[書評] ハーバード大学は「音楽」で人を育てる 21世紀の教養を創るアメリカのリベラル・アーツ教育(菅野恵理子)
「リベラル・アーツ」とは何かというか、自分がたまたまそうした大学教育を受けてきたこともあり、その体験者の内側の思いを自著にも記したものだが、ひとつ、もどかしい思いも残った。リベラル・アーツと西洋音楽との関わりである。
この点については、cakesの連載で森有正や「のだめのカンタービレ」について扱ったおりにもいろいろ考えていた。簡単に言えば、「リベラル・アーツ」には音楽教育が不可欠なのではないか、ということだ。だが、さてそれをどう表現したものだろうか。それ以前にそれについてどう記したらよいのだろうか。
個人的なことだが加えて今年は、「ニーベルングの指環」に取り組む過程から、西洋における教養と音楽の関係も一段自分なりの理解が深まり、西欧におけるリベラル・アーツの美しい姿が見えてくるように思えた。
その部分も簡単に言えば、教養・知性というのは、音楽を深く愛する、ということに関連している。
ただ、ここに微妙な陥穽のようなものがある。一つは「音楽」が何を意味しているか。もう一つは、それは音楽教育とどう違うのかである。
ハーバード大学は 「音楽」で人を育てる 21世紀の教養を創る アメリカのリベラル・アーツ教育 |
本書は、書名からもわかるように、いちおう「ハーバード大学は音楽で人を育てる」ということでもあり、実際にハーバード大学など米国の大学の例が挙げられている。これには2つの側面がある。音楽を深く愛することで教養人の教養が豊かなものとなり、また企業人であれ社会人として豊かに参加できるようになるということ。もう一面は、従来の音楽教育をリベラル・アーツの枠組みのなかで補充していくという面である。
されら加えるとすれば、音楽というとき、西洋音楽という部分と、普遍的な音楽活動をどう捉えるという側面もある。こうした多面性は、本書では意図的な面もあるだろうし、実態に即したせいもあるだろうが、区分けされているわけではない。
いずれにしても、音楽とリベラル・アーツの現状については、「第1章 音楽<も>学ぶ-教養としての音楽教育」「第2章 音楽<を>学ぶ-大学でも専門家が育つ」「第3章 音楽を<広げる>-社会の中での大学院の新しい使命」などに最新の例を含めて詳しく書かれている。
読みながら個人的に連想することがあった。本書には含まれていないが、私が好きな現代ピアニストであるジョナサン・ビスによるネット講座(参照)のネット講座である。これを学ぶ人が多い。
また、METのオペラも従来のオペラハウス的な経営から、METライブビューイングを見るとわかるように、教養講座的な側面が強くなってきている。そもそもオペラを深く理解するというのは、音楽・声楽はもとより、時代様式や時代背景など、総合的な教養・知性を必要とするものだ。
METについて言えば、なによりそこに集う人々が実にオペラを愛する人々の豊かな情景も伝えていることが好ましい。この雰囲気は単にオペラを愛する、または音楽を愛するというより、大学のリベラル・アーツで学んだ音楽愛好をその人生のなかで享受していくように見える。
日本も西洋文明化された市民社会としてもちろん、音楽活動は盛んだが、それでもどちらかというと、西欧音楽やオペラはハイソな趣味か、特定の趣味のジャンルのようにもまだ見える。本書も、出版社の性質もあってか音楽教育や音楽産業の文脈で受け入れられていくようにも思える。私の誤解かもしれないが、いわゆる「音楽」という世界に閉じてしまってはもったいという思いがする。
Beethoven's Shadow |
本書はいくつも例を挙げているが、音楽という教養は、市民社会を形成するかなり上質な手段である。市民社会と音楽はもしかすると抽象的に分離できないものかもしれないとさえ思う。
本書は読みにくい本ではないが読みやすいとも言えないかもしれない。また、音楽教育という側面が強調されているきらいはあるが、それでも、教養・知性における音楽を学ぶことの意義がきちんと描かれているので、多くの人に一読を勧めたい。知性・教養は読書リストにチェックマークをつけていくことではないのである。
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