ドキュメンタリー『ワーグナーとユダヤ人のわたし』
気がつくと丸一か月ブログを留守にしまった。その間、ツイッターはやっているので、それなりに私に気を払っているかたは私が健在であることはご存じだったと思う(ありがとう!)。だが、はて、ネットでは自分は「ブロガー」と名乗っているのに(まあ一応ね)、この体たらくはいかがなものかなと自分を思う。率直に言うとこの間、さほど忙しかったわけでもないが、ブログを書く気分がしなかった。それも考えてみると、普通の人はそもそもブログなんていうものを書かないのだから、ようやく普通の人になったのかもしれない。書くネタがないわけでもない。本とかも読んでいる。ただ、個々に思うと、書く気がしないなという感じは強かった。ごたごた言ったが、さて、何かとりあえず書こうかと思いついたのが、この間に見たドキュメンタリー『ワーグナーとユダヤ人のわたし』(参照)である。
Wagner & Me [DVD] |
話がまいどまどろこしいが、このブログに年頭に書いたか忘れたが(検索すればよいのだが)、今年の目標は『ニーベルングの指環』を通して見ることだった(ピアノはすっぱり諦めた)。もちろん、と言ってよいが、オペラハウスで、ではない。まあ、そもそもそうはやってないよね、というか今年は『ラインの黄金』をやっていたが。行くか悩んだけど。
Der Ring Des Nibelungen Metropolitan Opera |
わかっているのだが、とっつきにくい理由はいろいろある。ごく簡単にいうと基礎知識が足りないというのがある。そういうわけで、それなりに組織的に『ニーベルングの指環』の学習を始めた。その成果みたいのをブログにうだうだ書いてもいいのだが、またいずれ。というか、もし機会があれば一冊本にまとめたいくらいの話はある。禿げについての話に含めて一冊本を書くくらい。
で、どうなったか。それなりに『ニーベルングの指環』の基礎知識もついた。が、基礎知識の森のなかに迷い込んで出られなくなってしまった。
どうも当初の話題から反れそうだが、そうしたなかで、ワーグナーって何だ?という、このドキュメンタリーの問題に再びぶつかったのである。簡単にいえば、ワーグナーにおける反ユダヤ主義であり、広義には歴史問題である。
迷ったあげくの出口は、意外にも別のオペラだった。コルンゴルトの『死の都』であった。このオペラについては、文芸批評的に扱いたいという思いが以前からあって、いずれcakesのほうに書くつもりだったが、組織的な読解はやっていなかった。が、それに着手した。すでに初原稿は上がっているので、いずれcakesで発表するが、それをやりながら、『ニーベルングの指環』の基礎学習がけっこう生きているのに自分でも驚いた。音楽の感性・感覚がだいぶ変わっていたというのがあった。ついでに言うと、それまで小林秀雄的なモーツアルトやブラームス的な音楽の世界から、ふっと突き抜けた感じもあった。
Der Ring Des Nibelungen Deutsches Nationaltheater und Staatskapelle Weimar |
ので、ようやく『ワーグナーとユダヤ人の私』を見た。どういうドキュメンタリーかはNHKの解説がわかりやすい。
イギリスの著名な番組プレゼンターで作家のスティーブン・フライはワーグナーの音楽に魅了されてきた。だが同時に、家族をホロコーストで亡くしている彼にとって、ヒトラーがワーグナーを深く信奉していたという事実が心に刺さったトゲとなっていた。フライはワーグナーの足跡をたどり、偉大な音楽と反ユダヤ主義という相入れない事実に折り合いをつけようと試みる。2013年はワーグナー生誕200年。旅するフライの目を通して今なお世界中のオペラファンをとりこにする芸術家の人生と創造性に迫る。
そういう話で、実際それ以上ではないのだが、フライのワーグナーへの心酔ふりが、どことなく子供っぽいのである。興奮のようすがとくに。
旅の始まりは、ワーグナーが自身の作品の上演のために建設したバイロイト祝祭劇場。毎年恒例の音楽祭の準備が進む舞台裏で、ワーグナーの魅力を最大限に引き出す劇場の秘密が明かされる。また、ワーグナーのかつての邸宅では彼自身のピアノで“トリスタンコード”を演奏して大興奮!
フライはワグネリアンであるが、いわゆる、なんだか難しいなあ、ややこしいなあ、ちょっと距離おきたいな的な、ワグネリアンではまったくない。フライからは「僕はワーグナーの音楽が大好きなんだよ」というのが、なんというかすっぴんで出てくるのである。面食らうほどである。こんなにナイーブでいいのだろうかというくらいである。もちろん、番組の構成上、ナチの問題は出てくるし、主題ではある。そのあたりの、ドキュメンタリーの作りが、なんとも微妙に面白い。
そういえばこの間、ネットでは「反知性主義」が話題になっていたが、私は知識人でもないし、反知性主義に関心もないのだが、フライの態度は、自然にこうした反知性主義のフレームワークをやすやすと超えていた。むしろ、そのことが、ちょっと強い言い方だが、私には衝撃的だった。どう言ったものか。近年私は「焦点化」という言葉をよく使うようになったが、「問題」は焦点化の必然産物であるということが批判されるべきだろうということである。端折るのだが、ようするに、そういうフレームワークで見るから問題が問題化するだけで、見方を変えれば問題はない。別の言い方をすれば、問題化のために焦点化している限り、問題は解決できない。いやもうちょっと例を挙げると、例えばこの間、子宮頸がんワクチンの話題もネットで盛んだったが、この問題の、状況的な問題は、まさにこのワクチンの問題だが、ネットでの問題化の枠組みは「ワクチン」という一般論であることが多かった。そういう「一般的なワクチン是非」の焦点化と枠組みを設定したら、現在の状況性は見えなくなる。まあ、そういうこと(このワクチン特有性。結果的な特有性ではなく)。
で、ワーグナーにおけるユダヤ人問題だが、これも「反ユダヤ主義」や「歴史問題」という枠組みのなかで見るかぎり、所定の議論のセットが用意されて修辞的なかまびすしさが持ち上がるだけで終わる。いや、もうこの手の、まいどこれですかの騒ぎはうんざりする。
フライはというと、そこをまさに彼自身の自分というものに上手に引きつけて、自己を非知的に大衆的でもありながら解体しつつ、上手に提示してみせていた。つまり、いわゆる普通の娯楽・教養番組としても成立させていた。そもそも原題は『Wagner and Me』であって「ユダヤ人の」ということではないのである。邦題化の意図はわかるが、そこにフライの意図の上手な仕込み方は反映されていない。
もちろん、反ユダヤ主義とワーグナー音楽という問題が曖昧されているわけではない。
最後に、アウシュビッツ収容所に捕らえられ、オーケストラでチェロ奏者をしていたユダヤ人女性に会いに行ったフライは、バイロイトの客席でヒトラーと同じようにワーグナーの音楽を聴こうとする自分はユダヤ人として間違っているのだろうかと尋ねるが・・・。
この女性は、『チェロを弾く少女』の著者アニタ・ラスカー・ウォルフィッシュである。彼女の対話もとても興味深かった。ある意味素朴に、ワーグナーの音楽と普通に他の音楽と並列させて、上手に、政治的なるものを解体させていた。考えようによっては、アーレントの取り組み方に似ている。
チェロを弾く少女 アニタ―アウシュヴィッツを 生き抜いた女性の手記 |
そこは背理法的にいえば、個人がどう社会に接するという問題である。しいてその内側の芸術性とナチズムを問うなら、フライがこのドキュメンタリーで例証してたように、現代演出という批評的な再・創造のなかで問われるべきものだろう。
つまり……そう言ってみたいのだが……すべて、オペラ(楽劇)というものの、本質的な開示性のなかで問われるべきものだろう。芸術というものの本来的な開示性からそれた哲学的や政治学的めかした修辞はむしろ焦点化の擬制の産物なのである。だからこそ、そこにはフライのようなナイーブなアプローチも許されるべきだし、むしろ積極的に許されていいのだろう。
そこは、静かに強いメッセージだったし、フライという人の強さを覚えた。ユダヤ人の、逆説的な意味でだが、強さでもある。
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