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2015.02.26

[書評] 昨日のカレー、明日のパン(木皿泉)

 そういえば、小説のほうの『昨日のカレー、明日のパン』(参照)も読んでいた。面白かったかといえば面白かったし、感動したかといえば感動した。ただ、読み始める当初奇妙な戸惑いがあったのと、読後に奇妙な戸惑いがあった。しばらく、さて、どうしたものかなと思っていた。とりあえず書いておこうという感じである。

cover
昨夜のカレー、明日のパン
 当初の戸惑いは、NHKドラマの差違である。このドラマについては以前書いた(参照)。文句なく傑作と言っていいだろうと思う。書籍のほうはその原作であり、しかもNHKドラマのほうは同じく木皿泉の作品である。あるいはあるかに見える。だがここに、微妙にあるいはもしかすると決定的な違いがある。原作と他メディアによる再現・再構成という関係ではない。
 cakesのほうに『のだめカンタービレ』の書評を先日書いたが(参照)、この作品では明確にコミックが原作で、それにドラマとアニメが続いた。ドラマもアニメもよく出来た作品だったが、それがよく出来たがために人気に追われて、ドラマとアニメでは原作最終部の重要なテーマを見失うことになった。これはあくまで原作と二次的なメディア作品の差違として理解できる。ついでに言うと、これもcakesに書いた『寄生獣』(参照)だが、現在放映のアニメ『寄生獣 セイの格率』では時代差の補正を除けば恐ろしく正確に原作を再現しているのだが、だからこそ奇妙に、ある種ウルトラ・リアリスムのように微細な違いがあり、原作との差違の感覚から一種船酔いのようになる。
 話を戻すと、『昨日のカレー、明日のパン』でいうと、NHKのドラマと小説とは、かなり別作品と考えてよいのだろう。その割り切りができるまでに戸惑い、冒頭の三編「ムムム」「パワースポット」「ヤマガール」までをなんどか読み返した。読みながら、脳内にNHKドラマのシーンが再現されるのだが、それを打ち消すための読み直しであった。
 もちろん、NHKドラマの記憶をすべて打ち消す必要はないのだが、あまりも強烈な登場人物と、小説に描かれた人物との微妙な差違を確立しないことには、この作品はうまく読み通せないだろうという印象があった。
 と、同時に、そこまでして読む作品なのだろうか? むしろ、NHKドラマのほうが本格的な作品であり、小説のほうは起点であり、さらに言えば、NHKドラマをベースに別途ノベライズしてもよいのではないか、そんな思いが、「虎尾」「魔法のカード」と続いたのだが、それに続く「夕子」で、なんというのだろうか、打ちのめされた。冒頭からそこまでの文体とは異なる、芥川賞候補作品的文体とでもいうのだろうか、これは傑作短編だろうという、ぐいぐいと迫る調性の感覚が最初からある。しかし、数ページして、会話の多い、また脚本的な演劇主体的な文体に戻る。そこで、ぽっと本編作品に戻るような感じもある。それはそれでよいのだが、私としては、この短編だけは会話をもっと殺してほしかった。
 いずれにせよ「夕子」の物語はNHKドラマには挿話としては含まれているが、この短編の枠組みとしては含まれていないものである。そもそもその文体の響きはドラマには再現できないだろう。
 文字を通して描かれる、死と寄り添った内面的な空虚感は、夕子の息子・一樹の死と、その死を抱えこまされたテツコのそれまでの描写に回帰的に連続していく。この奇妙な、ある種時空を越えた連続感覚が何を意味しているのかわからないが、終わりでまた静謐な描写の文体に戻ろうとしていく。
 音楽的な構成でもあるのだが、ここで奇妙に目立つ違和感として、一樹が14歳のとき「関西でひどい地震が起こり」とあり、そこで夕子は泣き続けたというモチーフが挿入される。
 これが次の間奏的な「男子会」を経て、短い終章の「一樹」に流れ込む。ネタバレという意味合いでもないが、あっけなく、衝撃的なエンディングで、ほとんど唐突にこの小説が終わる。一樹の「生」の確実性が、テツコによって保障されたかのような、ある種、本来は未来に投げ書かれるべき希望のようなものが、死に覆われた過去に向かって投げかけられる。これはなんなんだという、奇妙な戦慄と共にまた全体を読み返すのだが、うまく消化できない。これがもう一つの戸惑いだった。
 ここで少し作品と距離を置いて、それがこの作品の欠点でもある、舌足らず、とでも言いたいような気持ちもする。そしてその気持ちは批評としてはある程度は正しいだろうが、この作品全体がもつ、奇妙な主題を取りこぼしてしまう。
 直観だけでいうのだが、おそらくこの作品は、東北大震災の鎮魂として描かれているのだろう。ただし、個別にその地震という天災の悲惨さというより、根源的に理不尽な死が我々の「生」を、人の一生を越えてまでも、通り過ぎる様子の、ある微妙な手触りを伝えるのだろう。
 私たちはえてして絶望を過去に置き、希望を未来に置く。あるいは過去に置いた希望が失われたことを現在の悲劇として描く。本書はそのいずれでもない。悲劇の本質はそのままだし、希望の本質もそのままである。おそらく、そのようなありのままが、鎮魂の一つの可能性としてこの作品で開かれようとしている。
 
 

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