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2015.09.21

[書評] ナグネ――中国朝鮮族の友と日本(最相葉月)

 読まれるのなら、そして「ナグネ」という朝鮮語の意味を知らないのなら、その知らないままに読まれるといいと思う。ネタバレということでもないが、全体を読み終えたときに知るその深い意味合いが、本書のもっとも深いメッセージであろうと思うからだ。おそらく本書は、副題にあるように、「中国朝鮮族の友と日本」として、つまり、友情と日本、という二つの交点から読まれるだろうし、そのことを著者も意図しているだろう。だが、結果的に描かれているものは、人間とは何かという問いかけである。

cover
ナグネ
中国朝鮮族の
友と日本
(岩波新書)
 書籍として描かれているのを見れば、副題が暗示するように最相葉月の「中国朝鮮族の友」であり、その友達との友情なのだが、そこに現れてくるのは「日本」とは何かという問いかけであり、それは友情のある違和感から浮かび上がる。
 「中国朝鮮族の友」は、1999年に来日していた19歳の中国朝鮮族の女性である。生まれはだから1980年であり、今年は35歳になる。対して、最相は1963年の生まれ、1999年に35歳だった。すでに彼女は『絶対音感』で有名なノンフィクションライターになり、『青いバラ』の取材中だった。二人の間には、16歳の歳差があり、物語はそして16年の物語になる。
 出会いは――最相によると――偶然だった。西武園ドームでのバラの展示会の帰り、西武新宿線の小平駅のホームで、その19歳の女性に「これは高田馬場にいきますか」と問われ、その電車に同行し、知り合い、来日理由や、朝鮮族、地下教会のクリスチャンという話を聞く。最相は支援の思いもあって、彼女に執筆資料の整理のアルバイトを頼み、知り合うことになった。すぐ、日本での保証人にもなったという。そこから16年の、最相から見た、彼女の日々が綴られている。この、友情ということに偽りはないのだが、友人でありながら、外国人だからということでもなく、他者としての関わりが、本書の面白さの一つである。結果的に最相という人を反照してもいるし、その反照のなかで、読者の大半である日本人に日本人であることが問われる。
 本書は、2014年1月、最相がその中国朝鮮族の女性と一緒に、故地である哈爾浜(ハルビン)への旅行記から、やや唐突に始まる。その中で、小平駅での出会いなど経緯も物語られるのだが、第一章は「中国朝鮮族の女性」という存在を支える歴史風土、そしてその関わりでの日本の歴史に主軸が置かれる。そこは岩波新書らしい物語だなという印象で、それなりの完結性を持っている。その意味で、そこで終わりの物語でもよかったのかもしれないが、第二章から16年の友情の内実を通して、一章の背景がさらに深められる。これが非常に面白い。最相がどのように他者と関わってよいのだろうかという、そのためらいの内省が、結果的に「他者」というものを描き出し、凡百の熱い国際友情のノンフィクションをきれいに超えていく。皮肉に取らないでほしいのだが、そうした他者の目から見える人間像は、別の複数の物語の想像の余地を残す。そのある不確かさこそ、人間存在や世界というものを豊かに描き出す。
 なぜ本書が描かれたかも興味深い。結論を言えば、最相の意識のなかの「他者」意識と「友情」の関わりの、微妙な齟齬が産む「負い目」の感覚の相互的なやりとりが基点になっている。いや、そもそも友情というのは、そうした「負い目」に本質を持つものなだということが、現代の日本では失われやすいのかもしれないなか、この奇妙な感覚が、物語を引き寄せるところは、とても文学的だとも言える。
 正確な意味では、本書はノンフィクションではない。対象への配慮が必要なこともあり、「本書では彼女とその家族の名前や実家の所在地についてはすべて仮名を用いた」とある。当然であるが、その仮名であることは物語にもフィクションの要素を結果的に混ぜざるを得ない。これは批判ではない。フィクションであっても構わないほどに強固なリアリティは描かれている。
 主人公は、「具恩恵」と呼ばれる。仮名だろうがおそらくそこにもなんらかのリアリティは保証されている。彼女は「中国朝鮮族」なのだが、「中国朝鮮族」とは何か? これが、本書の岩波新書的な主題でもある。結論を言えば、日本が関わった戦争の結果と言ってよいだろう、現在の北朝鮮の地域から現在の中国に終われた人々であり、彼女の祖父母世代は、普通に朝鮮半島の住民であり、つまり、「日本人」だった。恩恵の父は、1947年に哈爾浜で生まれているから、在中国二世になるかもしれず、そのあたりが、中国政府的には「中国朝鮮族」とする根拠だろう。それはその面では、普通に「中国人」でもある。当然、韓国政府としては別の対応もあり、そのことも本書の後半に興味深く説明されている。日本では、「在日」として異郷に出た朝鮮人が焦点化されるが、朝鮮人は中国やソ連などにも出て行かざるをえない近代の歴史を抱えている。
 関連していえば、彼らの居住域は満州族なのだが、満州族はすでに満州語を失っている。他面、朝鮮族はそこまでにはなっていない。このことは奇妙な逆説を生み出す。

 つまり日本占領によって日本語を強制された朝鮮人は、戦後、中国朝鮮族になった当初は「満州国」の延長戦で日本語を学ぶしかなかったが、文革終了後はその歴史や思想性をそぎ落とし、朝鮮族コミュニティと朝鮮族の民族文化を守るための道具として、自らの意志で日本語を選び取ったのである。日本語と朝鮮語では文法や単語に類似性があることや、漢族には日本語ができる人がほとんどいないということも、朝鮮族が他の民族と異なるスペシャリティとして日本語の価値を見いだした理由だった。

 本書では指摘されていないが、このことは日本でも密かに知られていたようだ。

 国際交流基金の委託で行われた初めての日本語学習者数調査(一九九〇)によれば、中国における約二十万人の日本語学習者の内、その三割が朝鮮族だったという。

 おそらく、中国人に対する日本語教育の補助は、日本の戦後処理の一環の意味合いもあったのだろう。
 本書は、岩波新書らしい枠組みでは、「中国朝鮮族の友」を描くだけで十分だとも言えるのだが、先も触れたように、友情と他者は、「具恩恵」という女性の強烈な個性を描き出している。強烈と言ってもいいのだが、その、凡庸な日本人の感受のなかに、こういうとよくないのだが、「こういう人知ってる」という「あるある感」がある。この強烈性は、彼女のキリスト教信仰も関連しているのだが(長谷川町子の姉のように)、日本人だと、ついキリスト教をその宗派や集団の特性として見がちだが、ここに描かれているキリスト教はそうしたものを超えて、キリスト教というもののもっとも原形を結果的に描き出している。
 くだくだ自分なりの感想というか解説めいたものを書いたが、しかし、一言でいうなら、この本はお読みなさい、ということに尽きる。
 
 

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