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2015.09.20

[書評] スーパーヴィジョンのパワーゲーム ―― 心理療法家訓練における影響力,カルト,洗脳 (リチャード・ローボルト)

 社会に読まれるべき内容でありながら、専門書ゆえに読みづらいという書籍がある。あるいはすべての専門書が本来はそうであるのかもしれない。そこで社会と専門書の間を取り持つような本、あるいは本のようなものが必要となり、書かれることがある。

cover
スーパーヴィジョンのパワーゲーム
心理療法家訓練における
影響力, カルト, 洗脳
 専門書の著者に新書のような体裁で執筆することを編集者が頼むことが多いだろう。そしてそれらのいくつかは成功するが、多数は失敗する。と、もったいぶった言い方をしたが、「まあ、それはそういうものだ」ということでしかない。だが、起点にあった「社会に読まれるべき内容」はどうなるのか。取り残されてよいわけはない。本書を読みながら、この内容は実は「社会に読まれるべき内容」なのだという思いが、先見的な失敗を予想するとき、たとえば読者としての私は、さて、何を言ったらいいのだろうか、と思う。
 申し訳ない、散発的に思うことを書いてみたい。本書は何が書かれているのか? なぜそれが「社会に読まれるべき内容」なのか?
 何が書かれているのか? 本書は論集であるが、私が全体として見たところでは、3つの層が感じられる。(1) 精神分析が持つ専門的な問題、(2) 社会を組織する師弟関係の本質的な危機の問題、(3) 現代社会の「心の問題」を受け取る側のもっとも性急な課題。その3層は、第3層から順に「社会に読まれるべき内容」にも関連している。
 3層目、現代社会の「心の問題」を受け取る側のもっとも性急な課題、というのは、カウンセラーやセラピスト、相談員、といった「心の問題」の専門家のあり方の問題である。同時に、その問題を介して、「心の問題」を抱えた一般の社会の人に影響する。
 「心の問題」を扱う技術は、プログラミング技術、調理技術、翻訳技術といった、技能教授とは異なり、そのセラピストの心も危機にさらす側面がある。そこでは「先生」「師匠」といった指導が求められるのだが、その先生が先生たる理由は、個別技能を超える部分において、心の権威となって現れてしまう問題である。疑似宗教的な、教祖と信者の関係が形成されやすい。
 本書表題「スーパーヴィジョンのパワーゲーム」は、ゆえに「管理・指導における心の権力支配の悪弊」と訳してよいだろう、と思う。というか、私はまずそう読んだ。ゆえに副題の「心理療法家訓練における影響力,カルト,洗脳」と続くのもその理解によるものである。
 その点で言うなら、本書は、カウンセラーやセラピスト養成・維持のためにその専門集団のなかで求められる問題であり、宗教的な権力を解体しつつ、効果的に市民の心の問題に取り組むための技法が書かれている、と言ってよいだろう。実践的な書籍であり、特に、第3部はその実践面を扱っている。ただしそれらは試案として扱われ、プログラム的に扱っているわけではないので、そこでは実践面はまだまだ難しいかもしれない。
 言うまでもないが、カウンセラーやセラピストが、「先生や師匠との関係」に由来する、宗教・思想的な偏向があれば、心の問題を抱えた市民にそのまま悪影響をもたらす。この事は、カルト宗教やカルト的な政治団体の内部で、自然に行われていることでもある。その意味での、カルト的な洗脳とカウンセラーやセラピストの内面の関係については、本書の第1部で内省的に扱われている。
 おそらく本書の社会的な有効性の側面は、この三層目に集約されているし、その面でさらに「効果的なスーパーヴィジョン」という実践書が別途書かれてもよいだろう。実際、そうした書籍もある。
 しかし、と私は思う。本書の価値は、第2層とした「社会を組織する師弟関係の本質的な危機の問題」のほうが深い。私がここで言おうとしていることは、心の問題として切り出され、またカウンセラーやセラピストとして浮かび出されいない心的権力の関係が、実は日本社会のかなり隅々まで行き渡っていることである。
 例として、ネットで見聞きした程度で実態を知っているわけでもないので外しているかもしれないが、よく見かけた居酒屋経営にまつわる指導・精神論など、実態は、スーパーヴィジョンのパワーゲームの問題だっただろう。
 また日本社会では、英語教授法のようなシンプルな指導の領域ですら、同種の心的支配による指導法が見られる。ようするに、先生・師匠・指導員という人たちが、日本社会では実際には、擬似的な宗教を広げることで、雇用者や生徒を「洗脳」している。もちろん、日本社会に限定されるわけでもないが。
 この問題については、その先生・師匠・指導員にとって、パワーゲーム(精神権力の乱用)実践の自覚もない状態なので、より深刻な問題である。そしておそらくそれに対抗できるのは、同様に心の問題の専門家だろう。その点でも本書の知見は有効になるだろう。なかでも第6章の「密かな対人支配法」は重要な指摘に満ちている。痛ましいと言ってもいいかもしれない。
 本書で、私にとって最も興味深かったのは、第1層とした「精神分析が持つ専門的な問題」である。これは基本的にあるいは本質的に精神分析が持つ最大の問題だとも言えるだろう、と思う。どういうことか。
 精神分析は、昨今のネットレベルでの知的言説としては「非科学」「似非科学」に過ぎない。しかし、そんなことは取り分け言う意味もない程度のことである。精神分析とはそもそも、人の心の問題を扱う特殊な技能の分野であって、むしろ科学を超えている面がある、とまで言うと、冗談にしか聞こえなかっただろうが、近年DSMの問題が浮上し、反面、おもにこの10年間と言ってよいだろうが、人間の内省の基本構造を見つめていくなかで、むしろ精神分析の意義が問い直されている。その動向の全体像も、本書からは見渡せる。序論からもうかがわれる。

 精神分析は癒やしの歴史のなかで比類ない地位を占めている。精神分析は名声を求めた才能ある若い医師によって生み出され、ヒステリーの迅速な治療法として1890年代に舞台に登場した。やがてこの話すことによる治療という新しいやり方は伝統的な精神医学を時代遅れにする運動となり、21世紀の大衆文化の多くの側面を変容させた。しかし、抗うつ薬プロザックがもてはやされる現代では、精神医学は再び臨床と心理療法の激しい論戦の場に戻ってきた。精神分析にもはや主導権はないし、おそらくもう取り戻すことはないだろう。それでも精神分析は、プラトン的な意味での「対話」の内的な価値と、重要な治療形態として執拗に固執してきた。現代の精神分析は、いくぶん皮肉なことに、ついに本来の姿に戻りつつある。(後略)

 しかし、そこでの論点は二つに分かれるように思われる。一つは、主に米国における精神分析諸派間での調整の問題、あるいは職業としての分析家が「本来の姿に戻りつつある」ことの意義である。残念ながら、この部分については、市民の側にとって関心が持てるものは少ない。
 もう一つは、「本来の姿に戻りつつある」なかで、創始者のフロイトが抱えた問題が再発見されることである。
 ここが私にとってはもっとも興味深い点ではあるが、本書が論集という性格もあり、全体像のなかではうまく浮かび上がってこないように思えた。
 端的に言えば、いや、端的とは言えないかもしれないが、主に「転移」とされる自我防衛機制のなかで、前エディプス期の心性が、クライアントと分析家の関係のなかで再経験される問題である。この再経験のなかで二者にとってパワーゲームへの誘惑が必然的に生じるし、フロイトはそれが生じることを治療の契機ともした。このため、その扱いこそが、精神分析の最大の技術となっている。
 このことは、本書からは明瞭には読み取れないのだが、背後にある本質的な問題意識になっていると、私は読んだ。特に、これがラカン派の動向にも深く関連していて、本書では、ラカンとラカン派についての考察となっている第8章「制度のクローン化」に詳しい。ただし、この論文では「転移」が焦点化されているわけではない。
 本書の範囲からそれるが、スーパーヴィジョンのパワーゲームが社会を覆うとき、そこに歪められた押し込められた人間の内面は、独自の「転移」のようなしかし欺瞞的な人間関係を欲してしまい、心の病理を強化してしまう……ように私には思われる。SNSを介したどろっとした監視的な親近感と憎悪感や、対抗的・支配的な恋愛と性の関係とその忌避は、そうした問題の系から導かれたものではないだろうか。
 しかし難しいのは、フロイト的な意味での「治療」、つまり、転移の再認識を経て悲劇的な近代自我を再形成するということは、もはや現代の社会に適合してはいない。
 現代では、傷ついた心には、ある種の暖かなコミュニティが必要とされるだろうし、それは本書の前提なっているようにも読めた。と、同時にそのコミュニティもまたカルト的な問題を生むため、本書の問題意識が浮かび上がっている。そうした部分は、日本はまだ明瞭には見えてこないように思われる。見えてこないから、SNS的な陥穽となる悪循環か、あるいは、暖かなコミュニティを目指しつつ共同の憎悪対象の幻想を社会に撒く奇妙な衝動のようにもなるのだろうか。
 本書は論集なので、細部で興味深い知見が満ちている。私の場合は、どうしてもフロイト派に関心を向けてしまうが、読む人によって受け取る部分は異なるだろう。それでも、スーパーヴィジョンのもつ疑似宗教的な問題意識の全体像は明瞭になっている。
 

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