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2015.03.09

[書評] 寄り道ふらふら外国語(黒田龍之助)

 このところロシア語学習関連で見かけることが多い黒田龍之助氏の書籍で、たまたま見かけて読んだのが『寄り道ふらふら外国語』(参照)だった。表題どおり、氏が専門のロシア語以外にいろいろと学んだ外国語について触れているエッセイ集である。当初、フランス語について雑誌に連載したものの、それに合わせて他の言語をまとめて一冊にしたものだと言う。

cover
寄り道ふらふら外国語
 ロシア文学者がフランス語習得必須なのは、翻訳書であればトルストイやドストエフスキーなどを読んできた私にも理解できる。実際、本書では、トルストイ『戦争と平和』でフランス語で書かれている原文が掲載されている。ロシアを知るにはフランス語は欠かせない。
 加えて、ロシアの近代化ではドイツの影響が多いことから、ドイツ語もほぼ必須である。と考えてみれば、ロシア語の専門である氏がその三か国語を習得していても当然だろう。
 加えて英語も戦後日本の教育を受けた点から普通に習得しているだろう。つまり、ロシア語専攻なら、普通に4か国語はできるということになる。これに母語の日本語を加えると、5か国語になる。普通にポリグロットになる。
 実際にロシア語を私も学んでみて、外来語が多いのに驚く。ざっくり18世紀にドイツ後語、19世紀にフランス語語、20世紀に英語という感じだろうか。振り返ってみると日本も似たようなものなので、日本の近代文化を理解する上でも、英仏独語の三か国の基本を学ぶことは避けがたい。日本でいえば、これに中国語が追加されるだろう。
 本書では、ふらふらの寄り道として、中国語は含まれていない。一章のフランス語についで、二章がイタリア語、三章がドイツ語、四章がスペイン語、そして、四章で言語学について少し言及がある。イタリア語やスペイン語も独立した言語だが、フランス語と似たラテン語系であるので、そこまで延びてもそれほど違和感はない。
 著者は64年生まれなので、57年生まれの私とは随分歳差があるのだが、シルヴィー・バルタンの話などは、自分と同じ世代の文化だなという感じがする。「新書にフランス語がたくさんあった頃」というコラムがあるが、70年代はファッションや哲学(実存主義)などでフランス語が先端の文化・知性の言語のように受け止められていた時代があったものだった。総じて、自分と同じ世代の文化としても共感して読めた。
 なかでも、思わず、おおっと感嘆したのは種田輝豊『20カ国語ペラペラ』である。高校時代の友人がこれにはまっていた影響もあって、私もラインマーカを引いて読んだものだった。
 先日ふと同書を想いだして実家の書棚を探したのだが、見つからなかった。アマゾンを見るととんでもないプレミアムがついている。また、ネットを調べるとあの時代、この本の影響を受けた人が多いことも気づかされる。最近思うのは、種田氏が落書きにはアラビア語がいいと書いていた(と記憶している)のにちなんで、自分もアラビア語で落書きとかできたらいいなとか少し思う。
 余談が延びるが種田氏の同書が1969年で当時氏は30歳だった。その後はアルクの前進を作られたように聞いたがよく知らない。彼には特に変わった学習法はなく、大学書林の四週間ものが多かった。ということろでふと思い出したが、私もそれで当時エスペラントを学習した。
 話を本書のほうに戻すと、終章では、外国語を学ぶ上でのヒントなども書かれて示唆深い。なかでも「やる気が起きないときは」が、膝を打つ。

 語学というのは不思議なもので、調子がいいときはドンドン進めたい気分になるのだが、ダメなときはとことんダメである。教科書を読んでも、目は紙上を虚しく走るばかりで、頭にちっとも入ってこない。問題集を解いても間違えてばかり、楽しくないな。かつてはあれほど輝いて見えた外国語なのに、いまや単に鬱陶しいだけ。こんな虚しい作業をするより、はるかに有意義なことが人生にはあるのではないか。いや、きっとあるに違いない。
 そこで、語学から少しだけ遠ざかってみる。
 するとそれが、永遠に遠ざかることになってしまうのである。

 言い得てていておかしい。
 対処が書かれている。一つは、「関係のありそうなことをする」である。まあ、これもよくわかる。文化でも旅行関連でも、映画でも、その国の言語を学びたいというモチベーションに関わる。
 もう一つの対処が実際的である。

 毎日の勉強に、単純作業を盛り込むといい。
 (中略)もっと簡単な作業をすると決めておく。毎日するのが目標だから、複雑なものはダメで、頭が働かなくてもできる作業がいい。
 たとえば、声に出して読む。
(中略)
 また、単語集を少しずつ書き写す。毎日決まった数の単語や文を、ノートに書き写していく。人によってはパソコンで打ち込んでもいい。こちらの作業だと、進んだ分量が目でわかるから、励みとなる。
(中略)
 なんでもいいから、毎日できそうなことを工夫するのである。

 そうだと思う。という共感は、Duolingoである。
 私の場合、連続して262日になった。我ながら、一日の休みも無く、フランス語とドイツ語は1レッスンやっている。休みで途切れた日を含めるとしばらくして一年くらいになるのではないか。
 こんなのやってもさして効果ないなあ、いい教育法とは言えないかもしれないとか、うんざりした気持ちでも、とにかくやっている。幸い、携帯でもできる。
 やっていると慣れてくる。フランス語の正書法のめんどくさい性数一致なども慣れてきた。
 それで学習成果が上がっているかというと、忘却曲線に追われている感じはするが、続けている。Duolingoに言わせると、フランス語の語彙は1832 Words、ドイツ語の語彙は1157 Words。読める推定は、フランス語が62%、ドイツ語が48%とある。まあ、そんなものだろうか。
 

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