「闇のキャンディーズ」問題で微妙に気になっていたこと
これもその渦中で書くのはためらっていたのだが、「闇のキャンディーズ」問題で微妙に気になっていたことがあった。
その前に、「闇のキャンディーズ」問題とは何か、というと、そのペンネーム、というか呼称でTwitterに登録した人がいて、自身の考えに反対する人に対して、例えば、「☓☓☓死ね。それとも、殺されたいのか?」「お前の赤ん坊を豚の餌にしてやる」といった暴言を吐いていた。
ひどいものだとは私も思うが、私自身、その手の暴言をコメント欄などでよく受けてきたので、ネットの世界ってそんなものだよねと思っていた。
というか、微妙に気になっていたことに関連するのだが、どこかしら、そうした暴言の人々を、どうしようもないじゃないか、ということで許容していたのではないかとも思う。
これが今回「闇のキャンディーズ」問題として「問題」化したのは、水俣病訴訟にも関わっている弁護士の高島章氏に対して、「うるせーな、ハゲ!はよ、弁護士の仕事やめろ。プロのハゲとして生きろ。ネトウヨ弁護士。クソ馬鹿ハゲ野郎!」といった暴言を吐き、おそらく私の推測だがハゲについてはさして問題ないのかもしれないが、高島氏は「闇のキャンディーズ」本人について心当たりがあり、直接電話で問いただした。すると、「闇のキャンディーズ」氏は本人であることを認め、暴言を謝罪した。と、いう問題であった。
ちょっとこの時点で補足したいが、問題の焦点は、①高島弁護士への暴言であったか、②これまでの数々の暴言であったか、は、その後、NHKなどでニュースになったおりでも曖昧であったように思う。
いろいろ多面的な問題ではあったが、私が微妙に気になっていたのは、私が高島弁護士の立場であったら、どうだっただろうか、ということだった。
おっと、その前にもうひとつ前段の話があった。
「闇のキャンディーズ」氏が謝罪のおり、そのことがネットでも公開され、また先にも触れたように全国ニュースなどでも流れた。なぜそこまでのニュース性があったかというと、彼は新潟県でシェア60%近くを占める地方紙「新潟日報」の上越支社報道部長というメディアの要職でもあったからだ。そしてこの暴言三昧が暴露された結果、彼はその要職を解かれた。つまり社会的な「懲罰」を受けた。具体的にどの程度の「懲罰」であったかについては知らない。職を失うまでには至ってなかったようには思う。それでも、かなりな社会的な懲罰であったと言ってよいだろう。
話が戻る。
私が私が高島弁護士の立場であったら、こうした社会的な懲罰に至るような事態にもっていっただろうか?
別の言い方をすると、もし私がその立場であったら、本人に確認を取ったあと、謝罪の言葉があり今後こうした暴言を繰り返さないと言明してくれたら、それ以上の社会的な懲罰が及ぶような表沙汰にはしなかったのではないかと、そのときなぜか思ったのである。
実は、なぜ、自分がそう思ったのか、その理由がよくわからないということも、微妙な部分であった。なぜだろうか?
一つには、ネットの暴言など大したことではないではないか。ブログをやってきて思うのだが、暴言や嫌がらせを受けても、たかがネットのことではないか。私を直接信頼してくれる人々に影響はないだろう(いや、あるかもしれないなと危惧したこともあったが)。
また、仏陀が言ったとされる言葉であるが、「彼はわれを罵った、彼はわれを害した、彼はわれにうち勝った、彼はわれから強奪した、という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない」というのがあるが、それが真理とも思えないし宗教的な価値があるともそれほど思わないが、一人の暴言者に対応しても、暴言者はあとからあとから湧き出てくる。むしろ、対応しようとすればするほど湧き出てくる。どうしようもない問題じゃないかという諦念がある。
あと一つ、私の父親が、人というものは追い詰めてはいけないものだとよく言っていたことを思い出す。父がそう言っていたのは、追い詰められた人の実相を見てきたからか、自身が追い詰められたことがあったからか、わからないが、実感として伝わるものがあった。
ただ、そうしたことを考えてみて、少し滑稽にも思った。
私など、そもそも一般的な罵倒で足るほどの些細な存在である。高島弁護士のように社会的な公的な価値のある人間ではない。つまり、自身を高島弁護士のような存在に重ねていろいろ思ってみても、あまり意味はないのではないか。
そしてこの微妙な感覚は、やはりというか、そしてその「懲罰」性に及ぶ。
少し迂回した関連ではあるが、昨日のエントリーを書いたあと、こういうコメントをもらった。悪意は感じないが、通じてないなあ感があって困惑して戸惑ったままであるが。
それ程「もやっと」しなければいけない様な問題とは思えないんですがねぇ、、。だって言論の自由。意見表明の自由。選挙の自由は認められているわけで、それに則って行われた選出で現職が敗れただけですよね?その人がどんなポリシーを持っているかを国会で表明したら、それと意見の合わない人がその大学に多かった。それだけの事でしょ?
その大学が、実名を挙げるのは余り良くないかもしれませんが、敢えて言えば国学院大学とか国士舘大学だったら、逆の判断になるんじゃないでしょうか?国会で「戦争法は違憲だ」なんてしゃべったら、それこそ刺されたりして(笑)まぁ、冗談は兎も角間違いなく次の学長選では落ちるでしょうね(笑)
ですからその大学が辿ってきた歴史の中で醸し出されて来た雰囲気や創始者のポリシーを受け継いでいるから、そういう考えの人が多く居たのに、何かの間違いで違う意見の人が学長をしていただけって話ですよ。
その大学が学長を代えたのは、それこそ大学の自治の自由そのもで、日本はそれさへも変えられないほど、そこまでおかしくはなっていない、という事で宜しいのではないですかねぇ。
私が思ったのは、ああ、全然通じてないや、ということだった。このコメントの方を批判したいわけではない。そもそも、問題の論点がまるで通じていないなあと思った。コメントされている内容は昨日のエントリーに前提としてすべて書いておいた。
これを別の補助線で言うなら、こういうコメント(はてぶ)もあった。
たとえばデモに参加した大学生が就職できなかったとしても、それは自由な選択であって懲罰ではないのだろうかとかいう話も関連するかも。
この点については、欧米社会との対比でいうなら、日本の社会に問題があると思う。ただ、問題は、こうした微妙に懲罰性の機能が予想されるという構造にある。
なぜ日本社会は、ネットの社会はというべきか、こうした懲罰性の構造を持つのだろうか?
懲罰性が予測されると発言や行動が抑制される。そのために、自由な発言・行動であっても、その懲罰性へのしきい値のようなものが意識される。簡単に言うと、ある意見を述べるためには、懲罰を覚悟しなければならない、ということになる。これは、一種の自由のコストと言えるかもしれないが。
が、このコスト回避が「匿名性」になっている。匿名ならその懲罰が回避されるかのように見える。
「闇のキャンディーズ」さんは、匿名であったときには、懲罰が回避されていた。しかし、その社会的な立場が開示されたときに、懲罰を受けた。
この構造は、別の視点から言えば、懲罰コストが匿名性を要求してしまうということでもある。それと同時に、この全体構造が社会的懲罰の仕組みと同値になっていることだ。
イエス・キリストは、罪なきものだけが石を投げよとしたが、匿名であれば気軽に石という懲罰に加担できるし、石を投げつけることのコストからも免れる。
冒頭の微妙に気になる問題に戻すと、「闇のキャンディーズ」さんに懲罰を与えることは、一罰百戒的な社会威嚇の効果はあり、それによって、ネットの暴言が表面的には抑制されるかもしれないが、実際には、匿名性のコストのしきい値を上げるだけで、全体の懲罰構造の改善には寄与しないどころか、それが懲罰を権威つけるために、自由な発言をより阻害していくことになるのではないか。
ある程度曖昧でコストが意識されない自由な発言を抑制すれば、極端な意見の二極化と、匿名の加害的な懲罰性が強化されるだけなのでないか。
まあ、こうした微妙な感覚的な問題は、いっそう通じないだろうとは思う。
具体事例にそって、別の切り口でいうなら、ネットの社会は、できることなら、 「闇のキャンディーズ」さんが、かつての暴言を謝罪したなら、それ以上の懲罰を与えず、その後の思想・言動の変化を見つめられるようにすべきではなかったか。そのことが、本来の意味での、反省であり、社会的な謝罪の効果になったように思える。
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