「戦争を知らない子供たち」という曲があったけど………
ツイッターを眺めていて、おやっ?と思うツイートを見かけた。なんというのか、隔世の感というのか、時代は変わるなあと思ったのである。まあ、僕もけっこう年を取ったなということでもある。ちょっとそんな感慨を書いてみたい。
該当のツイートなのだが、そのままベタに引用してもよいのだけど、発言者に特に思い入れはないし、ましてバッシングの意図はさらさらないので、そうした不用意な誤解を避けるという意味で、該当のツイートの内容だけを引用したい。そういう主旨なので引用先のリンクもあえて外しておきますよ。
さて、このツイート、どう思われるだろうか。
「戦争を知らない子供たち」という曲があったけど…戦争を知らずに育つとこういう政治家になるのかと安倍首相やその取巻き政治家を見て思う。戦争を知らなくても想像力があれば…と思っていたところにSEALDsを始めとする若者達が出てきた。想像力に創造力を持った新しい世代に期待する。
基本的なメッセージとして、「安倍首相やその取巻き政治家を見て」「戦争を知らずに育つとこういう政治家になるのか」という意見を持つ人がいても不思議ではないと思う。また、「SEALDsを始めとする若者達が」戦争について「想像力に創造力を持った新しい世代」として登場してきたことを頼もしく思うということについても、そういう意見の人もいるのだろうなと僕は思う。僕は世の中いろんな意見があればいいと思うので、そういうことには、ふーんというくらいな感想しかもたない。
でも気になったのは、「「戦争を知らない子供たち」という曲があったけど…戦争を知らずに育つとこういう政治家になるのか」という部分である。つまり、「戦争を知らない子供たち」は「安倍首相やその取巻き政治家」のようになるという考え方である。その文脈を捕捉すると、戦争を知らないから戦争肯定的な考えになるのだと、いうようなことだろうと理解してよいだろうと思う。というのも、文脈構造上「安倍首相やその取巻き政治家」は「SEALDsを始めとする若者達」に対立しているからである。
僕が気になったことだが、僕は「戦争を知らない子供たち」という曲をよく知って、しかもその時代によくギターを抱えて歌っていたので(コード進行がC-Em-F-G7というベタ)、こうしたツイートのとらえ方に、それは曲の意味合いと違うんだけどな、ということである。
「戦争を知らない子供たち」とはどういう歌だったか振り返ってみたい。
戦争が終わって僕等は生れた
戦争を知らずに僕等は育った
おとなになって歩き始める
平和の歌をくちずさみながら
僕等の名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ若すぎるからと許されないなら
髪の毛が長いと許されないなら
今の私に残っているのは
涙をこらえて歌うことだけさ
僕等の名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ青空が好きで花びらが好きで
いつでも笑顔のすてきな人なら
誰でも一緒に歩いてゆこうよ
きれいな夕日が輝く小道を
僕等の名前を覚えてほしい
戦争を知らない子供たちさ
戦争を知らない子供たちさ
重要なメッセージは、戦争を知らない子供が戦争の惨禍を知らなくても平和の歌を口ずさむ、平和を謳歌する、ということである。戦争を知らなければ平和がわからないというものではない。そういう世代の子供を世の中に認めさせたいということである。これはふと立ち止まって考えると、一つのイデオロギーでもある。
歌詞を振り返った時点で、すぐにわかることは、この歌の時代背景である。それは、当時、「戦争を経験したことのない若者・子供には戦争の悲惨さはわからないから、平和など理解できまい」という大人がいたということである。そうした大人への反発としう意味合いもこの歌にはある。僕はこの歌の時代を知っているのだけど、そういう大人がけっこういたのである。そうでない大人もいた。春風亭柳昇とか。
歌詞を振り返って、現代から見て興味深いのは、二番かもしれない。「若すぎるからと許されないなら」というのは、なにが禁止されていたのだろうか? 当時の大人はなにを禁止していたのだろう?
一つは継続する句「髪の毛が長いと許されないなら」である。つまり、ロングヘアーのことである。男子が長い髪をするのは許されないという時代であった。これに呼応する歌がある。吉田拓郎の1972年の「結婚しようよ」である。ここでは、「僕の髪が肩までのびて君と同じになったら約束どおり町の教会で結婚しようよ」と始まる。男の子が髪を伸ばすことが若ものらしい風俗であり、男女差別を打破するユニセックス的な志向でもあった。
「戦争を知らない子供たち」に戻る。その歌詞の先に「今の私に残っているのは涙をこらえて歌うことだけさ」とある。なぜ涙を堪えているのだろうか?
答えをいうと、その当時の大人たちに負けたからである。歌の文脈だけ読むと、「お前、髪を切れや」と親がいうのに屈して髪を切って泣いたということになる。が、もちろん、それは象徴である。なにの象徴かはあとで触れたい。
三番の「青空が好きで花びらが好きで」とあるが、これもそれだけ読むと凡庸だが、まず、この「花びら」だがジョージア・オキーフ的な女性器の隠語とかではなく、「フラワーチルドレン」のことだった。1967年の夏、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーに10万人近い、自由と平和を求める若者が集まったのだが、これがそう呼ばれた。この現象が世界中に広がり、日本にも広がった。それを意味している。
で、「青空」のほうだが、これは「悲しくてやりきれない」という歌に対応していた。
胸にしみる空のかがやき
今日も遠くながめ涙をながす
悲しくて悲しくて
とてもやりきれない
このやるせないモヤモヤを
だれかに告げようか
なんでその対応が言えるのか? 実は、当時を知る人にとっては、花びらがフラワーチルドレンであるのがわかるように当然のことだった。後で触れるフォークルのもち歌だからである。
「悲しくてやりきれない」という歌の詩はサトウハチローである。彼についてもいろいろ述べてみたいのだが、1903年(明治36年)とけっこうな時代の人である。それがこの時代のフォークソングとして蘇った。作曲はフォールのメンバーである加藤和彦である。
さて、そもそも「戦争を知らない子供たち」という曲は、いつの曲で、誰が歌ったのだろうか?
ググればわかることだが、1970年の曲で、歌ったのはジローズだった。杉田二郎と森下次郎の2人組フォークグループで1967年当初は、杉田二郎、塩見大治郎、細原徹次郎の三人のジローズだった。作曲は杉田二郎である。
歌詞を書いたのは北山修である。北山はフォークルこと「ザ・フォーク・クルセイダーズ」のメンバーとして有名だった。余談めくが、クルセダーズ(crusader)とは「十字軍兵士」である。なぜそんな物騒な名前なのかというと、元来は平和を志向するクリスチャン・ソルジャーの文脈もあるだろうが、平和の戦士のアイロニーでもあった。これは先のフラワーチルドレンの運動とも関連している。そこでの文脈の戦争は、ベトナム戦争だった。
日本のフォークソングがどこから始まるかをきちんと論じるのは難しいかもしれないが、フォークルは大きなエポックと言えるだろう。主要メンバー三人を生年付きで挙げると、北山修(1946-)、加藤和彦(1947-2009)、はしだのりひこ(1945-)。そしてここで追記すると杉田二郎(1946-)である。
フォークルが全国的に知られるようになったのは、1967年の「帰って来たヨッパライ」が全国ヒットしたことだった。当時の小学生はみんな歌った。つまり僕である。ゲルマニウムラジオを作って電波チャックしていたら、この歌が流れてきたことを今でもまざまざと思い出せる。
話をまた「戦争を知らない子供たち」について戻して、時代のなかに収め直してみる。発表されたのは、1970年。1970年安保の年でもあるが大阪万博の年である。翌年にはこの歌も全国的に流行った。この年の第13回日本レコード大賞でジローズが新人賞を取り、北山修は作詞賞を受賞した。これは僕のように岡林信康的なフォーク文化の中にいた少年には奇妙な事態でもあった。
フォークルの活動は1965年から始まっていたが、1967年に解散。しかし、世の中の要請に応えて北山が一年間の再結成する。このとき、はしだのりひこが入る。この時点で杉田二郎を加える案があったらしい。杉田はフォークル二軍と言ってもよく、そのあたりから、フォークル後の北山ソングとして「戦争を知らない子供たち」が登場した。
「戦争を知らない子供たち」という名前(僕等の名前を覚えてほしい)の社会的な提示はなんであっただろうか?
それは率直に言って、1946年生まれの北山修のイデオロギーだった。それはだから同年生まれの杉田二郎が歌う以外はなかった。そして、もう一つ重要なこと、つまり、そのイデオロギーの意味合いに関連するのだが、この歌を歌う「子供」の杉田二郎は25歳だったということだ。
当時の25歳は、彼らより10年若い僕の世代でもそうだったが、もはや「子供」ではない。逆説であった。もはや子供ではない彼らが「子供」と主張することに意味があった。なぜなのか?
北山修のフォーク文化のイデオロギーは、世界的な時流としてはフラワーチルドレンの流れであり、ベトナム戦争という「戦争」への日本の若者の連帯でもあった。フォークルの活動がベ平連と軌を一にしていることからでもその時代の空気がわかるだろう。そしてもう一つ、1970年安保の挫折を意味していた。全学連運動の挫折と言ってもいいだろう。全国のお茶の間的な事件でいえば、1969年の東大安田講堂事件がある。
安保闘争と全学連運動の挫折を若者はどう消化したののか。一つは三里塚闘争を通して残留した。その残留は2015年、69歳の北山修や杉田二郎と同じ年代の老人による、最近の諸活動から察せられる部分は多い。
当時蹉跌した多くの若者は泣きながら屈し、「転向」した。それが先の残したこの意味合いである。
若すぎるからと許されないなら
髪の毛が長いと許されないなら
今の私に残っているのは
涙をこらえて歌うことだけさ
25歳になって涙を堪えて平和を歌うという姿である。それは、先にも触れた1972年の吉田拓郎「結婚しようよ」という風俗にも流れた。
大半の転向は、フォークソングの終わりを告げる形で登場したユーミンの、1975年の「『いちご白書』をもう一度」で歌われた。普通の社会に融け込み、男は企業戦士となっていった。
僕は無精髭と髪を伸ばして
学生集会へも時々出かけた
就職が決まって髪を切ってきたとき
もう若くないさと君に言い訳したね
君も見るだろうか「いちご白書」を
しかし、「戦争を知らない子供たち」を北山修のイデオロギーとして見た場合、つまり、25歳の杉田二郎に歌わせたことの結末は、ある意味、もっと悲劇的なアイロニーとなった。「戦争を知らない子供たち」の大半は、メジャーな社会に吸収されていったのである。それが吉田拓郎「結婚しようよ」とも結びつき、拓郎は芸能界でメジャー化した。僕はこの歌が出たとき、ああ拓郎は終わったと思ったものだった。
北山修はその後、フォークから一切手を引いて学者になった。その10歳上の世代の挫折の象徴である柴田翔のように、と言っていいだろう。
しかし、と私は思うのである。「戦争を知らない子供たち」という北山修のイデオロギーは、もっと肯定してよいものではなかったか。少なくとも、僕はその方向で生きてきた。
青空が好きで花びらが好きで
いつでも笑顔のすてきな人なら
誰でも一緒に歩いてゆこうよ
きれいな夕日が輝く小道を
北山修より10年遅れた世代の僕はそれが平和であると思って生きてきた。戦争というものの悲惨さを想像力で知る平和主義よりも、「青空が好きで花びらが好きでいつでも笑顔のすてきな人」であるほうがよいと思ってきたし、そうした人が増えることが平和につながるだろうと思ってきた。
そして今も、思っている。
| 固定リンク
| コメント (1)
| トラックバック (0)