[書評] セラピスト(最相葉月)
「積ん読」という言葉は英語にはないらしいという話題を先日見かけ、いや、英米人でも、未読の本を積んでおくことはあるだろうと思い、いやいや、「積ん読」というのはあれで、未読でもない、一種の読書形態なんだよなと思い返し、そして、そういえば、と積ん読山から既読山に目を移して、『セラピスト(最相葉月)』(参照)を見かけ、うーんと呻ってしばし。
何を思ったかというと、ブログに書こうかと思いつつ、まだ書いてないのだった。こういう本はなんというのだろか。「未ブログ読」だろうか。
セラピスト (最相葉月) |
と、ここで余談だが、私は『絶対音感』も『星新一』も既読である。考えてみると、このブログでは書いたことがない。と、奇妙な戸惑い感があるのは、『星新一』については、cakesの連載のほうで触れたからだ(参照)。これは労作だと思った。というあたりで、最相葉月について言及すべきか、また戸惑う。
うだうだした話を書いているのには理由があって、本書は、最相葉月の「カミングアウト」の本でもあり、そのことが本書や彼女の仕事について、なんとも言いいがたい微妙な陰影を感じさせるからである。どう言ったらいいものか。
自由連想のように言ってみる。「カミングアウト」と言っていいものかもためらうが。
個人的なことを書くことをお許し願いたい。私はずいぶん前から、自分がなんらかの精神的な病を抱えていることを自覚していた。ときどき風景が止まって見える。睡魔が襲う。重いときには、テレビのお笑い番組で笑えず、毎朝毎晩読んでいた新聞を読めなくなる。(中略)物事の判断力が鈍り、わけもなく涙がこぼれる。このままでは死ぬしかないと思い、首をつろうとしたこともあった。
率直にいうと、そんなこと誰でもある。ないよ、という人もいるのは知っているが。ようするにこれは、まずは、自己認識の問題ではある。いや、それがどういう意味を持つかという問題であり、これは実は、先日読んだ中村うさぎ『他者という病』(参照)でも考えさせられた。かなり。
最相に戻る。で、彼女はどうしたか。「セラピスト」に行ったのである。が、その前にもひとつ、自己認識の問題に関連して重要なことがある。
この分野を取材し、専門機関でも学んでいたから、ある程度、それらの症状が何によるのかはわかる。しかし、私は自分にその診断が下ることを避けてきた。
理由はこれまで乗り越えられたからだというのだが、2012年の夏からそうもいかず、2013年に入ってある町医に行ったという。
で、どうか。いやその前に。本書の取材がいつから始まったのか、2008年と見てよいだろう。木村晴子への訪問である。そのきっかけは、その前年河合隼雄特集の雑誌で彼女の論文を読んだことらしい。本書の背景の時間はざっと5年の日々とまず見てよいだろう。
さて最相は仕事とプライベートは分けるということで、取材で知った「セラピスト」は避け、ネットの口コミで選んだ町医に行った。診断は、双極性障害Ⅱ型。DSMを単純に適用すると鬱病のはずだろうと彼女は思っている。
私はこうした過程を見て、率直な思いが浮かぶ。表現はよくないのだが、「ああ、それが病気だ」と思ったのである。付け足すと、「私と同じだな」ということでの「病気」である。どういうことか。
自分で診断が付くのである。そして「セラピスト」の考えがだいたい透けて見えるのである。別に相手のレベルがどうかと判断しているわけではない。
そこまで言えるのか? もちろん、言えるわけもないのだが、こうした場合、自分の診断が納得できるというのが要点で、彼女でもそのとおりになっている。「このような取材をしている最中に自分の病名を知ることになろうとは、まったく想定外の展開だった」とあるが、つまり、それで納得できたということであり、この無意識の全体構図がおそらく本書の全体を薄く覆っている。自分でうまく表現できたとも思えないが、つまり、これが自己認識の問題ということの意味である。
もうちょっと言う。私もこの手の事は結果的に詳しい。で、どうかというと、私の場合は、まず精神的な問題としては医師のもとには行かないだろう。個別の身体症状についてそれに適合した医師に向かい、その結果、心療内科なりが勧められたら検討するだろう。
別の言い方をすれば、心の問題であれば、まず心の問題としては精神科医ではなく「セラピスト」を探すだろう。
私は何を言っているかというと、医療としての精神とは、単純に言えば、脳の疾患だが、心の病とは脳の疾患というより、脳機能の疾患、つまり生き方の問題だろうと思うからだ。
というか、それが精神分析学やロジャーズ的カウンセリングにつながり、医療とはうまく結びついていない。……ということを私は知っているからだ。いや、これは逆説として私は語っているのである。つまり、そうした心の動きがすでに「病気」なんだと。
少し、この、「私」語りを本書から離して、本書に戻ると、その風景からも興味深い。
三分療法、という言葉があるように、決してこれは珍しいことではない。私は現在の主治医に会う前に都内で二人の精神科医に受診したことがあったが、どちらも医師も訴えにじっと耳を傾けることなく、こちらの顔もちらりと見ただけでパソコン画面に目を移し、簡単な質問を二つ、三つする程度だった。家族構成も聞かれないし、仕事の内容も聞かれない。眠れないなら睡眠導入薬、過呼吸なら精神安定剤。症状に応じた薬がその都度処方されるだけで、具合が悪くなった理由を訊ねられることはなかった。(後略)
ということなのである。これは、ひどい、のではない。
理由を問わないことが精神科診療の標準であること知ったのはこの取材を初めてからである。
批判を意図したいわけではないが、実は、この「無知」は本書の基底にある。本書は、大半は、河合隼雄と中井久夫についてのノンフィクションとなっている。中井久夫は精神科医であるが、上の文脈の精神科医ではないし、まして河合隼雄はユング心理学という一種の精神分析学にある。そして、この二人に微妙に対置したかたちで、カール・ロジャーズが問われている。彼女の町医とは異なるのである。つまり、普通の悩める人が行く町医はそうではない。河合隼雄と中井久夫もいない。
とするなら、本来の本書のテーマとしては、河合隼雄・中井久夫・カール・ロジャーズに対する、DSM的な精神科医の現状であってもよかったはずだが、ここは微妙に混乱しているかに見える。そしてその部分は著者の現在にも関連している。
好意的なアイロニーとして言いたいのだが、本書は、その「混乱」を通して、日本人の現在の心の病の状況を、結果的に、上手に描き出してしまっている。
ふう、溜息が出るが、そういうことだ。もうちょっと余談を言えば、私語りをすれば、ということだが、私の場合は、本書にも出てくる木村敏から本書には出ないフリッツ・パールズを経て、精神科医の方向性からは離れた。そして、さらに言うなら、私自身がカール・ロジャーズ的なカウンセリングで青春の一部を乗り越えたことは、自著に記した。
そうした、ごたごたした部分を除いても、本書は興味深いものではあった。なかでも、「心の問題」が時代ともに変遷するくだりである。
しかし、この解離性障害もやがて流行が去り、とくに典型的な多重人格のクライエントはあまり見かけなくなる。
代わって、今世紀に入って目立つようになったのが、発達障害である。
たぶん、そうなのだろう。
うざく私語り的にいうなら、私のように1970年代に青年期を過ごした人間は、世界が高度資本主義に向かうのに対して、アジア的な心性や近代社会的な心性と人格(パーソナリティ)の形成に大きな齟齬があったものだが、そうしたその前高度資本主義的な部分の根が、高度資本主義の逆説的なある種結果としての自然性として抽出されれば、生得的な障害としての発達障害となるのは当然だろうと思われる。そしておそらく現代の高度資本主義は、SNSの精神病理的な傾向に対応するように、発達障害を高度資本主義への憎悪として克服しようとしているのだろう。(という構図で私にもその憎悪が向けられるのはこうした同一の精神構図なのだろう。)
さて、エントリーも終わり。本来なら、「書評」であるなら、河合隼雄・中井久夫・カール・ロジャーズについて本書というノンフィクションがどう見たかを扱うべきなのだろう。が、まあ、本書自体がホットな問題の書として出来ちゃっているなあというのに、自分がホットに対応しちゃっているというわけですよ。でも、たぶん、本書の価値はそちらにあるだろう。
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