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2015.01.01

2015年、あけまして、おめでとう

 2015年、あけまして、おめでとう。
 こんな日が来るんだなというのは、僕には驚きです。タイムマシンに乗って未来に到着したような気分です。
 そういえば、2000年になったときも、わーお、21世紀だ、と感激したのに、あれから15年です。もっとも21世紀は2001年からでしょうか。まあ、細かいことはいいでしょう。
 昨年は、自分には本当に速く過ぎました。それをいうなら東北震災からもうすぐ4年にもなろうとしています。そう考えるとあっという間で、しかも、この間、震災が象徴するように、世の中、あんまりいいことなかったなという感じがします。
 自分はというと、この間、自著を書いたり、信仰みたいなものを見つめ直したり(信仰を深めるという意味ではありません)、筋トレしたり(ちょっと中断しています)、それから、ごく初歩ではあるけれど、フランス語、中国語、ドイツ語を勉強しました。
 この年齢になっても勉強はいいものだなと語学の勉強を通して思うようになりました。
 生活面でもいろいろ変化がありました。そのあたりは、60歳くらいまで生きられて、そして自著の続編を書くときにでも書けたらと思います。まあ、それほどその点に意気込んでいるわけでもありませんが。
 語学のついでで言うと、昨日もDuolingoをやっていました。一日20ポイントくらいをもう195日続けています。ということは、もうすぐ連続200日になります。連続が途切れた日を含めると1年くらいでしょうか。
 昨日は、Duolingoであと70ポイントくらいでフランス語がレベル13に上がれるので、紅白歌合戦の初め1時間くらい見たあとは、一人静かに2時間くらいDuolingoを没頭してやっていました。
 へとへとでレベル13。やったあと思ったけれど、ここから先次のレベルに上がるために1100ポイント。のたのたやっていると、100日くらいかかります。今後はさらにきつくなるので、今年の終わりにレベル16に辿り着くかどうかくらい。
 これがレベル25まであるなんて、険しい山を望むようにも思うけど、考えてみると、才能なくても地味にやっていける勉強があるというのはいいことなんじゃないかと思っています。

cover
Total Russian
 それと、いよいよロシア語の勉強を始めました。
 ミッシェル・トーマス(Michel Thomas)メソッドで、実は昨日から少し始めていて、さすがに簡単だと思っていたけど、CDの1枚目を終えたあたりで、いや、これはこれでけっこう難しいと思うようになりました。
 あと5枚と、単語の復習に2枚あったかと。最終的に習得できるロシア語はそれでもごくごくわずか。
 大学のとき、第二外国語でロシア語をとって、すっかり忘れるものだなと思ったけれど、勉強しなおしてみると、キリル文字も大半は読めている自分を発見。あれま、少しは記憶が残っているんだ、と思いました。もうちょっと残っているといいけれど、しかたない。
 ドイツ語の勉強のときに思ったけれど、集中して勉強している語学があるときは、基本的に他に手を広げないほうがよさそうなので、しばらくこの方式でロシア語を学んで、それから、イタリア語でも勉強するかもしれません。
 よくわからないのだけど、新しい言語を学ぶというのはけっこうきつい反面、たぶん、脳にいろいろよい刺激があるんじゃないかと勝手に思っています。Duolingoでもそうだけど、できるだけの学習を地味に積み重ねていくというだけで、けっこう気分も明るくなるものです。
 というか、あまり物事を悲観的に考えるのもどうかと思うようになりました。
 もうちょっというと、「日本の」と限定していいかよくわからないのですが、知識人が権力批判、政府批判という文脈や、正義に立ちたいから誰かを批判する、というのはわからないでもないけれど、そこから奇妙に悲観的になっても、しかたないんじゃないかと思うようになりました。ブログのエントリでも「この人はわかっていない」とか批判されることがあって、いや、そんなことはわかって書いているんだけど、暗く考えても意味ないじゃんとか思うのですよね。
 今日も、日本が亡びる、とかいう議論もブログとかで見かけたけど、まあ、日本は亡びるかもしれません。でも、自分がそれに対してできることはわずかなのだから、自分が残された時間を前向きに生きていくほうが重要だろうと思います。
 ということで、ちょっとピントがそれるけれど、今年はまたピアノの学習をしようかとか、ヴァーグナーのオペラでも学ぼうかとか、あと、いろいろ演奏会とか劇とか、学習会とか講演会とか、出かけるようにしたいなと思っています。
 それほど人との交流を広げるとかいう意図もなく、ただ、自分のなかで考えていても、あまり意味ないように思えてきて。
 できるだけ楽しいことを増やして、楽しい時間を過ごしたい。今年からは特にそうしていきたいものです。
 とま、そんな感じです。
 
 

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2014.12.29

親称二人称とか

 ピンズラー(Pimsleur)でドイツ語を勉強していて、同じくピンズラーのフランス語と比べて、そういえば、親称二人称のレッスンが二言語では随分違ったように感じられた。ドイツ語のレッスンのほうが多かった。もっとも、一般的にピンズラーのレッスンはどの言語も同じと言われているが、フェーズ4からは随分違う。
 フランス語でも親称二人称で話すというレッスンがある。たしかフェーズ2あたりから含まれていた。ただ、どちらかというと、これまで敬称二人称でレッスンしてきましたが、ここでは親称二人称だとこうなりますよ的なレッスンで、フェーズ4まで多くひっぱるふうでもなかった。
 ドイツ語のほうはそれに比べて、けっこう親称二人称で話す(duzen)レッスンが多かったし、"duzen"という言葉も出て来た。特にフェーズ4では目立った。"Können wir uns duzen?(Duで呼び合いましょうか)"というレッスンすらあった。
 フランス語のほうにはそういうふうに親称二人称にしましょうか?("On pourrai se tutoyer maintenant ?(これからTuにしましょうか?")みたいに切り替えるレッスンはなかったように思う。そもそも「親称二人称で話す」"tutoyer"という単語も出て来なかった。
 フランス語の場合、「親称二人称で話す」"tutoyer"であっても動詞の活用自体は、音声の点ではそれほど難しいわけでもないので、そうしたレッスンが少ないのかもしれない。それでも、ドイツ語の親称二人称とフランス語のそれは、ちょっと違う印象を受けた。ドイツ語で話すという会話の訓練には、"duzen"のニーズが高いのではないかという印象もあった。
 たしか、ブラームス(Johannes Brahms)とクララ・シューマン(Clara Josephine Wieck-Schumann,)が敬称二人称の関係"siezen"だったのが、後年"duzen"の関係になったという逸話を聞いたことがある。当時はけっこう厄介だったかもしれないし、彼ら特有の問題もあったのかもしれない。その点、現代では学生同士なんかは、最初から「ため口」ふうに"duzen"だという話も聞いたことがある。まあ、よくわからない。
 会話らしい会話は親称二人称のほうが自然か、というと、傾向としてはそうなのかもしれない。自分の場合、独仏人と親称二人称で話す機会なんて一生ないだろうし、小説とか映画で二人称が違うなあとと思うくらいだろうから、"dozen"については、あまり乗り気のするレッスンでもなかった。
 考えてみると、"duzen"は日本では「ため口」に近い。ただ、日本語の場合、それが敬体と常体と必ずしも重なっているわけでもない。ただ、敬体は"siezen"に近いようには思う。
 英語にも、現代ではもう、親称二人称は存在しない。聖書の主の祈りとかに、"thy kingdom come"とか出てくるけど、"du"にあたる"thou"自体はそこに出てこない。私はネイティブじゃないのでよくわからないのだが、"thou"は現代では「汝よ!」みたいに、古めかしく重々しい感じではないんだろうか。
 それに対して、ドイツ語の"du"というのは親子関係でも使うようなので、ドイツ人の信仰における神の、祈りでの感覚もそれ近いのではないかと思う。主の祈りでも、昔は"Vater unser, der Du bist im Himmel, geheiligt werde Dein Name;"というふうなっていた。ただ、現代ドイツ語だと、"Vater unser im Himmel, geheiligt werde dein Name."として、"du"自体は消えているみたいだ。
 "du"といえば、ブーバー(Martin Buber)の"Ich und Du"(我と汝)が連想されるが、日本語の「我と汝」には、Duの親愛感は感じられない。英語だと、"I and Thou"なので日本語と同じだろう。フランス語だと、"Je et Tu"なので甘い響きがある。
 ブーバーは世界そのものもこの関係のなかで見た。"Ich und Du"というのは、二項というより、"Grundworts Ich-Du"「根源語の我汝」というふうにそれ自体が一体であり、対するのは、"Grundworts Ich-Es"「根源語の我それ」になる。
 この"Es"は「それ」ではあるのだけど、独仏語を学んでしみじみ思ったのは、これは英語の"it"とは違うなあということだ。
 独仏語に名詞に性があるから、「それ」として受けるときも、性を含むので、逆に、"Es"というときは、中性名詞になる。
 こうした名詞の性は、ただ、言語システムとしての性であって、人間の男性・女性とは異なるとも言えるのだけど、ハイデガー(Martin Heidegger)が"Das Man"「世人」というあえて中性名詞で変な造語を作っていること思うと、人間の性の区別意識は多少含まれているようにも思う。
 ついでに言うと、ドイツ語の"Man"はフランス語の"On"とも少し違う。このあたりの連想でいうと、存在文がドイツ語では、"Es gibt"になり、"Es"が現れる。"Es geht mir gut. "もけっこう奇妙な感じがするが、こうした"Es"を見ていると、フロイト(Sigmund Freud)が無意識をそう名付けた語感がなんとなくわかる。ちなみにフロイトの文脈だと"Es"は、"Das Es"になり、ハイデガーの"Das Man"に近い印象になる。さらに蛇足になるが、フランス語の存在文"Il y a"の"il"はちょっと不思議な「彼」ではあるのだろう。これは、レヴィナス(Emmanuel Levinas)が "Il pleut"(雨が降る)や"Il fait nuit"(夜になる)を連想しているように、<ある>という非人称性というは、フロイトの"Es"に近いようにも思える。
 話をブーバーに戻して、フランス語の場合は、中性名詞がないので、" Ich-Es"はどうなるかというと、"Je-Cela"になる。英語の"it"的なものが"ce"で受けるのはわからないではないので、それを"Je-ce"としない分、"cela(あれ)"は"ceci(これ)"と意味の対立をするので("celui-ci et celui-là"のように)、日英語と同じようにドイツ語からはそれてしまう。
 特に結論とかはないのだけど、ハイデガーにしてもブーバーにしても、フロイトもそうかな、彼らはドイツ語の言語のなかで考えているんだなあという感じがするし、ドイツ語から受ける会話・対話の印象の根底にも関連しているようにも感じられる。
 
 

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2014.12.28

ドイツ語・ピンズラー(Pimsleur)のフェーズ4を終えた、ふうっ

 ドイツ語・ピンズラー(Pimsleur)のフェーズ4を終えた。ふうっ。終えたのは昨日だった。奇妙な感慨があった。「ああ、なんとかやった」というより、「振り逃げしちゃったかなあ」という感じだった。

cover
German IV,
Comprehensive
 ピンズラーの学習は、基本的に最低限一日のレッスンは30分だが、実際にはフェーズ2くらいからは、少し復習したり、あるいは、やりながら聴き戻ししたりということがあって、一日に1時間はかかるだろう。
 フランス語の時はなんとかそれでやって、しかし、十分に出来た感じはしなかった。なにより、ピンズラーは音声中心なので正書法の学習は、簡単なリーディング以外は教材に入っていない。いちおうごく基本の語彙とその読みはできるので、それでいいとも言えるが、その後、ほぼ一年間、Duolingoをやってみると、フランス語は正書法がとても重要なんだろうと思うようになった。
 逆に言えば、異言語は、とりあえずピンズラーで入門したらあとはDuolingoでじっくりやってもいいし、率直に言えば語学学習はDuolingoだけでもいいのではないかとも思う。ただ、今後自分がそういうふうに新しい言語を学ぶかというと、やはりピンズラーからは入るだろうなとは思う。たぶん、イタリア語もピンズラーから学ぶだろうと思う(ええ)。
 ドイツ語のフェーズ4を終えて、次はロシア語をミッシェル・トーマス(Michel Thomas)で学ぼうと思う。すでに基本のセットは買ってある。
 一応大学でロシア語を勉強してあの筆記体で発狂しそうになったわりには(日常英語を使う人がロシア語の筆記体を使うと普通に発狂するんじゃないか?)、もう完璧にロシア語のことは忘れているので、少しなんとかしたいというのがある。もちろん、ミッシェル・トーマスを試してみたいというのも大きい。
 思い出すと、ドイツ語も当初はポール・ノーブル(Paul Noble)で学んで、「うぁ、このメソッドはなんて簡単で、しかもドイツ語って簡単だ」と思ったものだったが、いえいえ、ピンズラーでやり直してみて、とんでもない勘違いでした。ドイツ語は難しかった。発音もナチュラル・スピードだと脱音が多いし、子音の連続なども聞きづらい。
 フランス語は英語と違うけれど、統語の感覚は英語によく似ているし、言葉も英語と被っているのでわかりやすい。もちろん、すごく違っているところや、似ていて非なるところも多いといえば多い。これに対して、ドイツ語は、1500年くらい前に英語と同じだったせいもあり、その点ではよく似ているし、発音も最初はとっつきやすい。
 ところがドイツ語は、ちょっと踏み込むと、なんというのか、英語やフランス語の統語の感覚をいったん捨てないとダメなんだな、というのがわかって、これはけっこう絶望の壁という感じだった。それでも半年近く毎日やっているとそれなりに慣れてくる。というか、ああ、外国学んだなという感じがした。それでもいまだに"Heute lerne ich Deutsch."の語順は変な感じがする。
 中国語(北京語)をピンズラーで学んだときは、教材が音声中心なんで、しかも日本人として大半の漢字は知っている(私は旧漢字も知っている)ので、復習がてら、要点は書き起こしした。この手法がよいんじゃないかと思って、ドイツ語でもやっていたが、フェーズ3の半ばくらいでクラッシュした。無理。そこで、もうどうにでもなれ的にとにかくフェーズ3を終えることにした。
 さてフェーズ4が終えられるものか。やけくそで進めて、まあ、振り逃げ的に終えた。でも、終えたには終えた。けっこうドイツ語が自然に聞こえるようになった(理解できるわけでもないけど)。振り逃げでもいいやと思えるのは、Duolingoでドイツ語は続けていくので、こぼしたところはポツポツ拾っていこうと思うこともある。
 ドイツ語は気楽に効率よく学ぼうと当初は思っていたけど、やってみた感想を言えば、ドイツ語と限らず、異言語を簡単に学ぶということは、原理的には不可能なんじゃないかと思うようになった。
 逆にいうと、Duolingoがいい例だけど、誰でもコツコツやり続けていけばある程度習得できるのだろうと思う。もちろん、語学の才能とかいうのも人によってはあるのだろう。
 ドイツ語を学んで、ある程度予想がついていたが、ドイツにとても親しみが湧いた。そして、自分がどうなるのかなと自分を他人のように見ていると、だんだんクラッシック音楽にぬめり込んでいった。以前はそれほど好きでもなかったブラームスが好きになり、ヴァーグナーも好きになった。ベートーヴェンはいっそう好きになった。という感じで、そのオマケで『のだめカンタービレ』にぬめり込んだ。
 やっぱ日本みたいに西洋風に近代化した国の学生だと、英独仏の3か国語は普通の教養の範囲で学んだほうがいいんだろうと思う。まあ、これは議論をするとめんどくさいんだけど、まあ、そう思うようになった。
 ごく初歩でもこの3か国語を学ぶと歴史や文化への理解が深まる。これに当然というのもおこがましいが、基本の古典ギリシア語とラテン語を学んだほうがいいだろう。と、言ってはみたももののまあ、現実的に現在の大学生に勧めるのは難しいだろう。
 ドイツ語と音楽の延長でいうと、イタリア語を学びたくなった。たぶん、来年、ロシア語に適当にめどがついたら、ピンズラーで始めるんじゃないかと思う。まだ決めていない。イタリア語を学びたい理由は、クラッシック音楽や諸芸術の感覚がイタリア語に結びついているのが感覚としてわかってきたからだ。あと、フランス語とイタリア語と混乱しなくなりつつあるようにも思う。
 ドイツ語を学んでフェーズ3あたりで、フランス語はDuolingoで続けたが、北京語の学習は断念した。英語も苦手なので日々それなりに勉強していたが、これも中断した。多言語を使いこなせる人もいるが、自分の場合は学んでいるときは、基本的に一つに絞ったほうがいいように思えた。(おかげで、英語の発音がドイツ語みたいになってしまった。)
 そうして中国語と少し距離を置いてみると、中国語の場合は、独仏語とは異なりあまり歴史・文化は結びついていないと思う。歴史・文化的な部分は漢文に結びついているようにも思う。その意味では、今後、漢文をどうやって勉強しようかなとぼんやり思っている。白文を現代北京語の発音で音読してもいいんだろうとも思う。
 思ったことをごちゃごちゃと書いてみたが、ドイツ語フェーズ4で、ドイツ文化的な側面の理解はどうだったか。教材的には、フランス語や北京語とはちょっと違って、分量が少ない印象は受けた。ドイツ語のフェーズ4では、自然や環境、身体の不調といった表現が多かった。もっと芸術面があるかと思ったが、教材的にはあまりなかった。
 そんななかで、はっとしたのは、ドイツのは二つの海がありますという説明だった。え?
 フランスと違って海は北部に面しているだけだろうと思ったのだが、どうも、ドイツ人にしてみると、北海とバルト海はかなり明確に異なる海らしい。
 まあ、そこまでは主観の問題もあるかもしれないが、ドイツ語から見て、うぁあと思ったのは、北海は"die Nordsee"でバルト海は"die Ostsee"で、それはそうなんだが、海自体は"das Meer"で、北海は認識上は"das Meer"みたいだ。
 ただ、このあたりの感覚はよくわからない。フランス語と英語の連想からもわかるように、"das Meer"は"la mer"だが、"die See"は語源的には"the sea"だけど意味的には「湖」で、ドイツ人にしてみると、北部に面している海は、"das Meer"よりは「湖」に近い感覚があるじゃないか。ただ、歴史的な経緯で入れ替わっているだけで、「湖」の感覚とは違うかもしれない。それでも、"das Meer"とは区別されている。
 僕は地中海文明が好きな人で(食事もそう)、あまり西欧に関心なかったが、独仏語の初歩を学んでから西欧の地図を見ると、なんか随分、印象が変わった。
 
 

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