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2015.12.29

交通量も少なく誰も見ていないとき横断歩道の信号機に従うだろうか?

 年末の連休に入った静かな明け方。ふと、散歩に出かけたくなり、出かけた。いつもなら早朝の通勤の人などもそれなりに見かける時間だが、今朝は少ない。自動車も少ない。そのまま私は、空虚に魅せられたようにさらに人の気配のない、死んだような朝の街を選んで歩いて行くと、横断歩道の信号機に合った。赤である。私は立ち止まる。
 自動車は来ない。信号が青になるのを待ちながら、ふと、信号機が青に変わるまで待つ必要なんかあるのだろうかと思う。
 見渡しが悪いわけでもない。自動車も来そうにない。信号機に従わなくても誰も見咎める人もいそうにない。つまり、信号機を無視してもなんら問題がない。
 そういうとき、若いときの私は信号機を無視したものだった。欧米人は普通そうする。そもそもルールなんて人の世界の相対的なものである。などと思っていた。しかし欧米人ならすべてそうするわけでもない。フランス人は、自動車が来なければ信号を守らない人が多いらしいが、ドイツ人は、交通量にかかわらずきちんと横断歩道の信号を守るという。
 私はその後、この件ではドイツ人のようになった。なぜかと考える。それほど深い理由はない。しいていえば、世の中の規則はさして考えもせず守っておけばいいものがある、というくらいものだろう。また、こうも思った。私のような人間が、横断歩道で急ぐ必要などまるでないのだ、と。
 愚考して待っている間に信号は青になった。これで問題なく渡ればいいのだが、私はなにかに心がひっかかって、硬直したように立ち止まっていた。
 横断歩道では青信号であれば渡ることができる、というだけで、渡れ、という命令の意味でなければ、渡らないでいることで罰則があるわけでもない。
 そうした奇妙な思いは少し滑稽に思えた。空はだいぶ明るくなってきた。鳥の声がする。そうしているうちにまた横断歩道の信号機は赤になった。
 もう一度考えていた。交通量も少なく誰も見ていないとき横断歩道の信号機に従うだろうか? 
 誰も見ていなくても信号機の規則に守るという理由に、こう答えた人のことを思い出した。曰く、実はこっそり誰かが信号機の規則を守るのを見ているかもしれない。そして、その人は、ああ信号機の規則を守らない人がいるのだと認識することで、その人の信号機への信頼も崩れていくきっかけになる。だから、それは道徳的によくないのだ、と、そういうのである。
 それもそうかなと私も思ったので、その理屈を覚えていたのだろう。倫理というのは誰が見ていなくても、自分で守っていけるものであるべきだろう。
 と、そのとき、「誰も見ていないとき」という条件の意味を考えた。そして、この世界に私が最後の人間あって、この横断歩道の信号機の赤の前に立っているとする。だとすると、どうなのか?
 滑稽な想像だが、人っ子ひとりいない早朝の横断歩道の条件はまさにその想像のままのようにも思えた。
 「ああ、人類はもう滅亡したのだ」と、つぶやいてみる。私は、信号機に従うだろうか?
 わからない。そもそもそんな滑稽な状況は起こりえない、とも思った。
 しかし、と思う。自分が死ぬ、自分がたったひとり死ぬということは、人類が滅亡したときの横断歩道の信号機と同じことなのではないかとも思った。死んだ私をもう誰も見ていることはない。
 いや、そうじゃないだろと思い、やはり人類が滅亡したときの横断歩道の信号機の意味を考えなおした。
 想像し思考することには奇妙な抵抗感がある。そもそも、「誰も見ていないとき」ときという条件への確信(明証)が、私にはないのだということに気がつく。
 生きているかぎり、誰もいないかに見える横断歩道ですら、私はたぶん、逆に誰かがいることをどこかで信頼しているのだろう。そもそもそうでなければ、横断歩道の信号機自体に意味がないだろう。
 信号機が再び赤になる、その数秒前であった。横断歩道近くだが道路の車道側にカラスが一羽舞い降りた。まるでなにかの象徴のように、そいつは私を見ていた。私が信号機を守るのを確認するかのように見ていた。
 
 

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2015.12.26

finalvent's Christmas Story 10

 カフェテラスの窓際にぽつんと座っていたその金髪で巻き毛の老人は私の顔を認めるなり、それが知人なのだがどうも思い出せないといった視線を投げかけていた。その視線に捕まって少し困惑も覚えた私だったが、私のほうが彼のことを思い出した。名前は思い出せない。サニーと呼んでいた。20年以上も前になる。3ヶ月ほどモロッコで一緒に働いていたことがある。私から彼に声をかけ、名乗ると彼はようやく魔法から解かれた北欧の神のように微笑みかえした。ここはマカオである。南方の風にゆるやかに微笑むべきなのだ。そしてとりとめのない話をした。彼は死んだ妻の追悼の旅なのだそうだ。私のほうはといえば、今年はいろいろ個人的な事情があって、KFFサンタクロース協会関連の仕事はせず、とりとめのない保養の旅に来ていた。そんな話だ。
 彼は明日には帰国すると言い、またどこかで会えるとよいがと言ったまま、コーヒーのおかわりを待ちながら話題が途切れた。短い沈黙の中に彼の、あのブレスレットがあった。左の腕にその鈍く輝く銀のブレスレットは似合っていた。
 それを見つけた私の視線に彼は気がついたのか、ああ、これは君も知っているだろう、あれだよ、と言った。私は、ここに来て初めて現物を見たんだよと答えた。協会が独自の機能を盛り込んで作成したLT――ライフログ・トラッカー。心拍や皮膚の微妙な電位を計測し、中央システムで計算し、結果とアドバイスを返すことで健康管理に役立つ。そしてコミュニケーションの道具でもある。私も秋口に受け取りはしたのだが、箱に入れたまま家に置いてきた。
 これはなかなかよいものだよ、と彼は、私の思いを先取りするように言った。これがあると死にやすくなると笑った。死ねば、このブレスレットが協会に自動的に通知してくれるのだからね。軽度な皮肉に笑いながらも彼がブレスレットに投げる視線にはある愛情のようなものがあった。たぶん、と私は思った。そのことも彼は読んでた。
 五歳の孫娘が北京にいると彼は言った。娘の計らいで孫娘がこれに連携するブレスレットをしているのだが、ときおり彼女の鼓動をこれで受け取ることができる。私の娘の、その娘の鼓動を感じ取ることができる。それを感じながら、自分はまだ生きているのだなと思うのだ。命というものに、まだ自分がつながっているのだと感じる。
 私はまるで熟練のカウンセラーの仕事のように頷いた。彼はそういう私の奥を覗き込むように見つめ、言った。そして、その鼓動と私の心拍のズレのようなものが生み出す音楽は静かな至福の感覚をもたらしてくれる。彼は照れ笑いをした。これが私たちに与えられた今年のサンタクロースのプレゼントだ。
 私はうなづいた。彼は席を立った。
 私は知っていた。私には愛する人や、密かに愛する人がこの世界にまだいる。その人たちの幾人かの鼓動をそのブレスレットを通して感じ、また伝えることが、意思があるなら、私にもできるのだろうとも思う。しかしと私は思う。
 彼が立ち去った椅子に落ちる光の中に、彼の不在を見つめた。私も数分後、彼のようにここに小さな不在を椅子を残す。それが不在であることを知るのは、そこにかつて誰かいたことを知る人だけではあるのだ。そうした知に意味があるのだろうか。
 それでもよいではないのか。私たちはごく小さな命の拍動を互いに感じ取ることができて、それが死に至る道をイルミネーションのように飾ったとしても、それでもよいのではないか。しかし、とさらに私は思った。
 私は目を瞑り、遠い海の音と、ホテルにまとわりつく静かであるが騒音のなかで自分の拍動に耳を傾けた。私は生きている。誰に伝えることもなく生きているし、誰に伝えることもなく死んでいくことができる。そこに私がいる。私にとってのただひとつの神秘である、私という存在がある。そこで終わりでもよい。
 しかし、人はその存在だけで同時に、他者のプレゼントであるのかもしれない。サニーが孫娘の心拍を感じ取りながら、彼は孫娘に彼の心拍という形の存在を与えてもいたのだろう。私たちの存在は、受け取ることで与えてもいる。
 目を開けて、また海の光を見つめ、ふと彼が席に戻るのではないかと見回した。それがコーヒーのおかわりの催促のようにウエイターに見えたのかもしれない。いかがですかと言われるコーヒーを受け取った。
 
 

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2015.12.18

「闇のキャンディーズ」問題で問われなかったかに見えたこと

 昨日のエントリーを書いたあと、ちょっとためらいの気持ちが残った。というか、あえて書かない部分があった。書かなくてもわかる人もいるかもしれないが、とも少しは思ったが、まあそういう期待どころか、実際には書くといっそう混乱を招きそうにも思えた。まあ、だからお前なんかブログ書くなと言われるわけでもあるが、さて。
 しかしエントリーを改めてその部分を簡単に書くと、「闇のキャンディーズ」さんも佐野研二郎氏と同様の意味あいで(参照)「詰め腹」だったのではないかと思っていたのだった。
 率直なところまだためらう気持ちはあるが(その理由はたぶん今回はあえて書かないつもりだが)、それでも想定通りの誤解がぞろぞろと自分に向けられてくるようでもあり、しかしだからといって書いても理解が進むわけではないだろうとは思う。くだくだ、と。でも、少し書いておこう。
 まず、簡単な疑問を一つ。
 「闇のキャンディーズ」さんは「新潟日報」で結果的に懲罰を受けることになったのだが、その懲罰規定は何だったか?
 愚問のように聞こえるかもしれないが、私は当然気になっていた。懲罰規定がないところで恣意的に懲罰を行ってはならないと考えるからだ。
 答えは新潟日報が記していた。「元部長、無期限懲戒休職に」(参照)である。


 新潟日報社は26日、インターネットの投稿サイト「ツイッター」上で新潟市の弁護士高島章氏を中傷するなどの書き込みをした坂本秀樹元上越支社報道部長(53)=25日付で同部長職を解き経営管理本部付=を懲戒休職(無給・無期限)処分とした。
 新潟日報社は元部長の書き込みについて、過去のものも含めて内容や経緯などを詳しく調査してきた。
 調査結果では、元部長は2011(平成23)年3月ごろから社に届け出ることなく匿名で投稿を始めた。13年ごろからツイッター上での論争の中などで、人権侵害や差別につながるような内容を、著しく品位を欠いた表現で繰り返し投稿していた。


 桑山稔・取締役経営管理本部長の話 極めて不適切な行為であり、不快な思いをされた関係者の皆さまに深くおわび申し上げます。新潟日報社ではインターネット上への書き込みに当たっては、個人としての投稿などの場合でも会社への届け出を求め、品位を欠く書き込みを禁止する社内規定を設けて指導してきました。今後は会員制交流サイト(SNS)などの運用基準や指導体制をさらに強化するとともに、全社員を対象とした研修を早急に開催するなどして社員教育を徹底します。
 
 これで理解できるだろうか。
 そう、私にはさっぱり理解できないのであった。
 規定は2つ読み取れる。①個人としての投稿などの場合でも会社への届け出を求める、②品位を欠く書き込みを禁止する、の2つである。
 一番目の規定は曖昧ではあるが、これが通用するのは、私の理解では2つの条件がある。①会社との労働契約による職務専念義務や守秘義務に反する従業員の行為を会社は禁止できる、②業務時間内での投稿は禁止できる、の2つである。
 逆に言えば、その2つの条件がなければ、新潟日報の規定は無効である。ではどうだったのか? 「闇のキャンディーズ」さんに秘守義務違反はあったか? 業務時間内での投稿であったか? しかし、新潟日報の釈明を見ると、そうした部分には記述はなく、そもそも関心が向けてないように読める。
 次に、2点目の規制である「品位を欠く書き込み」はどうかである。これは今回の事例では自明であるかのように思えるだろう? が、そこが実は難しい。
 まず、前提を整理しておきたいのだが、「闇のキャンディーズ」事件にはこうした点から見れば、2つの局面があった。①高島弁護士との関係の問題、②新潟日報記者としての問題である。前者の問題はここでは扱わないし、そもそもこれは、高島弁護士と「闇のキャンディーズ」さんの二人の閉じた問題である(もちろん、それに波及する水俣病問題はあるにせよ)。そして私なら懲罰に結びつくような行動は取らなかったかもしれないなという話は昨日書いた。
 なので、ここでの焦点は新潟日報記者としての「品位を欠く書き込み」になる。
 改めて問うのだが、「品位を欠く書き込み」とはどのような規定なのだろうか。例えば、「昨晩掘られて今朝、ケツの穴が痛くて泣いちゃいましたよ」とかいうのは、著しく品性を欠く書き込みだし、私のようにダジャレの連発ツイートをするブロガーも著しく品性を欠いている。しかしそれで厳格な懲罰が必要だとは思えない。実際のところ、「闇のキャンディーズ」さんも今回の事態では、酒に酔ったうえでのことだと釈明したが、酒で免責されるような品位であると理解していた。
 どういうことか。簡単にいえば、新潟日報は「品性」を借りて、曖昧な権力を行使した可能性はあるだろうと疑っている。
 では曖昧ではなくするにはどうしたらよいのか? これは簡単である。この事件について、社内で行った調査の内情について、社内規定と付きあわせて調査班によるレポートを提出すればよいのである。社内でできないといなら、第三者なりあるいは、新潟日報を批判的に見つめる役割の人が語ればよいのである。
 が、それが見つからなかった。
 存在しないのではないかとも思う。そう思う理由がある。実はすでに新潟日報には「ソーシャル編集委員」が存在しているのだが、その方の寄稿にまったくそうした観点が見られないのである(参照)。
 このあたりから、新潟日報の対応はかなりおかしいのではないかと思う。そして、それが解明されなければ、「闇のキャンディーズ」さんも「詰め腹」ではないかという疑問は強く残る。
 それに関連してそれ以上に深刻な疑問が「新潟日報」には残っている。
 「闇のキャンディーズ」さんは「新潟日報上越支社報道部長」として報道されているが、その要職にあるということは、これまでの新潟日報の報道に、彼による問題が関係していなかったかが再度吟味される必要があるのではないか?
 ここは理解されにくいと思うので、補足する。
 「品性を欠いている」という内容が、個人的な性癖といったごく個人的なことであれば、新潟日報という報道社として公的な問題とは言えない。公的な問題となるためには、公的な市民社会に「品性を欠いている」ことが明白でなければならない。そして、それが明白であるなら、この行為はむしろ、ツイッターに限定されず、むしろ業務のなかに紛れ込んでいる可能性を疑うべきだろう。新潟日報が社として調査するのであれば、むしろ、その部分が中心になるべきだろう。
 だが、そうした動向はまったく見られないのである。
 このことに私がこだわっているのは、やはり「詰め腹」疑惑があるからだ。本当に「闇のキャンディーズ」さんは新潟日報において、社内に知られず孤立して一人たんたんと「品性を欠いてい」たのだろうか? 
 あまりここでは詳細に扱わないが、売り言葉に買い言葉といった冗談の一種であったのかもしれないが、「闇のキャンディーズ」さんの過去ツイートを見ると、「品性を欠いている」ことよりも、政治活動について日当なり資金を得ていたことをほのめかす話をしていたことのほうが重大であると思える。
 問題点がわかりにくい人もいると思うので、比喩的に言うのだが、これが日本のようにのんきな国でなければ、「闇のキャンディーズ」さんのこのような行動は他国スパイの疑惑があって当然だろう。もちろん、そうほのめかしたいわけではないが、とりあえず本人の発言はあった。一般的にジャーナリストの政治活動について裏から暗黙の資金が流れていたとしたら、そのほうがはるかに新潟日報にとって危機的な問題であるはずだ。その疑惑があるなら、釈明にかなりはっきりとした調査報告が必要になるだろう。
 まあ、そう思った。
 そう思う人は、私の視野の範囲ではいかなかったようにも思っていた。なので、私も黙っていようかなとも思っていた。


追記(2015.12.21)

 エントリーを書いたあとツイッターで、自分としては奇妙な攻撃を受けた。率直に言って、なんのことか状況的には理解不能な罵倒を多々受けたのである。あれだな、自分で書いてきた議論である「ネットによる懲罰」が自分に向けられたのである。とはいえ、攻撃内容については日本語で書かれているので理解できないわけでもない。いわく、「しばき隊に日当が出ていた」というデマを拡散しているというのである。
 彼らが気にしていることに最初に答えておくと、「しばき隊に日当が出ていた」というネットに流布されている話は、デマだろうと私も思う。理由は簡単で、その話の経緯を見ていけば、どこにも日当が出たと確認できる事実がないからだし、そういう話をでっち上げることでしばき隊を攻撃できるという話の枠組みから考えても、おそらくデマでしょう。というか、そんなの特に言及するまでもなく当然じゃないですか。という前提で書いていたのだが、トンチンカンな誤解をされたのでびっくりした。
 ただし、逆に「しばき隊に日当は出ていなかった」という命題ならどうかというと、これもおそらく「しばき隊」として日当は出ていなかっただろうと思う。「しばき隊」は日当による組織ではないだろうという意味だ。しかし、個々の参加者になんらかの日当が出ていなかったかというと、原理的に個別事例を全部当たってみないわからない話である。そして通常なら、そこまでして個別事例を全部当たる必要などない。
 そもそも、しばき隊に日当が出ていようが出てなかろうが、そんなことどうでもいいことであると私は思う。選挙活動でもなく、公的な意味合いはまったくない。しばき隊が「しばきたい」としている対象はそもそも現行の法的な「懲罰」がないから、あくまで私的に「しばきたい」なあというパフォーマンスなのだろうと思う。ご自由に。
 そういう枠組みで見ている限り、つまり、「しばき隊」がどうたらという枠組みで見る限り、日当については、自分のように無関係な人間にはどうでもいい問題であるし、日当デマについては普通に考えてデマでしょう以上の感想もない。
 ところが、特殊な個別事例が出てきたなら話は別である。例えば、その個別事例として新聞記者などジャーナリズムが関わっていたら、ということだ。公的と想定される報道機関に裏金が入っていたと疑われるなら、それは問題でしょう。というか、そういう焦点化だった。
 まあ自分の言い方は、こうも理解されないものかなと困惑していると、こういうふうに言ったらどうですかと整理してくれた人がいた。その表現を借りると、つまり、「地域を代表する地方紙報道部長職が当て擦り的にデモ日当を貰ったと相手をからかった話」と「報道人・社会的公器を自認する側がどこかの団体から謝礼を貰ったかのように吹聴した社会的責任に対する引責懲戒判断の話」は別。
 私としては後者だけが問題である。
 匿名者である闇のキャンディーズさんが、しばき隊の任意の一人として、意図的に嘘として日当をもらったとして語ったとしても、それはあくまで任意のしばき隊の問題だが、地域を代表する地方紙報道部長職が日当を対価として関わっていたら、その報道の質が問われるでしょう。
 これは、匿名者である闇のキャンディーズさん、つまりしばき隊の任意の一人が、意図的に嘘として「お前の赤ん坊を、豚のエサにしてやる!」としても、それはあくまで任意のしばき隊のメンバーの問題だし、実際その手の暴言はネットにあふれている、が、地域を代表する地方紙報道部長職がそんな発言したら……いや、してたから、だから問題になったわけですよ。
 地域を代表する地方紙報道部長職なら「お前の赤ん坊を、豚のエサにしてやる!」とは言ってはいけないし、同様に、日当もらってしばき隊やってましたというふうなことを言うべきではないでしょう。というか、そういうことを報道機関の人が言ってしまったら、その報道機関の信頼は失われるでしょう。だから、その信頼回復を新潟日報はすべきですよということである。
 新潟日報は、「お前の赤ん坊を、豚のエサにしてやる!」といった暴言を自社の報道者が語っていたことについては、どのような規定であるかは不明だが、社会に謝罪し、それに釣り合った形で「懲罰」を実施した。
 しかし、新潟日報は自社の報道者が語っていたことの他面、報道部長が日当をもらってしばき隊をしていたという発言については、報道社としては明確に否定していない。
 常識的に考えて、新潟日報が自社の報道者にしばき隊参加のための費用を出していたとは考えにくいだろう。しかし、そんなことはないのだと公に明言しておく必要はあるのではないか、というのが私の問題提起だった。

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2015.12.17

「闇のキャンディーズ」問題で微妙に気になっていたこと

 これもその渦中で書くのはためらっていたのだが、「闇のキャンディーズ」問題で微妙に気になっていたことがあった。
 その前に、「闇のキャンディーズ」問題とは何か、というと、そのペンネーム、というか呼称でTwitterに登録した人がいて、自身の考えに反対する人に対して、例えば、「☓☓☓死ね。それとも、殺されたいのか?」「お前の赤ん坊を豚の餌にしてやる」といった暴言を吐いていた。
 ひどいものだとは私も思うが、私自身、その手の暴言をコメント欄などでよく受けてきたので、ネットの世界ってそんなものだよねと思っていた。
 というか、微妙に気になっていたことに関連するのだが、どこかしら、そうした暴言の人々を、どうしようもないじゃないか、ということで許容していたのではないかとも思う。
 これが今回「闇のキャンディーズ」問題として「問題」化したのは、水俣病訴訟にも関わっている弁護士の高島章氏に対して、「うるせーな、ハゲ!はよ、弁護士の仕事やめろ。プロのハゲとして生きろ。ネトウヨ弁護士。クソ馬鹿ハゲ野郎!」といった暴言を吐き、おそらく私の推測だがハゲについてはさして問題ないのかもしれないが、高島氏は「闇のキャンディーズ」本人について心当たりがあり、直接電話で問いただした。すると、「闇のキャンディーズ」氏は本人であることを認め、暴言を謝罪した。と、いう問題であった。
 ちょっとこの時点で補足したいが、問題の焦点は、①高島弁護士への暴言であったか、②これまでの数々の暴言であったか、は、その後、NHKなどでニュースになったおりでも曖昧であったように思う。
 いろいろ多面的な問題ではあったが、私が微妙に気になっていたのは、私が高島弁護士の立場であったら、どうだっただろうか、ということだった。
 おっと、その前にもうひとつ前段の話があった。
 「闇のキャンディーズ」氏が謝罪のおり、そのことがネットでも公開され、また先にも触れたように全国ニュースなどでも流れた。なぜそこまでのニュース性があったかというと、彼は新潟県でシェア60%近くを占める地方紙「新潟日報」の上越支社報道部長というメディアの要職でもあったからだ。そしてこの暴言三昧が暴露された結果、彼はその要職を解かれた。つまり社会的な「懲罰」を受けた。具体的にどの程度の「懲罰」であったかについては知らない。職を失うまでには至ってなかったようには思う。それでも、かなりな社会的な懲罰であったと言ってよいだろう。
 話が戻る。
 私が私が高島弁護士の立場であったら、こうした社会的な懲罰に至るような事態にもっていっただろうか?
 別の言い方をすると、もし私がその立場であったら、本人に確認を取ったあと、謝罪の言葉があり今後こうした暴言を繰り返さないと言明してくれたら、それ以上の社会的な懲罰が及ぶような表沙汰にはしなかったのではないかと、そのときなぜか思ったのである。
 実は、なぜ、自分がそう思ったのか、その理由がよくわからないということも、微妙な部分であった。なぜだろうか?
 一つには、ネットの暴言など大したことではないではないか。ブログをやってきて思うのだが、暴言や嫌がらせを受けても、たかがネットのことではないか。私を直接信頼してくれる人々に影響はないだろう(いや、あるかもしれないなと危惧したこともあったが)。
 また、仏陀が言ったとされる言葉であるが、「彼はわれを罵った、彼はわれを害した、彼はわれにうち勝った、彼はわれから強奪した、という思いを抱く人には、怨みはついに息むことがない」というのがあるが、それが真理とも思えないし宗教的な価値があるともそれほど思わないが、一人の暴言者に対応しても、暴言者はあとからあとから湧き出てくる。むしろ、対応しようとすればするほど湧き出てくる。どうしようもない問題じゃないかという諦念がある。
 あと一つ、私の父親が、人というものは追い詰めてはいけないものだとよく言っていたことを思い出す。父がそう言っていたのは、追い詰められた人の実相を見てきたからか、自身が追い詰められたことがあったからか、わからないが、実感として伝わるものがあった。
 ただ、そうしたことを考えてみて、少し滑稽にも思った。
 私など、そもそも一般的な罵倒で足るほどの些細な存在である。高島弁護士のように社会的な公的な価値のある人間ではない。つまり、自身を高島弁護士のような存在に重ねていろいろ思ってみても、あまり意味はないのではないか。
 そしてこの微妙な感覚は、やはりというか、そしてその「懲罰」性に及ぶ。
 少し迂回した関連ではあるが、昨日のエントリーを書いたあと、こういうコメントをもらった。悪意は感じないが、通じてないなあ感があって困惑して戸惑ったままであるが。


 それ程「もやっと」しなければいけない様な問題とは思えないんですがねぇ、、。だって言論の自由。意見表明の自由。選挙の自由は認められているわけで、それに則って行われた選出で現職が敗れただけですよね?その人がどんなポリシーを持っているかを国会で表明したら、それと意見の合わない人がその大学に多かった。それだけの事でしょ?
 その大学が、実名を挙げるのは余り良くないかもしれませんが、敢えて言えば国学院大学とか国士舘大学だったら、逆の判断になるんじゃないでしょうか?国会で「戦争法は違憲だ」なんてしゃべったら、それこそ刺されたりして(笑)まぁ、冗談は兎も角間違いなく次の学長選では落ちるでしょうね(笑)
 ですからその大学が辿ってきた歴史の中で醸し出されて来た雰囲気や創始者のポリシーを受け継いでいるから、そういう考えの人が多く居たのに、何かの間違いで違う意見の人が学長をしていただけって話ですよ。
 その大学が学長を代えたのは、それこそ大学の自治の自由そのもで、日本はそれさへも変えられないほど、そこまでおかしくはなっていない、という事で宜しいのではないですかねぇ。

 私が思ったのは、ああ、全然通じてないや、ということだった。このコメントの方を批判したいわけではない。そもそも、問題の論点がまるで通じていないなあと思った。コメントされている内容は昨日のエントリーに前提としてすべて書いておいた。
 これを別の補助線で言うなら、こういうコメント(はてぶ)もあった。

たとえばデモに参加した大学生が就職できなかったとしても、それは自由な選択であって懲罰ではないのだろうかとかいう話も関連するかも。

 この点については、欧米社会との対比でいうなら、日本の社会に問題があると思う。ただ、問題は、こうした微妙に懲罰性の機能が予想されるという構造にある。
 なぜ日本社会は、ネットの社会はというべきか、こうした懲罰性の構造を持つのだろうか?
 懲罰性が予測されると発言や行動が抑制される。そのために、自由な発言・行動であっても、その懲罰性へのしきい値のようなものが意識される。簡単に言うと、ある意見を述べるためには、懲罰を覚悟しなければならない、ということになる。これは、一種の自由のコストと言えるかもしれないが。
 が、このコスト回避が「匿名性」になっている。匿名ならその懲罰が回避されるかのように見える。
 「闇のキャンディーズ」さんは、匿名であったときには、懲罰が回避されていた。しかし、その社会的な立場が開示されたときに、懲罰を受けた。
 この構造は、別の視点から言えば、懲罰コストが匿名性を要求してしまうということでもある。それと同時に、この全体構造が社会的懲罰の仕組みと同値になっていることだ。
 イエス・キリストは、罪なきものだけが石を投げよとしたが、匿名であれば気軽に石という懲罰に加担できるし、石を投げつけることのコストからも免れる。
 冒頭の微妙に気になる問題に戻すと、「闇のキャンディーズ」さんに懲罰を与えることは、一罰百戒的な社会威嚇の効果はあり、それによって、ネットの暴言が表面的には抑制されるかもしれないが、実際には、匿名性のコストのしきい値を上げるだけで、全体の懲罰構造の改善には寄与しないどころか、それが懲罰を権威つけるために、自由な発言をより阻害していくことになるのではないか。
 ある程度曖昧でコストが意識されない自由な発言を抑制すれば、極端な意見の二極化と、匿名の加害的な懲罰性が強化されるだけなのでないか。
 まあ、こうした微妙な感覚的な問題は、いっそう通じないだろうとは思う。
 具体事例にそって、別の切り口でいうなら、ネットの社会は、できることなら、 「闇のキャンディーズ」さんが、かつての暴言を謝罪したなら、それ以上の懲罰を与えず、その後の思想・言動の変化を見つめられるようにすべきではなかったか。そのことが、本来の意味での、反省であり、社会的な謝罪の効果になったように思える。
 
 

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2015.12.16

同志社大学長選の村田晃嗣氏落選で「もや」っと思ったこと

 今年ブログに書き落として「もや」っとしたことが他になにかあるだろうかと自分の心を覗き込んで、そういえば、同志社大学長選の村田晃嗣氏落選では、なんとも言えない「もや」っとした思いが残ったことを思い出した。あれはなんだっただろうかと再考して、やはり「もや」っとしたままであった。ただ、そのもや感は書いておこうかと思う。
 話は11月6日のこと、同志社大学で任期満了に伴う学長選挙があり、立候補した現学長の村田晃嗣氏(51)が破れ、理工学部教授の松岡敬氏(60)が選出された。
 自分にとってはほとんど関係のない大学の人事のことでもあり、それだけ見ればどうという話でもなく、安閑と傍観してよいことである。なにより、その選出過程に公的な問題があったとも想定されない。ただし、報道からの情報を加えれば、投票資格者は同大学の教職員約930人に限られ、投票者数や得票数については公開されてはいない。
 ではどういう焦点化で話題となって自分の気を引いたのだろうか? 簡単に言えば、安保法制からみである。衆院特別委員会が7月に開いた中央公聴会に村田氏が与党推薦で出席し、安保法案に賛成の意見を述べていた。これに対して、同大学の学長選資格者有志90人が村田氏を批判する声明を発表した。その内容をハフィントンの関連記事から孫引きすると、「村田教授は、憲法違反かどうかの判断を差し置いて、『国際情勢』の変化という観点から、法案に対して明確な賛意を議会の場で表明した」「国際情勢に対応しなければならないからといって憲法違反の法律を制定したとすれば、立憲主義の原則をないがしろにすることになる」「学術的というよりはむしろきわめて政治的な観点からの演説」とのことである(参照)。
 批判点は2つに分かれるだろう。「憲法違反の法律を制定」に賛同したことは許されない、ということと、「きわめて政治的な観点からの演説」は許されないということである。
 ここで、「もや」っとした気分が始まる。。「憲法違反の法律」であるかは未確定である。「政治的な観点からの演説」というが村田氏の学長としての発言ではなかったので失当である。
 しかし、と、ここで思う。私はこの批判は2点とも失当であるとは思うが、村田氏は同大学の学長としてふさわしくないと選出資格者が主張するのは言論の自由の範囲であろう。つまり、なんら問題はない。
 そして概ねこの運動の結果と見てよいだろうが、村田氏は学長選に敗れた。当然、このこと自体にはなんら問題はない。
 ただ、「もや」っとした感覚が残った。そのあたりはWSJ記事「【寄稿】同志社大学長選に見る日本の「言論の自由」」で刺激された(参照)。結論からいうと、私はこの議論に賛同しているわけではない。誤解なきよう。ただ、こうした議論が対外メディアでしか見かけないかに思えたことにも「もや」っとした感じはあった。
 まず同寄稿の要点だが、「深い国家的議論」にあることに留意されたい。


 言論の自由の限界をめぐる衝突で混乱が生じているのは米国の大学だけではない。日本有数の名門大学のひとつでも、安倍晋三首相への支持を公言したことを背景に、誰あろう学長自身が同僚である教職員らによって退任に追い込まれる事態が発生したばかりだ。この騒動は日本の将来をめぐる、より深い国家的議論を映し出している。

 同寄稿では村田氏の学長選はこれに関連するというのだ。

 日本の学術界はおおよそリベラルであることが知られているが、村田氏のケースにみる言論の自由をめぐる懸念は日本が抱えるより大きな問題を反映している。根本にあるのは、日本がその過去と未来の両方にどう対峙していくのかという問題だ。安倍首相は、もはや日本は過去の行いのために永遠に「ざんげ」の状態にあり続けることはできないと決断した。首相は日本が過ちから学んだということを世界に示さねばならないと考えている。今現在の課題に日本は対応するということもだ。

 寄稿の中心は次の部分であろう。

 言論の自由と学術的探求は左派・右両方の脅威から守られなければならない。ニューヨークに駐在する日本の外交官らは今年、米出版社のマグロウヒルに対し、世界史の教科書に書かれた戦時中の慰安婦に関する記述で、日本政府の立場をもっと反映させた内容に変更するよう求めた。日本研究者を含む200人を超える米国の学識経験者は、政府による操作や検閲、個人的な脅しを受けない歴史研究を求める公開書簡に署名した。
 国内外のメディアは反対意見を強制的に封じようとしていると日本政府を非難するが、日本の文化的エリート層は、活動家に劣らない姿勢や、反対意見を黙らせる強い手段を使おうという意志を見せている。村田氏を学長の座から引きずり下ろす中で、同志社大の教職員らは日本での自由な言論に伴う代償について身も凍るようなメッセージを送ることになった。村田氏の日本人および米国人の同僚らは、懲罰を恐れることなしに専門家としての意見を公表できるよう村田氏の権利を擁護する国際的な書簡に署名するだろうか? 

 誤解を避けるために、一見論点にも見える慰安婦問題については、議論から外しておきたい。議論拡散を避けたいだけである。
 その上で、この寄稿の要点は次の点にあると私は思った。

村田氏の日本人および米国人の同僚らは、懲罰を恐れることなしに専門家としての意見を公表できるよう村田氏の権利を擁護する国際的な書簡に署名するだろうか? 

 この議論の理解の成否を決めるのは、村田氏の学長選における落選はその意味で「懲罰」であったか?ということだ。
 法的にかつ公的に考えれば、明白に「懲罰」ではない。なんら問題はないと言えるだろう。ではどこが「もや」っとしているのだろうか?
 私もこのブログをやっていて、右派と見られるとき「闇のキャンディーズ」(参照)のような左派的な匿名者から罵倒や攻撃をしばしば受ける。しだいにコメント欄を事実上閉じてしまったのもそのせいである。有益なコメントを読み出すために、不快な攻撃文をその数倍読まなくてはならないのが心理的な負担になっている。これほどまでに心理的な負担になるのであれば、そもそもブログなど書く必要はないのではないかとも思うし、実際、今年はかなりいやになった。
 ついでに言うと、右派的なかたからの攻撃も受けるし、賛同のように見せかけて人種差別まるだしの匿名者コメントもいただく。これらはとてもではないが公開できるようなシロモノではない。
 何が言いたいのかというと、私がブログを書くことに対して、こうした反応は自分にとってはきちんと「懲罰」として機能しているなあ、ということである。
 少しまとめよう。
 まず、明白に、同志社大学長選で村田晃嗣氏落選については「懲罰」ではなく、まったく問題はない。
 しかし、同種の圧力は実際には、ネットの炎上などを介して「懲罰」のようにも機能している現状がある。
 もう少し砕いていうなら、この問題は、ただ、炎上やネットスクラム的な問題というのではなく、予め予想される特定の思想信条に対応するという点で、予測可能であり、だから、「懲罰」的に機能する。つまり、その議論を実質封じる機能をもっていることが構造化している。
 WSJ寄稿の文脈でいうなら、「国益に関する責任ある真剣な議論」について、特定の意見を述べれば、それには「懲罰」的な圧力がかかることは想定される。
 もちろん、それでも言論の自由はあるのだから、気にしなければよいというのもあるだろう。
 だが、そこはそう割り切れるものだろうかというのが、この「もや」っとした感覚の核にある。
 先に少し触れたが「闇のキャンディーズ」のような匿名者は多い。これについてもブログで少し触れるかもしれない。
 
 

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2015.12.15

ブログに書こうかと思って書かないでいたこと、としての東京オリンピックのエンブレム問題

 今年は気が付くとブログを書く量がぐっと減ってしまった。理由はいくつかある。個人的な理由が多い。それでも、これは書かねければいけないなという点は書いてきたようにも思う。「安保法制」など。しかしまあ、それはそれとして、ブログに書こうかと思って書かないでいたことも多かった。書いてもうんざりする事態になるだけじゃないかと予想がついてしまって、その時点でめげてしまう。その一つに東京オリンピックのエンブレム問題がある。
 もう年末かあとも思うと、しかし、少し書いておきたい気にもなった。
 要点のひとつは、こうだ。佐野研二郎氏による2020年東京オリンピックのエンブレムのデザインになんら問題はなかったではないか、ということだ。が、そういうとまさかと思う人が多いのではないかとも思う。
 逆に、何が問題だったのだろうか? 盗作疑惑だろうか。そういう話題が多くあがっていたが、結果として、盗作の認定はされていなかった。そもそも、エンブレムが公開される審査の過程で、運営側で商標など法的な問題はクリアされていた。
 もっとも、それでも盗作としての訴訟が今後起きうる可能性があったが、それはしかし、佐野氏の問題である前に運営側の問題であっただろう。この点について自分の知らない点は多くあるのかもしれないが、私としては法的な手続きとして見た限り、佐野研二郎氏にもそのエンブレムのデザインにも瑕疵はなかったと思う。
 実際、ネットを含め、世間での話題は、そのエンブレムの盗作疑惑に、あたかも関連つけられたように、佐野研二郎氏のデザイン事務所による他の作品の盗作疑惑が話題になっていた。それについて絞れば、すでに佐野氏自身が認めたように盗作が多々あった。そしてそれはデザイン事務所の長としての佐野氏に責任があった。
 が、それとこのオリンピック・エンブレムのデザインは話が別ではないだろうか。よく盗作をするデザイン事務所の作品だからといって、そのデザイン自体が盗作だということにはならないし、否定されるものではないだろう。
 話題はまだ多岐にわたっていた。エンブレム審査の過程が不透明であることだ。揉め事を通してその過程の内情が見えてきたことの印象からすると、これは事実上出来レースだったと言っていいだろう。つまり、フェアな審査ではなかった。が、それも、佐野氏が関わったことではなかった。東京オリンピックの運営側位には大きな問題はあったが、佐野氏が責められるべきことではないように思えた。
 そして最終的に佐野氏のエンブレムが否定された理由だが、これが漠然としていた。
 まず明白に佐野氏に問題が浮かび上がった。エンブレムが審査される過程で佐野氏が提出した資料には不正があった。著作権侵害の羽田空港写真が使用されていたからである。
 この時点で私が疑問に思ったのは、審査プロセスで不正があれば、その審査は無効になる、というルールが存在していただろうか?という点である。
 あとからざっと思い返すと、著作権侵害の羽田空港写真が、佐野氏のエンブレム否定の決め手となったように見えるのだが、その規定はどうだったのか?
 ここが最後までわからなかった。が、おそらくそうした規定はなかったのではないかとも思っている。なぜなら、そうした罰則規定の有無が明示される前に、佐野氏が辞退したからであったし、これは、私には、「詰め腹」に見えたからだ。もちろんこうした見方は私の主観かもしれないが、佐野氏はそのおり、「五輪エンブレムを白紙撤回したがパクリではない。誹謗中傷に耐えられなかっただけだ」というように述べていたと記憶する。少なくとも佐野氏には詰め腹のように受け止められてはいただろう。
 「詰め腹」という言葉を知らない人も増える時代になったと思うので、字義を補足しておこう。デジタル大辞泉より。


つめ‐ばら【詰(め)腹】
1 本意でない責任をとらされること。強制的に辞職させられること。「部下の不始末で―を切らされる」
2 強いられて、やむをえず切腹すること。
「急ぎ―切らするか」〈浄・嫗山姥〉

 法的には罰則規定がないが、所属集団や機構的な権力の都合によって、自殺を強いられることである。
 佐野氏の文脈でいえば、佐野氏が今後、デザイン業界で生き延びたいなら、この件については、運営側の問題に及ばないように「詰め腹」を切ってくれということだったのではないか。
 少し余談になるが、この「詰め腹」というのは、戦後は「総括」となった。これも知らない人がいる時代だろう。これもデジタル大辞泉より。

そう‐かつ〔‐クワツ〕【総括/×綜括】
[名](スル)
1 個々のものを一つにまとめること。全体をとりまとめて締めくくること。「各人の意見を―する」
2 労働運動や政治運動で、それまでの活動の内容・成果などを評価・反省すること。「春闘を―する」

 1の意味が本来の意味だが、ここでは2の意味である。労働運動や政治運動の独自な意味合いをおび、これが「連合赤軍」事件ではさらに明確な意味になった。ざっとネットを眺めるとウィキペディアに項目があったので借りる。

 左翼団体において、取り組んでいた闘争が一段落したときに、これまでの活動を締めくくるために行う活動報告のことを「総括」と言っていた。闘争の成果や反省点について明らかにし、これからの活動につなげていく。工業界でいうところのPDCAサイクルの「C(点検・評価)」に相当する。
 ところが連合赤軍では、「真の革命戦士となるために反省を促す」と称して行なわれたリンチ殺人を意味することになった。

 左翼運動が激化した「総括」は、封建時代の「詰め腹」の伝統を持っていた。ウィキペディアでは明らかに書かれていないが、これにはもうひとつの背景がある。「自己批判」である。文化大革命でよく使われた。表面上は字義通り、自分で反省し自分を批判することだが、実際には、教義や権力機構に従ったかたちで自分を否定することを認め、自分を失脚させることである。つまり、これも「詰め腹」の一種であり、「総括」である。
 私は文化大革命の自己反省や連合赤軍の総括を同時代的に見つつ、恐怖してきた。それが日本社会に「詰め腹」として息づいていることにも恐怖した。
 そしてまた、東京オリンピックのエンブレム問題で再現したように、私には見えた。
 しかも、この「詰め腹」を強いたのは、特定のイデオロギー集団でも権力でもなく、ネット民であり、マスコミだった。ネット民とマスコミが総出で佐野氏をリンチにかけたように見えた。
 私は自分をくだらないブロガーだと思う。ということは、ネット民の一人である。ということは、私はこの件について、彼に詰め腹を強いた側にいる。
 そうだったのだろうか。
 そうだった。私は、渦中にこのことを語らないでいた。自分にとばっちりのように敵意が及ぶのがいやだなと思って、黙って「詰め腹」の事態を傍観していたのである。だから、私はこの件について加害者の仲間である。
 
 

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