finalvent's Christmas Story 10
カフェテラスの窓際にぽつんと座っていたその金髪で巻き毛の老人は私の顔を認めるなり、それが知人なのだがどうも思い出せないといった視線を投げかけていた。その視線に捕まって少し困惑も覚えた私だったが、私のほうが彼のことを思い出した。名前は思い出せない。サニーと呼んでいた。20年以上も前になる。3ヶ月ほどモロッコで一緒に働いていたことがある。私から彼に声をかけ、名乗ると彼はようやく魔法から解かれた北欧の神のように微笑みかえした。ここはマカオである。南方の風にゆるやかに微笑むべきなのだ。そしてとりとめのない話をした。彼は死んだ妻の追悼の旅なのだそうだ。私のほうはといえば、今年はいろいろ個人的な事情があって、KFFサンタクロース協会関連の仕事はせず、とりとめのない保養の旅に来ていた。そんな話だ。
彼は明日には帰国すると言い、またどこかで会えるとよいがと言ったまま、コーヒーのおかわりを待ちながら話題が途切れた。短い沈黙の中に彼の、あのブレスレットがあった。左の腕にその鈍く輝く銀のブレスレットは似合っていた。
それを見つけた私の視線に彼は気がついたのか、ああ、これは君も知っているだろう、あれだよ、と言った。私は、ここに来て初めて現物を見たんだよと答えた。協会が独自の機能を盛り込んで作成したLT――ライフログ・トラッカー。心拍や皮膚の微妙な電位を計測し、中央システムで計算し、結果とアドバイスを返すことで健康管理に役立つ。そしてコミュニケーションの道具でもある。私も秋口に受け取りはしたのだが、箱に入れたまま家に置いてきた。
これはなかなかよいものだよ、と彼は、私の思いを先取りするように言った。これがあると死にやすくなると笑った。死ねば、このブレスレットが協会に自動的に通知してくれるのだからね。軽度な皮肉に笑いながらも彼がブレスレットに投げる視線にはある愛情のようなものがあった。たぶん、と私は思った。そのことも彼は読んでた。
五歳の孫娘が北京にいると彼は言った。娘の計らいで孫娘がこれに連携するブレスレットをしているのだが、ときおり彼女の鼓動をこれで受け取ることができる。私の娘の、その娘の鼓動を感じ取ることができる。それを感じながら、自分はまだ生きているのだなと思うのだ。命というものに、まだ自分がつながっているのだと感じる。
私はまるで熟練のカウンセラーの仕事のように頷いた。彼はそういう私の奥を覗き込むように見つめ、言った。そして、その鼓動と私の心拍のズレのようなものが生み出す音楽は静かな至福の感覚をもたらしてくれる。彼は照れ笑いをした。これが私たちに与えられた今年のサンタクロースのプレゼントだ。
私はうなづいた。彼は席を立った。
私は知っていた。私には愛する人や、密かに愛する人がこの世界にまだいる。その人たちの幾人かの鼓動をそのブレスレットを通して感じ、また伝えることが、意思があるなら、私にもできるのだろうとも思う。しかしと私は思う。
彼が立ち去った椅子に落ちる光の中に、彼の不在を見つめた。私も数分後、彼のようにここに小さな不在を椅子を残す。それが不在であることを知るのは、そこにかつて誰かいたことを知る人だけではあるのだ。そうした知に意味があるのだろうか。
それでもよいではないのか。私たちはごく小さな命の拍動を互いに感じ取ることができて、それが死に至る道をイルミネーションのように飾ったとしても、それでもよいのではないか。しかし、とさらに私は思った。
私は目を瞑り、遠い海の音と、ホテルにまとわりつく静かであるが騒音のなかで自分の拍動に耳を傾けた。私は生きている。誰に伝えることもなく生きているし、誰に伝えることもなく死んでいくことができる。そこに私がいる。私にとってのただひとつの神秘である、私という存在がある。そこで終わりでもよい。
しかし、人はその存在だけで同時に、他者のプレゼントであるのかもしれない。サニーが孫娘の心拍を感じ取りながら、彼は孫娘に彼の心拍という形の存在を与えてもいたのだろう。私たちの存在は、受け取ることで与えてもいる。
目を開けて、また海の光を見つめ、ふと彼が席に戻るのではないかと見回した。それがコーヒーのおかわりの催促のようにウエイターに見えたのかもしれない。いかがですかと言われるコーヒーを受け取った。
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