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2015.06.01

韓国語(朝鮮語)を学びながら考えていたこと

 韓国語(朝鮮語)を学びながら、ときおり父のことを思い出す。私の父は、十歳ころ家族とともに朝鮮に移り住み、終戦で帰国した。祖父の仲の良かった従兄弟が朝鮮で事業で成功して、お前も来いということで一家で移り住んだらしい。父はものごころのつく少年期を朝鮮で過ごしたことになる。帰国子女である。後に私は米国帰国子女の多いの大学に学んで思ったのだが、父も彼らのように日本の文化に馴染めない部分もあったように思う。
 朝鮮での生活の影響は父が若いころには、よく出ていたのではないだろうか。たぶん私が小学生になる前だった。私は父に「お父さんは朝鮮人?」と聞いたことがある。父は、違うと答えたあと、奇妙に困惑していたのが印象的で今でも覚えている。
 父の家系は安中藩に仕える氏族なので朝鮮系のはずもないのだが、私が幼いころには父は朝鮮での生活のことばかり話していたからだろう。それと今になっていろいろと思うのだが、自分は朝鮮人ではない日本人だ、という意味について、どこか困惑している部分があったかもしれない。彼の学校は当然朝鮮にある国民学校だった。その後、満鉄の学校に入り寄宿舎生活した。友人に朝鮮籍は多数いたようだ。名字でわかる(ということは改姓してなかったのだろう)。差別がなかったわけもないだろうが、父の話を聞いているかぎり同級生のなかでそういう意識もとくなかったようにうかがえた。普通に十代の学生仲間であったようだ。なのに後になって彼らと違うと殊更に言うというのもそれはそれで確かに困惑はあるだろう。
 祖父は従兄弟と朝鮮で事業をしていて大きな家を構えていた。どういう理由かわからないが養子ということでもないと思うが、同じ家に住む朝鮮人の子どもが同居していて、家族のように暮らしていたらしい。つまり、父と兄弟のように暮らしていたらしい。よく懐かしく語っていた。戦後、その人は政府の要職につき偉い人になったらしい。本当かなと私は少し疑問に思っていたが、父が死んで数日して、そのかたから直接心のこもったお悔やみの国際電話をもらった。
 満鉄学校の同窓会は九州で開かれることが多かったようだが、帰宅すると韓国の土産物が多かった。私の家には私のもの心つくころから、アリランのレコードはあった。父がそれを特に懐かしく聞いていたふうでもなかったが、自身で歌うことはあった。もう一つよく歌う歌があったが今思い出せない。壁には朝鮮の漆器の絵皿が飾ってあった。長髪の少女がブランコに背を向けて座っている絵柄である。
 朝鮮語で思い出すのだが、父と電車に載っていたおりのことだ。前の席に朝鮮人(韓国人?)が数名座っていて大きな声でなにか喋っているが、父の顔が険しい。彼らが電車を降りたあとに父に聞くと、日本人の悪口を言っていた、と言った。日本人が朝鮮語をわからないと思っているのだろう、困ったことだととも言っていた。それはどこかしら彼らが人として恥ずかしいとでもいうような感じだった。意識のなかではむしろ朝鮮人差別を持っていなかったように思えた。ただ、そういう意識も結果的に差別だという理屈もあるかもしれない。
 彼は、朝鮮語は聞いてだいたいわかると言っていた。基本の単語は朝鮮語で言えた。朝鮮語で話しはできないとも言った。それがどういうことなのか、自分が韓国語を学んでみて、少しわかった気がする。外国語といっても朝鮮語は英語はだいぶ違うもので、キーワードが聞き分けられるならだいたい話題はわかりそうだ。
 私が子どもの頃、在日朝鮮人(韓国人)の差別があったかというと、なかったとも言えない。わからないのである。父は巨人ファンでよくナイターを見ていた。「カネやん」こと金田正一投手が好きだった。王選手も当然好きだった。当時を思い出して、取り分け、朝鮮人・中国人・台湾人差別があったようには子どもとしても感じられなかった。自分が育った地域にそういう集落がなかったせいもあるかもしれない。
 むしろ、当時は部落差別がひどかった。私の母は小諸の出身である。藤村の「破戒」の小諸である。母の父は庄屋の次男坊で、結核で多くの人が死ぬ時代だったが(庄屋の娘は全員結核で死んだ)、彼はのほほんとくらしていたようだ。が、戦争で当然厳しくなり戦後は農地改革で土地も失った。母に戦前戦中の国民学校での部落差別の話を聞くと、微妙である。差別がないわけではないようだ。ただ、表向きにはない。この話も長くなりそうなので端折ると、東京で母は同出身地の差別部落の友人に偶然出会ったことがある。部落のことは言わないでと彼女に懇願されたらしい。母はそういうことを吹聴する人でもないので困惑したようだが、そういう差別が色濃く残る時代だったのだろう。昭和30年代である。
 話を在日朝鮮人に戻すと、私の父母の時代の朝鮮人は日本人と変わらない。日本語の読み書きはできる。見た目も雰囲気も変わらない。昭和10年代生まれくらいまでだろうか。かりに1935年までとしてみると、その生まれのかたは現在80歳になる。80歳以上の韓国人・朝鮮人はかなり日本語の知識はあると見ていいだろう。そういえば、1925年年生まれの金大中が日本に来て日本語を喋っていた。
 現在の80歳以下から、韓国・朝鮮人が日本語の文化と切り離されていくのだろう。それでも戦後はまだまだ韓国でも漢字の出版物は多く、1970年代までは新聞でもそうだった。どのあたりで、韓国・朝鮮から日本語の影響は途絶えていくのか、現在の60歳ではもうかなり隔たれているだろうと、と他人事のように思いながら、自分はこの夏、58歳になるのであった。60歳のほうに近い。まいったなあ。
 いわゆる在日のかたでも、同じことが言えるのではないかと、韓国語を学びながら思った。韓国語・朝鮮語を家族の言葉としつつ日本語との馴染みが深いのは80歳くらいまでで、そこから下の世代は、韓国語は実は一種の異国語になっていたのではないだろうか? 別の言い方をしてみる。なんとなく在日韓国人・朝鮮人は普通に韓国語・朝鮮語を話す、と思う面が自分にあったのだが、むしろ、在日のかたにとって韓国語・朝鮮語は、外国語なのではないだろうか? すると、私が韓国語を学ぶような思いに遭遇してきたのではないだろうか?
 そういう疑問でネットを見て回ると、なるほどなあと思える話がある。「在日朝鮮語」(参照)というホームページでは書かれた時期は10年くらい古いのではないかと思うが、「民族学校に入ってはじめて彼らは本格的に朝鮮語に接するわけだが,全てが朝鮮語という学校環境の中で,彼らはたちまちのうちに朝鮮語を会得する。そのようにして,基本的な日常会話から学校生活を送るための会話の全てを朝鮮語によって営むようになる」とある。つまり、在日の朝鮮語というのは学校コミュニティーが二義的に生み出した側面が大きそうだ。
 同ページには、「在日朝鮮語」という概念・実態も描かれているがとても興味深い。「その後も出会う在日朝鮮人はみな類似の「在日朝鮮語」を話していたし,当の私自身も何の疑問もなく「在日朝鮮語」を身に着けていった。しかし,私は在日朝鮮人の中でもたまたま本国のほうに目がよく向いていたのかもしれない。「朝鮮人だ」というからには,「まっとうな」朝鮮語ができねばと,ついには韓国にまで出向いて「本場仕込み」の朝鮮語を身につけた」。ある意味、ケベックのフランス語的な状況でもあるのだろう。
 また「「歴史と国家」雑考」(参照)というホームページでは「在日朝鮮人二世・三世で、本名を名乗り、民族主体性や民族性の自覚を訴える活動家たちを少なからず見てきたが、彼らの多くが私の大したことのない語学力に及ばないことを知ったときは、ショックであった」と書かれている。偏った例かもしれないが、そういうこともありそうに思えた。
 私のなかで、私のおそらく中心的な思想課題でもある「市民」について、奇妙な不定形の問題提起が、これに関連してわきおこる。こうした自身のエスニックを維持しようとするありかたは、むしろ日本市民の原型と言えるのではないか?
 それと、昨今顕著な「反韓」だが、それがなぜ「在日」に向くのか奇妙に思える。「反韓」というなら、韓国に赴いて、自分らの主張を韓国語で行えばいいだけなのではないか。「在日」はむしろ日本市民の原型ではないのか。
 そうしたもどかしい不定形の思いに加えて、「韓流」とはなんだったのだろうかという疑問もからみつく。率直にいうと私は「韓流」にほとんど関心がない。DVDレンタル屋で韓流の棚が異様なくらい充実しているのを見ながら、誰が見るのだろうか?と疑問に思うほどである。ついでにいうと韓流に歴史物が多いのは、日本人が時代劇を通して国民大衆文化を確認するような傾向がようやく韓国でも自由化ともに出て来たのだろうという印象はある。
 「韓流」は、その様式は、私の目からすれば、少し古い日本文化の変形に米国的なエンタテイメント要素を加えたようにしか見えない。もちろん、そうでないのかもしれないが、いずれにせよ、その「韓流」は、言語的には韓国本国の言語文化であり、だとすれば、在日朝鮮語・韓国語コミュニティーには、奇妙な差違として感じられたのではないかと思う。そういう部分は今の私から見えない。ないのかもしれない。ありそうには思える。
 
 

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コメント

在日の文学や映画もとても面白いよね。ま、市民が、「怨恨」から解放されるために文化があるのだけど、その文化を奪うことで、統治していたんだから日本は。また、中島みゆきじゃないけど、「恨みます」も愛情表現になっているわけで。

韓国が気の毒なのは、戦後、歴史の復興をしようとしていたら、朝鮮戦争でズタズタになってしまって、日本の悪い慣習や社会政策が強く残ってしまったこと。で、そういう部分を、また、日本人が侮辱するってわけで。

なんでまぁ、日本にしかないものを日本人は大切にせず、韓国にしかないものはまったく興味もないって、いったいどうなってんのって感じがする。とくに、日本人の、日本的な夢というか妄想というか、そういうのを外国の中に見つけることに熱中したり、さも、それがアジアのためになると思い込んで、押し売りしたりするのが、異常すぎる。で、世界中が、日本に関心があると思ってるし、笑。それと、悪口とか陰口ってのは、日本独特なものだよね。本来なら、自分と関係ないことは、一切無関心なものだし、下手な悪口は災いのもとなのにね。

で、なぜ、韓国ドラマや映画に興味があるかというと、日本とぜんぜん違う慣習がでてくるんだよ。それに気がついたのは、韓国では、田園で道に迷ったりして、もし、困っていたら、畑の西瓜とか食べてもまったく問題にならないって表現なんだよね。日本だと、見つかったら、アウトだよね。酷いと見回りまでいて、事情を話しても恵んでもくれないし、売ってももらえないみたいな。とにかく、全然違うところがあるんだよ。

それと、ヨン様の婚約者が、アイドルグループで日本でミニライブをしたときに、偶然見たのだけど、プロモーションの仕方も違うし、その上、彼女たちが、威張ったような無理に良くみせようとかしないというのも、すごく違ったなぁ。

というわけで、違うところが大切。ハングルが日本語に似ているというなら、それは日本政府がしたこと。日本政府は、統一するのが異常に好むし、笑。ついでに、日本と違うところは、韓国は、今でも、他人であっても、おばぁさんを大切にするところ。ま、おばさんは、関西のおばちゃんと同じで怖い存在は似てるかもしれないけどね、笑。とにかく、日本の老人敵視は、やめてほしいね。

投稿: | 2015.06.01 23:14

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