かったのだが、ぽつぽつという印象もあったものの、2020年東京オリンピックが抱えているタバコ問題がいくどか語られていたことだった。まとまった話題とはなっていない。なのに、関係者が口惜しくて言及せざるを得ないという印象があった。 2020年東京オリンピックに向けて、受動喫煙防止条例を実施したいという熱意が背後に感じられた。
 2020年東京オリンピックと受動喫煙防止条例の話題は、私もまったく聞いたことがないというわけでもない。だが、シンポジウムのときに、「そういえばこの問題はどういう経路を辿り、現状どうなっているのか」と気になった。その思いには、いつの間にかこの問題を失念していたことに気がついたからだ。2020年東京オリンピックについては、開催決定に至る話題、決定の歓びの報道、そして昨今のエンブレムや会場建設問題などがニュースの話題として取り上げられるが、受動喫煙防止条例の話題はどこに行ったのだろうか。

cover
受動喫煙防止条例
日本初、神奈川発の挑戦
松沢成文
 振り返ってみると、この話題に熱心だったのは、松沢成文・参議院議員だった。なぜ彼がこの問題に取り組んでいるかは、わかりやすい。彼は2003年に民主党を離党し、同年4月の神奈川県知事選挙で当選。2007年も当選し、2009年に神奈川県の条例として受動喫煙防止条例を全国に先駆けて制定したからだ。
 2020年東京オリンピックでの受動喫煙防止条例制定に向けた松沢議員の活動は彼のホームページにも残っているが(参照)、change.org「2020年東京オリンピック・パラリンピック大会までに受動喫煙防止法をつくろう」(参照)のほうが主張がわかりやすいかもしれない。

 IOC(国際オリンピック委員会)は、健康の祭典であるオリンピックにはタバコはふさわしくないとの考えのもと、1988年、オリンピック大会での禁煙方針を採択しました。また、2010年には、WHO(世界保健機関)との間で、オリンピックを「タバコフリー」、つまり、たばこの煙のない環境で実施する合意文書に調印しています。
 そのため、近年の歴代開催都市はすべてオリンピックまでに罰則付きの受動喫煙防止法または条例を制定しているのです。
 タバコの消費量が圧倒的世界第一位で、多くの人がタバコに寛容とのイメージを抱いている中国ですら、北京オリンピックの成功のために、WHOの協力のもと、北京市に受動喫煙防止条例を制定しました。
 また、感動が記憶に新しいソチオリンピックでも、消費量世界第二位のタバコ大国ロシアは、オリンピックに合わせて「包括的禁煙法」を制定しました。それだけではありません。ソチ市は「スモークフリーシティー」をうたい、様々な受動喫煙防止のための活動に取り組んでいます。
 2016年の夏季五輪開催予定国・リオデジャネイロ、そして2018年の冬季五輪開催予定国・平昌(ピョンチャン)も既に法律を整備しました。

 国際オリンピック委員会(IOC)以外に世界保健機関(WHO)も同様である。

 もちろん、受動喫煙防止法を制定しているのはオリンピック開催国だけではありません。世界には「WHOたばこ規制枠組条約」という条約があり、世界178カ国が加盟しています。そしてほとんどの加盟国がこの条約を遵守して罰則付の受動喫煙防止法を制定済みなのです。
 ところが、我が国は、「WHOたばこ規制枠組条約」の加盟国であり、オリンピック開催国であるにもかかわらず、未だに受動喫煙防止法を制定していません。世界で受動禁煙防止法のない国は、アフリカやアジアなどの一部発展途上国を除くと、日本だけです。

 このキャンペーンはすでに1年前に終了している。15000人の賛同者を求めていたが、終了時の賛同者は12,910人であった。しかし、キャンペーンとしては概ね成功の部類だろう。
 さて、それから1年、現状はどうなっているのだろうか? つまり、受動喫煙防止への法的な取り組みはどうなっているのだろうか? 実は私は知らなかったのである。調べてみた。
 比較的最近の状況としては、朝日新聞5月の「「禁煙五輪」、東京が断つ? 都の検討会が条例化先送り」(参照)がある。

 2020年東京五輪に向けて、飲食店などの屋内施設での禁煙や分煙を罰則付きで義務づける条例の是非を議論してきた東京都の検討会は29日、条例化を事実上、先送りする最終提言をまとめた。喫煙者を顧客とする業界に配慮した。04年以降、定着していた「禁煙五輪」の流れを断ち切りかねない動きだ。
 提言は、都に受動喫煙防止への取り組みを工程表で示すよう求めながらも、条例制定の必要性には踏み込まず、18年までの検討を求めるにとどめた。一方、東京以外でも競技が予定され、諸外国の多くが法律で規制している点を挙げ、法律で全国一律に規制するのが望ましいとし、国への働きかけを都に求めた。
 罰則付きの条例化は、舛添要一知事が昨夏、テレビ番組で「議会で通せばできる。ぜひやりたい」と発言。昨年10月に法学者や医師ら委員12人の検討会を設置。医師らが条例化を強く求める一方、法学者らは条例で不利益を被る飲食店などによる訴訟リスクを挙げ、賛否両派が対立。今年3月末に予定した結論を持ち越して調整していた。

 東京都としては「条例化を事実上、先送りする最終提言をまとめた」ということだ。
 産経には関連して8月19日の記事「東京五輪「喫煙環境」でも波乱 「禁煙」「分煙」都条例化めぐり紛糾」(参照)があった。

 受動喫煙防止をめぐっては、舛添要一都知事が昨年から前向きな姿勢を示していたことから、検討会が設置されたのが経緯という指摘はある。だが、都議会最大派閥の自民党が「条例ではなく、自主的な取り組み」を求め、舛添知事も「ただちに条例化は困難」との考えを示した。だが、こうした政治的な判断にもかかわらず、一部の検討委員が条例化へと突き進んだ格好になった。


 そもそも検討会の委員12人のうち、医療・医学関係者が8人を占めたことが、年度またぎの継続審議といった波乱を招いた原因との指摘もある。五輪・パラリンピックはスポーツの祭典である一方、世界から多くの観光客が来日する。委員は医療・医学の専門家に偏るのではなく、観光や飲食など多様な民間事業者も集めるべきだったとの声も出ている。


 国益、中小事業者の経営、さらに外国人観光客へのホスピタリティーなど、5年後の五輪に向け「喫煙環境」はどうあるべきか、多方面からトータルな議論が必要。決して、一部の勢力だけの要望が決め手とはならないはずだ。特に、顧客となる訪日外国人の視点に立って考えることが大切だ。
 そうした中、東京都は増加が予想される外国人観光客が快適に宿泊・飲食施設を利用できるよう、分煙環境整備を行う事業者を対象とした補助金事業を開始する。都内の宿泊施設や飲食店を対象に7月下旬から募集を始めており、1施設300万円まで、喫煙室や分煙設備工事費の5分の4を補助する。喫煙率の高いアジアや欧州の国々からの観光客に「喫煙マナー」や「分煙」といった日本ならではのおもてなしは、東京五輪の一つの特徴になるとの期待もある。
 拙速に動いたため、白紙撤回を余儀なくされるのは、新競技場の建設計画だけで十分、との声も関係者から漏れている。

 基本的に産経報道からは、検討会が医師会に偏向して独走してしまったという印象を与える。
 医師会側の詳細は、東京都医師会タバコ対策委員会の「受動喫煙防止条例制定に向けた医療関係団体の取り組み及び都民への啓発について(答申)」(参照PDF)で理解を深めることができる。これはかなり包括的な答申書なので、この問題に関心のある人は一読しておくとよいだろう。
 さて、こうした問題をどう考えるか?
 喫煙規制への反対の議論を見ると、案外問題が整理されやすいように思える。その一例として、PHP「2020東京オリンピックと「過剰なたばこ規制」」(参照)の議論を見てみよう。溝呂木雄浩(弁護士)の意見として語られている。

 2020年のオリンピックでは、世界中から東京に来場者が集まります。日本政府はオリンピックを追い風に、訪日外国人旅行者2000万人をめざす方針です。しかし、そのなかには当然、たばこを吸う人も吸わない人もいる。路上喫煙に慣れ親しんだ外国人旅行者は当然、自国=世界の常識で判断し、路上で立ち止まってたばこを吸おうとするでしょう。
 そこで、たとえば千代田区だったら監視員がやって来て、外国人に向かって「罰金の支払い」を強制するつもりでしょうか。もしそんなことをすれば、「日本はいつから人権無視の全体主義国家になったのか」と外国人の反発を浴び、国際問題に発展しかねません。


 IOCとWHOが受動喫煙防止に関して同じ考えをもって連携していたとしても、国際機関のWHOとそうでないIOCでは、規制の意味合いがまったく異なります。日本人のなかにはオリンピックを主催するIOCを国際機関の一つと思っている人がいるかもしれませんが、まったく違います。公的な性格をもつとはいえ、実際は法人格をもたない国際的な任意団体で、いわば親睦会やクラブとそう変わらない。だからこそ莫大な放映権料やスポンサー収入の使途が不明瞭でも、IOC委員が招致活動の一環で過剰な接待を受けて批判されても、内部調査だけにとどまり、外部の監査を受けずに済んでいるのです。


 しかし、飲食店の店主には憲法22条が保障する営業の自由があり、自分の店を全面禁煙、あるいは分煙するかしないかを自由に決めることができます。この営業の自由は憲法が保障する経済的自由で、経済的自由は基本的人権に含まれます。基本的人権が不当に侵害されないよう経済的自由の規制がどこまで許されるかどうかについては、判例上も学説上でも明確な判断基準が確立しているのです。

 つまり、路上喫煙を人権と考える外国人もいるし、受動喫煙防止条例は憲法22条が保障する営業の自由の侵害だと言うのである。
 面白い議論だなとは私は思う。ただ、そうであればこれまでのIOCの「禁煙五輪」の意味は、2020年東京オリンピックで消えることになるだろう。つまり、その意味合いが何かが問われているのである。
 さて私はどう考えるか。私は、前提となるオリンピックについての考え方が、こうした反対派とは違う。2020年オリンピックを国家行事として華々しく成功させたり、その経済効果を狙うというのは、オリンピックの副次的な効果にすぎないと私は考える。
 こうした問題は常に原点に立ち返る必要がある。ここではオリンピック憲章の原文、その冒頭を読んでみよう。

オリンピズムの根本原則
1 オリンピズムは肉体と意志と精神のすべての資質を高め、 バランスよく結合させる生き方の哲学である。オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである。その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。

 つまり、オリンピックというのは、生き方の哲学であり、「文化、 教育と融合させ、生き方の創造を探求」である。そして、「良い模範であることの教育的価値、 社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤」である。そのなかに、禁煙が含まれているということである。
 オリンピックとは禁煙を世界に広めていく、教育的な活動でもある、ということだ。であれば、それにどう対応すべきかは、自明に思われる。
 
 

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2015.08.27

20年後日本の保健医療はどうなるか(保険医療2035)

 日本の社会にとって何が最大の問題かということは、それ自体を選び出すための方法論が必要になる。当面に絞れば、おそらく最大の問題はリスクに対する社会のリジリエンスだろうと私は思うが、その議論のためには、リスクとは何か、なぜリジリエンスが問われるのか、といった前提が問われる。またそれを踏まえたあと、リジリエンスを重視するということはどういうことか、という議論も続く。結論だけを言えば、広義のエネルギー問題だとも言えるだろうが。
 そうした方法論を抜きにして、各人が日本の社会にとって何が最大の問題か、という議論はあってよいだろう。憲法9条を守ることが最大の課題だという論者がいてもよい。私はというとその次元で言うなら、日本の保健医療の未来ではないかと思う。そこはこの文脈では恣意的な問題意識にはなる。
 とりあえずその限定で見て行く。危機は、単純な話、保健医療の破綻である。必ず破綻すると言えるかはわからない。破綻する危険性はあるのかという議論はあると言ってよい。そしてその理由の筆頭は、少子高齢化であることはほぼ自明だろう。
 少子という点では、保健医療を支えるお金を生み出す世代の縮小である。高齢化という点では、高齢者が史上かつてないまでに膨れることに加え、その一人一人にかかる保険費用が他世代よりも大きくなることだ。実際のところ、生涯にかける保健医療の大半は、死期近い数年に費やされる。
 こうした状況を単純に言えば、これからの日本は高齢者の健康を維持するために、若い勤労世代に実質重税の負担がかかることになる。
 その分、若い世代の可処分所得は減少し、消費が低迷することから逆に需要も減少し、またこの分野に若い労働力が投入されるため、日本全体の生産生も縮小するだろう。もちろん、こうした側面だけ見れば、日本の未来の生産性の問題だとも言える。
 話を保健医療に戻して、その焦点である医療給付費を取り上げると、その急激な増加は予想される。政府推計だと、2011年に約34兆円だった医療給付費は2025年度に約53兆円まで増えるとしている(参照)。これを多いと見るか問題のない増加と見るかだが、多いと見てよいだろう。
 ここでもう1つ問題がある、少子高齢化の基調は変わらないが、2025年のその10年後の2035年後を考えると、別の様相が加わる。簡単に言えば、この年、日本の世代のなかでもっとも膨れていた団塊世代が死亡平均年齢に達する。ということは、急激に保健医療の必要性が減少に転じる可能性がある。膨大な医療体制を用意してもできたころには必要がなくなるかもしれない。遠い未来の話のようだが、20年前といえば1995年であることを思えば、20年後はそう遠い未来の話とも言えない。
 ここまでをまとめると、今後20年間の間に、保健医療はどうなるのかという問題は、その間の制度のための国民負担と、20年後の少子化した新常態日本における医療制度をどうするかという二面性がある。
 では実際、厚労省はどう考えているのか。少なくともそれが課題であることは意識され、「保健医療2035」というプロジェクトができている(参照)。そしてそのシンポジウムが先日あり、応募したら通ったので参加してみた。

cover
保険医療2035提言書
 どうだったか。私の印象からすると、私が想定していたような危機感というものはあまり感じられなかった。全体としては明るく、日本の保健医療は世界的にもすばらしいものなのでグローバル展開ができるといった話題がけっこうあった。なーんだ、心配することはないのか、という印象すらもった。そうであるかもしれない。
 シンポジウムにはプレス席があり、それなりに記者が埋まっていたので、その後報道があるだろうと思ったが、これが意外に少ない。私の見た範囲では大手メディアでは扱っていない。基本的に政府広報みたいなものだから、話題性がないと見なされたのかもしれない。
 そうしたなか、シンポジウムについて比較的詳しいのは、ハフィントンポスト「20年後に向けた「保健医療2035」--みんなでつくる社会システムへ」(参照)である。よくまとまっているが、朝日新聞報道がよくやる「角度をつける」が弱いせいか、問題意識の誘導がなく、その分わかりにくい印象はあるかもしれない。
 シンポジウムの全体の印象でいうと、そのコアの人々にしてみると、「徹底的に議論して提言書にまとめたのでそれを読んでください」という感じで、どっちかというと、語られていることは異なり、「ああ、終わった」感が強い。
 では、提言書(参照)を読めばいいかというと、これが読むとわかるが多様な意見が無難にまとめられていて、初めて読む人には雲を掴むような印象があるだろう。詳細に読むと、なるほどなあと思える点は多いのだが、それが実際の社会とどうコミュニケーションしているかは、理解しにくい。
 その象徴的な接点は、「かかりつけ医」と総合診療医だろう。先のハフィントンポスト報道でも取り上げられていた。

  提言書では、総合診療医の必要性についても強調された。これまでの医師のキャリア形成では、診療科ごとに特化した専門医の育成のみに焦点が当てられてきた。プライマリーケア(初期診療)を担い、幅広く患者や疾患全体を診られる総合診療医の育成は進んでこなかった。「(専門医中心だと)あらゆる臓器のさまざまな疾患を診られる医師が今の日本には絶対的に少ないので、極めて非効率だ。患者は、ドクターショッピングのように医療機関を次々と移らざるをえなくなる」(尾身氏)。
 だが、地域医療を支える医師や病院といった医療資源が限られる上、高齢化でニーズが高まる中で、総合診療医の必要性が増している。

 シンポジウムでは、会場とTwitter上から質問が投げかけられた。「総合診療医というが、なりたい人はいるのか?」という質問に対して、「総合診療医はだいぶ人気が出てきている。特に若いやる気のある医師でやりたい人は多い。しっかりとした位置付けがあれば増えてくると考えている」と厚生労働省保険局総務課企画官の榊原毅氏は言う。これまで専門医中心に医師の位置付けがされてきたが、総合診療医のポジションを確立するという政策が進んでいるという。

 だが、総合診療医ですべてを診るにも限界がある。慶應義塾大学教授の宮田裕章氏は、「総合診療を多岐にわたってやるのはクオリティをはかるのが難しいが、専門医チームとの連携やITの利活用で支えられるのではないかと現場で議論している。ひとりの総合診療医ですべてやるのではなく、職種間連携でチームで支えるということになる」と説明する。


 さらっと読めるようだが、かなり複雑な問題が含まれている。まず、現状日本の医療だが、「診療科ごとに特化した専門医の育成のみに焦点が当てられてきた」ということだが、これが事実上制度化していて、これはそもそも保健医療には向かない。
 また、「かかりつけ医」は実際上、総合診療医である必要があるが、ようするにそうした制度に日本の保健医療を改良するということで、シンポジウムの印象では、もうそれっきゃないでしょという既定事項っぽい。
 ここで、言うまでもないことだがと言っていいかよくわからないが、ここで問われているのは、実際には英国NHSの日本版である。そのあたりの関係、あるいは未来に向けての制度設計がどうなるかだが、私には明確には見えなかった。そもそも、NHSの話題はあまり出て来なかった。
 シンポジウムでは会場からの質問をツイッターも受け付けるということだが、WIFIの設備はなく、私が使っているドコモLTEは実際上死んでいた。2つほど質問ではない差し障りないつぶやきをしたがそれ以上は実際には無理だった。まあ、できたとしても、質問はしなかったかもしれない。
 取り上げられた質問のなかで比較的大きく取り上がられたのが、終末期医療の問題だった。この点はハフィントンポスト報道には見られない。他、m3.com「20年後の保健医療政策、国民的議論を」(参照)の報道では一言だけ触れられている。
 しかし医療制度の問題の核は、これは自著でも触れたのだが、寿命と健康寿命の差の問題であり、つまるところ、この差は、終末期医療の問題に収斂する。あるいはその隣接としての介護医療の問題ともなるだろう。
 この点はどうなるのだろうか。私は2035年にはこの世に生きていない可能性がかなり高い。自分がこれからどうこの国で死んでいくのかというのは、私にとっては具体的な関心でもある。
 この議論の枠組みで難しいのは、おそらく、終末期医療・介護医療というのは、いわゆる保健医療と異なる体系を持っているのではないかと思われる点だ。
 基本的に近代から現代にかけての医療というのは、病院を中心に戦争傷兵と感染症を対象に構成されてきた。つまり短期入院である。長期化することに制度的な利点は設けられていなかった。だが、これが日本では長期入院が常態化してきた。また、疾患の長期化が利益につながる製薬会社では医療制度に先んじてこの体制の時代から慢性疾患のブロックバスターに転換したが、これも実は、この数年でパラダイムが変わっている。これを受けて、日本国は別途AMEDの対応を打ち出している。これは別の話題だが。
 おそらく、疾患を中心とした医療体制と、終末期医療・介護医療は体制として分離しなければならないだろう。もちろん、その入り口は、総合診療医である「かかりつけ医」となるのだろうが。
 そのあたりの制度変化は必要上ははっきりとし、さらに進む合意はありそうに見えながら具体的な制度変化の様子は想像しがたい。今後工程表的なビジョンは提示されるだろうが(参照)。
 この点、シンポジウムで比較的さらっとした意見ではあったが気になることがあった。高知県では高齢者医療のピークが過ぎたこと、夕張市では医療制度が破綻して結果的に在宅医療(あるいは医療なし)になっているとのコメントである。それがそれほど深刻な問題でもないように受け取れた。
 それでふと気がついたのだが、終末期医療・介護医療はそれを問題として焦点化すれば問題だが、人は老いて死んでいく、という盛者必衰の理の流れで見れば、死は人の人生の普通の帰結なので、無問題とも言える。ああ、そういうことかなと、私は奇妙な脱力感は感じた。なんであれ、人は死ねば終わりだ。先日、これから日本の死亡統計項目に「路上」を加えないといけませんねというブラックジョークを聞いたが、路上死も普通の死となっていくのだろうし、それが人間というものかもしれない。
 今回のシンポジウムには、日本のメディアではさして関心が持たれなかったようだった。ネットでも話題を見かけない。そうしたなか、医療保険について、どういうふうに日本人の国民意識が形成されるのだろうか。
 
 

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2015.08.25

SEALDsについて少し思った

 SEALDsについてまったく関心がなかった。若い人のデモ団体の1つであるとは認識していた。そういうデモは民主主義国家なので自由に行えばいいと思う。余談めくが、先日、ピンズラーのフランス語レベル5をとりあえず終えることができたのだが、そのなかでも若い人がデモを行う話題が二、三あった。いわく、デモに紛れた米国人の彼氏が警察に捕まっちゃったうぇーんというと、大丈夫よくあることだよ、僕も捕まった経験あるよ、パスポートもって警察にさあ行こう、といった内容である。さらに余談だが、男性同性愛者の結婚の話題とかもあった。なかなかすげーフランス語レッスンであった。つまり、楽しい。デモも同性愛結婚も、日本でも、もっとやれ。
 たまたまたSEALDsについて、ただ若い人がそれぞれ勝手な理由で、とにかく憲法違反だから安保法案に反対するというシングルイッシューの単純なデモ団体だ、と思っていた。のだが、そうじゃないよ、ちゃんとよく考えられた政治活動だ、というような話を某氏のツイートで見かけ、ほぉ、あれに思想的な背景があるのか、と関心を持った。
 というのは、私は、思想的にそれが同意できるなら、支援したいと思うからだ。最近の例では香港の雨傘革命がある。私はその期間、ブログでも支援の声を上げたし、バナーも数日掲げた。逆に思想的な内容を読んで、ああ、これは支援できないな、というのもある。台湾の「ひまわり学生運動」である。台中間のサービス分野の市場開放協定に関する学生の反対運動である。だいぶ心情的に同情はしたが、私はこの協定は進めるべきだと思ったので、同意しなかった。余談でいうと、そういうネットの活動だけでなく、私はこれからの日本の保健医療に関心を持っているので、たとえば昨日の厚労省主催の「医療保険2035」にも市民として出席した。
 さて、SEALDsはどうか。初めて関心をもったのである。どこかにその思想、つまり綱領が明示されているはずだ。そしてそれは目立つところにあるはずだと、とりあえずググったら、www.sealds.comが見つかった。偽サイトの疑念がないわけではないが、これだろう、と思った。
 そこには主張が書いてあったので、読んでみた。一読して、「ああ、これは支離滅裂だ」と思い、そのままその思いをツートしたら反発された。まあ、自分が正しいと思って一生懸命やっている活動に向けて、支離滅裂とか言うのは悪口みたいに受け取られてもしかたない。ただ、私としては、支援できる要素を見つめていたからそう思ったのであり、強調して言いたいのだが、SEALDsの活動や思想が評価として支離滅裂だと主張したいわけではまったくない。冒頭述べたように、市民のデモ活動は自由にやればいいと思うからである。私としては、これは到底支援できるものではないなという私自身の行動理由というだけのことである。
 そうした限定ではあるが、もう少しそのあたりの自分の中の思いも述べてみたい。批判に受け止められるのは本意ではないので、そこは汲んでいただけたらと思う。あくまでそう見る人もいるという程度である。それと最後に提言もある。
 最初に思ったのは、SEALDsがシングルイッシューの活動団体ではなかった、という発見だった。これはかなり驚いた。安保法案の廃案を目指すデモ団体ということではなかった。もっと永続的な理念が掲げられていたのである。
 であれば、これは政党活動と言っていいだろう。では、政党活動として見たとき、その理念はなんだろうか?
 これはそのサイトの冒頭に大書されている「私たちは、自由と民主主義に基づく政治を求めます」ということである。そうであれば、党名として簡略化すると「自由民主党」としてよいものである。
 だが、これは彼らの考えとしては既存の自由民主党と対立しているらしい。となると、その含みは、既存の自由民主党は自由と民主主義に基づく政治をしていないから、だから「私たちは、自由と民主主義に基づく政治を求めます」ということになる。
 この大前提からして私は受け入れがたい。既存の自民党も、概ね、自由と民主主義に基づく政治を実施していると私は理解している。おそらく当面の焦点化は、安保法案が自由と民主主義に基づいていない、として限定化されるべきだっただろう。
 もう少しSEALDsの主張をブレークダウンする。「現在、危機に瀕している日本国憲法を守るために、私たちは立憲主義・生活保障・安全保障の3分野で、明確なヴィジョンを表明します」としている。
 これがまたわからない。日本国憲法を守るための立憲主義はわからないでもない(逆な気もするが)。だが日本国憲法を守るための生活保障となるとわからない。生活保障は日本国憲法に規定されていて、それが実現されていないというならわかる。日本国憲法を守るための安全保障もやはりわからない。安全保障は本来なら国家の基本法によって規定されるものだが、日本国憲法は連合軍によって武装解除された時代に作成され、その後、サンフランシスコ条約と一体の日米安全保障条約によって補完されてできているので、その歴史と構造から問わなくてはならないものだ。
 揚げ足とりをしたいのではない。むしろ、「3分野で、明確なヴィジョン」というときのその3分野を統一する思想的な理念は何か?がまず知りたい。その原理が明示され、そこから分野ごとの政策が提示されるはずだ。
 だが、そうなっていない。そのあたりから、「ああ、これは支離滅裂だ」と思ったのである。
 それでも少し、個別に立憲主義を見る。


たとえば、2013年12月の特定秘密保護法の強行採決や、2014年の解釈改憲による集団的自衛権の行使容認があります。さらに2012年に発表された自民党の改憲草案は、個人の自由や権利よりも公の秩序や義務を強く打ち出すものです。

 特定秘密保護法は議会手順でなされた。2014年の解釈改憲による集団的自衛権の行使容認は行政の立場であって、これが議会審議されるという意味で、議会手順を遵守している。自民党の改憲草案は、国家の問題というより、自民党に対立するSEALDs自民党の党派的な文脈にあり、立憲主義でいうならこれが議会手順にどのように乗るかが問題である。
 生活保障はどうか。

私たちは、持続可能で健全な成長と公正な分配によって、人々の生活を保障する政治を求めます。

 それは財務省も厚労省も同じ考えである。どこが違うかによって主張が成立しているはずだが、それはどこだろうか? 当然、前提はカネの問題である。どこからカネを得るかということに行き当たる。

いま求められているのは、国家による、社会保障の充実と安定雇用の回復を通じた人々の生活の保障です。

 ここもやはり支離滅裂に思えた。国家にカネが潤沢であればそれは可能だが、まさに問題はそこにかかっているからだ。
 自由と民主主義に基づく体制では、カネは民間から生み出される。ここでは国家はそれに附随する再配分装置でしかない。国家はそれ自体ではカネを産まないのである。
 つまり、生活保障を維持するための国家財政はどのように実現されるかというビジョンが問われなければならないはずだが、そこが欠落している。
 安全保障政策はどうか。細かい点を上げるまでもなく、安全保障政策はかなり専門的な領域であり、そうした専門知なくオールマイティな解決はできない。このことは現状の南シナ海の問題を見てもわかるし、北大西洋条約機構(NATO)や中東情勢を見てもわかるはずだ。単純な話、日本の平和主義は金銭支援以外、あるいはそれを介した理念以外はまったくないに等しい。安全保障を考える上で、あえてもういち事例をあげるなら、スリランカ内戦過程の検討を勧めたい。日本的な平和理念がどのように対応できたか教訓は多く得られるだろう。
 しかし以上のような細分点よりも、もう一極のそもそもの問題に行き当たる。こうしたSEALDsの理念は、私の理解では、日本共産党とほとんど変わりないということだ。社民党にも近い。民主党にもやや近い。つまり、SEALDsである必要性は感じられない。
 ここで2つ思うことがある。まず、そうであるなら、SEALDsは日本共産党の下部組織として政党政治に参加してはどうだろうか。私はここで皮肉やイヤミを言っているのではない。
 もう1つは、最大野党である既存政党の民主党とSEALDsはどう関わっているのか、である。
 この視点で重要なのは、現在の民主党である。特に、安保法案についてだが、民主党は表向き野党であり反対しているし、その反対の議論はSEALDsと似たように見えるが、民主党内では安全保障についての党の統一した見解が存在しているようには見えない。簡単に言えば、最大野党の民主党は、安全保障問題に党として明確な理念が打ち出せないでいることが、現下の混乱の元であるとも言える。自民党がいくら暴走しようにも一定の力のある野党があれば押さえ込めるはずだが、ゆえにそれが機能していない。つまり、現下の政治状況の問題は、民主党の機能不全にあると言ってもいい。
 実は、その民主党の機能不全が、SEALDsという現象なのだとも理解できる。その点は、SEALDsに了解されているらしい。

 SEALDsは特定の政党を支持するわけではありません。しかし、次回の選挙までに、立憲主義や再分配、理念的な外交政策を掲げる、包括的なリベラル勢力の受け皿が誕生することを強く求めます。

 SEALDsは本来は、しかしそうして見るなら、野党編成の軸を担う政党であるべきだろう。
 そしてそれは通常の野党として日本の立憲政治に登場し、議会政治のプロセスのなかで機能してよいはずである。
 つまり、SEALDsは日本の「オリーブの木」となるべきであろう。その理念から活動のあり方を整理したらよいのではないか。「オリーブの木」が日本的ではない、あるいはすでに失敗しているというなら、「梅の木」とか「合歓木」とか、まあ、なんでもいいけど、そういう日本の政治風土に合った野党再編成の運動であればよいのではないか。その過程を取ることで安全保障だけでなく、金融政策なども練り込んでいけるはずである。

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