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2015.04.30

川崎市中1男子生徒殺害事件について

 しばらくブログを書かないでいた。ツイッターにはほとんど毎日出没しているし、その時折の思いなどはそこで呟いている。それで十分ならブログを書くことをはないんじゃないかとも思ったりもした。率直なところ、このブログは特に読まれる意味のあるブログということでもないだろうし、私は炎上ワザが使えるほどの魔法使いでもない。ただ、この間ずっと奇妙に心にひっかかることがあった。川崎市中1男子生徒殺害事件である。これは、ブログに書くべきなのではないかと思った。そう思って、もう数日が経つのだけど。
 いったい何が心にひっかかっているのだろうか。
 そこがまずもどかしく、うまく言葉にならない。
 まずこれはどういう事件なのか。
 今年の2月20日、神奈川県川崎市川崎区港町の多摩川河川敷で、その近所に住む中学1年生(13歳)が殺害された。それがこの事件である。一週間後に、少年の知り合いの18歳の少年3人が殺人容疑で逮捕された。報道から伺う限り、別の犯人がいるといった「真相」といった意味での謎は残されていない。
 事件当時、私は4つのことを思った。
 まず、誰がやったのか? ざっと報道を聞いていても、関係者の証言などもあり、容疑者は早晩割り出せるだろという印象を持った。報道関係者はその容疑者をすでに知っているという印象ももった。その意味で、迷宮入りといった事件ではないだろうと確信していた。実際、振り返ってみると、そういうことでだいたい合っている。
 次にあまりの惨殺さに胸が痛んだ。当初、公園トイレから放火があり、焼かれた衣服や靴底が発見され、その後、裸体の死体が発見された。殺害後、裸体にされたのかはわからない。稚拙過ぎて証拠隠滅とも思えない。殺害手法だが、拘束されてメッタ刺しされたようである。惨殺と言ってよい。この惨殺さは、容疑者グループの結束を高めるためものだろうと私は思った。殺害のリーダー格はよほど残忍なのだろう。これでも振り返ってみると、だいたい合っている。
 三つ目の疑問は、なぜ? である。そこが皆目わからなかった。性的な暴力というよりも、暴力集団にありがちなリンチのようにも思えたが、そもそも13歳の少年を殺害しなければならないほどの掟をその手の集団がもつわけもないだろう。ならば基本的に、リーダー格の人物の性格的な異常性に帰するのではないかと思ったのである。
 その後、取り調べが進み、「嫉妬」などが報道で語られた。例えば、4月3日産経「18歳リーダー格の幼稚な動機…「カミソンの人気に嫉妬した」「誰かに止めて欲しかった」とも」(参照)より。


 「(以前の暴行を)チクられた(告げ口された)のでやった」「カミソン(上村さんのあだ名)が慕われていることに、むかついた」「カミソンのためにこれだけの人が集まったと思い、頭にきた」「(上村さんが自分を)先輩として立てなかったことに不満を持っていた」…
 反省の一方で、供述から見えてきたのは、少年が上村さんに対して募らせていたねたみや逆恨みだった。

 そういう類の報道の文脈が理解できないわけではない。だが、私はこれは殺害の動機にはなっていないだろうと思う。隠された別の動機があると言いたいわけではない。容疑者の心理にはもう一段、背景がありそうに思う。だが、そこが見えてこない。いろいろ考えたが、わからない。
 そして4つの目の疑問は、そもそもこの事件はなんなのか?ということだった。
 少年が関係した残虐な事件はいつの時代にも起きる。昭和64年には「女子高生コンクリート詰め殺人事件」という陰惨な事件もあり、その世相を私はまざまざと覚えている。平成5年には「山形マット死事件」という陰湿な事件もあった。
 基本的にこうした猟奇性も感じられるような青少年の集団的な暴力事件というのは、人間社会には一定の確率で生じる。その意味では、今回の事件も「またか」という印象はあった。そして、私の心のなかに、「また陰惨な少年集団事件か」という形で沈んでいくだろうと思っていた。
 だが、そううまく行かなかった。なぜなのだろうか。
 一つの「なぜが」残った。なぜ、この事件は私の心のなかに静かに沈んでいかないのだろうか。
 そこが、今なお、不可解に心に引っかかっている。ずっと考えていた。
 この点を延長していくと、3つ思うことがある。
 一つは、SNS(ソーシャルネットワーク)時代のメディア性である。事件当初、私はこの事件は陰湿でも特殊な事件ではないと思っていたせいもあり、報道がどれだけ騒いでも事実関係以上の関心をもたないでいた。私はある種の事件には関心を持たないという訓練をしているので、そこはそれほど難しいことではない。
 そのことで、SNSを中心としたネットでプライバシー暴きなどが進行していたことも知らないでいた。
 後追いしてわかったのだが、テレビが容疑者の顔のモザイク写真を公開したため、そこからネットの人々が容疑者の割り出しをしてプライバシー暴きを始めたらしい。SNSでの情報をたぐると、容疑者にはどうやら、表向きの報道からは語られない裏の事情もあるようだった。ただし、その点は、表向きの報道からは確認できない。
 世間という形で大きくくくりなおすと、世間は、私の思いの外側で、私にしてみると、とんでもない大騒ぎをしていた。その大騒ぎというのは何を意味しているのだろうか?
 奇妙な絵だった。NHKを含め、なぜこの事件を連日7時のニュースのトップに置くほど報道していたのだろうか。報道社は、この事件のどの側面に報道の社会的な意義を見いだしていたのだろうか?
 そこが皆目わからないうちに、この事件の報道は、メディアからは消えていった。
 あの大騒ぎの理由を考えてみる。結局のところ、視聴率が取れるからという、一種の娯楽性以外はなかったのではないか。実際、この事件は一種の娯楽としてネットを巻き込んで燃え上がっていたのではないか。
 そうでなければ……と考えて思うのは、「誰かを罰したかった」のではないだろうか。
 報道も視聴者もネットの住民も。だが、その罰するべき誰かをうまく探り当てられなかったのではないだろうか。
 そう思う奇妙な関連だが、「週刊文春」(3月12日号)林真理子連載エッセイ「夜ふけのなわとび」で、被害者の母親をひたすら責め立てると読める内容が掲載され、そのことで、林真理子をバッシングする動向がSNSを中心に見られた。たしかに、同エッセイは鼻白むといった類ものだが、基本的に今回の事件に薄っぺら思いを寄せて一本仕上げた売文である。それをバッシングすることは、この事件の本質とは直接関係はない。誰かを罰したいという無形の欲望に釣られたようにも見えた。
 他にも、誰かを罰したいという欲動からいくつかの物語が語られたが、どうもうまく形にならなかった。
 では、処罰者がうまく見つからなければ、ではこの事件は、社会的になんなのか?
 その形で、結局のところ、「誰が悪いのか?」を迂遠に解消しなくてはならない。いわく、教育の問題、地域社会の問題などである。
 そうした点で、とりあえず繕える物語は、「学校や教育委員会が生徒が苦しんでいる状況を理解できていれば、力になれたかもしれず、残念に思う」といったものだろう。NHK解説委員なども結局そういう話に仕立てていた。「気づけなかったSOS ~川崎・男子生徒殺害事件~」より(参照)。

 福祉などの専門家も多いスクールソーシャルワーカーが、子どもを多様な目でとらえ、主導的な立場で子どもたちの声を聞けるようにする。そうした仕組みであれば、今回も必要な組織同士がいち早く協力体制を作ることができ、事前の対処につながった可能性があります。
 被害者も容疑者も少年だったという今回の事件。
 子どもの姿が大人から見えにくくなっている中で、子どもの声をすくい上げには、大人の側が、より関心を持って子どもに働きかける。
 そうすることで、SOSに気づくことができる社会にする。それが、今回の事件が私たちにつきつけた課題であるように思います。

 率直に言って、そう言われても、「ベイマックス、もう大丈夫だよ」という前にベイマックスが萎んでしまったようながっかりした印象しか残らない。
 率直に言えば、この種類の事件は防ぐことはできない、ということだ。
 私たちは、無力さの前に立ちすくんで、自分たちが取り残されてしまった。
 そう書いてみて、陰湿な事件や、誰かを罰したいという思いの背景に、どうしようもない無力さが、大きな壁のように自分も塞いでいることに気がつく。
 それは無意識のなかで、「少年の死を自分は見捨ててしまった」というような、奇妙な罪責感の回路を形成していく。
 おそらくそこがこの事件の、事件性としての本質だったのではないだろうか。
 というのも、表向きの報道がなくなったあとでも、殺害場所に寄せる人々の献花や祈りが絶えない。さすがに49日も過ぎたので、自然に人々の関心は薄れてはいくだろうが、それでもそうした無名の多数の人々の鎮魂の思いがかたまるのは、無意識のなかで、「結局、少年を見捨てたのは私でしょう?」という自責のようななにかが形成されているからだろう。
 そうした自責を私たちは無意識のなかに貯め込んでいって、結局、私たちはどうなるのだろうか?
 
 

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2015.04.11

[書評] トンデモ地方議員の問題(相川俊英)

 ポリタスの特集企画『「統一地方選2015」私たちの選択』が始まった(参照)、と昨日思った。そして、私の主張も近く公開されると思う、と昨日この原稿を書き始めたものの、なんか虚脱して放置していて今朝を迎えたら、すでポリタスに上がっていた(参照)。なので、今回の統一地方選挙について、私の主張をここで繰り返すこともないかとも思った。

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トンデモ地方議員
の問題 (携書134)
 今回のポリタス特集の最初の記事は特集開始にふさわしく「「選んではいけないNG候補」の見分け方 5箇条」(参照)とあり、読み始めてから、あれ?と気がついた。『トンデモ地方議員の問題』(参照)を書かれた相川俊英氏の主張であった。
 当然、同書に含まれる内容と同じ項目だが、ポリタス掲載のほうがやや詳しい。同書では「選ぶべき地方議員の四つのポイント」もあるが、基調はポリタス掲載に織り込まれているように受け取った。
 その同書であるが、まず書籍として面白い。紹介にある「号泣会見、セクハラ、謎の政務活動費…地方議員のあきれた実体が次々と明らかになってきた」という部分はコメディのように面白い。だが、これを面白がっていいのだろうかというあたりで、なんとも、もにょ~んとした残尿感のようなものに襲われる。
 地方議会の喜劇悲劇は、誰にとっても他人事ではない。日本の市民それぞれの足下の地方議会の実態の大半はこれなのだ。面白いといって笑うにしても自虐の演技もクソもない現状である。
 そういうわけで、まず笑える部分の話を「第一章 いまどき&ありがちな地方議員」に振った後、同書も、地方議会の仕組みと事例研究に入っていく。こう言い方もなんだが、新社会人になる人は、偉そうなブロガーの社会人説教なんかをリツリートするより、まず、この「第二章 地方議員のホントの仕事と裏の仕事」の実態を知っておくといい。地域に生きて、普通におっさん・おばさん化してくると、こういう議員「先生」の実態に遭遇することになるものだ。あと、この二章では特に、「議長職争い」のところでブラックジョークのような世界があるのも知っておくといいだろう。
 「第三章 学芸会&八百長「議会」」はジャーナリスティックな章題だが、ようするに、大半の地方議会は、学芸会であり八百長であるということ。まずもって議会の体をなしていない。議会として行政の監視機能すらない。続く「第四章 トンデモ議会とよりよい議会」は特に章分けもなくつながっていると読んでもいいだろう。
cover
議会からの政策形成
議会基本条例で実現する
市民参加型政策サイクル
 笑って読みながらどんどん気分が沈んでいくのだが、そうしたなかで、唯一具体的な希望があるとすれば、会津若松市議会の事例だろう。同議会作成の『議会からの政策形成』(参照)は非常に興味深い。無料配布のPDF版(参照・PDF)もある。これがもう少しわかりやすく提示されるとよいと思うし、存外にポリタスなどがそういう志向であってもよいのではないか。
 「第六章 選ぶべき議員と選んではいけない議員」は、一部がポリタスに重なっているがこの間の問題意識としては示唆深い。ただ、改めて読み返してみると、この部分は地方議会が抱える問題という点でそれほどの比重はないかもしれないという印象もある。というのは、どうすればいい?という問いに、民主主義なのでよい議員を選びましょう、というのはその通りだが、実際にはあまり意味をなさない現状がある。
 そういう問題提起と解決の枠組みをどう受け止めるかだが、本書では、「第五章 地方議員のお財布事情」と「第七章 私案「議会&議員定数&議員報酬」が重視されている。私の視点から言い換えれば、どういう機構にすれば地方自治体が合理的に「経営」できるかということになるだろう。このあたりについては、各種模索されていて、一件良案に思えるのが実際にはうまく言っていない事例などが興味深い。とはいえ、同書で示される私案もうまくいかないのではないかという、印象的だが、懸念も浮かぶ。
 じゃあ、どうすればいいのか? という問題は残るのだが、ようするにこれを「経営」という視点で見ると、私はやはり一種の危機管理のなかで捉えるべきではないかと思う。ようするに私がポリタスに寄稿した話題に戻ってしまうが、消滅可能性自治体を上手に危機管理していく仕組みが必要になる。そして、この問題は該当の自治体が注目されがちなのだが、すでに触れたが、重要なのは、消滅可能性自治体を受け入れる側の地方都市のありかたになる。
 あえてもう一歩踏み出していうなら、まだ余裕のある地方都市が自分たちの経済圏を拡大してうまくやっていこうとすると、さらに消滅可能性自治体との格差が広がってしまう。それも一種の自然過程ではあるのだろうが、想定される悲惨な事態はできるだけ減らしたいものだ。
 あと話がちゃぶ台返しのそもそも論に近くなるが、「地方」という言葉の含みが、地方創生でもそうだが、東京を他方の極に対比させがちだなのに、とうの東京は超高齢化というとんでもない問題を抱えている。東京もまた地方としての大きな課題がある。ただ、今回の統一地方選挙に東京がないせいもあって、あまり浮かんではこない。
 ざっと言えば、国と地方(中都市圏と消滅可能性自治体)と東京という三極の構造のなかでどう利害を調整していくかという課題にはなるだろう。
 

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2015.04.09

アベノミクスでミートソース缶が減量したのか?

 先日、面白いツイートがあった。該当ツイートにある写真を見ればわかるように、キューピーのソース缶が最近、減量したかに見える。

 このツイートを見たおり、そういえば、このミートソース缶は私の好みなので買い置きがあったかもしれないと食材棚を見たら一つ残っていたので、この旧缶の内容とキューピーのサイトにある新缶の内容と比較してみた。結果、総量は減っているが内容がそれで減量されたとは言えないと思い、そうツイートした。単純な話、食品の内容量の大半は水分なので水分を減らせば、全体量は減るからである。
 だがこの際、ちょっと勘違いしていた。結論からいうと、全体で減量されていると言ってよい。
 すると、減量による実質的な値上げはアベノミクスのせいか……という話はひとまず置くとしても、製品の事実上の値上げにあたるのではないかという議論にもなりそうだ。
 だが、旧缶と新缶では内容構成が変わっているので、単純に総量減による「隠された値上げ」とも言いがたい。
 じゃあ、どうなんだ、というので、もう少し踏み込んで調べてみた。その結論を先にいうと、まあ、値上げとも言い切れない、だろう、ということにはなった。
 記載ミスがあるかもしれないが、こうした話は数値で見たほうがてっとり早いので、表にしてみた。

 上2行は100g当たりで見た内容量である。これは単純な話、缶を開けてみてちょっと嘗めてみたときの味の印象を意味すると言ってもいい。
 そこで簡単に見て取れるのは、低カロリー化である。そのために、脂質と炭水化物をできるだけ減らし、変わりに味の濃さを出すためにタンパク質を少し上げ、塩分(ナトリウム)を上げている。これは総量を減らした分の補いと見てよい部分はあるだろう。
 下3行は缶あたりの総量で見たものだ。話題の発端となったツイートでは暗黙の内に旧缶と新缶の内容構成は同一と仮定されているが、具体的に見ると、全体量の減量86.44%化は他の内容量に比例はしていない。
 ここでも、当然低カロリー化であり、脂質と炭水化物の比率が全体の低下率より低い。他方、原価に一番影響しそうなタンパク質の比率は全体比率より高い。興味深いのは塩分の増加である。
 総じて減量化されているのだが、話題の発端となったツイートでは同一価格とされているが、参考小売価格で見ると、89.13%安価になっている。
 とはいえ、参考小売価格の低減率は総量の低減率より多少高いので、若干の値上げと言っていいし、消費物価の向上に現時点でほとんど影響のない、という、まさに現状に対応しているので、アイロニカルに「なるほどアベノミクスでミートソース缶が減量した」と言ってもよいだろうが、このアイロニーはあまり多くの人には理解されないだろう。
 まとめると、この旧缶から新缶への変更で、事実上の値上げがあって庶民の生活を圧迫された、とは言えないだろう。

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キユーピー ミートソース
フォン・ド・ヴォー仕立て
295g×12個
 話題の発端となったツイートで、一か月前に「お値段は同じ」とあるのは、在庫の調整のための価格ではないだろうか。アマゾンではまだダースで売っている。
 なお関連のツイートはTogetterにもまとめられている(参照)。
 話は以上。と言ってよいのだが、そもそもこんな誤解をされがちなことをなぜキューピーはしたのか?という疑問は残る。
 これはキューピーが説明している。「キユーピー 缶入りパスタソース 新たに2品を加え、ラインアップを拡充 同時にミートソース3品を改良し、容量を2人前へ」(参照)。

発売から55年、キユーピー「ミートソース」の歩み
 キユーピーは1959年に国内で初めてミートソースの製造・販売を開始しました。以来、半世紀以上にわたり缶入りのミートソースを作り続けています。パスタの食経験が少なかった頃には、ごはんやうどんにかけて食べるメニューを提案するなど、需要のすそ野を広げてきました。高度成長期に入り、外食文化が浸透しはじめる1965年には7号缶(295g)へ容器を変更し、休日に家族でパスタを食べる提案を進めました。時代が変化し、世帯人員が減少傾向にあることを見据え、このたび、容量を295gから255gに変更します。大人2人が食べ切るのにちょうど良いサイズの提案です。また、缶入りミートソースの最大の特徴である、レトルト加熱によるソースの煮込み感を引き出す製法はそのままに、肉の風味がさらに感じられるよう、炒めた玉ねぎを使い、調味料とスパイスの配合を見直す改良を加えました。

 つまり、キューピー側の説明としては、「時代が変化し、世帯人員が減少傾向にあることを見据え」ということだ。重要なのはこの見出しにあるように「容量を2人前へ」ということで、旧缶では「2~3人前が目安です」として、3人で1缶食べるという意味合いがあった。これは、1965年の世界でもあった。改めて言うまでもないが、この年は東京オリンピックの翌年である。
 その意味では、高度成長期後の縮小する日本に対応する変革がようやく、ミートソース缶に及んだと言ってもいい。
 さて、パスタソースとしての総量の絡み具合という点で、減量が図られ、それにほぼ対応して価格が下げられた(比較としては微妙に価格は上がった)が、問題は再び、内容構成である。
 特徴的なのは、カロリー低減に加えて、ナトリウム、つまり、塩分の増量である。新缶では総量で増えていて、食塩換算すると新缶で4.83グラムに相当する。
 これを二人で食べるなら、2.41g。一食分の塩分でみると、これを仮に三食食べても7.2g。これをどう評価するかだが、厚生労働省発表「日本人の食事摂取基準(2015年版)」の18歳以上の「男性は1日当たり8.0グラム未満、18歳以上の女性は1日当たり7.0グラム未満」にだいたい納まっている。
 まあ、塩分面から言って悪い食べ物とも言えない。
 逆に言えば、そこのあたりの天井値で塩分を上げて、濃い感じの味を出してみた新製品というのが主眼だったのではないだろうか。なお、参考までに、世界保健機関(WHO)の食塩摂取目標は1日5gである。
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キユーピー ミートソース
フォン・ド・ヴォー仕立て
255g×4個
 ああ、もう一つ結論めいた感想があった、全体量が減ったのは輸送などのコスト減ではないだろうか。あるいは、キューピーが獲得している棚に多くの商品を詰めるためではなかったか。
 
 

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2015.04.07

[書評] MASTERキートン Reマスター(浦沢直樹・長崎尚志)

 たぶん、私は平賀キートンと同い年である。同じというのはそのくらいかもしれない。違いはある。ありすぎる。が、別段、彼と自分を重ねたいわけでもない。そこに描かれた人生の出来事が奇妙にシンクロしてわかる部分が多いくらいに思う。
 恐らくストリーを作っている長崎尚志が私より一つ年上なので、そういう設定になっているのだろう、浦沢直樹は彼より5歳若く、10代の娘がいる。まあしかし、概ね、同じ世代である。

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MASTERキートン Reマスター
(ビッグ コミックス)
 つまり、20年が過ぎて、歳を取ったのである。男が歳を取ったのである。そのことの意味は、娘が大人になっていくということである。もちろん、娘がいるなら、ということではあるが。
 20年ぶりの「Reマスター」が連載の再開を意味しているのか、わからない。一読した印象では旧作の世界を上手に繋げているようにも思える。そうした期待に応えているようにも見える。だが、この連作にはReマスターされる一貫したテーマがある。「娘」である。老年に足を踏み入れた男の思いとそれを受け取る娘の琴線である。あるいは琴線の幻想だろう。
 もちろん、とまた言う。そのことはことさらに強く打ち出されているわけではない。あたかも、平賀キートンという変わった男の物語であるかのようにさりげなく描かれている。それでも20年を経て老いた男なら、なんとなくわかる。「娘」の意味は、自分が愛した娘というだけではなく、青春つまり愛の蹉跌をReマスターさせるすべての意味であり、それは夢を譲ることでもある。「つらいことを半分に……」と笑うキートンに泣ける。
 個人的にはもう一つ、奇妙に胸熱くこみ上げる物語でもあった。その「娘」の話題の頂点がマルタに置かれていることだ。私は海外経験が乏しいが、あの島でクリスマスの一週間を過ごしたことがある。狭い島といえば狭く、観光は4日もあれば足りる。あの島で退屈して見て回ったので、漫画のシーンがよくわかる。キートンが泊まっているはサンジュリアンである。入り江の先に見えるドームは聖公会のパウロ聖堂である。ヴァレッタの家屋は緑に塗ったバルコニーに特徴がある。ちなみに、このブログの色はその色合いを真似たものだった。
 
 

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2015.04.02

最近買ったキッチン周りの物など

 この半年くらいでキッチン周りの物で買って、まあ、よかったんじゃないかというものを5点ほどご紹介。ただ、それだけの話です。


1 貝印 SELECT 100 T型ピーラー DH-3000
 普通にピーラー。つまり、ジャガイモの皮を剥くアレです。そんだけのことで、今アマゾンで見ると、すげー高評価になっているけど、使ってみると確かにそうかなと納得する。

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貝印 SELECT 100
T型ピーラー DH-3000
 実はピーラーは長いこと悩みの種だった。こんなもの百均でも売っているし、百均のだってそれなりに使える。台所用品店だと600円くらいのもある。ダメ。百均のがダメなのはしかたないとして、500円近辺のも全滅。なにがダメなのか。ジャガイモの芽取りというか、ジャガイモのでこぼこしたところをちょいちょいと抉るあの機能に使いやすいのがない。
 別の言い方をすると、ピーラー機能と芽取りの機能を二つに分けるかということでもあるのだけど、それだけですげーめんどくさい。
 で、こいつ。すごい快適です。芽取りが楽。右利きの人ように出来ているのか、ほんと芽取りが楽。たぶん、左利きでも大丈夫だと思う。
 基本的な機能である皮むきはどうかというと、かなりいい。というか、これ以上いいという状態があるのかよくわからない。薄く、すーっと剥ける。ただ、でこぼこしたジャガイモだと皮が小さくなって、ピーラーに絡まることがあるので、その絡まり取りにボールに水はっておくといいかもしれない。


2 chef'n VeggiChop スピードみじん切り器 チェリー CF-0358
 フードプロセッサー。そんなものすでに持っているという人は多いと思うし、私も持っていた。壊れた。電動のが壊れた。電気系統。おいそこが壊れるのかという感じですげーむかつくのだけど、壊れた。

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chef'n VeggiChop
スピードみじん切り器
チェリー CF-0358
 そもそもフードプロセッサーってなんで電動なのかと思う、のは、手動のがあるからで、これも過去いくつか使った。手でぐるぐる回すやつ。低性能。
 で、ネットを見ていくとこれを発見。第一印象、あ・ほ・か、これ。ベイゴマというか地球ゴマというか、紐を引っ張って回すというもの。ダメだろこれと思った。すぐ壊れるだろうと思った。もうけっこうけっこう使ってますがまだ壊れません。
 最初、どのくらいの勢いで引っ張るんだとためらうのだけど、慣れてくると、ま、このくらいで、ぐいーん、ぐいーん、ぐいーん、3回。という感じで慣れる。
 洗いやすいし、けっこう便利。
 ちなみに、チョップの状態はというと、けっこう粗いんで、みじん切りが上手な人には不要な代物かもしれないけど。


3 パール金属 ローストバッグ38cm×40cm 6枚入 H-7965
 分野的には「オーブンバッグ」というらしい。チキンの丸焼きを作るとき、このビニール袋みたいのに入れて焼く。何故? 

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パール金属 ローストバッグ
38cm×40cm 6枚入 H-7965
 これがシットリ焼ける。チキンの丸焼き作るとき、いちいちオーブン開けて汁をかける必要なし。というか、チキンがすげー旨いです。一種の蒸し焼きなんで、最終工程でバックを開けて焼き目という工程は要るけど。
 気になるのは、このビニール袋みたいものをオーブンに入れて大丈夫なもの?という疑問だが、大丈夫。ただ、使い方にコツ(端を開けるとか)あるので、説明をよく読むこと。
 どうやら米国とかだと、家庭でキチンを焼くときはすでにスタンダードに使われているっぽい。米国での普及を見ると、旨いというより、後片付けが楽というのがありそう。たしかに、後片付けが楽。そうそう、グレービーも簡単にできる。
 そんなチキンの丸焼きなんか作らないという人なら、野菜の蒸し焼きに使えますよ。


4 IKEA フルーツカービングセット
 IKEAで買ったもの。りんごの芯抜きと、レモンの皮削りと、スイカの玉抉り、というか、まあ、そういうもの。

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フルーツカービング
 レモンの皮削りとスイカの玉抉りのほうは特に説明が要らないと思う。メロンもえぐれるとか。
 問題は、りんごの芯抜き。これりんごを貫通させて抜くならただ、ぶすぶすっとやればいいのだけど、貫通させないときは、ちょっとコツが要る。できるだけ、まんま押し込んで、貫通させる手前で止める。ここでぐいっとねじると、中でりんごの芯がぼきっと折れて、きれいに抜ける。
 で、砂糖詰めて、バターで蓋して、オーブンで焼けば焼きりんごのできあがり。


5 HITACHI 卓上IH調理器 HIT-51-B
 IHクッキングヒーターです。僕はこれが嫌いで。こんな強力な電磁波を剥き出しで出していいわけないだろうという考えの人だったのだけど、さすがにこれだけ普及してきて、安全性も確認できたようだし、なにより製品が成熟し技術も枯れてきたので買った。すげー便利。料理の考え方まで変わりましたよ。料理は化学実験だ、ブレイキング・バッド!

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HITACHI 卓上IH調理器 HIT-51-B
 なにがすごいって、火力の管理ができること。日立のこれだと100度以下の調理ができるんで、肉とか固くせずに煮ることができる。あきれたのは、揚げ物がとにかく簡単。油の温度を気にして、入れる具の量をどうするかと考えなくていい。
 弱火の調理も、1時間くらいコトコト煮ておいて忘れても、タイマーセットできるから無問題。この点は、スロークッカーでもいいんだけど、2時間以内だったらこっちのほうが火力の管理が楽。
 当然だけど、IHクッキングヒーターに使える鍋は限られている。だけど、手持ちのもの見たら、中華鍋とか除くとほとんどがすでに対応していた。
 
 

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2015.04.01

意識高い系をサポートするApple Watchのキラーアプリ、「Spankle」

 2015年4月10日から予約受付が開始になるApple初のウェアラブル端末「Apple Watch」だが、まだこれといったキラーアプリ情報はなかった。しかし噂の段階ではあるが、未公開の各種キラーアプリの情報がしだいに明らかになってきている。なかでも注目されているのが、意識高い系をサポートする「Spankle」(仮称)である。
 「Spankle」は、ウェアラブル端末ならではの、人間の身体に接触することを最大限に活かした究極のライフハックアプリ、あるいは至高の教育アプリと言ってよい。その目的は、人間の改造にある。ダメ人間をアクティブなビジネス戦士に変身させ、ウツ状態の人間をポジティブに立ち直らせることができる。だるい毎日を過ごしているビジネスマン・ビジネスウーマンが装着することで、一週間程度で意識高い系に変身することも可能と見られている。
 期待の機能だが、原理は意外なほど単純だ。すべての効果的な教育や指導、さらには外交にも応用されているシンプルな原理を応用しているだけ……つまり、「飴と鞭」の応用である。「Spankle」によって腕に装着したApple Watchが、身体接触による微弱電流パルスを使い、人体に、効果的に「飴と鞭」を与えるのである。
 よい行動を達成したら「飴」、間違った行動をしたら「鞭」が自動的に与えられる。わかりやすいのは、「鞭」の機能だろう。
 簡単な応用例は目覚まし時計と同じだ。眠たい朝、ベッドから出るのが苦手な人は目覚まし時計をセットするものだが、所定の時間に起きなければ、騒音という「鞭」が与えられる。しかし、「Spankle」の場合は、「鞭」の使い方が遙かスマートだ。睡眠状態のモニターから起床時間に最適になるように覚醒用の微弱な電気パルスが生じる。弱い鞭から一定の間隔で叩き続けることで意識の自然な覚醒を促すわけだ。効果的な心地よいともいえる適度な刺激によって、「鞭」とも思えない自然な覚醒がもたらされる。もちろん、予定時刻から5分、10分経過となると、「鞭」の強度を上げなければならない。パチンとした電撃感のパルスが覚める。10分経過時のパルスはちょっとした悲鳴を上げるほど強烈になるが、皮膚に傷は残さない。
 この仕組みは、会議や授業で眠気防止に利用できる。「Spankle」は脈拍と皮膚電流を常時モニターし、装着者が会議や授業で睡眠状態に陥る可能性を検出する。そのため、うとうとという状態になり、意識が一瞬無防備になる瞬間に効果的にパチンとした微弱電撃を与え、装着者の目を覚まさせる。
 「Spankle」が優れているのは、日常生活におけるネガティブな行動パターンを効果的に処罰することだ。このために、高度な尋問モードが用意されている。特殊な「嘘発見器」的な機能だと言ってよい。例えば、一日一時間英語の勉強をすると決めたとする。すると、その勉強時間の定常サイクルを「Spankle」が検出し、怠惰・逸脱があると判定されたときは装着者に「今日の勉強はできましたか?」と問いかけてくる。
 これに嘘で「もう済んだ」と答えるとすると、「Spankle」はその返答が嘘であるを検出してパチンとした微弱電撃を装着者に与える。嘘をついたことを効果的にフィードバックさせることで罰を強化するのである。電撃が与えられるタイミングもまた行動科学の成果が応用され、瞬時に罰パルスを与えることもあれば、あたかも「Spankle」が嘘かどうか判断にあぐねているような間を取って、装着者の良心の呵責を効果的に引き出すこともできる。
 こうした「鞭」の機会を検出し、効果的に罰を与えるために「Spankle」には各種の特許が取られている。
 しかしさらに高度な特許が積み重ねられているのは、「飴」の機能のほうと見られている。「飴」というからには報酬である。しかし、常識的に考えもわかるように、Apple WatchからM&Mのチョコレートが出てくるわけではない。そこで行動分析学の知見を応用し、ポジティブフィードバックに有効なトークンの原理が応用される。報酬となる一定の欲望を条件付けする画像や腕の骨を伝わる甘美な音楽、あるいは声優の励ましの声などを、無形であるものの感覚的に実体性のあるトークンとして装着者に条件付ける。トークンというは、ポイントと言ってもよいだろう。所定の好ましい行動がポイントとして貯まることで装着者に報酬を意識させるのである。
 最初のうちは、こうしたトークン(ポイント機能)は子供じみた仕組みで、そもそも大した報酬ではないと感じられるかもしれない。しかし、現実の世界の意識高い系の人々が、つらい仕事の後に「自分にご褒美」を揚げるように、ご褒美の象徴を行動パターンのなかで的確に報酬として条件付けするで、人間の脳はそれに対応し、快感報酬を条件付けるようになる。
 この人間の快感の行動パターン付けが「Spankle」におけるもっとも重要な技術だと見られ、各種の「ご褒美」の暗示がプログラムされている。
 さらに、「Spankle」について極秘といえる情報がある。高価格帯の「Apple Watch Edition」専用の機能らしい。コード名「フィフティ・シェイズ」と呼ばれるその機能は、人間の深層心理を応用したものらしく、「飴と鞭」を一体化した、「飴が鞭であるような鞭が飴であるような機能だ」と推測されている。
 ヒントとなるは、「フィフティ・シェイズ」が"Fifty Shades of Grey"の略称と見られることだ。開発に関わってた女性からのリークによると、胸をときめかせるようなイケメンに出会ったときに、その心拍パターンや皮膚電圧を検出し、罰に近い特殊な微弱電撃が与えられるらしい。最初は、「いけないことをしそうだ、これではいけない」いう人間の良心の呵責の重さを減らすかのように、適切な罰のパルスが与えられる。だが、この罰の電撃を適切に条件付けすることにより、「いけないことだけど快楽」という、罰の連想回路を無意識に形成させ、快楽の妄想を増加させる。そもそも罰の妄想こそが人間の快楽であることは、各種の世界崩壊の幻想に酔った人々による日々のツイッター発言からでも理解できるだろう。
 興味深いのは、この機能が、同じく「フィフティ・シェイズ」の「Apple Watch Edition」を装着した相手と一種の通信機能を持つことだ。相手がBluetoothでセンシング(関知通信)可能な位置にあるときにだけ「罰」の発動が限定できる。先の映画のように具体的に甘美な罰を与えてくれる相手を、たとえば、カクテルパーティのなかで探し出してくれる機能があると理解してよい。従来セレブ同士が密かに楽しみにしていた危険な遊びを簡便にSNS化するものだと言ってもよいだろう。
 しかし、この機能は正式には実装されないかもしれない。すでに「フィフティ・シェイズ」機能のリーク経路から欧州警察機構による疑惑の目が向けられているのだ。
 そもそもこの開発に関わってた女性は、フランスの有力大統領候補とされたドミニク・ストロスカーン被告の売春斡旋疑惑をめぐる捜査で浮かび上がった女性、コード名「マタハリ」であるらしい。現状、推測の域を出ないものの、この機能はセレブ向けの不埒なお遊びというより、高級売春婦の斡旋にあるのではないかと欧州警察機構は疑っているのである。
 
 

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