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2015.11.18

[書評] コーランには本当は何が書かれていたか? (カーラ パワー)

 「コーランには本当は何が書かれていたか? 」という問いかけは、そのままの形で魅力的な問いだと言っていいだろう。私は井筒俊彦の翻訳でコーラン(クルアーン)をすべて読んだことがあり、そして聖書についても一応ではあるが全巻通して読み、それなりに理解はしたが、さてでは、コーランには本当は何が書かれていたか? と問われたとき、私は残念ながらアイロニカルな答えしか出すことができない。それは、聖書には本当は何が書かれていたか? という、自分の、おそらく青春をかけたとしてもよい問いかけがもたらした惨めな姿に近いものである。

cover
コーランには本当は
何が書かれていたか?
 幸いにしてアイロニーは、ユーモアが一時の気休めであるのと似て、答えではない。だから私は今でも静かにその問いに向き合う。本書『コーランには本当は何が書かれていたか? 』(参照)は、そうした自分の思いに添ってちびちびと、そして対話するように読んでいった。そのように読む書籍でもあった。
 当初思っていたのは、この問いの本書での結論は、かつて自分が聖書学を学んだように、コーランの原典を、いわば批評的に実存的に読み出すことなのではないかという臆見である。だが読みだすにつれ、それはとても間違っていたことを知った。読後の実感として言うなら、本書が示す問いは、「ムハンマドは本当は何を伝えたか?」ということであり、ムハンマドという預言者の息遣いをまざまざまと知ることになる書籍だった。それはこの本の事実上の主人公であるモハンマド・アクラム・ナドウィー師という存在の重みでもあった。率直に思うのだが、もし私が彼のいるコミュニティに育ったなら彼のもとで静かなムスリムとなったかもしれない。
 本書の原題は「If the oceans were ink (もし海がインクであったとしても)」である。海ほどのあふれるインクを筆に充填しても神の御言葉を記すことはできないだろうという意味で、コーランに由来する。このことは同時に、コーランが普通の書籍という意味で書籍ではないという意味合いもあるだろう。
 本書は、一人の西洋現代女性が、正統師のもとでコーランを学ぶ一年の旅といった趣もある。その著者のカーラ・パワーは、結果的に言ってよいだろう、イスラムの文化や世界を専門に扱うアメリカ人ジャーナリストである。彼女はかつてオックスフォード大学イスラム研究センターでの同僚だったこともあがるモハンマド・アクラム・ナドウィー師のもとで、一年間コーランを読んでみようと決意した。その理由は本書にも記されているが、イスラムというものの原点を見つめなおすということだと、とりあえずしてよいだろう。
 他方、アクラム師は、イスラム教文化のあるインドの貧しい生まれ育ったイスラム教学徒である。幼くして天才的な才能を現したこともあり、英国教育も受け、コーランの文献学的研究者となり、傍ら、同地のコミュニティ指導者としての役割も果たしている人物である。彼の主要な研究成果は、現在では歴史に埋もれたかに見える女性イスラム学者・指導者を9000人近くも再発見することだった。もちろん、この話題も本書の面白さである。
 アクラム師の語るコーランの世界は、まったくの原典主義であり、近代的な批評観といったものは含まれていない。だが、彼の描き出すその原理主義は、イスラムの歴史のなかから生き生きとした女性像を示すように、現代の女性に対しても示唆的である。よく議論の話題となるスカーフなどはイスラムの教えとは無関係な中近東の文化にすぎないことをあっさりと示してしまう。いわゆるイスラム原理主義とはまったく逆の方向を示している面は多い。
 また、他面、いわゆるカルチュラル・スタディーズ的な、現代西洋の批評の文脈をも脱構築してしまうのである。文化的な活動をそれ自体の生態のなかで政治や権力から読み取ることは、イスラムの根源的な信仰からすれば、西洋主義の亜流であり、意味のない行為なのである。
 本書は一年の旅の記録のようでもあるが、こうした知的な興味深さの他に、終盤に向かって、特に二人の親の死についての話題などから、著者のカーラのなかに、ある信仰への渇きといら立ちのようなものが読み取れるようになり、そこに文学的な面白さも感じられる。本書のはじめから、彼女は自身が脱宗教的な世界で、かつ父親のオリエンタリズム趣味で育ったとし、また母はユダヤ人であるがフェミニスト学者であることを述べ、そこに一種の脱宗教的なアイデンティティを語っているのだが、実際のところ、薄くユダヤ人としてのアイデンティティの問いが潜んでくるようになる。この文脈の頂点は、長い付き合いでありながら、親交を深めるなかでアクラム師に自身がユダヤ人であることを告げるところだ。そして、母の死の姿もまたそこに重なっていく。
 おそらく彼女の内的な渇きは、ユダヤ人という存在がイスラム教とどう折り合っていくのか、その精神的なある調和を見出したいのだろう。もちろん、ユダヤ人ということは、単純な意味でのユダヤ教信仰ではない。むしろ、本書で論じられるような、同性愛者の社会的な許容への情熱がもつ脱宗教性に近い宗教性の何かである。
 本書には結末はない。彼女のそうした覆われた精神の渇きは、ある意味で、良い意味でと言うべきだが、中断されていく。そのことは、おそらく私たちのコミュニティが一人のアクラム師を持たないことだとも言えるだろう(いや隠れているのかもしれないが)。むしろ、この問いと渇きの示すことは、信仰の現れとしての人の生き方の姿である。生きたムハンマドの姿を示すアクラム師の活動のなかにある。より希望的に言えば、私たちの世界はなお多くのアクラム師を持つようになるだろう。アクラム師が言うように、本当のジハードはそのそうした世界のあとまで時を待つものだろう。
 
 

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