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2015.08.15

一番大切なものが欠落していた戦後70年談話

 予定通り、昨日の14日、安倍晋三首相は戦後70年の談話を発表した(参照)。私も定刻にNHKを付けてみたら、おじゃる丸がやっていていた。首相の代わりにおじゃる丸とは、ああ、日本も平和になったものだな、と思った。が、気がついたが、NHKといってもいつも私が見ているそのチャネルだけではなかった。
 同時刻ツイッターを覗くと他局でもCMを挟んでやっていたらしい。なかには、センター試験の論述問題よろしくキーワードのチェック項目も掲載していたところがあったようだ。ご冗談でしょう?
 戦後70年談話について、安倍首相を攻撃できる部分があるかとワクテカして聞いている人たちもいたようだった。しかし、突発事態でもなければそんなネタが出るはずもないのは、すでに有識者会議「日本の役割を構想するための有識者懇談会」の報告書(参照)が出ていて、首相談話もこれに逸脱することがないことからもわかるはずだ。というか、この報告書があまり読まれてなさげなのが、むしろ私には訝しく思えた。
 談話はどうだったか。ということは、突発事態でもあったかということだが、同席者だろうか咳き込みが随分聞こえるなあと思った以上には何も思わなかった。そういうものだろうということで、終わった。
 そして予想通り、一番大切なものが欠落していた戦後70年談話だった。
 ツイッターなどやネットの話題を見ていても、そこに気がついた人は、私の見える範囲ではいないように思えたので、ブログに書いておこうかと思う。なんだかわかりますか?という以前に、それがわからないで、いったいなにが戦後70年なのか、と私は思った。
 その前に、談話全体をどう受け止めるかだが、これについては、全文や有識者会議の報告書を読むより、ウォールストリート・ジャーナルのまとめが秀逸だったので、記しておきたい。「安倍首相の戦後70年談話、5つのメッセージ」(参照)より。

1. 日本は窮地に追い詰められていた
 安倍首相は談話の冒頭、1930年代に「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました」とし、「その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました」と述べた。

2. 日本も多大な苦痛を受けた
 安倍首相は日本軍が海外で与えた苦痛の詳細に触れる前に「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました」と述べ、東京空爆や広島と長崎での原爆投下、沖縄における地上戦などによって「たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました」と話した。

3. 日本の兵士も英雄だった
 安倍首相は「戦後、600万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実」を「心に留めなければなりません」と訴えた。帰還した兵士のおかげで日本の戦後の発展があると讃えることで、軍人に対するイメージ回復と国内の認識修復を図った。

4. 日本軍と「慰安婦」
 安倍首相をはじめとする日本の保守派は、「慰安婦」はほとんどの場合が日本軍が強制的に連行・拘束した女性ではなく、商業的に身売りされた単なる売春婦だったとの見解を示している。首相はこの日の談話で「戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます」と述べたが、日本軍の責任には触れなかった。

5. 日本は十分謝罪した
 安倍首相は「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の8割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と主張した。


 1はこの談話の歴史観である。実際には、報告書に詳しい。というかかなり詳しいので少し驚いたくらいである。
 2と3は日本国民向けである。日本の市民と戦士についてある。この言及はこうした談話の性格上、当然の項目ではあるだろう。
 4は実質、韓国向けであり、5も概ね韓国向けだが、中国も含まれていると言っていい。つまり、この談話の事実上の主眼は、韓国と中国という二国に向けて安倍首相がどう語るかということであり、実際メディアの関心も、2と3の日本国内向けより、4と5に向いていた。これは結局のところ、70年もしてみたら、実際に日本の戦争に同時代で体験した人はほとんどいなくなったということである。現在80歳の人でも、日本の戦争は子供としての経験である。
 別の言い方をすれば、なぜ、韓国と中国に「謝罪」をしなければならないのか、という問題でもあるだろう。このこの問題は、謝罪を求める側には自明すぎるだろうし、その逆の側にはナショナリズム的な感情をいらだてる点で同様に自明だろう。つまり、両者にとって、現在の感情的な問題であり、そこをテコにした現在の国際問題だろう。
 ただし、そのように問題が切断できるということは、ようするに、もはやそれは、韓国と中国の問題でしかないとも言える(北朝鮮も含めてもよいだろうが)。国連体制の事実上の主軸を支える米国は今回の談話に満足しており(そのように圧力をかけたせいもあるが)、米国に支えられている北大西洋条約機構(NATO)諸国も国家のレベルで日本の戦後を問題視はしていない。
 加えて、もはやアジア諸国も、中国の顔色を見る国家はあるにせよ、基本的に日本の戦後を好意的に受け止めている。この話題は、有識者会議の報告書に「日本は戦後70年、中国、韓国をはじめとするアジアの国々とどのような和解の道を歩んできたか」という項目でも触れられている。他、報告書には「米国、豪州、欧州との和解の70年への評価」の項目もあり概ね「堅固にして良好な同盟関係を持つに至った」と見てよい。報告書にはないが、中東諸国、アフリカ諸国、南米諸国などは戦後の日本の平和貢献から概ね日本の戦後について好意的に受け止めているとしてもよいだろう。
 「ではなぜ韓国が」ということだが、この点は有識者会議の報告書に示唆がある。

日本の植民地統治下にあった韓国にとり、心理的な独立を達成するためには、植民地支配をしていた戦前の日本を否定し、克服することが不可欠であった。1948年に独立した韓国は、サンフランシスコ講和会議に戦勝国として参加して日本と向き合おうとしたが、講和会議への参加を認められず、国民感情的に割り切れない気持ちを抱えたまま戦後の歩みを始めることとなった。

 簡素に要点がまとめられている。まず、「韓国にとり、心理的な独立を達成するためには、植民地支配をしていた戦前の日本を否定し、克服することが不可欠」という点が、謝罪を求めることの根幹にあるとしている。そしてこのことは、「サンフランシスコ講和会議に戦勝国として参加して日本と向き合おう」ということにつながった。
 簡単にいえば、韓国は自己規定では、第二次世界大戦における日本の戦勝国であり、そのことを、連合国、実質米国体制に認めさせることが、戦後処理という意味になった。これが解消されないために、「国民感情的に割り切れない気持ちを抱えたまま戦後の歩みを始めることとなった」。
 少なからぬ日本人は、日本政府が誠意をもって韓国に謝罪すればよいと考えているが、この文脈の謝罪とは、韓国を第二次世界大戦における日本の戦勝国と日本が認めよということであり、その系のなかで代表的な話題が取り上げられると見てよい。
 このことは、つまり韓国の国民感情に内在する、戦勝国として自国を扱ってくれない米国へのアンビバレンツであり、それの前段に日本をそこに組み込もうとしても、日本も同様に米国の世界観の中に置かれていてどうすることもできない。しいていえば、米国が韓国を戦勝国として待遇すれば、日本への謝罪問題はその根幹において終わるだろう。(おそらくそれは米国大統領に広島での謝罪を求める日本人の国民感情に似ている。)
 中国については、報告書はかなり重要な問題について踏み込んでいる。論点のポイントは、日本が戦争で戦ったのは中華民国(現在の台湾)であって、中華人民共和国(中国共産党)はない点である。

 日本の戦争責任に対する中国側の姿勢は、第二次大戦終結から現在まで「軍民二元論」という考えの下で一貫している。これは日本の戦争責任を一部の軍国主義者に帰して、民間人や一般兵士の責任を問わないというものであり、極東軍事裁判や対日占領政策において厳しい対日姿勢を示した中国政府も、大戦後中国に留まっていた日本の一般兵に対しては、武装を解除し、民間人と共に引き揚げさせた。
 戦後間もなく、1949年10月に中華人民共和国が成立し、中華民国が台湾に遷ると、世界には二つの中国政府が併存することとなる。米国からの要請もあり、日本は中華民国との間で1952年4月に講和条約を締結し、国交を樹立する。中華民国は、日本への賠償請求権を放棄し、蒋介石総統は「軍民二元論」の考えに基づき、日本には徳を以て怨みに報いるべきであると説いた。「以徳報怨」という言葉は、その後日本と中華民国の間で歴史問題を防ぐ役割を担うことになる。他方、台湾は、1987年まで憲法を停止して戒厳令を敷いており、蒋介石の対日講和は、国民との合意形成の上で進められたものではなかった。また、1950年代、1960年代において日本と中華民国の間の人的交流は限られており、外交的には日本と中華民国は講和を成し遂げていたものの、日本と中華民国双方の人々の和解には大きな進展はなかった。

 含蓄が深いが戦後ということを考える上でもっとも重要な視点が明確になっている点に注意したい。「日本は中華民国との間で1952年4月に講和条約を締結」という点である。
 戦後とは、1945年8月15日に天皇が超法規的になんか放送で述べたということではない。戦後とは、戦争が終わったということであり、狭義には休戦協定が締結されて戦闘状態が終結し、さらに広義には講和条約を締結するということなのである。
 中国について問題が起きるのは、中華人民共和国(中国共産党)との講和条約をどう考えるかということである。
 ここで報告書はさらに踏み込んでいく。率直に言うと、私はこの説明は奇異なものに映った。戒厳令を理由に蒋介石の対日講和の正当性に疑念を投げている点である。

他方、台湾は、1987年まで憲法を停止して戒厳令を敷いており、蒋介石の対日講和は、国民との合意形成の上で進められたものではなかった。また、1950年代、1960年代において日本と中華民国の間の人的交流は限られており、外交的には日本と中華民国は講和を成し遂げていたものの、日本と中華民国双方の人々の和解には大きな進展はなかった。

 この先の説明もやや異質な印象は受ける。

 日本と二つの中国政府との関係は、1960年代後半から70年代前半にかけて大きく変化する。1969年、珍宝島において中ソ国境紛争が発生すると、ソ連との関係に危機感を抱いた中華人民共和国は米国に急接近する。そして1971年に中華人民共和国が国連での代表権を得ると、国交正常化への動きが本格化する。1972年2月にニクソン米国大統領が訪中し、その7か月後の1972年9月、田中首相は訪中し、中華人民共和国との間で国交正常化することで合意するとともに、中華民国との外交関係は断絶された。

 この段落がやや唐突に次の部分に接続する。

イ 国交正常化から現在まで
 1972年9月、日本と中華人民共和国は、日中共同声明を発表し、国交を正常化した。日中共同声明において、日本側は、「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」とし、これに対し中国側は、「中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」とした。1970年代の中国に目を向けると、1976年に文化大革命が終結し、鄧小平が実権を握り、1978年に改革開放政策が開始される。そして、1978年に鄧小平は中国首脳として初めて訪日し、日中平和友好条約が締結された

 率直な話、中華民国(台湾)との講和条約はどうなったのかについての言及はない。実際のところ、日本は追米して中華民国(台湾)を国家として認めなくなったのだが、それが日本の戦後とどう関係しているのかについては、報告書からは読み解けない。
 中華人民共和国(中国共産党)としては日本がこの政府を正統政府として認めたことと併せて講和条約が締結されたが、その後は、この動向を支配していたソ連の解体を契機に日中間の関係は悪化していく。それが今回の談話に影響しているわけだが、以上のように全体構図を見ていくなら、米国の国策が主軸にあって日本は主体的な行動が取れなかったわけで、その射程まで含めて過去を再定義するように「謝罪」が提示されても本質的な対応は取れない。皮肉な話だが、もはや国家として認められていない「台湾」に日本は謝罪すらできないことになる(謝罪を受ける主体がない)。そのなかで、今回の談話で安倍首相が台湾を取り上げた点は、報告書を超える部分であったかもしれない。

我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

 さて、長い前振りを書いたが、以上のような論点で考えを追っていけば、戦後70年談話で欠落していた一番大切なものは明白だろう。
 ソ連であり、その継承国であるロシアである。
 談話には「ソ連」や「ロシア」というキーワード以前に、その話題が抜けているのである。実は報告書からも実質抜けている。日本人は忘れてしまったのだろうか? 
 戦後とは、講和条約である。日本が戦争をした国と講和条約を結ぶことである。講和条約とは、平和条約である。平和とは、講和の上に成り立つものである。
 だが、日本が独立したのはサンフランシスコ条約の単独講和であり、ソ連とはいまだに平和条約が締結されていない(参照)。
 形の上では、日本とロシア(ソ連の継承国)とは戦争が終わっていないのである。日ソ共同宣言(1956)で「戦争状態の終了」はあったものの、国境も定まっていない。
 戦後70年談話があり、そして日本国が、平和国家を望むなら、まず、日本が戦争した相手と平和条約を結んでいくことが最大の課題だろう。
 戦争を反省し、平和を望むなら、まず、ロシアと平和条約を結ぶという課題を明確にすべきであった。
 
 

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2015.08.11

日本国憲法の八月革命説について

 安保法制が違憲かについて、朝日新聞が6月に憲法学者209人を対象にアンケート調査を行い、7月11日に発表した。それによると、回答者は122人。うち、違憲回答が104人、違憲の可能性が15人、合憲が2人だった。このことを報道価値として、「安保法案「違憲」104人、「合憲」2人 憲法学者ら」(参照)とする記事が掲載された。
 違憲104人に対して合憲2人というと、圧倒的な対比に思われるが、回答が約58%であり、未回答者のついての取材はなされていなかった。ただし、アンケート対象209人に偏りがあったとも思われないことは、有斐閣の判例集「憲法判例百選」執筆者全員を対象としたことから察せられる。該当の朝日新聞報道から理解できることは、憲法学者の大勢が安保法制を違憲と考えているということで、そのこと自体は実態を反映しているだろう。
 アンケート詳細も興味深いものだった。なかでも「現在の自衛隊の存在は憲法違反にあたると考えますか」との設問には、違憲が50人、違憲の可能性が27人だった。大ざっぱではあるが、安保条約を違憲だとする憲法学者の半数は、自衛隊の存在をそもそも違憲と考えていると理解してよさそうだ。別の言い方をすれば、自衛隊の存在自体が違憲であれば、その延長にある安保法制は演繹的に違憲となるだろう。
 もう一点興味深いのは、「憲法9条の改正について、どのように考えますか」について、改正の必要はなしとするが99人だった。これも大ざっぱに見ると、安保法制を違憲とする主張は憲法9条改正を不要とする考えかたと重なっていた。
 朝日新聞のアンケートに関連して公開された井上武史九州大学大学院法学研究院准教授の見解はさらに興味深い指摘が含まれていた(参照)。


【附記】
(おそらく、貴社〈注:朝日新聞〉の立場からすれば、このアンケートは、憲法学者の中で安保法制の違憲論が圧倒的多数であることを実証する資料としての意味をもつのだと思います。しかし、言うまでもなく、学説の価値は多数決や学者の権威で決まるものではありません。私の思うところ、現在の議論は、圧倒的な差異をもった数字のみが独り歩きしており、合憲論と違憲論のそれぞれの見解の妥当性を検証しようとするものではありません。新聞が社会の公器であるとすれば、国民に対して判断材料を過不足なく提示することが求められるのではないでしょうか。また、そうでなければ、このようなアンケートを実施する意味はないものと考えます。)

 重要な指摘と思われるのは、「学説の価値は多数決や学者の権威で決まるものではありません」ということと、「新聞が社会の公器であるとすれば、国民に対して判断材料を過不足なく提示することが求められる」という点である。
 特に後者について、日本の報道が十分であったかについては問われることだろう。しかし、それ以前に国会での対応も求められる。そして国会議論の前提には、国会の憲法調査会の議論がある。
 ここでごく基本的な疑問だが、朝日新聞報道からすると、憲法学者の大半が安保法制を違憲としているので、それが憲法学者の通説であるかのような印象を受けやすい。しかし、上記井上氏の意見のように「学説の価値は多数決や学者の権威で決まるものではありません」とする考えがより理性的である。では、そうした憲法学者間の見解の相違は何に依存しているのだろうか?
 この問題は、概ね、日本国憲法の正当性についての見解の相違によると理解していいだろうし、そもそも日本国憲法の正当性が自明ではないためである。このことは、日本国憲法の制定経緯にも関連している。
 では、この問題は、国会の憲法調査会でどのように議論されてきただろうか。本来なら、その議論をまとめるべきだが、この問題については、2000年の憲法調査会で参考人として発言した高橋正俊・香川大学法学部教授の見解が参考になる(参照)。

○高橋参考人 紹介にあずかりました香川大学の高橋でございます。
 本日は、「日本国憲法制定史とその法理的視角」という題でお話をさせていただきたいと思います。
 日本国憲法の制定史研究というものは、歴史的、政治的、経済的、その他のさまざまな視角から行われているところでございますが、法的な側面から、特に、君主主権憲法からその改正として国民主権憲法を生み出したという、一見するといささか矛盾するような事態をどのように理解すべきかということについて考えてみたいと思うわけです。

 問題の起点は、「君主主権憲法からその改正として国民主権憲法を生み出したという、一見するといささか矛盾するような事態」の説明にある。これにいくつかの学説が存在する。学説を高橋氏の見解で整理してみる

改正説


 この改正説というのは、簡単に言いますと、明治憲法を改正して日本国憲法となったという非常に単純なものでございます。これにつきましては、実はGHQやら日本政府、佐々木惣一その他の方々、かなり有力な方々が主張されているところでございますが、これについては現代の憲法学では必ずしも主要な見解になっておりません。
 その基本的な見方というのは、このレジュメに書いておりますように、ポツダム宣言受諾以後も明治憲法は維持されて、それが十一月三日公布の日本国憲法へと改正され、五月三日の施行にまで至る、そういうふうなものでございます。
 この理論の前提となるものは、まず第一に、ポツダム宣言の受諾によって日本政府は自主改正の義務が生じただけであって、依然として天皇主権は維持されているが、ただGHQによる制限を受けた状態である、こういうふうに見るわけでございますね。そして二番目の前提は、憲法改正は、手続に従って改正する限り限界はなく、天皇主権から国民主権に法的に連続して移行できるという憲法改正無限界論という考え方になっております。そして、実際、改正規定に従って改正されたわけでございますので、日本国憲法の効力はある、こういうことでございます。
 このような場合には、簡単に言いますと、明治憲法七十三条の改正規定に則して改正しておれば日本国憲法は効力があるということになるわけですから、そこで問題になりますのは、一体七十三条に則した改正であったかどうかということで、ここで押しつけの議論が出てくるわけでございます。
 これまで議論されておると思いますが、まず、マッカーサー草案が手交され、その基本原則、根本形態を変えてはならぬ、こういう条件の中で行われたということ。それから、いわゆる天皇の戦争犯罪ということを取引材料にされた、そういうふうな二月十三日のマッカーサー草案手交状況をめぐる問題。それから、三番目としては帝国議会の審議が完全なGHQのコントロール下にあったといったような諸点がこのときに問題になるわけであります。そして、そのような部分がいわば七十三条に則した改正と言えないということが、すなわちここで問題となってくるわけでございます。

 明治憲法を改正して日本国憲法が出来たとすると、明治憲法七十三条の改正規定に即していなれければならないが、そう見ることは難しい。改正説は主要な見解とはいえない。

無効説


 無効説は、いわゆる自主改正の義務があるということについてはまさしく同じでございますが、しかし、明治憲法七十三条の憲法改正には限界があって、天皇主権から国民主権に移行はできないという憲法改正限界論を前提にしております。そして、この限界が認められる以上、日本国憲法の効力は当然のこととしてないということになるわけでございます。
 これは非常に少数の人だけが主張しておられることでございますが、理論的にはばかにできない説でございまして、これから申し上げる八月革命説は、この説をいわば予想して、こういうふうな無効に陥らないように論理を構成しよう、こういう試みであると見ることもできるものでございます。

 日本国憲法無効説は少数の主張であるが、「理論的にはばかにできない説」である。むしろ、無効説を回避するために、次の八月革命説が登場してきた。

八月革命説


 これにつきましては、この無効説のような隘路に陥らないために、明治憲法がポツダム宣言を受諾した時点において、いわば法的な革命というふうな状況に至り、天皇主権は国民主権にここで変わった、こういうふうに考えるものでございます。したがって、それ以後の明治憲法、ここでは明治憲法Bとしてございますが、明治憲法Bは、国民主権の憲法に変質したことになってしまいます。したがって、明治憲法Bは既に国民主権の憲法でございますから、それを改正、施行して日本国憲法にするというのは差し支えない、こういう議論となるわけでございます。


 ただ問題になりますのは、改正手続でございまして、先ほど申しましたように、明治憲法Bというのは国民主権によってモディファイされたものでございますので、国民主権に抵触する機関、例えば枢密院とか貴族院が改正に参加しておりますが、この議決については効力はない、こういうふうなことになるわけでございます。
 この議論は、すなわち明治憲法Bというのは既に国民主権の憲法になっておるというわけですから、幾つか問題が出てまいります。
 まず、モディファイされた改正手続というものは、一体いかなるものであろうかという問題です。第二番目は、そのモディファイされた憲法改正手続に参加する、国民主権にかなうような構成員は、どうやって確保されたか。ここでは、ホワイトパージとか新法での衆議院選挙による構成員で十分なのかといった問題が起こってくるわけです。さらには、改正無限界論で議論されたような、マッカーサー草案の手交の問題とか、審議がGHQの完全なコントロール下にあったなどということの押しつけが、さらに問題となってまいるわけでございます。
 ですから、押しつけの議論といっても、無限界説における議論と八月革命説における議論というのは、視角がそもそも違うということをちょっと御記憶いただきたいというふうに思うわけでございます。
 いずれにせよ、法的連続性が確保される以上、日本国憲法の効力はあるという議論になるわけでございます。

失効説


 この失効説というものは、明治憲法が、ポツダム宣言を受諾することによっていわばGHQの占領管理の中に入っていくということになるわけです。そして、占領管理下にあるわけですから、いわば明治憲法Aと明治憲法Bは断絶をする。ここに一種のやはり革命みたいなものが起こっている、こういうふうに考えるわけであります。
 そして、その中でつくられた、改正された日本国憲法Aと言われるものも、これもまた占領管理期でございますから、管理法令の一部ということになるということでございます。その限りで、講和条約によって日本の占領が終わるまでは管理法令として有効だということを認めるようでございます。
 ただし、講和条約による占領の終了とともに日本国憲法はどういう運命をたどるかということについて考えれば、それはまたもう一度断絶が起こったわけでございますから、その時点で失効するのではないかということです。したがって、そのときには、本来、日本国憲法Bの効力はないはずなのだ。これが失効説の筋書きでございます。
 もちろん、混乱を避けるために日本国憲法の失効を宣言すべきだといったような提言がなされるところでございますが、これは法理的にはちょっと関係がないということになっております。

 以上の諸説なかで現在主流なのが八月革命説である。朝日新聞アンケートでは、ジャーナリズムの限界だとも言えるかもしれないが、憲法学者がどの見解に経つかついては関心がなかったが、主流説なので回答者の大半がこの説に立っていたと想定してよいだろう。
 次に、高橋はこう、主流の八月革命説に疑問を投げかけていく。


 まず、八月革命説というのは、限界論に基づきまして、かつ日本国憲法を新憲法として基礎づける、こういうふうな考え方でございまして、今も多数説という形で生きております。恐らく学者の中ではかなり多くの人がこれをとっているのではないかというふうに考えられます。
 しかしながら、近年、この八月革命説については、さまざまな観点から難点があるのじゃないかという批判があるところでございまして、理論的な問題点、及びその当時起こった歴史的な事態と整合性がないといったような問題が出てまいっております。

 八月革命説が含む問題を整理してみたい。以下見出しは私が付けたものである。

日本国憲法が成立した占領管理下に国民主権はなかった


 まず第一でございますが、これが本当は一番重要な点でございますけれども、八月革命説というのは、ポツダム宣言によって国民主権が成立したということをある種、絶対的な前提にしておるわけでございます。しかしながら、この議論の根拠にしているポツダム宣言、バーンズ回答から、日本は国民主権を採用したという結論を引き出すことはできないと思われます。
 この点については、詳しくは申しませんけれども、御存じのとおり、制憲議会、帝国議会における金森国務大臣の答弁の中に、「我ガ憲法ノ根本的建前」は「八月十五日ニ変ルベキ情勢デナイ、是ガ憲法ノ制定ヲ経過シテ変ルベキ情勢ニアル」というふうに、この段階でポツダム宣言、バーンズ回答からは国民主権に直接に変わったと言うことはできないというふうに一般的に考えられているわけでありまして、むしろ占領軍の撤退条件とされているのである、すぐさま国民主権に変わるということを言っているのではないというふうに思われます。
 ところが、この自明と思われるほど明らかな見解に対するはっきりした反論なくして、この八月革命説は長く通説としての立場を占めてきておるわけですが、この点について非常に問題があると言われるわけでございます。
 次に、もう少し法理的なところに入っていきますと、二番目にa、b、cと書いてありますが、これは一つのことでございますので、簡単に説明させていただきます。
 占領管理下の状況の中で国民主権ということになっているのは、非常に事態に合わないし、法理的に問題があることではないか。事実に合わないのではないか、こういう疑問でございますね。

 安保法制に関連して重要な点は、占領下で成立した日本国憲法ではあるが、占領下では日本国民に主権はなく、日本の主権は「占領軍の撤退条件」によっている。この点を以前のエントリー(参照)から敷衍すると、「占領軍の撤退条件」となるサンフランシスコ条約と同日の日米安全保障条約によって、連合国から集団的自衛権が付与されて日本の主権が発動したと言えるだろう。

八月革命説は国際法優位の一元論を元しているが支持されない


 また、ポツダム宣言を八月革命説のように解釈するためには、国際法であるポツダム宣言があらゆる国内法に上位し、違反するすべての国内法規は無効であると考えるラジカルな国際法優位の一元論をとる必要があるわけでございますが、これについては、実は日本国憲法を勉強している人たちの間にこのような説をとる人はほとんどおらないし、あるいは政府の見解もそうではなく、国際法というのは国家と国家の間の権利義務関係を規律しているもので、このようなラジカルな考え方は国家の独立性を害するというふうに考えているようでございます。

 この点については、国際法一般と、「連合国大権」との分離で説明が可能になるかもしれず、高橋氏も後で関連として「マッカーサー主権」に触れている。余談だが、自衛隊の前身である警察予備隊を規定したポツダム政令を考えると、「ポツダム宣言があらゆる国内法に上位」と見てもよいかもしれない。

日本国憲法はハーグの陸戦条約附属書43条との整合性がない


 さらに、cですが、占領管理下の日本を国民主権の国家とするということは、ハーグの陸戦条約附属書四十三条との整合性が実は問題になります。これも前に恐らく議論になっただろうと思うのですが、ポツダム宣言の受諾を、四十三条の特別法である、四十三条のもとで特に合意されたものであるから有効である、優先適用される、こういう考え方があるわけですけれども、もしそういうことが自由にできるというのであれば、四十三条を規定している意義などというものはほとんど失われるのではないか、こういう反論があるところでございます。

 では、八月革命説をどのように見直したらよいのだろうか?
 高橋氏は仮称であるが「マッカーサー主権」という考え方を提示している。

「マッカーサー主権」で考えてみる


 では、問題はどんな説明が可能かということでございます。以下にお話をするのは小生の個人的な見解ということになりますので、そういうふうな観点からお聞き願えればそれでよいと思っておりますが、すなわち、まず日本が置かれました全体の法的状況の概観というものは、四ページのところに(1)として図に書いておりますが、次のようなものだったと思われます。
 まず、本来の明治憲法をAといたしますと、ポツダム宣言を受諾することによって、ここで私も断絶があると考えておりまして、すなわち天皇主権から連合国ないしはマッカーサー主権ともいうべきものに、主権という言葉はちょっと問題があるわけですが、移行したのではないか。そしてまた、この根底には、日本国の国家性が揺らいだのではないか、そういうふうな考えをいたしております。したがって、揺らいだという観点から、主権というところにはてなマークがついているわけでございます。
 そして、明治憲法Bと日本国憲法Aというのは、いずれもいわば連合国・マッカーサー主権というものの下位法として存在した管理法令であるというふうに考えております。
 そして、講和条約によって占領が終了するわけでございますが、そこにもまたもう一度、断絶があるのではないかというふうに見ています。すなわち、連合国主権、マッカーサー主権といったようなもの、ないしは国家の非常にあやふやな立場が、もう一度通常の国家そして国民主権国家ともいうべきものになったという意味で、断絶があるというふうに考えておるわけでございます。

 以降、高橋氏は、八月革命説を回避しつつ、日本国憲法の正当性を同憲法調査会で議論している。関心ある方はさらに読まれるとよいだろう。

 私の問題意識としては、日本国憲法は制定時には大権としての「マッカーサー主権」があり、それがサンフランシスコ条約(参照)では「連合国としては」という主語となったと考える。


第三章 安全
 第五条
(c) 連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。

 そして、その集団的自衛権が同日の日米安全保障条約(参照)に結実する。

 日本国は、本日連合国との平和条約に署名した。日本国は、武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない。
 無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないので、前記の状態にある日本国には危険がある。よつて、日本国は平和条約が日本国とアメリカ合衆国の間に効力を生ずるのと同時に効力を生ずべきアメリカ合衆国との安全保障条約を希望する。

 これは占領下で策定された日本国憲法が「武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない」という欠陥を埋めるもので、占領下の成文日本国憲法は日本が主権を回復したときは、「マッカーサー主権」を補うかたちで、非成文的な日本国憲法に組み込まれたとみてよいだろう。
 60年安保闘争は、その「マッカーサー主権」を継承し自衛権を行使する有効な手段としての集団的自衛権を除去して、日本国憲法を「武装を解除」でも成立させようとしたものであった。この再純化された日本国憲法を憲法学者の多数は維持しているのではないだろうか。そしてそのことと八月革命説が現状、もっとも親和的ではあるのだろう。
 
 

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