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2015.06.04

アキノ比大統領が日本に期待していたこと

 フィリピンのアキノ大統領が2日に来日し、国会や都下で講演を行なった。非常に興味深いものだった。そこまで踏み込んで発言するのかと意外にも思えたのは、質問に答えた形ではあったが、中国の軍事侵出をナチスに例えたことだった。AFP「来日中のフィリピン大統領、中国をナチスにたとえる」(参照)より。


 都内で開かれた国際交流会議「アジアの未来(Future of Asia)」に出席したアキノ大統領は、中国の脅威とそれを抑制する米国の役割に関する質問を受け、「真空状態が生じて、例えば超大国の米国が『わが国は関心がない』と言えば、他国の野望に歯止めがかからなくなる」と回答。
 さらに、「私は歴史学を学んだアマチュアにすぎないが、ここで思い出すのは、ナチス・ドイツがさぐりを入れていたことと、それに対する欧米諸国の反応だ」と述べ、第2次世界大戦(World War II)勃発の前年にナチス・ドイツがチェコスロバキア・ズデーテン(Sudetenland)地方を併合した際、「誰もやめろと言わなかった」と指摘した。(c)AFP

 国内メディアでこの発言に注目したのは、私の見落としでなければ、産経新聞だけだったように思われた(参照)が、その報道も手短なものだった。産経新聞は保守系の偏向報道としてよく批判されるが、今回はAFP水準の報道が出来た点では日本の他の大手メディアより優れていたと言えるだろう。
 アキノ大統領の発言で国際問題を考えるうで重要なのは、しかし、「中国をナチスにたとえる」という点ではない。それは二次的な修辞にすぎないとも言える。重要なのは、「真空状態が生じて、例えば超大国の米国が『わが国は関心がない』と言えば、他国の野望に歯止めがかからなくなる」という発言のほうで、ここでいう「真空状態」が何を意味するかが理解できなければ、アキノ大統領が何を訴えたかったを見落とすだろう。残念ながら、私が見た範囲では、このことを報道した大手メディアはなかったように思われた。ので、ブログに記しておきたい。
 結論から言うと、中国は自国が領土とする海域に力の空白が生じると、ほぼ機械的に軍事侵攻してくることである。戦争も辞さない。このあたりのことは私と同年代でもあるアキノ大統領には自明のことである。先日、NHKテレビでこれについて解説をやっていて、わかりやすい地図(手元のスマホで映した)があったので参考に示そう(なお内容は事実を図示してまとめたもの)。

 まず、1974年の「西沙諸島の戦い(Battle of the Paracel Islands)」だが、パリ協定を終えたベトナム戦争末期、同協定のもとづき、米軍が南ベトナムから事実上全面撤退した権力の空白に乗じて、ほぼ自動的と言ってほどの手際のよさでこの海域に中国が侵出した。「戦い」と呼ばれるが、実質的な戦争であり、中国がこの地域を実効支配した。ここに中国は軍事拠点を作り、さらに南沙諸島への侵出に向かうことなった。
 そして起きたのが、1988年の「スプラトリー諸島海戦(Johnson South Reef Skirmish)」である。この戦争でベトナム側では70人ほどの死者が出ている(かなりひどいものだった)。なぜここで戦争が発生したかについて、大筋では中国は当初から侵出を狙っていたということだが、この時期である理由については、ユネスコの海洋調査という名目などの他、今ひとつよくわからない点もある。が、NHKの解説では、ソ連の艦隊が撤退したことの力の不在と端的に見ていて、なるほどと思えた。
 この二つの戦争は中国とベトナムの戦争だったが、1995年には、中国とフィリピン間でミスチーフ礁事件がおきる。フィリピン海軍が雨期を理由にパトロールをしない時期に中国が環礁に建築物を建造した事件で、軍事衝突にはなっていない。が、同地域は中国実効支配になった。
 この事件ついては、当初から、ソ連崩壊後体制として米比相互防衛条約解消による在フィリピン米軍の撤退が問題視されていたが、事件だけにフォーカスすれば、米軍撤退には関係なく、フィリピン海軍の失態にすぎないようにも見えるとして、米軍撤退と関係ないという議論も多い。これはネット的には水掛け論的な話になるなと思っていたが、NHKの解説では背景を端的にフィリピンから米軍撤退による力の空白と説明していた。
 基本的に、中国海軍を威嚇できるだけの軍事力が不在になり、つまり、力の空白が生じると中国海軍はほぼ自動的に軍事侵出を始めると見てよいだろう。
 これをもって中国を軍国主義と呼ぶべきか、普通の国家はそういうものなのだというべきか、これもネット的には水掛け論になりがちだが、アキノ大統領の認識では、ナチスに比していたことになる。
 これらを背景に、アキノ大統領の参議院演説(参照PDF)を読むと、なかなか感慨深いものがある。私が気になったのは以下の部分である。


ご臨席の皆様、我々の地域に平和と安定が広がる時に実現できる輝かしい実例を、日本とフィリピンが経済的及び人的な関与を通じて示すことは大きな誇りです。したがって、両国が最も大きな声を上げて、今日脅威にさらされている地域の安定を擁護していることは当然の流れといえます。東アジアと東单アジアの海洋及び沿岸地域の繁栄は、モノと人の自由な移動に大きく依存していますが、国際法によって明確に付与された範囲の外側で地理的境界や権原を書き換える試みによって、この繁栄が損なわれる危険にさらされているのです。

我々が直面する共通の課題に取り組む上で、日本の進むべき道を決めるのは日本にほかなりません。しかし、既に認識されているように、国内の問題はグローバル化が進む世界というタペストリーの中に織り込まれた模様に過ぎないのです。したがって、我が国は、日本が平和の維持のために国際社会に対して自らの責任を果たす上でより積極的な立場を取っていることを特に念頭に置き、本国会で行われている審議に最大限の関心と強い尊敬の念をもって注目しています。


 ごく簡単に言えば、南シナ海に力の空白が生じないように努力する(「両国が最も大きな声を上げて、今日脅威にさらされている地域の安定を擁護している」)ということだが、ここでさらに注意して読むと、「国際法」への言及が興味深い。
 話がまどろこしくなってきたので、すこし端折ると、「国際法によって明確に付与された範囲の外側で地理的境界や権原を書き換える試み」というときの「国際法」だが、実際には国連で1982年に採択され1994年に発効した「海洋法に関する国際連合条約(United Nations Convention on the Law of the Sea; UNCLOS)」(参照)を指している。国連の平和動向に敏感な日本は当然、批准している。なので、アキノ大統領が日本の国会で言及するわけである。

(2)我が国の対応
 国連海洋法条約は、1996年3月に国会に提出され、同年6月に承認された。その後、同年6月に批准の閣議決定を行い、国連事務総長への批准書の寄託が行われ、1996年7月に我が国について効力を生じた。

 逆の言い方をすれば、そんな自明な国際法を殊更に日本の国会で述べる意味はなにか?ということだ。
 気になったのは、メディアの動向を見ていると、今回のアキノ大統領のメッセージを対中国でのみ捉えようとしている一種のバイアスを感じたことだ。
 私が指摘したいのは、このエントリーの主眼でもあるのだが、アキノ大統領のこの主張は、米国に向けた側面もあったのではないか、ということである。米国はUNCLOSを批准していないからである。
 2012年の記事になり古いのだが、現状も変わっていないので引用する。WEDGE「国連海洋法条約への加盟目指すオバマ政権の狙い」(参照)より。

意外と知られていないことだが、アメリカは国連海洋法条約に加盟していない。1982年に採択、94年に発効した国連海洋法条約は、各国の領海や経済資源の採掘に関わる排他的経済水域(EEZ)の範囲など、地表の71%を占める海における国家の権利と義務を定義し、「海の憲法」と呼ばれている。

 また、米国が批准しない理由については、国際問題研究所「国連海洋法条約への参加をめぐる米国の対応」(参照PDF)などが詳しい。
 米国議会には米国議会での理屈もあるものだろうが、中国が急速に海洋侵出を進展させる現在、フィリピンとしては米国と共同して「国際法」を掲げたいところではあるだろう。そこで、米国と軍事同盟にあり関係が深く、大国としてUNCLOSを批准する日本から米国への間接的な圧力を、アキノ比大統領が期待していると見てもよいだろう。
 
 

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2015.06.03

かくしてギリシア語の勉強を始めたのだが

 かくしてギリシア語の勉強を始める。といっても、ピンズラー方式でごりごりと機械的な暗記をしてツーリスティックなレベルを脳みそに押し込むのではなく、ミシェル・トーマス方式にした。これでロシア語を学んで文法がよくわかったからである。
 というところでいきなり余談だが、ミシェル・トーマス方式の教材見たら韓国語のシリーズが近日発売とのことだった。ごく入門段階しかないが、今後充実するのだろうか。ミシェル・トーマス方式だと韓国語をどう教えるのかはちょっと気になる。
 ミシェル・トーマス方式の現代ギリシア語だが、教えているのはミシェル・トーマス本人ではない。たぶん、彼はしゃべれただろうと思うが、その記録はない。教材の講師は声からさっするにおばさん風である。Hara Garoufalia-Middleさん(参照)。れいによってインストラクションに使う英語は英国英語。ロシア語のナターシャ先生もそうだったので、だいぶ、英国英語に慣れることにはなった。
 ロシア語の時はちょっと意気込んで初級段階の教材を全部買い込んでやったし、結局その後の教材も買った。いちおう基本のコースは終えてそれなりに理解したが、語彙のコースがかなりきつく、全体をやり直してわかったのは、ナターシャ先生の語彙のコースは事実上、文法の補足が多く、かつ参考ブックレットがすごくリキ入れて書かれている。これはちょっとミシェル・トーマス方式を超えているんじゃないかと思い、これを中心にまたのそのぞロシア語を学ぶかとは思っている。
 で、ギリシア語だが、初級の8コースをばら買いすることにした。初級の最初のコースはさすがに楽勝の簡単さだろうと踏んでいたら、意外なことに気がついた。
 え?え? すっかり忘れていたはずの古典ギリシア語の知識が微妙に蘇ってくるのである。微妙にだなあ。ロシア語も大学で学んだが、筆記体で発狂したのとは別で、今思うと古典ギリシア語とコイネは、なんだかんだ二年くらい学んだ。その後もギリシア語の聖書(英語解説付きだけど)をたまに読んだりしているせいもあって、なんか微妙に残っているのだろうか。
 ミシェル・トーマス方式のコースではまず、簡単な単語が出て、簡単な動詞が出てくるのだが、その一人称を聞いて、あっと驚く。古典語と同じ活用だ!

   Θέλω ένα κρασί.

 二人称の活用はというと、

   Θέλετε ένα κρασί.

 同じ。まあ、このくらいは古典語でも現代語でもそう変わらないかと思うのだが、ふと、これって、ロシア語にも似ているよなというところで、軽いパニック。実は、ロシア語を学んでいるとき、

   У меня есть книга.

 この"есть"って、コイネの"ἐστιν"と同じじゃなねと思って、あれ、それどころか、フランス語の"est"だよな。ドイツ語だと"ist"。印欧語だしなあと、変な気持ちになった。

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ギリシア語入門
新装版
 このあたりで、「あれ、俺、古典ギリシア語の動詞の活用なんて覚えてんの? 覚えているわけねーじゃん」と思って、なんとなく書架を見たら、大学のときの教科書がありましたとさ。今まであったか? なんか魔法でひょっこし出て来たんじゃないか?
 これ今でも売っているのか? 売ってるなあ。田中美知太郎先生の『ギリシア語入門』(参照)である。
 開くと、赤鉛筆やラインマーカー、シャーペンのちっこい文字の書き込みがある。「おいおい、俺、勉強してたんか?」と呟く。なんとも奇妙な感じである。20歳のときだから、もう35年くらい前になるのか。
 しかし、反面、すっかり忘れているとことでもあるなあと思った。というか、大半は忘れている。
 さて、現代ギリシア語。この先勉強できるでしょうかね。なんとなくだけど、ロシア語と混乱しそうなんで、中断して、ロシア語の勉強のほうを進めるかな。
 
 

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2015.06.02

韓国語(朝鮮語)の学習で役だった本など

 ピンズラー方式で始めた韓国語(朝鮮語)の学習の30日(フェーズ1)を終えた。語学の学習としてはほんの初歩の段階である。ピンズラー方式の教材はもう30日分のフェーズ2があるのだが、いろいろ考えたのだが、ここでいったん打ち切ろうかと思う。理由は、ちょっと学習に戸惑いがあるからだ。
 ピンズラー方式で語学を学ぶメリットは充分理解しているが、半面、その限界も感じるようになった。なかでも文法的な了解が充分に得られず、どうしても機械的な記憶に頼る部分が多い。未知の言語の学習に機械的な記憶が必要なのは当然だが、韓国語についてはもうすこし、文法的な仕組みが知りたくなった。
 例を挙げると、ピンズラーのレッスン1では次の会話が出てくる。

  미국에서 오셨어요?
  네. 미국에서 왔습니다.

 ここで同じ意味に関連している「오셨」と「왔」がいきなり出て来て、この状況のコンテクストで機械的に暗記する。「오다(来る)」と「왔다(来た)」の変化形についても説明はない。
 ピンズラーの教材を進めていくと、その後、「가다(行く)」と「갔다(行った)」などの範列によって、現在形と過去形の変化がパッチムの「ㅆ」が付けるのだろうと音声的に推測できるようになる。
 しかし、「가다(行く)」と「갔다(行った)」に対して、「오다(来る)」と「왔다(来た)」では、語根の変化もある。なぜなのだろうかと疑問になる。
 また、「먹다(食べる)」は「먹었다(食べた)」になるのだが、なぜ、「먹ㅆ다」にならないのか? というか、パッチムの単独はありえないのでこれは直観的に違反とわかるが、では、「ㄱㅆ」のパッチムを縮音して「멌더」とならないのか? これもおそらく、「먹」の「ㄱ」パッチムまでが語根として強いためで、それを活かすために、後続の母音が生じてから「ㅆ」が付くのだろう。そしてそこに例の母音調和がおきて、「어」が補われるのだろうという推測はつく。

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文法から学べる
韓国語
 すると、語構成としては、「meogda」の原型から、「meog-」を語根として「meog-eo-ss-da」が合理的で、「eo-ss」を「었」として単独の文字として記すのは、音価表現としてはよいだろう。だが、そうだとしても、言語意識にはうまく合わない。
 そのあたりから、おそらく、「gada」は「ga-da」であり、「ga-a-ss-da」で、縮音して、「ga-ss-da」となるのだろうと推測するが、語形成からすると、「가다」から「가았다」として、これを「갔다」と同じように読ませるほうがよいように思える。が、これも文法説明としては、ハングルの表記法は、文法を記述音素表記としてあまり合理的ではないように思えてくる。
 もう一例。「허다(する)」が「했다(した)」になるが、簡素な規則なら「ha-a-ss-da」になり縮音しそうだが、ここでは別の母音調和関連だろう、「ㅓ」ではなく「ㅕ」になり、さらに縮音して「했다」になる。
 音素論までいかなくても、すくなくともハングルで合理的に文法を説明してほしいなあという気持ちなり、『文法から学べる韓国語』(参照)を購入して調べた。とりあえず、同書でいろいろ疑問は解消されたが、さて、これ、語学学習的にはどうしたものかと悩んだ。もちろん、ピンズラーをごりごりと学んで音声で覚えてしまってもよいのだろうが。
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まんがで韓国語がしゃべれる
すぐに話せるフレーズ集
 もう少し気軽に、ピンズラーの補助教材みたいのがあってもよいだろうなと思っていたところ、ふと18年くらい前に買った『まんがで韓国語がしゃべれる』(参照)を書棚から再発見した。現在では新装版の文庫になって売っているようだ。
 なぜこの本を持っているかというと、20年以上前になるが『おもろい韓国人』(参照)が面白く、高信太郎の本を一連読んだからだった。ちなみに、同書は絶版のようだった。今、たまたま見かけたが『笑韓でいきましょう』(参照)という新刊があるが、売り切れているみたいだ。
 『まんがで韓国語がしゃべれる』は当時も読んで、ふーん、韓国語は簡単そうだと思ったのだが、語学としてはさっぱりなんにも残らなかった。今思うと、音声教材がなく、基本的にカタカナに頼って読んでいると、カタカナ英語ならぬカタカナ韓国語になってしまい、言語の感覚が失われてしまうからだろう。
 ピンズラー教材を使いながら、ときおりこの本を覗くとなるほどなあと思えることがいろいろあり、基本初心者のレベルはこのくらいでいいのではないかとも思えた。
 あと、韓国語を学んでいて、敬語を学ぶのがつらい。日本語だってめんどくさい敬語システムが文法に埋め込まれているし、だいぶ廃れたが女性語まである。でもどうも外国語として敬語を学ぶと抵抗感が大きい。敬語的表現ならまだいいのだが、

  뭘좀 안드시겠어요?
  점심을 먹겠어요.

みたいな表現は、どうも苦手だ。逆に中国語にはこうした敬語システムが文法になくて、すがすがしくも思えた。

 さて、各種の外国語の食い散らかしみたいなことをしていてもなんだが、この先、初歩のレベルでいいから現代ギリシア語を学びたくなった。
 大学でコイネや古典ギリシア語を学んだ。率直なところ、ほとんど忘れてしまったし、ギリシア旅行したとき、現代ギリシア語は古典ギリシア語と随分違うなあとも思った。"αυτο"を、「アフト」と発音するに至っては軽い絶望感を感じた。
 が、ロシア語を学び直し、キリル語を見ながら、そういえば、自分はギリシア文字にはキリル文字のような抵抗感がないことに気がついた。私は、ギリシア文字にはまったくと言っていいほど抵抗感がないのである。そりゃ勉強したから、といえばそうだが、それは奇妙な再発見だった。だったら、これに現代ギリシア語を被せるように学んでもいいのではないか。
 
 

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2015.06.01

韓国語(朝鮮語)を学びながら考えていたこと

 韓国語(朝鮮語)を学びながら、ときおり父のことを思い出す。私の父は、十歳ころ家族とともに朝鮮に移り住み、終戦で帰国した。祖父の仲の良かった従兄弟が朝鮮で事業で成功して、お前も来いということで一家で移り住んだらしい。父はものごころのつく少年期を朝鮮で過ごしたことになる。帰国子女である。後に私は米国帰国子女の多いの大学に学んで思ったのだが、父も彼らのように日本の文化に馴染めない部分もあったように思う。
 朝鮮での生活の影響は父が若いころには、よく出ていたのではないだろうか。たぶん私が小学生になる前だった。私は父に「お父さんは朝鮮人?」と聞いたことがある。父は、違うと答えたあと、奇妙に困惑していたのが印象的で今でも覚えている。
 父の家系は安中藩に仕える氏族なので朝鮮系のはずもないのだが、私が幼いころには父は朝鮮での生活のことばかり話していたからだろう。それと今になっていろいろと思うのだが、自分は朝鮮人ではない日本人だ、という意味について、どこか困惑している部分があったかもしれない。彼の学校は当然朝鮮にある国民学校だった。その後、満鉄の学校に入り寄宿舎生活した。友人に朝鮮籍は多数いたようだ。名字でわかる(ということは改姓してなかったのだろう)。差別がなかったわけもないだろうが、父の話を聞いているかぎり同級生のなかでそういう意識もとくなかったようにうかがえた。普通に十代の学生仲間であったようだ。なのに後になって彼らと違うと殊更に言うというのもそれはそれで確かに困惑はあるだろう。
 祖父は従兄弟と朝鮮で事業をしていて大きな家を構えていた。どういう理由かわからないが養子ということでもないと思うが、同じ家に住む朝鮮人の子どもが同居していて、家族のように暮らしていたらしい。つまり、父と兄弟のように暮らしていたらしい。よく懐かしく語っていた。戦後、その人は政府の要職につき偉い人になったらしい。本当かなと私は少し疑問に思っていたが、父が死んで数日して、そのかたから直接心のこもったお悔やみの国際電話をもらった。
 満鉄学校の同窓会は九州で開かれることが多かったようだが、帰宅すると韓国の土産物が多かった。私の家には私のもの心つくころから、アリランのレコードはあった。父がそれを特に懐かしく聞いていたふうでもなかったが、自身で歌うことはあった。もう一つよく歌う歌があったが今思い出せない。壁には朝鮮の漆器の絵皿が飾ってあった。長髪の少女がブランコに背を向けて座っている絵柄である。
 朝鮮語で思い出すのだが、父と電車に載っていたおりのことだ。前の席に朝鮮人(韓国人?)が数名座っていて大きな声でなにか喋っているが、父の顔が険しい。彼らが電車を降りたあとに父に聞くと、日本人の悪口を言っていた、と言った。日本人が朝鮮語をわからないと思っているのだろう、困ったことだととも言っていた。それはどこかしら彼らが人として恥ずかしいとでもいうような感じだった。意識のなかではむしろ朝鮮人差別を持っていなかったように思えた。ただ、そういう意識も結果的に差別だという理屈もあるかもしれない。
 彼は、朝鮮語は聞いてだいたいわかると言っていた。基本の単語は朝鮮語で言えた。朝鮮語で話しはできないとも言った。それがどういうことなのか、自分が韓国語を学んでみて、少しわかった気がする。外国語といっても朝鮮語は英語はだいぶ違うもので、キーワードが聞き分けられるならだいたい話題はわかりそうだ。
 私が子どもの頃、在日朝鮮人(韓国人)の差別があったかというと、なかったとも言えない。わからないのである。父は巨人ファンでよくナイターを見ていた。「カネやん」こと金田正一投手が好きだった。王選手も当然好きだった。当時を思い出して、取り分け、朝鮮人・中国人・台湾人差別があったようには子どもとしても感じられなかった。自分が育った地域にそういう集落がなかったせいもあるかもしれない。
 むしろ、当時は部落差別がひどかった。私の母は小諸の出身である。藤村の「破戒」の小諸である。母の父は庄屋の次男坊で、結核で多くの人が死ぬ時代だったが(庄屋の娘は全員結核で死んだ)、彼はのほほんとくらしていたようだ。が、戦争で当然厳しくなり戦後は農地改革で土地も失った。母に戦前戦中の国民学校での部落差別の話を聞くと、微妙である。差別がないわけではないようだ。ただ、表向きにはない。この話も長くなりそうなので端折ると、東京で母は同出身地の差別部落の友人に偶然出会ったことがある。部落のことは言わないでと彼女に懇願されたらしい。母はそういうことを吹聴する人でもないので困惑したようだが、そういう差別が色濃く残る時代だったのだろう。昭和30年代である。
 話を在日朝鮮人に戻すと、私の父母の時代の朝鮮人は日本人と変わらない。日本語の読み書きはできる。見た目も雰囲気も変わらない。昭和10年代生まれくらいまでだろうか。かりに1935年までとしてみると、その生まれのかたは現在80歳になる。80歳以上の韓国人・朝鮮人はかなり日本語の知識はあると見ていいだろう。そういえば、1925年年生まれの金大中が日本に来て日本語を喋っていた。
 現在の80歳以下から、韓国・朝鮮人が日本語の文化と切り離されていくのだろう。それでも戦後はまだまだ韓国でも漢字の出版物は多く、1970年代までは新聞でもそうだった。どのあたりで、韓国・朝鮮から日本語の影響は途絶えていくのか、現在の60歳ではもうかなり隔たれているだろうと、と他人事のように思いながら、自分はこの夏、58歳になるのであった。60歳のほうに近い。まいったなあ。
 いわゆる在日のかたでも、同じことが言えるのではないかと、韓国語を学びながら思った。韓国語・朝鮮語を家族の言葉としつつ日本語との馴染みが深いのは80歳くらいまでで、そこから下の世代は、韓国語は実は一種の異国語になっていたのではないだろうか? 別の言い方をしてみる。なんとなく在日韓国人・朝鮮人は普通に韓国語・朝鮮語を話す、と思う面が自分にあったのだが、むしろ、在日のかたにとって韓国語・朝鮮語は、外国語なのではないだろうか? すると、私が韓国語を学ぶような思いに遭遇してきたのではないだろうか?
 そういう疑問でネットを見て回ると、なるほどなあと思える話がある。「在日朝鮮語」(参照)というホームページでは書かれた時期は10年くらい古いのではないかと思うが、「民族学校に入ってはじめて彼らは本格的に朝鮮語に接するわけだが,全てが朝鮮語という学校環境の中で,彼らはたちまちのうちに朝鮮語を会得する。そのようにして,基本的な日常会話から学校生活を送るための会話の全てを朝鮮語によって営むようになる」とある。つまり、在日の朝鮮語というのは学校コミュニティーが二義的に生み出した側面が大きそうだ。
 同ページには、「在日朝鮮語」という概念・実態も描かれているがとても興味深い。「その後も出会う在日朝鮮人はみな類似の「在日朝鮮語」を話していたし,当の私自身も何の疑問もなく「在日朝鮮語」を身に着けていった。しかし,私は在日朝鮮人の中でもたまたま本国のほうに目がよく向いていたのかもしれない。「朝鮮人だ」というからには,「まっとうな」朝鮮語ができねばと,ついには韓国にまで出向いて「本場仕込み」の朝鮮語を身につけた」。ある意味、ケベックのフランス語的な状況でもあるのだろう。
 また「「歴史と国家」雑考」(参照)というホームページでは「在日朝鮮人二世・三世で、本名を名乗り、民族主体性や民族性の自覚を訴える活動家たちを少なからず見てきたが、彼らの多くが私の大したことのない語学力に及ばないことを知ったときは、ショックであった」と書かれている。偏った例かもしれないが、そういうこともありそうに思えた。
 私のなかで、私のおそらく中心的な思想課題でもある「市民」について、奇妙な不定形の問題提起が、これに関連してわきおこる。こうした自身のエスニックを維持しようとするありかたは、むしろ日本市民の原型と言えるのではないか?
 それと、昨今顕著な「反韓」だが、それがなぜ「在日」に向くのか奇妙に思える。「反韓」というなら、韓国に赴いて、自分らの主張を韓国語で行えばいいだけなのではないか。「在日」はむしろ日本市民の原型ではないのか。
 そうしたもどかしい不定形の思いに加えて、「韓流」とはなんだったのだろうかという疑問もからみつく。率直にいうと私は「韓流」にほとんど関心がない。DVDレンタル屋で韓流の棚が異様なくらい充実しているのを見ながら、誰が見るのだろうか?と疑問に思うほどである。ついでにいうと韓流に歴史物が多いのは、日本人が時代劇を通して国民大衆文化を確認するような傾向がようやく韓国でも自由化ともに出て来たのだろうという印象はある。
 「韓流」は、その様式は、私の目からすれば、少し古い日本文化の変形に米国的なエンタテイメント要素を加えたようにしか見えない。もちろん、そうでないのかもしれないが、いずれにせよ、その「韓流」は、言語的には韓国本国の言語文化であり、だとすれば、在日朝鮮語・韓国語コミュニティーには、奇妙な差違として感じられたのではないかと思う。そういう部分は今の私から見えない。ないのかもしれない。ありそうには思える。
 
 

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2015.05.31

韓国語(朝鮮語)を一か月学んでみて思ったこと

 正確に言うと今日のレッスンが28課であと2課残している。その時点で書いたほうがいいかもしれないが、なんとなく書きそびれてしまうような気もするので、現時点で思うことを書いてみたい。
 韓国語を学ぶということは、一言でいうと、とても不思議な体験だった。この不思議さというのが、思いに貯まるのだが、どう表現してよいかもどかしい。だから書いてみたいということである。
 難しい言語かというと、逆に「簡単な言語ってあるの?」という疑問にまで引き返す。しかし、ハングルというとっつきにくい表記体系に覆われているが、語彙の大半は日本語と共通であり、しかも基本的な文法構造がそっくりなのだから、日本人には簡単な言語だと言っていいだろう。
 音韻構造については、音素体系が異なることからその学習は意外に難しいが、そのあたりは実際に学んでみると、これも奇妙なものだった。
 日本人の誰もが思い当たるのではないかと思うが、ぼんやり聞いていると、韓国語(朝鮮語)は日本語のように聞こえる。響きはとてもよく似ている。もちろん、あえて変えて響かせることもできるが、それでも基本的に音のシークエンスすら似ている。
 なぜ日本語と韓国語は響きまで似ているのだろうか。おそらく、個別の音というより、文を構成したときのその超分節素性(suprasegmental feature)によるのだろう。それが日本語とほとんど類似になるのは、疑問文の構成や、くだけた言い回しなどが、基本的に語末の語に依存している構成になるからだろう。例えば、

 「マクドナルドで 何か 食べましょうよ?」
 「맥도날드에서 뭘좀 안드시겠어요?」

 たぶん、米人には同じ言語に聞こえると思う。
 中国語でも語末に「吗」を付加することで疑問文かでき、その影響で超分節素性が声調と独立するかのようになる現象があるが、それでも基本的に中国語は声調を弁別に使うため、超分節素性があまり文法側に利用できない。また韓国語は、ロシア語のように疑問語に独自のトーナルなアクセントを持つわけでもないし、英語のように強弱のアクセントもない。言語類型的にも日本語と韓国語が似てくるのは、その基本構造からもしからないのだろう。
 言語学的な側面でいろいろ思うことはあるが、どうも細かい話になりそうなので、ざっくりしたところに戻す。
 こういうと韓国の文化の悪口に聞こえてはいけないのだが、この言語を学んでも国民言語の文化が見えてこないという奇妙なもどかしい感じがしていた。
 フランス語を学んいく過程でびっくりしたのは、学んでいくと、パスカルやデカルトがそれなりに読めるようになる。マリーアントワネットやナポレオンの言葉も読もうと思えば不可能ではない。何を言いたいかというと、近代以降はフランスは国民言語の文化が確立して、他の国と比べるとあまり大きな変化がない。同じことはドイツ語の学習でも感じられた。ゲーテも読もうと思えば読める。モーツアルトやベートーヴェンの言葉も現代のドイツ語からそれほど離れているわけでもない。
 対して、日本語はどうかというと、これは微妙で、かなり言語の変化は大きいのだが、以前にも書いたのだが、日本語と長年触れ合っているせいか、自分では鎌倉時代あたりの言語はだいたい現代語の延長で感じられる。徒然草あたりは特に翻訳せずにも読めるし、道元や親鸞なども補助があれば読める。
 ロシア語はその点で自分の学習はまだまだなのだが、プーシキンの詩などは手が届きそうだし、日本で歌われているトロイカの原詩を読んでみたら、びっくりしたこともあった。このネタはいずれ書くかもしれない。ロシア語は、フランス語、ドイツ語、英語から、それぞれ年代を層にしてかなり外来語の影響を受けているので、国民言語の文化を形成するのは比較的難しかっただろう。
 中国語はどうか? 中国語を学んで分かったことは、これは漢文とは違う言語だということだった。漢詩なども、漢字で書いてあるのだから、中国人は、現代の声調でそれなりに韻文として読むことができるが、暗記させられている分を除けば、理解できないだろう。論語もそうである。中国人は漢文は普通は読めない。日本人と変わりない。
 漢文と現代中国語はつながっているのではないかというと、そういう部分ももちろんある。しかし基本的につながっていない。奇妙に思ったが、ふと「無門関」などを見ると現代中国語に近い。そのあたりから思うに、国民言語の文化も中国語にはあるのだろうが、私たち日本人が漢文からのぞき見る範囲では見えにくい。
 さて、韓国語である。国民言語の文化が見えてこない。
 ハングルの表記ができたのは15世紀で遅いといえば遅いが、国民言語文化の発展がそれで遅れるというほど遅くはない。話を単純にすれば、ハングルで書かれた近代の詩やエッセイがあるか、つまり、言語文化としての近代語につらなる古典がどうなっているのかと関心を持ったのだが、これが見えてこない。
 別の言い方をすれば、韓国語で、パスカルにあたる人、ゲーテにあたる人、プーシキンにあたる人、そういう人文学者がハングルでどのように形成されたのか、そこがわからない。もちろん、ごく単純に私の知識が足りないだけのこともある。日本人でパスカル、ゲーテ、プーシキンは読まれるが、そういうのに相当する韓国人(朝鮮人)は誰なのだろうか?
 別の観点から考えてみた。例えば、日本だと本居宣長は各種エッセイも書いているが宣長はちょっと特例なので、新井白石(1657-1725)の「折たく柴の記」を例にすると、これを読むと誰でも、吉田兼好(1283?-1350?)の「徒然草」との関連が読みとける。つまり、日本語の場合、国民言語の文学というのは、13世紀以降、明瞭に知識人に意識されている。

cover
看羊録
朝鮮儒者の
日本抑留記
 そういう、兼好や白石にあたる朝鮮人は誰なのだろうか? 
 いや率直なところ、自分の無知・無教養に直面することになったわけだが、ぼんやりと日本と関連の深い姜沆(강항)(1567-1618)の「看羊録」を思い出した。彼は慶長の役で捕虜となったものの、その儒者の見識が認められ厚遇され、藤原惺窩とも親交を持つのだが、それがきっかけで書かれたのが「看羊録」である。これは帰国後の上奏文であり彼が儒者であるのだから、当然漢文になるのはしかたないのだが、そうした教養を、兼好や白石のように自国言語の文学表現に変換できたかだろうか。どうもそういうものがなさそうに見えるなあ、と……改めて見ていくと、あ、「日東壮遊歌(일동장유가)」があった。未読だなあ。
cover
日東壮遊歌
ハングルでつづる
朝鮮通信使の記録
 これは詩文である歌辞(가사)が散文化したものか。通信使の金仁謙(김인겸)(1707-1772)によるものなので、だいたい白石の時代に重なる。これは面白そうだ。
 というわけで、そっちに興味が移ってしまった。
 当初、在日朝鮮人・韓国人の韓国語(朝鮮語)学習についてもちょっと書こうかと思ったが、それはまたいずれ。
 
 

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