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2015.03.19

高高度ミサイル防衛(THAAD)を巡る東アジアの文学的表現の現状について

 日本ではそれほど話題になっている印象はないが、少し考えれば日本に関連のある話題なので、というか、日本にとって重要な話題ではないかと思われるので、ブログふぜいが拾える程度で拾ってみたい。いやその、高高度ミサイル防衛(THAAD:Theater High Altitude Area Defense)についてである。
 それが何か、という説明がまずあるべきかもしれないが、当方のブログの視点としてはそれがどう日本に伝わっているか、つまり、これを日本のメディアがどう認識しているが最初の注目点なので、一昨日の共同報道から当たってみたい。「韓国国防省が中国に不快感表明 中韓外交問題に発展も THAAD配備問題」(参照)である。


 韓国国防省報道官は17日、米国が最新鋭の地上配備型迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」の韓国配備を検討していることを中国高官がけん制したことに対し、周辺国は「わが国の国防安保政策に影響力を行使しようとしてはならない」と不快感を表明した。
 軍事分野の交流も含めて中国との関係進展を図ってきた韓国の当局者としては異例の言及。北朝鮮の核・ミサイルに対応する在韓米軍の兵器配置が中韓間の外交問題に発展する見通しになった。
 韓国はこれまでTHAADについて「米国から韓国内配備に関する協議要請もない」として議論自体を避けてきた。しかし16日にソウルで中国の劉建超外務次官補が韓国外務省高官にTHAAD配備に関する「関心と憂慮」を伝え、その事実を記者団に公言した。(共同)

 あっさりとしたニュースなのだが、これだけの報道でよいのだろうかと少し首をかしげた。事実関係もこの報道からは今一つわかりづらい。
 おそらく、「として議論自体を避けてきた」という共同報道文学を現代国語風に解釈すると、こういうことを言いたいのだろう。おっと、「周辺国は」もどこか補ってみよう。つまり……韓国政府は、これまでも北朝鮮からの攻撃に備えるために地上配備型迎撃システム(THAAD)を配備するよう米国からせっつかれていたが、このことを韓国国内には知らせないでいた。ところが米国側がなんらかの理由でこれを暴露したところ、そうなのかよ、うりうり、と中国が韓国に脅しをかけてきた。つまり、中国としては、韓国が北朝鮮からの攻撃に対する地上配備型迎撃の整備はやめろというわけである……と。
 どうだろう。まあ、そういう読みはどうだろうか、ということである。この読みにはこの文学表現に満ちた記事からだけでは曖昧な点がある。

 (1)米国からの要請を韓国は国内に隠していたのか
 (2)だとしたらなぜ隠していたのか
 (3)そのことを中国は知らないでいたのか
 (4)中国は何を怒っているのか

 これらは共同の記事からはわかりづらい。というか、この報道は誰向けでどういうニュース価値として報道されているのか? わかりますか?
 ロイター報道のほうがわかりやすく、上述の疑問はいくつか解ける。「アングル:米中の板挟みになる韓国、ミサイル防衛の配備めぐり」(参照)より。長いので抜粋を分けて。


米国政府が正式に提案している訳ではないものの、米軍当局者は昨年6月以来、北朝鮮からのミサイル攻撃の脅威が高まっているとして、韓国に地上配備型迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」を配備する必要があると主張している。

 つまり、韓国政府はこのことを韓国国民に隠していた。

こうしたミサイル防衛システムの配備について、当初は静観していた中国が反対を表明し始めており、韓国政界の一部でも中韓関係への影響を危惧する声が出ている。一方、THAADの配備は米国との同盟関係強化になるという前向きな意見も韓国の議員からは聞こえてくる。

 つまり、中国政府はこの事態を事前に知っていた。
 もうちょっと言えば、裏はこういうことだろう……中国は韓国に脅しをかけて韓国民にわかるような公式なアナウンスを抑え込んでいた……、と。なんとなくそれって……、先行ってみよう。
 ロイター報道が面白いのはこの先である。

THAADは高高度で弾道ミサイルを追跡・迎撃するシステムで、射程距離圏内には中国本土の大半も含まれることになる。

 ようするに、THAADは、北朝鮮防衛を体のいい題目に掲げているけれど、米国による中国の軍事力の押さえ込みの仕組みである。そして、米国は、これをやれよと韓国にせまっていたということだ。
 補足すると、THAADにはミサイル発射を早期に探知するレーダー(Xバンドレーダー)も伴うため、中国国内のミサイル基地の動向が「見える化」される。もうちょっと言えそうなことがあるが、ここでは控えておく。
 ところでこの話題がどう降ってきたのかというと、2月10日、米国防総省カービー報道官がこの件を言及したことがきっかけだった。
 当然、韓国政府は、それはないよ、ということだったのに米国側から暴露されため震えたって否定にまわり、この時点では、カービー報道官も発言を撤回した(参照)。だが、経緯を見れば、米側としては意図的にやった芝居だっと理解してよいだろう。
 なぜそんな暴露を米国はやったのかといえば、米国が中国に接近しつつある韓国に対して怒り、とまではいえないにせよ、不満を持っていたことだろう。
 そして、この韓国に対する米国の不満の文脈で、その近日の出来事を見ると面白い。2月27日の、シャーマン米国務次官による、アジアの政治指導者らは旧敵国を安易に中傷すべきでないという発言は、韓国を日米軍事同盟側に引き戻そうとする意図があったと見られる。
 韓国政府としては、THAADの暴露について、突然の事態に困惑している、という振りをしているが、実はシャーマン米国務次官による暴露は昨年10月24日のスカパロッティ在韓米軍司令官よる米ワシントンの国防総省での記者会見で前段があった(参照)。なので、中国としても事態を十分知っていたと見てよい。
 こうした流れにアジアインフラ投資銀行(AIIB)もある。
 はずなのだが、ここで国内報道を見てみよう。NHK「中国提唱の投資銀行 「多くの支持得ている」」(参照)より。

中国のねらいは
 中国がアジアインフラ投資銀行の設立を提唱する背景には、大きく2つのねらいがあるとみられます。
 その1つは「国際的な発言権の拡大」です。中国は経済規模では世界第2位になりましたが、IMF=国際通貨基金や世界銀行など、アメリカが主導する既存の国際金融機関の中では発言権が思うように拡大しないことに不満を強めているとされます。
 習近平指導部は国際社会における中国の影響力をより強めようと、金融や貿易、安全保障などの分野でみずからが主導する新しい国際的な枠組みを作ることに力を入れています。
 なかでも「アジアの経済成長に必要なインフラ建設の資金を提供する」としているアジアインフラ投資銀行は、各国からの賛同を得やすいとみていて、その設立は発言権の拡大に向けた重要な取り組みの1つに位置づけられています。
 もう1つは、「経済成長の後押し」です。中国経済は、不動産投資の伸び悩みを背景に企業の生産活動など内需が振るわず景気が減速しています。しかし、成長の速度よりも質を重視する「新常態=ニューノーマル」という成長モデルへの転換を掲げた中国政府としては、公共事業をばらまいて景気を刺激する政策をとるのは難しいのが現状です。
 こうしたなか、アジアインフラ投資銀行を通じてアジア各国での鉄道建設などのインフラ事業を進めることで中国企業の輸出を後押しして、経済成長を図るねらいもあるとみられます。

 NHK的に書かれていてわかりづらい。
 中央日報「【時視各角】AIIBに込められた習近平の夢(1)」(参照)がわかりやすい。

 NDBが世界銀行の対抗馬ならばAIIBは日米が牛耳るアジア開発銀行(ADB)の対抗馬だ。ADBは米国の了解の下で日本が主導する。66年の設立後9人の総裁をすべて日本人が務めている。日本の思い通りに支援国と対象・条件を決めるのが常だ。日本企業のアジア進出の道具に使われているという批判も多かった。習近平は3年前、ADBへの拠出金を増やすのでウズベキスタンのインフラ建設を支援しようと提案したが、日本と米国は認めなかった。人権問題を理由にしたが、本音は中国牽制だった。

 特に陰謀論と見るまでもなく、そういう理解で概ねよいと思われる。
 さしあたっての問題は、当然、日本はAIIBをつっぱねるとして、韓国はどうかということだ。韓国はAIIBに参加するのか。
 韓国経済の実態を見れば(韓国の輸出額のうち米国向けは12%、中国向けは25%以上)、中国経済に依存しているので、参加せざるを得ないことになるだろうし、こうした事態になったことは、米国の対中戦略に大失態をも意味する。フィナンシャルタイムス記事「中国主導のAIIBで亀裂生まれる米同盟」(参照)で「アジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立に向けた動きが米国の外交政策の大失敗になりつつある」と評価するのも頷ける。
 当然ながら、韓国のAIIB参加は米国の逆鱗に触れることにもなりかねないので、現時点では韓国政府は、THAAD同様、何も決まってないとしている(参照)。
 さて、どうなるか。
 現実のところ、AIIBについては韓国は参加する以外に飯を食う道はない。それ以外にあるとすれば、経済面でも日本と連携するということだが、AIIBでは米国とともに窮地にある日本としても、好ましいかというと微妙なところだろう。日本としては、韓国は「我が国にとって最も重要な隣国」ではあるものの、「我が国と、自由と民主主義、市場経済等の基本的価値観を共有する」国ではない。むしろインドネシアなど東南アジアの経済と連携したほうがよい。さらにいえば、経済はしょせん経済なので、公正な仕組みがでればいいのだから、TPPを推進することが好ましいとなるだろうし、中国としてはなんとしてもそこを阻止したいだろう。
 THAADについてはどうか。ここは難しいところで、韓国も、国家の存立を考えるなら、日本と同様、米国側の押しを飲む他はないように思える。しかし、これに逆らって中国と一体化するのか……だが、そういう動向もありえるだろう。
 日本としては、THAADは米側としては日米軍事同盟に整合するものであり、その方向にゆっくり向かっているし、中国からの経済的な脅しからはまだ少し余裕がある,と思いたい。
 韓国はどうなるんでしょうね。他人事のように見るのもなんだが、以上のような内情を考えると、他人事のように見たいなあという感じがしてくる。なんだか、いっそうやっかないなことになりそうな感じもするし。
 
 

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2015.03.09

[書評] 寄り道ふらふら外国語(黒田龍之助)

 このところロシア語学習関連で見かけることが多い黒田龍之助氏の書籍で、たまたま見かけて読んだのが『寄り道ふらふら外国語』(参照)だった。表題どおり、氏が専門のロシア語以外にいろいろと学んだ外国語について触れているエッセイ集である。当初、フランス語について雑誌に連載したものの、それに合わせて他の言語をまとめて一冊にしたものだと言う。

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寄り道ふらふら外国語
 ロシア文学者がフランス語習得必須なのは、翻訳書であればトルストイやドストエフスキーなどを読んできた私にも理解できる。実際、本書では、トルストイ『戦争と平和』でフランス語で書かれている原文が掲載されている。ロシアを知るにはフランス語は欠かせない。
 加えて、ロシアの近代化ではドイツの影響が多いことから、ドイツ語もほぼ必須である。と考えてみれば、ロシア語の専門である氏がその三か国語を習得していても当然だろう。
 加えて英語も戦後日本の教育を受けた点から普通に習得しているだろう。つまり、ロシア語専攻なら、普通に4か国語はできるということになる。これに母語の日本語を加えると、5か国語になる。普通にポリグロットになる。
 実際にロシア語を私も学んでみて、外来語が多いのに驚く。ざっくり18世紀にドイツ後語、19世紀にフランス語語、20世紀に英語という感じだろうか。振り返ってみると日本も似たようなものなので、日本の近代文化を理解する上でも、英仏独語の三か国の基本を学ぶことは避けがたい。日本でいえば、これに中国語が追加されるだろう。
 本書では、ふらふらの寄り道として、中国語は含まれていない。一章のフランス語についで、二章がイタリア語、三章がドイツ語、四章がスペイン語、そして、四章で言語学について少し言及がある。イタリア語やスペイン語も独立した言語だが、フランス語と似たラテン語系であるので、そこまで延びてもそれほど違和感はない。
 著者は64年生まれなので、57年生まれの私とは随分歳差があるのだが、シルヴィー・バルタンの話などは、自分と同じ世代の文化だなという感じがする。「新書にフランス語がたくさんあった頃」というコラムがあるが、70年代はファッションや哲学(実存主義)などでフランス語が先端の文化・知性の言語のように受け止められていた時代があったものだった。総じて、自分と同じ世代の文化としても共感して読めた。
 なかでも、思わず、おおっと感嘆したのは種田輝豊『20カ国語ペラペラ』である。高校時代の友人がこれにはまっていた影響もあって、私もラインマーカを引いて読んだものだった。
 先日ふと同書を想いだして実家の書棚を探したのだが、見つからなかった。アマゾンを見るととんでもないプレミアムがついている。また、ネットを調べるとあの時代、この本の影響を受けた人が多いことも気づかされる。最近思うのは、種田氏が落書きにはアラビア語がいいと書いていた(と記憶している)のにちなんで、自分もアラビア語で落書きとかできたらいいなとか少し思う。
 余談が延びるが種田氏の同書が1969年で当時氏は30歳だった。その後はアルクの前進を作られたように聞いたがよく知らない。彼には特に変わった学習法はなく、大学書林の四週間ものが多かった。ということろでふと思い出したが、私もそれで当時エスペラントを学習した。
 話を本書のほうに戻すと、終章では、外国語を学ぶ上でのヒントなども書かれて示唆深い。なかでも「やる気が起きないときは」が、膝を打つ。

 語学というのは不思議なもので、調子がいいときはドンドン進めたい気分になるのだが、ダメなときはとことんダメである。教科書を読んでも、目は紙上を虚しく走るばかりで、頭にちっとも入ってこない。問題集を解いても間違えてばかり、楽しくないな。かつてはあれほど輝いて見えた外国語なのに、いまや単に鬱陶しいだけ。こんな虚しい作業をするより、はるかに有意義なことが人生にはあるのではないか。いや、きっとあるに違いない。
 そこで、語学から少しだけ遠ざかってみる。
 するとそれが、永遠に遠ざかることになってしまうのである。

 言い得てていておかしい。
 対処が書かれている。一つは、「関係のありそうなことをする」である。まあ、これもよくわかる。文化でも旅行関連でも、映画でも、その国の言語を学びたいというモチベーションに関わる。
 もう一つの対処が実際的である。

 毎日の勉強に、単純作業を盛り込むといい。
 (中略)もっと簡単な作業をすると決めておく。毎日するのが目標だから、複雑なものはダメで、頭が働かなくてもできる作業がいい。
 たとえば、声に出して読む。
(中略)
 また、単語集を少しずつ書き写す。毎日決まった数の単語や文を、ノートに書き写していく。人によってはパソコンで打ち込んでもいい。こちらの作業だと、進んだ分量が目でわかるから、励みとなる。
(中略)
 なんでもいいから、毎日できそうなことを工夫するのである。

 そうだと思う。という共感は、Duolingoである。
 私の場合、連続して262日になった。我ながら、一日の休みも無く、フランス語とドイツ語は1レッスンやっている。休みで途切れた日を含めるとしばらくして一年くらいになるのではないか。
 こんなのやってもさして効果ないなあ、いい教育法とは言えないかもしれないとか、うんざりした気持ちでも、とにかくやっている。幸い、携帯でもできる。
 やっていると慣れてくる。フランス語の正書法のめんどくさい性数一致なども慣れてきた。
 それで学習成果が上がっているかというと、忘却曲線に追われている感じはするが、続けている。Duolingoに言わせると、フランス語の語彙は1832 Words、ドイツ語の語彙は1157 Words。読める推定は、フランス語が62%、ドイツ語が48%とある。まあ、そんなものだろうか。
 

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2015.03.02

[書評] ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由(ジョシュア・フォア)

 どちらかというと偶然に読んだ本だったか、これがとてつもなく面白かった。どう面白いのかというと、多面的だが、まさにこういう本が読みたかったという思いにズバリと突き刺さる本だった。

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ごく平凡な記憶力の私が
1年で全米記憶力チャンピオンに
なれた理由
 内容は邦題が示しているように、ごく平凡な若者が、一年間の記憶術の訓練で全米記憶力チャンピオンになるまでの話を軸に、記憶術がどういうものか、また人間の記憶能力とは何か、ということだ。実に上手に描き出されている。私にとって一番面白かった点は、記憶術の歴史に関連する部分ではあったが、その他の面も面白かった。
 正確にいうと、著者は「ごく平凡な若者」とは言えない。邦題どおり「 ごく平凡な記憶力」だったとは言えるだろう。だが、本書にも触れられているが、全米記憶力チャンピオンは国際的にはど田舎と言っていい。欧州のチャンピオン達にはかなわない。もっともそれでも全米一は驚くべき記憶力である。
 というわけで、本書は、記憶術のハウツー本ではないが、超人的な記憶力を達成する技術、訓練法、秘密が惜しげもなく公開されている。
 繰り返すが、ハウツー本ではないので、具体的なレッスンプログラムなどは書かれていない。が、おそらくこの本をきちんと解析すれば自分なりにそうした練習プログラムなどは作れるだろう。
 なにより、記憶術というものの本質をこれほど的確に描いた本はないのではないか、ということが、この書籍の執筆時点の最新の記憶術を通しても理解できる。同時に、今後どのように記憶術が開発されるのかという概要もわかる。記憶術の開発現場のようすがわかる。
 本書が面白いのは、そうした、ある神秘的とも熱狂的にもなりうるこの分野が、どちらかというと冷ややかに描かれていることだ。
 この記憶力チャンピオンなるものは、以前はよく日本のテレビなどでも見かけたものだが、例のマインドマップの創始者でもあるトニー・ブザンが始めたもので、本書にも彼が登場する。だが、彼について書かれた書籍の多くが心酔者であるか、表層的な批判者であるのに対して、著者はブザンを評価もしている反面、ある意味で本質的な批判の視点をもって描いている。ブザンという人間がよく理解できる。
 同様の対象となるのが、『ぼくには数字が風景に見える』(参照)の著者ダニエル・タメットである。彼は、イギリス人のサヴァン(知的障害や発達障害などがあるものの、特定の分野に天才的な能力を発揮する者)として知られ、実際のその天才的な能力はメディアでもよく取り上げられる。著者は彼の天才的な能力、とくに記憶力とされているものが、記憶術の応用ではないのかという疑いを持ち、肉薄していく。描写はスリリングである。この部分の本書の印象を言えば、タメットが天才であるのは疑問の余地が残る。とはいえ、タメットの結果としての言語習得の才能は天才的であることには実証されているように疑いようもない。おそらくは特殊な記憶術の成果なのではないか。
 ブザンやタメットへの懐疑を通して、人間の頭脳の能力とはどういうものなのかも本書では追求され、この時点の最新科学などにも言及されている。そもそも著者が記憶力チャンピオンになれた要因の一つはこの分野の科学研究の一環でもあったためだ。
 関連して描かれる長期記憶のないEPと呼ばれる人物の描写も面白い。彼は、ある種、クリシュナムルティや禅の「境地」と呼ばれるものにも似ていて、笑えるといってはなんだが、人間の脳構造といわゆる「悟り」なるものの関連が推測される。本書から逸脱するが、仏教とは案外、人間の脳の仕様ミスのパッチ技術なのではないだろうか。
 多面的に面白い書籍なのだが、私が一番興味引かれたのは、記憶術の歴史である。これが西洋ではローマから、いや古代ギリシャから、延々とした歴史を持っていたことの解説は非常に興味深いものだった。長年抱いていた疑問がかなり氷解した。
 結局、人類は、書記システムや印刷技術によって、つまり、文字を書くということで、記憶術という脳の技術を失っていったという指摘も、このように具体性を帯びる説明によって、かなりいろいろなことを考えさせられた。
 本書は日本では2011年に出版された本で、現在ではそう最新の情報とは言えないにせよ、とにかくこれが未読であったとは残念だったな自分、と思えるくらい面白い本だった。そういう後悔をしたい人には是非、一読お勧めしたい。

 
 

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2015.03.01

ミシェル・トーマスのロシア語学習教材を終えた

 昨年末から始めたミシェル・トーマス(Michel Thomas)メソッドでのロシア語学習をひとまずを終えた。終えたというのは、トータル・コースとパーフェクト・コースの二つである。厳密にいうと、この先に語彙拡張のコースがあるがそこまではまだ入っていない。

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Total Russian
 実感はどうかというと、よくわかった。ロシア語がこれほどよくわかるというのは、この教材以外ありえないんじゃないかという感じがした。ミシェル・トーマスを真似たポール・ノーブル(Paul noble)でドイツ語を学んだときは、なんか物足りない感があって、ピンズラー(Pimsleur)で学びなおしたが、今回はあまりその必要を感じない。
 ミシェル・トーマスの教材は、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語は彼自身が教えているが、ロシア語については、ネイティブのナターシャ・バーシャダスキ(Natasha Bershadski)が教えているので、ポーランド語がネイティブのミシェルとは違って違和感がない。他も気になって、同メソッドの中国語やアラビア語などを一部サンプルを聞いたが、これらはポール・ノーブルのドイツ語教材のように指導者と模範発音者が別れているので、ナターシャのような細かい調整や活気が感じられない。
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Perfect Russian
 教材の時間は、トータルでCD8枚分で10時間といったところだろう。ざっとこなしていく分にはそれほど難しくはない。パーフェクトのほうはCD4枚なのでせいぜい5時間程度である。なのでこちらも簡単かと思ったが、簡単は簡単だが内容が濃かった。二つのコースを通しでやって15時間くらいだが、ピンズラーとは違って、流すのではなく、ところどころポーズして自分で答えるということなので、実際にはこの1.5倍くらいの時間がかかる。20時間と言っていいだろう。
 パーフェクトに入るとき、すこし復習が足りない感があって、トータルを通しでやりなおした。案の定、よく理解してない部分があり、そこからパーフェクトに入り、こちらも2回繰り返し、さらにトータルから通しで3回目のレッスンを行った。
 全部で60時間くらいなるだろうか。だいたい2か月で60時間なので、ピンズラーの4か月分くらいに相当するかというと、内容的にはフェーズ2くらいだろうか。ただし、ミシェル・トーマスの教え方だと、ナターシャの教え方がよいのだろうか、かなりすっきりわかった。
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ロシア語のしくみ《新版》
 自分が何を理解しているのか気になって、黒田龍之助『ロシア語のしくみ』(参照)を読んでみたが、ここで触れられている文法はほとんどカバーされていたし、ミシェル・トーマス教材のほうが詳しかった。
 ロシア語を学んだと言えるかというと、ああ、わかったという実感からはそう言えそうな気がする。自然にキリル文字にも慣れた。発音もかなり慣れた。ただ、語彙は圧倒的に少ないので、これから語彙のコースを始めようと思う。これがどのくらい時間がかかるかわからない。CD4枚なのだが、かなり内容が濃いからだ。実はトータルでも語彙コースがあり、少しやってみたのだが、挫折した。もともとトータルまでを終えたから始める教材としてできているので、パーフェクトまで終えると理解しやすい。
 大学時代、第二外国語としてロシア語を学んだものだが、覚えているのは筆記体が難しくて発狂しそうだったくらいで、あとは格変化がやっかいだなくらい。他は覚えていない。今回は、動詞の完全体・不完全体から、動詞活用形までかなりわかった。特に動詞の完全体・不完全体と時制の関係は、他の印欧語との関連もありそうに思えて面白かった。
 ピンズラーでフランス語、中国語、ドイツ語、ポール・ノーブルでドイツ語、ミシェル・トーマスでロシア語、と学んでみて、いろいろ思うことはあった。どのメソッドがよいかというと、ミシェル・トーマスが優れていると思うが、では、フランス語、中国語、ドイツ語をこれで学べばよかったかというと、ミシェル自身の発音がかなりなまっているので、微妙な感じだ。だが、おそらくロシア語教材は、ナターシャのこの教材が圧倒的に優れているとは思った。
 フランス語とドイツ語はその語、デュオリンゴ(Duolingo)で毎日コツコツと学んでいる。今年の夏あたりから、ロシア語も出るらしいので、出てらロシア語も加えようかと思う。中国語は疎かになっているので、デュオリンゴ相当の教材っぽいのを自分で開発したのですこしやっている。いずれにせよ、これらの言語は毎日少しは触れようと思うが、学ぶときは、一語に絞ったほうがよいので、当面はまだロシア語の語彙を学ぶか、さらにもう一巡教材を繰り返してみようかと思う。
 語学趣味も、まあ、率直にいってそれほど身につくものでもないし、何か国語も習得したいというものでもないので、このくらいでいいやとも思うのだが、イタリア語、アラビア語、ギリシア語、韓国語なども学びたい気持ちではいる。あと、フランス人など欧州人がよくつかうアシミリ(Assimil)教材も試してみたい気はしている。
 まあ、何が優れた語学学習法かは依然わからないが、自分なりにいろいろわかったことは多い。機会があったら、本みたいにまとめてみたいものだとも思うが、どうなるだろうか。
 
 

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