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2015.08.27

20年後日本の保健医療はどうなるか(保険医療2035)

 日本の社会にとって何が最大の問題かということは、それ自体を選び出すための方法論が必要になる。当面に絞れば、おそらく最大の問題はリスクに対する社会のリジリエンスだろうと私は思うが、その議論のためには、リスクとは何か、なぜリジリエンスが問われるのか、といった前提が問われる。またそれを踏まえたあと、リジリエンスを重視するということはどういうことか、という議論も続く。結論だけを言えば、広義のエネルギー問題だとも言えるだろうが。
 そうした方法論を抜きにして、各人が日本の社会にとって何が最大の問題か、という議論はあってよいだろう。憲法9条を守ることが最大の課題だという論者がいてもよい。私はというとその次元で言うなら、日本の保健医療の未来ではないかと思う。そこはこの文脈では恣意的な問題意識にはなる。
 とりあえずその限定で見て行く。危機は、単純な話、保健医療の破綻である。必ず破綻すると言えるかはわからない。破綻する危険性はあるのかという議論はあると言ってよい。そしてその理由の筆頭は、少子高齢化であることはほぼ自明だろう。
 少子という点では、保健医療を支えるお金を生み出す世代の縮小である。高齢化という点では、高齢者が史上かつてないまでに膨れることに加え、その一人一人にかかる保険費用が他世代よりも大きくなることだ。実際のところ、生涯にかける保健医療の大半は、死期近い数年に費やされる。
 こうした状況を単純に言えば、これからの日本は高齢者の健康を維持するために、若い勤労世代に実質重税の負担がかかることになる。
 その分、若い世代の可処分所得は減少し、消費が低迷することから逆に需要も減少し、またこの分野に若い労働力が投入されるため、日本全体の生産生も縮小するだろう。もちろん、こうした側面だけ見れば、日本の未来の生産性の問題だとも言える。
 話を保健医療に戻して、その焦点である医療給付費を取り上げると、その急激な増加は予想される。政府推計だと、2011年に約34兆円だった医療給付費は2025年度に約53兆円まで増えるとしている(参照)。これを多いと見るか問題のない増加と見るかだが、多いと見てよいだろう。
 ここでもう1つ問題がある、少子高齢化の基調は変わらないが、2025年のその10年後の2035年後を考えると、別の様相が加わる。簡単に言えば、この年、日本の世代のなかでもっとも膨れていた団塊世代が死亡平均年齢に達する。ということは、急激に保健医療の必要性が減少に転じる可能性がある。膨大な医療体制を用意してもできたころには必要がなくなるかもしれない。遠い未来の話のようだが、20年前といえば1995年であることを思えば、20年後はそう遠い未来の話とも言えない。
 ここまでをまとめると、今後20年間の間に、保健医療はどうなるのかという問題は、その間の制度のための国民負担と、20年後の少子化した新常態日本における医療制度をどうするかという二面性がある。
 では実際、厚労省はどう考えているのか。少なくともそれが課題であることは意識され、「保健医療2035」というプロジェクトができている(参照)。そしてそのシンポジウムが先日あり、応募したら通ったので参加してみた。

cover
保険医療2035提言書
 どうだったか。私の印象からすると、私が想定していたような危機感というものはあまり感じられなかった。全体としては明るく、日本の保健医療は世界的にもすばらしいものなのでグローバル展開ができるといった話題がけっこうあった。なーんだ、心配することはないのか、という印象すらもった。そうであるかもしれない。
 シンポジウムにはプレス席があり、それなりに記者が埋まっていたので、その後報道があるだろうと思ったが、これが意外に少ない。私の見た範囲では大手メディアでは扱っていない。基本的に政府広報みたいなものだから、話題性がないと見なされたのかもしれない。
 そうしたなか、シンポジウムについて比較的詳しいのは、ハフィントンポスト「20年後に向けた「保健医療2035」--みんなでつくる社会システムへ」(参照)である。よくまとまっているが、朝日新聞報道がよくやる「角度をつける」が弱いせいか、問題意識の誘導がなく、その分わかりにくい印象はあるかもしれない。
 シンポジウムの全体の印象でいうと、そのコアの人々にしてみると、「徹底的に議論して提言書にまとめたのでそれを読んでください」という感じで、どっちかというと、語られていることは異なり、「ああ、終わった」感が強い。
 では、提言書(参照)を読めばいいかというと、これが読むとわかるが多様な意見が無難にまとめられていて、初めて読む人には雲を掴むような印象があるだろう。詳細に読むと、なるほどなあと思える点は多いのだが、それが実際の社会とどうコミュニケーションしているかは、理解しにくい。
 その象徴的な接点は、「かかりつけ医」と総合診療医だろう。先のハフィントンポスト報道でも取り上げられていた。

  提言書では、総合診療医の必要性についても強調された。これまでの医師のキャリア形成では、診療科ごとに特化した専門医の育成のみに焦点が当てられてきた。プライマリーケア(初期診療)を担い、幅広く患者や疾患全体を診られる総合診療医の育成は進んでこなかった。「(専門医中心だと)あらゆる臓器のさまざまな疾患を診られる医師が今の日本には絶対的に少ないので、極めて非効率だ。患者は、ドクターショッピングのように医療機関を次々と移らざるをえなくなる」(尾身氏)。
 だが、地域医療を支える医師や病院といった医療資源が限られる上、高齢化でニーズが高まる中で、総合診療医の必要性が増している。

 シンポジウムでは、会場とTwitter上から質問が投げかけられた。「総合診療医というが、なりたい人はいるのか?」という質問に対して、「総合診療医はだいぶ人気が出てきている。特に若いやる気のある医師でやりたい人は多い。しっかりとした位置付けがあれば増えてくると考えている」と厚生労働省保険局総務課企画官の榊原毅氏は言う。これまで専門医中心に医師の位置付けがされてきたが、総合診療医のポジションを確立するという政策が進んでいるという。

 だが、総合診療医ですべてを診るにも限界がある。慶應義塾大学教授の宮田裕章氏は、「総合診療を多岐にわたってやるのはクオリティをはかるのが難しいが、専門医チームとの連携やITの利活用で支えられるのではないかと現場で議論している。ひとりの総合診療医ですべてやるのではなく、職種間連携でチームで支えるということになる」と説明する。


 さらっと読めるようだが、かなり複雑な問題が含まれている。まず、現状日本の医療だが、「診療科ごとに特化した専門医の育成のみに焦点が当てられてきた」ということだが、これが事実上制度化していて、これはそもそも保健医療には向かない。
 また、「かかりつけ医」は実際上、総合診療医である必要があるが、ようするにそうした制度に日本の保健医療を改良するということで、シンポジウムの印象では、もうそれっきゃないでしょという既定事項っぽい。
 ここで、言うまでもないことだがと言っていいかよくわからないが、ここで問われているのは、実際には英国NHSの日本版である。そのあたりの関係、あるいは未来に向けての制度設計がどうなるかだが、私には明確には見えなかった。そもそも、NHSの話題はあまり出て来なかった。
 シンポジウムでは会場からの質問をツイッターも受け付けるということだが、WIFIの設備はなく、私が使っているドコモLTEは実際上死んでいた。2つほど質問ではない差し障りないつぶやきをしたがそれ以上は実際には無理だった。まあ、できたとしても、質問はしなかったかもしれない。
 取り上げられた質問のなかで比較的大きく取り上がられたのが、終末期医療の問題だった。この点はハフィントンポスト報道には見られない。他、m3.com「20年後の保健医療政策、国民的議論を」(参照)の報道では一言だけ触れられている。
 しかし医療制度の問題の核は、これは自著でも触れたのだが、寿命と健康寿命の差の問題であり、つまるところ、この差は、終末期医療の問題に収斂する。あるいはその隣接としての介護医療の問題ともなるだろう。
 この点はどうなるのだろうか。私は2035年にはこの世に生きていない可能性がかなり高い。自分がこれからどうこの国で死んでいくのかというのは、私にとっては具体的な関心でもある。
 この議論の枠組みで難しいのは、おそらく、終末期医療・介護医療というのは、いわゆる保健医療と異なる体系を持っているのではないかと思われる点だ。
 基本的に近代から現代にかけての医療というのは、病院を中心に戦争傷兵と感染症を対象に構成されてきた。つまり短期入院である。長期化することに制度的な利点は設けられていなかった。だが、これが日本では長期入院が常態化してきた。また、疾患の長期化が利益につながる製薬会社では医療制度に先んじてこの体制の時代から慢性疾患のブロックバスターに転換したが、これも実は、この数年でパラダイムが変わっている。これを受けて、日本国は別途AMEDの対応を打ち出している。これは別の話題だが。
 おそらく、疾患を中心とした医療体制と、終末期医療・介護医療は体制として分離しなければならないだろう。もちろん、その入り口は、総合診療医である「かかりつけ医」となるのだろうが。
 そのあたりの制度変化は必要上ははっきりとし、さらに進む合意はありそうに見えながら具体的な制度変化の様子は想像しがたい。今後工程表的なビジョンは提示されるだろうが(参照)。
 この点、シンポジウムで比較的さらっとした意見ではあったが気になることがあった。高知県では高齢者医療のピークが過ぎたこと、夕張市では医療制度が破綻して結果的に在宅医療(あるいは医療なし)になっているとのコメントである。それがそれほど深刻な問題でもないように受け取れた。
 それでふと気がついたのだが、終末期医療・介護医療はそれを問題として焦点化すれば問題だが、人は老いて死んでいく、という盛者必衰の理の流れで見れば、死は人の人生の普通の帰結なので、無問題とも言える。ああ、そういうことかなと、私は奇妙な脱力感は感じた。なんであれ、人は死ねば終わりだ。先日、これから日本の死亡統計項目に「路上」を加えないといけませんねというブラックジョークを聞いたが、路上死も普通の死となっていくのだろうし、それが人間というものかもしれない。
 今回のシンポジウムには、日本のメディアではさして関心が持たれなかったようだった。ネットでも話題を見かけない。そうしたなか、医療保険について、どういうふうに日本人の国民意識が形成されるのだろうか。
 
 

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