« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »

2015.01.27

クーデター下のイエメン情勢など

 「イスラム国」の人質になった後藤健二さんへの連帯を示すため、フランスのシャルリー・エブド襲撃事件でのフランス人に習って、「I am Kenji」と示す日本人がいた。イスラム過激派からの攻勢に対応するということだろう。そうした気持ちはわからないではない。が、シャルリー・エブド襲撃事件で攻勢をかけたのは「イスラム国」ではない。
 もちろん、「イスラム国」ではないからシャルリー・エブド襲撃事件対応を真似るなということでもない。フランス極右勢力が「Je ne suis pas Charlie(私はシャルリーではない)」と掲げたように、日本人の一部が「I am not Abe(私はアベではない)」と掲げていけないということでもない。表現の自由が保障された国での表現は自由なのだから。
 シャルリー・エブド襲撃事件の真相が十分に解明されたわけではないが、この攻撃の主体は「イスラム国」ではなく、犯行声明を出した「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」だと見てよい。
 AQAPは、以前からその宣伝用オンライン誌「インスパイア」で、ムハンマドの風刺画を掲載してきたシャルリ-・エブド誌編集長の殺害を呼びかけていた。
 対して、「イスラム国」で、特に人質を惨殺する担当のジハード・ジョンは、これまでは米英に対して「イスラム国」への空爆中止を求めていた。今回の日本人人質についてはいつものジハード・ジョンらしくない要求だった。
 いずれにせよ、AQAPと「イスラム国」は異なる勢力であり、それどころか、敵対している。繰り返すことになるが、シャルリー・エブド襲撃事件を起こしたイスラム過激派と、日本人人質事件を起こしたイスラム過激派は対立している。「イスラム国」としては、日本人人質事件は案外、対立するAQAPの目立った活動に嫉妬覚えての対抗措置だったかもしれない。
 AQAPだが、原点はサウジアラビアでのアルカイダだった組織が、サウジアラビアでの弾圧によってイエメンに拠点を移したものだ。
 難しいのは本体のアルカイダと「アラビア半島のアルカイダ(AQAP)」の関連である。
 AQAPがアルカイダの支部的な意味合いはあり、ゆえにAQAPもアルカイダの活動だと言えないこともない。だが、アルカイダ本体がどうなっているかは、よくわからない。オサマ・ビンラディンがパキスタン国内で米国によって暗殺されたように、パキスタン近辺が拠点ではないだろうか。この地域は後の話に関連する。
 対して、「イスラム国」だが、よく言われているのは、シリアのアサド政権に対立するアルカイダ系組織でありイラクのスンニ派の過激派勢力が加わった「イラク・イスラム国(ISI)」から出来たものである。
 簡単に言えば、「イスラム国」は、アルカイダとイラク・フセイン残党と反欧米が「カリフ制」再興を目標に結託してできた。当然その文脈から言えば、「イスラム国」もアルカイダ分派とも言えるが、同じく分派のAQAPとは対立している。
 ちなみに、どちらもシーア派に近いシリア政府(およびイラン)に対立しているスンニ派の勢力である。この点も後の話に関連する。
 ここで興味深いことは、「イスラム国」のジハード・ジョンがなぜか登場しない、日本人人質を使った第二の要求において、ヨルダンにいるリシャウィ死刑囚の解放を求めていることだ。
 リシャウィ死刑囚は「イラクのアルカイダ」の指導者ザルカウィ容疑者の指示を受けて多数の殺害を起こったことで有名だ(悪名高い)が、つまり、リシャウィ死刑囚はアルカイダ本流のシンボル的存在である。
 「イスラム国」としては、リシャウィ死刑囚を持ち出して、敵対するヨルダンを困惑させたいのだろうが、なぜ対立するアルカイダのシンボルを取ろうとしているか。
 意外と「イスラム国」やそのジハード・ジョンが、単に支離滅裂というだけのことかもしれない。だが、26日に出された「イスラム国」の公式とされるバグダーディ名の声明との関連もあるかもしれない。
 今回の「イスラム国」の声明では、欧米のイスラム教徒に現地でのテロを呼びかけたが、日本への言及はまるでなかった。日本も敵対的なターゲットとされているなら、もう少し日本への配慮をしてもよさそうなものだが、なかった。実際のところ、「イスラム国」は日本には関心がない。
 声明で重要なのは、シリアとイラクに渡る現在の支配地域をさらにアフガニスタンやイラン北東部に拡大し、そこを「ホラサン州」とすると宣言したことだ。
 「カリフ制」を理念とすることから考えれば領土拡大は不思議でもないが、その地域にはタリバンがすでにいる。そのため、その州の総督は「パキスタン・タリバン運動」(TTP:Tehrik-i-Taliban Pakistan)の元幹部ハーフィズ・サイード・ハーンをすでに任命している(参照)。彼はTTPからイスラム国への離脱組である。基本的にタリバンと「イスラム国」も対立していると見てよい。
 アルカイダ本体が「ホラサン州」にあるとすれば、「イスラム国」としてはアルカイダを支配下に置きたいという欲望を持っていると見てよい。そうしてみると、リシャウィ死刑囚解放の要求もそうした文脈にあるのかもしれない。
 さて、日本との関連で注目したのは、AQAPである。だが、シャルリー・エブド襲撃事件の文脈ではない。
 AQAPの拠点であるイエメンで、AQAPを弾圧する政府と、シーア派の武装勢力(部族勢力)「フーシ」が新憲法制定を巡って24日に対立し、同派によって大統領宮殿や国営テレビ局などの政府機関が制圧され、ハディ大統領が辞任に追い込まれた。クーデターである。
 当然ながら、この両者の抗争の漁夫の利となるのが、AQAPである。そしてAQAPに対立する「イスラム国」もイエメンに乗り出してきた(参照)。
 これがどう日本に関連するかだが、直接的な関連はない。紅海からアデン湾に抜けるバブ・エル・マンデブ海峡の安定がイエメン政情が不安になることで、スエズ運河経由の輸送に問題が生じる可能性があり、その間接的な影響があるかもしれない、ということだ。
 世界貿易の8%がここを経由しているのでここが封鎖されると大混乱が起き、結果日本にも影響を与えるだろう。
 このあたりの情勢変化は、原油が高騰しはじめると、その懸念が高まると見てよい。
 この構図でやっかいなのは、フーシはシーア派であることから推測できるように背景がイランであることだ。
 以前フーシをサウジアラビアがイエメン領内で空爆したように、フーシを含んだ対立構造は、イランとサウジアラビアの代理戦争的な意味がある。そうした構図でみると、サウジアラビアのアブドラ前国王の死去を突いたのかもしれない。加えていうと、王位を継ぐサルマン皇太子は日本では報道されていないようだが、認知症かパーキンソン病を患っていると見られている(参照)ので、そのあたりもサウジアラビアの弱点と見られるだろう。
 さて、AQAPも「イスラム国」もサウジアラビアと対立しているが、いずれもスンニ派であり、イランのシーア派との協調はないので、フーシと、AQAPや「イスラム国」との連携はない。
 サウジアラビアとイスラム過激派とイランは、シリア情勢と同様の三すくみのようになっている。
 ただ、今回のイエメンでのフーシの動きを見ていると、背後にいるイランの焦りのようなものもあるかもしれない。
 だとすると、シリア、イラン、そしてロシアという連携の勢力の動きも今後活発になるのかもしれない。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.01.26

[書評] ベートーヴェンとベートホーフェン―神話の終り(石井宏)

 先日、同著者の『反音楽史―さらば、ベートーヴェン』(参照)を読んで面白かったのと、最近ベートーヴェンに関心を持っていたので『ベートーヴェンとベートホーフェン―神話の終り』(参照)も読んでみた。これも面白かった。基本的に前著のトーンでベートーヴェンの評伝をまとめてみたという感じの本である。

cover
ベートーヴェンと
ベートホーフェン―神話の終り
 表題のベートーヴェンとベートホーフェンだが、日本ではベートーヴェンと呼ばれているが、当時はどちかというとベートホーフェンではないか含みがある。そして二枚の想像画を組み合わせた表紙の絵が、その二つを暗示している。簡単に言えば、楽聖と言われるベートーヴェンと、なにかと人生に苦労したコンプレックス多きベートホーフェンである。余談だが、先日、ドイツ人の演奏家の話を聞いていたら、発音はベートーヴェンに聞こえた。現代では「ベートーヴェン」という表記でもいいんじゃないかと思えた。
 ベートーヴェンの実像はこういうもんだった、とほほ、という感じで楽しく読めるし、彼の生存していた時代についての描写も面白い。ベートーヴェン好きには関心の高い「不滅の恋人」についての言及も面白いには面白いが、この考察が決定版とは言えないのではないかとも思った。
 自分は知らなかったのだが、生前一番人気を博していたのが、通称戦争交響曲「ウェリントンの勝利」だという話が面白かった。というか、同時にあの第七が公開されていのかというのは感慨深い。まあ、なんだかんだいっても名作は古典として残っていくじゃないかという感じもした。
 基本的に面白ろ可笑しく読めるし、ベートーヴェンの脱神話化ということなのだが、それでも後期作品の圧倒的な音楽性については、著者も認めるところだし、この機会にいろいろベートーヴェンの後期作品を聞いてみると、さすがにこれはすごいやと改めて思った。
 この本で描かれている、ぽんぽん痛いよのベートーヴェン君だが、その可哀想な滑稽さがなんであれ、偉大な音楽家であることはまったく変わりようもないし、改めて「楽聖」っていうことでいいんじゃないかと思う。
 というか、そういうふうに後期作品を味わって、逆に中期から初期を下ってみると、それはそれでいい作品が多いなと思う。
 いろいろ面白い。

 こうしてカント哲学の”美は崇高にあり”という理念の体現者だったようなベートフォーフェンの”高きを目指す”音楽の座はゆらぎ、戦前には至高のベートホーフェン演奏とされたシュナーベルの全曲録音も、いまの人たちが聴けば「なに、この人、テンポがでたらめじゃない。音もまちがっているわよ」となる。そうした批評にはもはや古き佳き日の精神主義、教養主義のカケラも見えてこない。偶像は落ちたのである。

 シュナーベルの全曲録音へのその評も笑えるところがあるが、最近のピアニストのベートーヴェン演奏を聴けば、偶像というのではないにせよ、ベートーヴェンの音楽の本質は依然新しく輝いていることがわかる。
cover
ジョナサン・ビス
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集
 っていうか、レオン・フライシャーを介してシュナーベルの孫弟子になるジョナサン・ビスのベートーヴェンのピアノソナタとか、陶酔的によいです。最初は甘いなあ、凡庸だなとか思っていたけど、なんどか聴いているうちにすっかり惹かれてしまいましたよ。ビス先生についてはまた何かの機会に書くかもしれないけど、この最初の「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集」の「悲愴」もいいのだけど、 「ピアノ・ソナタ 第30番」はいいですよ。とくにその第3楽章はあるときふとその美しさに、なんか初恋のように心臓がときめいてしまいましたよ。(僕は手フェチではないけど、あの手もすごい。)
 ああ、いつか、ビスが31番や32番の演奏を公開する日もあるんだろうなあ、聴いてみたいな、と思いました。(すでにあるの?)

 
 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2015.01.25

「イスラム国」による日本人人質事件で思ったこと

 「イスラム国」による日本人人質事件について思ったことをとりあえずブログに記しておきたい。
 ツイッターのほうではすでに前もってコメントしたが、72時間の期限でのリアクションはないだろうと私は見ていた。理由は、どちらかというと「イスラム国」に対して欧米ほど危機感ももたず、脅威にも感じていない日本国民を、期限通りの処刑によって激怒させ、その結果いっそう欧米側に付かせることにすれば「イスラム国」にとって利益にはならないだろうと思われたからだ。
 「イスラム国」としては国際世界が一致するよりは、割れていたほうがよい。この手法は北朝鮮の外交戦略と同じである。ついでにいえば、西側諸国としても中東の利害は割れていたほうが、ローマによる分割統治的な意味合いで、利益にはなる。ただしシリアに端を発した今回の事態は三すくみのような複雑な分割にはなり、誰が利益かという構図は崩れてしまった。
 「イスラム国」側の思惑だが、安倍首相による17日のエジプトのカイロでの声明のタイミングが重要だろう。そこから考えれば、「イスラム国」側としてはこの声明をもって日本が西側に付いた表明と見なして、日本国民を恐怖に陥れ、自国政府への批判を高めさせることで、西側の結束を崩す狙いがあったのだろう。
 だが結果、「イスラム国」の情報戦略はしくじったと見てよいだろう。一つは安倍首相の声明は人道支援やインフラ整備など非軍事分野での平和国家日本の戦略の一環であり、直接西側に付くという表明ではない。当然そこを衆知している日本国民は「イスラム国」の無理解に違和感を覚え、他の西側諸国なら期待される「イスラム国」への共感は得られなかった。
 もう一つの失態は、これは他の西側諸国も驚いたことだが、日本人が今回の脅しに想定されたほどパニックにもならず、恐怖もしなかったことだ。
 フランスの場合は、仰々しく大まじめに反テロのデモが実施されたが、日本人では反テロデモはない。人質救出のためのデモといったものも見られない。むしろそうした動向は日本国内のイスラム組織がその代理をしてくれた。
 さらに「イスラム国」はツイッターなどSNSを使った独自の広報で西側の反政府共感者を誘導してきたのだが、日本の場合、多数のネット利用者が、逆にツイッターなどでクソコラと呼ばれる不真面目な画像を「イスラム国」に送りつける事態となった。
 日本は江戸時代の黄表紙などもそうだが、体制を洒落のめすふざけた批判文化を持っていたのに、明治時代以降、真面目な展開が多くなってきたものだが、戦後の平和期間が延びたことで、江戸時代的なふざけた国民性に回帰してきたのかもしれない。あるいは、そうはいっても、同胞が殺害されるかもしれない状況でふざけるというのは、同胞への同情という感性がそもそも薄いのか、薄れてきたということかもしれない。
 いずれにせよ、日本が、同種の恐怖を突きつけられた西側諸国とは異なる、奇妙な反応を示したことは事実であり、それは「イスラム国」が想定したものではなかった。
 こうした「イスラム国」側の失態から、日本国に恐怖を与えるという戦略は変更されることになり、ヨルダンに拘束されているサジダ・リシャウィ死刑囚の釈放という無理難題に切り替えられた。ヨルダン側としてはいくら金満日本からの懇願があってものめるような話ではない。「イスラム国」としては、日本を困らせるというよりはヨルダンを困惑させるということが意図である。実質的には対日本への情報工作は失敗に終わったと見てよい。もちろん日本政府としては、人質の解放に尽力しなければならないのは当然だが、こうした政治的な構図のなかで対応していくしかないだろう。
 今回の事件について、「イスラム国」の情報戦略の失態もだが、その前提にいくつか奇妙な点も感じられた。人質を脅す映像やその後の映像が、西側での同種の事件と違っていたからである。
 最初に公開された人質を脅す映像だが、合成されたものと見てよいだろう。ネットでは合成ではないといったネタも上がっていたが、背景の石の影向きなど不自然であり、そもそも他国向けにこの手の映像が上がったときは、偽映像ではないかという懸念を織り込んで、ジハード・ジョンは人質に触れているのだが、今回はなかった。
 また、人質の殺害映像についても疑われないようにスティルを避けて動画にしていたのだが、日本向けは異なっていた。
 とはいえ、日本政府側は、どのような情報をもとにしてかは公開していないが、人質の一人、湯川さんは殺害されたと見ている。日本政府側がどのような情報を持っているかは不明だが、その様子からすると、すでに湯川さんが殺害されてから、あの合成映像が作成された可能性は高いように思われる。
 また、人質の一人、後藤さんへの「イスラム国」からの身代金請求は以前からあったらしく、それをなぜ今回おもてに出したのかも疑問が残る。
 「イスラム国」にとって身代金獲得は組織化されたビジネスであり、ゆえに効率よく行わなければならない。現実に金銭を得るなら、トルコ側のルートを使わざるをえないし、そのルートなら日本政府側でも対応できただろう。だが、どこかで、そのビジネスの見込みが途絶えたのだろう。印象では、この部門の担当者ジハード・ジョンと「イスラム国」の外交政策はそう整合していない結果なのではないだろうか。
 今回の事件の報道に関連してもいろいろ思うことはあったが、特に同種の事件が起きた昨年9月のAFPの対応は、日本のジャーナリズムの参考なるだろう。「【AFP記者コラム】「イスラム国」の斬首動画が報道機関に突きつけた課題」(参照)より。


 私たちに突き付けられた課題は、報道する義務と、記者たちの安全を担保することのバランスをどう取るか。さらには暴力のプロパガンダに利用されないように、そして犠牲になった人の威厳も守りながら、過激派が公開する写真や動画をどこまで報じるかという問題だ。


 ただ昨年の8月以来、私たちは、反体制派が支配している地域に記者を送ることはやめた。危険すぎるためだ。外国のジャーナリストがそうした無法地帯に飛び込めば、誘拐や殺害されるリスクが高い。AFPに定期的に動画などを提供していた米国人ジャーナリストのジェームズ・フォーリー(James Foley)氏が8月に、ISに殺害されたような悲劇が起こり得るのだ。反体制派が支配する地域では、外国人ジャーナリストはもはや地元住民の苦しみを外部に伝える目撃者としては歓迎されておらず、攻撃のターゲット、あるいは身代金のための「商品」として見られている。

 すでにジャーナリストが身代金ビジネスの「商品」になっていた。

 そのため、AFPはフリーのジャーナリストが、私たちが足を踏み入れない地域で取材してきた素材を受けつけないことにした。これは明確な決定であり、周知するためにもここで念を押しておきたい。フリーの記者がシリアに行って取材してきた情報も写真も映像も、私たちは使わない。
 フリーランスはシリア内戦で大きな犠牲を払ってきた。大きすぎる犠牲だ。そのようなリスクを背負おうとする彼らの背中を、私たちは押したくはない。

 この点は日本のメディアも再確認することになるだろう。
 「イスラム国」が使う残酷な動画について、どうジャーナリズムは対応するべきか?

 同時に、数々の編集倫理の問題も突きつけられることになる。人質が首を切断された動画を見たとき、最初に私たちが思うのは、ISのプロパガンダ戦略に手を貸さないためにも契約メディアに送るべきではないということだ。だがそのイメージに情報がある限り、私たち通信社にはそれを伝える責務がある。
 そのため、私たちはこうしたイメージを報じる際には、慎重に行っている。まず、その動画の情報源を特定し、どうやって入手したかを説明する。次に、プロパガンダのための暴力シーンは報じない。これが、先月から相次いで公開された人質の斬首場面をAFPが流さなかった理由だ。

 恐怖映像そのものがプロパガンダなので、それに同調しないほうがよい。
 また、彼らの主張をそのまま流すことはしないのも同様の指針になる。

 殺害場面を編集なしにすべて公開し、人質がバラク・オバマ(Barack Obama)米大統領の中東政策を非難している場面まで流したメディアもある。だがAFPはそのように強制的に言わされている動画は公開しない。

 今回の事例では、「イスラム国」側では、「安倍首相」を名指している。
 この点、ハフィントンポストでは動画そのままではないが、「後藤健二さんとみられる男性の声明全文」として論評もなく全文を掲載した。
 メディアでその全文を伝えるということはジャーナリズムの判断としてはありうることだ。しかし、テロリストの声明をなんの明瞭な論評もないままベタに掲載したという点は、ハフィントンポストはジャーナリズムとして恥ずかしいことであると、私は思う。

追記(同日)
 その後、読売新聞サイトでも「後藤健二さんとみられる男性のメッセージの和訳」を見かけた。ハフィントンポストだけの対応ではなかった。
 
 

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2015.01.21

シャルリー・エブド誌襲撃事件雑感

 ブログをなんとなくお休みしている間に、「シャルリー・エブド」襲撃事件が起きた。この件について、とくにそのスローガンについては当初メディアに解説もなかったみたいなので、それではブログで記事を書こうかなとも思ったが、その後、同種の話題も出て来たので、書くまでもないかと思って、時は過ぎた。
 事件に自体については、日本を含めていろいろと議論があった。特に欧州と米国での対応が異なっていたように、米国などでは、イスラム教徒をあからさまに侮辱するように受け取られる表現はいかがなものか、ということで、大手メディアは基本的にエブド誌漫画の引用を控えた。余談だが、自分の見ていた範囲では事件後の同誌の報道はフランス国内よりベルギーが早かった。
 この事件だが、「表現の自由」というふうに欧州風に論点が焦点化されると、これは実際のところは議論の余地はない。つまり、テロに屈することなく社会を守るしかないということだ。
 ただし、こうした下品な雑誌の存在を市民が軽蔑するということはあってもよく、これも現実のフランスの内情で見ると、そうした心情はひろく行き渡っていた。
 この事件は実に、焦点化によって様相が異なる性質がある。フランスの直後の大規模デモは「表現の自由」と「テロに屈するな」として文脈されたが、現実のフランス社会での衝撃は、同時に発生したユダヤ人殺害も同等に強く注目されていた。人命救助に当たったラサナ・バシリー(Lassana Bathily)さんへの称賛などにもその意識は反映されている。
 この点については、「国民戦線」のル・ペン(Le Pen)親子の動向も興味深かった。日本ではあまり話題にされなかったが、フランスのメディアを見るとそれなりに注目されていた。父親のジャン=マリー・ル・ペン(Jean-Marie Le Pen)は早々にデモへの違和感を表明していたのが印象的だった。AFP"Jean-Marie Le Pen : "Moi, je suis désolé, je ne suis pas Charlie"(参照)より。


"Et aujourd'hui, c'est : "Nous sommes tous Charlie, je suis Charlie." Eh bien moi, je suis désolé, je ne suis pas Charlie. Et, autant, je me sens touché par la mort de douze compatriotes français dont je ne veux même pas savoir l'identité politique, encore que je la connaisse bien, qu'elle soit celle d'ennemis du FN qui en demandaient la dissolution par pétition il n'y a pas tellement longtemps. Je ne me sens pas du tout l'esprit de Charlie. Je ne vais pas, moi, me battre pour défendre l'esprit de Charlie qui est un esprit anarcho-trotskyste parfaitement dissolvant de la moralité politique", a poursuivi le fondateur du parti d'extrême droite.

「そして今日では、『我々はみなシャルリー』『私はシャルリー(従う)』という。私は、すまないが、シャルリーではない。これまでのところ、私は12人の同胞の死に心痛む。たとえ、彼らの政治的なアイデンティティについて知りたいとも思わないし、より理解もできないとしても。また、それでも国民戦線を早々に解体したがる敵が誰であっても。私はシャルリーの精神なんて持ち合わせない。私はシャルリーの精神を守ろうと戦う気はない。あれは、政治的な道徳性というものを完全に解体する時代遅れてのトロッキイズムである。」そう極右政党の創設者はうったえた。


 まあ、苦笑が漏れるといったところではあるが、これがじわじわくるのは、シャルリー・エブド誌が政治的な道徳性を破壊するからよろしくないという考えかたからすると、日本などでも同様の意見が見られることだった。特に日本のリベラル的な人々の一部がフランスの極右政党の考えに近かったもの苦笑するところだった。
 ル・ペンおやじの戯言に耳を傾けるのもどうかとは思うが、他にも少し気になることも述べていた。

"La manière dont tout cela est orchestré me rappelle des manifestations du même type qui furent organisées avec la complicité des médias, y compris des médias de droite, lors par exemple de l'affaire de Carpentras où le Front national fut accusé d'avoir violé une sépulture dans un cimetière juif alors qu'il était parfaitement innocent. (...) Et puis il y a eu 2002, ce fut exactement le même phénomène : rassemblement orchestré par toute la presse", a déclaré M. Le Pen dans son journal de bord vidéo publié sur son site internet.

「今回の組織活動は同じようにメディアが、右派メディアまで巻き込んで結託した類似事件を想起させる。例えばカルパントラの事件だ。国民戦線はユダヤ人墓地で暴行したとされたが、完全に無罪だった。2002年もまったく同じだ。報道が組織化したのだ。」ル・ペン氏は自身のサイトのビデオ日記で語った。


 ル・ペンからはそう見えるというだけの話で苦笑して終わらせてもよいのだが、いくばくか肯ける点もあるだろう。今回の大規模デモは、フランスでは台頭しつつある国民戦線的な右派を政治的に抑制しておきたいというオランド政権側とメディア側の意思のようなものはあるかもしれないからだ。
 ル・ペンおやじと国民戦線に関連して言うと、おやじと現党首の娘とでは、基本線では同じく今回のデモへの忌避感は表明していたが、若干意見の相違もあった。娘のほうは別の場所で別の意図と称してデモはしていた。
 苦笑的な話題を抜きにすると、今回の事件は、日本では対イスラムの構図で見られるが、広義には右傾化する欧州の排外主義の全体の流れがあり、むしろ、その特徴的な部分としてのエブド誌と、またその弱い点としてユダヤ人が狙われたことのほうが重要だろう。
 現実のところ、フランス社会を維持する点では、エブド誌に象徴される「表現の自由」やライシテ(非宗教化)というより、多民族国家の維持が重要であり、そこでは現実にはスペイン系ユダヤ人の問題が問われている。
 AFP「相次ぐ反ユダヤ主義の暴力、国外移住も視野に フランス」(参照)より。

 フランス史上最悪のこの一連の襲撃事件は、同国の50万~60万人のユダヤ人コミュニティーを大きな混乱に陥れた。
 2012年3月に仏・トゥールーズ(Toulouse)のユダヤ人学校でイスラム過激主義のモハメド・メラ(Mohamed Merah)容疑者が生徒3人、教師1人を射殺した事件をユダヤ人らに思い出させたためだ。
 氏名を公表しないことを条件に取材に応じたパリ北部の食料品店で店長を務める女性は、2013~14年にかけて反ユダヤ主義者による襲撃や脅迫の件数が倍増しており、日々びくびくしながら暮らしていると語った。
 こうした中、同国を離れることを選択するユダヤ人も大勢いる。フランスを離れイスラエルに移住したユダヤ人の数は、2014年に約7000人に上り、前年の2倍となった。
 9日の襲撃事件を受けて、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ(Benjamin Netanyahu)首相は、より多くの人々に移住を呼び掛けている。
 不安の鎮静化を目指す仏政府首脳部は、イスラエルと米国に続く世界第3位のユダヤ人コミュニティーを安心させるためにあらゆる努力を行っている。

 今回の大規模デモにイスラエルのネタニヤフ首相が参じたのもこうした背景の要因がある。昨年のL'expressの"Les juifs de France affluent en Israël"(参照)が関連して興味深い。

L'an dernier, plus de 3000 Français ont fait leur "alya" dans l'état hébreu. Le gouvernement israélien prépare un plan pour encourager cette vague d'immigration.

昨年は、3,000人以上のフランス人が、ユダヤ人国家内に「アリャ」(移住)した。イスラエル政府は、この移住を奨励する計画を準備している。

Tel Aviv. 3120 juifs de France ont choisi, en 2013 d'émigrer en Israël. Un chiffre en hausse de 63% par rapport à l'année précédente.

テルアビブでは、2013年にフランスから3,120人のユダヤ人がイスラエルへの移住を選択した。数字は前年比で63パーセントアップである。


 この数年間にフランスのユダヤ人(主にスペイン系)がイスラエルに移住する事例が増えている。そして、おそらく今回の事件もそのような意味合いをもつ。つまり、フランスにおけるユダヤ人コミュニティーが解体すれば、共和国理念も自然解体してしまう。
 この問題だが、欧州が排外主義的になっていることに加えて、もう一面の要因がある。

Les experts s'accordent sur les causes de cette vague d'arrivées: d'un côté, il y a le malaise qui grandit dans l'Hexagone face à une série d'actes antisémites, dont la tuerie de Toulouse en mars 2012 a été le point d'orgue. De l'autre, la morosité économique d'une France où le chômage atteint des sommets. En face, Israël joue à plein sur sa réputation de "nation start up", jeune et innovante.

専門家らはこうした動向の理由で一致している。一方では、フランスで増長する不安が、反ユダヤ主義の一連の行為に直面していることで、2012年3月トゥールーズで起きた事件が最たるものだ。他方は、フランス経済の停滞で、失業率が急騰している。対するに、イスラエルは、若く革新のある「起動する国家」の名声を得ている。


 簡単にいうと、フランスの若者にとって希望はなく、イスラエルには希望があるというのだ。
 別の言い方をすれば、フランスでは、ユダヤ人を排撃した勢力も、当のユダヤ人のイスラエル移住も、フランスの雇用の悪化からフランスの社会への忌避感が根になっていた。
 こうした問題を政治や思想として焦点化することはそれほど難しいことではないが、雇用を中心に経済の問題を見据えるとそうした議論の限界は明らかになるだろう。

 
 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2015.01.09

[書評] 羊皮紙に眠る文字たち(黒田龍之介)

 Здравствуйте!

 というわけで、新年が明けてからロシア語の勉強を続けています。

 教材は、先日書いたようにミッシェル・トーマス(Michel Thomas)の入門用(参照)。12枚組CDで最後の2枚が語彙復習用らしいので、正味10枚。12時間くらいのレッスン。現在、4枚目がなんとか終わったところ。

 ミッシェル・トーマスによる言語教育の手法は、オーラルでしかも易しいのが特徴。たしかにCD1枚目はそうだなと思った。が、2枚目以降になるとそれなりに難しい。やはり語学に近道はなさそうだ。もちろん、それでも、この手法は、かなり易しい。

 どうロシア語の学習を進めるか?
 ピンズラーでわかったが、語学の入門時は音に専念して学んでいくと、数日経つと脳のほうが音に慣れてくるものだ。それを慌てず待ったほうがよいだろう。今回もしだいにそうした効果が出てくるように感じられる。
 とはいえ、この教材、どのように勉強しなさい、という指針は一切ないので、当初は戸惑った。
 ポール・ノーブル(Paul Noble)でドイツ語を学んだときは(参照)、この教材がもともと易しいこともあり、3日で終えた。が、ミッシェル・トーマスのだと、さすがにそこまでは無理。
 基本、ポール・ノーブルがその教材でよく言っていたように、「わかんなくなったら、わかるところまでレッスンを戻しなさい」方式にした。あと、微妙に脳みそが疲れたらおしまいにする。だいたい、1時間くらいで疲れる。

 ここまでやってみて、ミッシェル・トーマスのメソッドによる教え方はどうか?
 当初、サンプルを聴いていたときは、なるほどポール・ノーブルと同じだな、というか、ポール・ノーブルのほうがミッシェル・トーマスの真似なんだろうと思っていたが、しばらく使って慣れてみると、似ているようでけっこう違うものだなというのが実感。
 このあたりの、各種の語学学習法の話は、機会があればまとめてみたいと思っている。

 ミッシェル・トーマスのロシア語の教材の教師は、ナスターシャ・バーシャダスキ(Natasha Bershadski)さん。ミッシェルの手法を使っていると思えるほかに、ネイティブならではのナスターシャさんの独自の感性が光っていて面白い。ようは、語学というのは、メソッドより先生による面が大きいということだろう。
 ポール・ノーブルの場合は、彼はかなりのIQからして普通に天才で、たぶん、各種言語をかなり上手にしゃべれるのだろうが、そのドイツ語の教材のときには、自分では発音せず、ネイティブをアシスタントに使っていたので、発音矯正とかで直接彼のインサイトがそのまま活かされるということはなかった。その点、ナスターシャさんは、とても上手に生徒の発音矯正をやっている。

 というあたりで、ナスターシャさんの情報をググってみると、この教材を作成したころの思いが書かれている文章が見つかって面白かった(参照)。

 関連していうと、ミッシェル・トーマス自身の教材はどうかだが、彼のフランス語やドイツ語のコースのサンプルを聴くと、かなりなまりがひどいので避けていた。改めて聞き直すと、これはこれで面白いかとも思う。

 おっと、どこが、本の話なんだ?

 今回、ロシア語を学ぶにあたって、ちょっと補助教材はないかなと、いくつかあたってみて、この『羊皮紙に眠る文字たち』(参照)に出会ったのだった。

 フランス語を学んだときには、補助教材を揃えることが学習のモチベーションの向上にもつながっていたし、それが中国語を学ぶときもその傾向があったが、ドイツ語を学ぶときは、さすがに補助教材探しは減らした。それでも、『文法から学べるドイツ語』(参照)や『Collins Easy Learning German』(参照)など、いくつか役立つ書籍もあった。
 ロシア語はどうか? いくつか入門書を見ると、大学のときにロシア語を少し学んだときの絶望感が押し寄せてきて、これはしばらくやめていこうという気分になった。
 学部生のとき、大学院進学のための第二外国語の単位が少し必要だということで、ドストエフスキーを読み出した中学生のときからの憧れだったロシア語を学んだが、これがもう難しくてトラウマ。特に、筆記体の勉強で発狂しそうになり、結果、脳になんも残っていない。
 でも逆に、今回各種入門書とかを見てると、キリル文字はそれなりに覚えているものだなと思う。
 キリル文字については、学部で古典ギリシア語を学んでいたので、さほど抵抗なかったせいもある。それでもあの忌まわしい、ロシア語の筆記体!

cover
羊皮紙に眠る文字たち
スラヴ言語文化入門
 そうは言っても、ロシア語を学びだして、どういう言語なんだろと関連書籍を探していて見つけたのが、『羊皮紙に眠る文字たち』(参照)。これがめっぽう、面白い。

 ロシア語とか知らなくても、普通に読書人にとって面白い書籍だろう。もちろん、ロシア語やスラブ語に関心あると、各段に面白い。あるいは語学に関心がある人も興味深い本だろう。
 あとがきにもあるが、「スラブ世界とはなんの関係もないさまざまな人びと」も読者とした、特に高校生、を念頭に書かれたというのが納得できる。
 ウクライナ語とロシア語の関係も実体験で書かれていて、こういう機微を知ると、現状のウクライナ情勢への考えも深まる。

 読みながら、我ながら、こんなことも知らなかったなぁ、ヒャッハー、がけっこうある。先ほど、私の大学時代の語学のことに触れたが、著者は大学でロシア語を教えていて、最初は学生にじっくりキリル文字を教えるらしい。思い返すと、私はそのあたりで、脱落したのだろう。
 他、ヒャッハーの例として思ったのは、「ア音化現象」がある。


 いま指摘したように、ロシア語は単語のなかで一つの母音だけを強く発音する。では残りの母音はどうなるか。当然、弱く発音される。標準ロシア語の場合、アクセントのないoは、アクセントのないaと同様に軽く〈ア〉と発音される。つまり、oとaの区別がなくなるわけだ。この現象をロシア語では「アーカニエ」という。日本語でなんと訳してよいのか分からないが、ここでは「ア音化現象」と名付けておこう。標準ロシア語ではこの「ア音化現象」が規範となっている。だからせっかく苦労して文字を覚えても、実際の発音と少し違うことになってしまうのだ。
 なんとも不条理な現象だ。しかしこれに納得がいかないのは、何も外国人ばかりではない。(後略)

 このあたりは、ナスターシャさんも、英語のシュワを引いて説明していたし、言語学的には音韻としては同じだろうが、ア音自体は弱化では十分に説明できないなと思っていたので、この本の説明で納得した。
 たとえば、"хорошо"とか。「ホロロショ」ではない。ハラショー!
 ほかに、"Москва"も、「モスクヴァ」ではなく、「マスクヴァー」。

 正書法としては、基本正書法は音韻論を追うほうがよいので、そう考えてしまえば、「ア音化現象」はロシア語の正書法の問題ではないけど、発音としては、音自体がかなり違う。
 この「ア音化現象」関連でいうと、本書にも話があったけど、"Достоевский"も「ドストエフスキー」ではなく、「ダスタイェフスキ」。
 「ベートーベン」でも思ったが、日本語の外来語表記は、かなりゆがんで定着している。「ファオスト」も、「ファウスト」だし。

 今後のロシア語学習だが、とりあえず、入門終わったら、おしまいにするつもり。
 筆記体のトラウマを呼び起こすのもなんだけど、本書を読んでみて、ロシア語教師である著者はたぶん嫌うと思うが、現代ロシア語でも、表記はローマ字化、つまり、拼音(ピンイン)でいいんじゃないかと思う。
 例えば、"Достоевский"も、"Dostoyevskiy"でいいのではないかと。

 北京語でも思った連想だけど、ロシア語の入力として、そもそもどうやってラテン字母キーボードでキリル字母入力しているか調べてみると、ピンイン方式もあるようだ。
 そこまでロシア語を書くニーズはないように思うが、もしロシア語をさらに学ぶようなら考えてみたい。

 У меня русский интересно.
 U menya russkiy interesno.

 語学学習といえば、Duolingoだが、これで英語からロシア語を学ぶコースの公開は、まだまだ来年くらいになりそうだ。あれ、どうやってキリル字母を入力させるつもりなんでしょうね?
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015.01.01

2015年、あけまして、おめでとう

 2015年、あけまして、おめでとう。
 こんな日が来るんだなというのは、僕には驚きです。タイムマシンに乗って未来に到着したような気分です。
 そういえば、2000年になったときも、わーお、21世紀だ、と感激したのに、あれから15年です。もっとも21世紀は2001年からでしょうか。まあ、細かいことはいいでしょう。
 昨年は、自分には本当に速く過ぎました。それをいうなら東北震災からもうすぐ4年にもなろうとしています。そう考えるとあっという間で、しかも、この間、震災が象徴するように、世の中、あんまりいいことなかったなという感じがします。
 自分はというと、この間、自著を書いたり、信仰みたいなものを見つめ直したり(信仰を深めるという意味ではありません)、筋トレしたり(ちょっと中断しています)、それから、ごく初歩ではあるけれど、フランス語、中国語、ドイツ語を勉強しました。
 この年齢になっても勉強はいいものだなと語学の勉強を通して思うようになりました。
 生活面でもいろいろ変化がありました。そのあたりは、60歳くらいまで生きられて、そして自著の続編を書くときにでも書けたらと思います。まあ、それほどその点に意気込んでいるわけでもありませんが。
 語学のついでで言うと、昨日もDuolingoをやっていました。一日20ポイントくらいをもう195日続けています。ということは、もうすぐ連続200日になります。連続が途切れた日を含めると1年くらいでしょうか。
 昨日は、Duolingoであと70ポイントくらいでフランス語がレベル13に上がれるので、紅白歌合戦の初め1時間くらい見たあとは、一人静かに2時間くらいDuolingoを没頭してやっていました。
 へとへとでレベル13。やったあと思ったけれど、ここから先次のレベルに上がるために1100ポイント。のたのたやっていると、100日くらいかかります。今後はさらにきつくなるので、今年の終わりにレベル16に辿り着くかどうかくらい。
 これがレベル25まであるなんて、険しい山を望むようにも思うけど、考えてみると、才能なくても地味にやっていける勉強があるというのはいいことなんじゃないかと思っています。

cover
Total Russian
 それと、いよいよロシア語の勉強を始めました。
 ミッシェル・トーマス(Michel Thomas)メソッドで、実は昨日から少し始めていて、さすがに簡単だと思っていたけど、CDの1枚目を終えたあたりで、いや、これはこれでけっこう難しいと思うようになりました。
 あと5枚と、単語の復習に2枚あったかと。最終的に習得できるロシア語はそれでもごくごくわずか。
 大学のとき、第二外国語でロシア語をとって、すっかり忘れるものだなと思ったけれど、勉強しなおしてみると、キリル文字も大半は読めている自分を発見。あれま、少しは記憶が残っているんだ、と思いました。もうちょっと残っているといいけれど、しかたない。
 ドイツ語の勉強のときに思ったけれど、集中して勉強している語学があるときは、基本的に他に手を広げないほうがよさそうなので、しばらくこの方式でロシア語を学んで、それから、イタリア語でも勉強するかもしれません。
 よくわからないのだけど、新しい言語を学ぶというのはけっこうきつい反面、たぶん、脳にいろいろよい刺激があるんじゃないかと勝手に思っています。Duolingoでもそうだけど、できるだけの学習を地味に積み重ねていくというだけで、けっこう気分も明るくなるものです。
 というか、あまり物事を悲観的に考えるのもどうかと思うようになりました。
 もうちょっというと、「日本の」と限定していいかよくわからないのですが、知識人が権力批判、政府批判という文脈や、正義に立ちたいから誰かを批判する、というのはわからないでもないけれど、そこから奇妙に悲観的になっても、しかたないんじゃないかと思うようになりました。ブログのエントリでも「この人はわかっていない」とか批判されることがあって、いや、そんなことはわかって書いているんだけど、暗く考えても意味ないじゃんとか思うのですよね。
 今日も、日本が亡びる、とかいう議論もブログとかで見かけたけど、まあ、日本は亡びるかもしれません。でも、自分がそれに対してできることはわずかなのだから、自分が残された時間を前向きに生きていくほうが重要だろうと思います。
 ということで、ちょっとピントがそれるけれど、今年はまたピアノの学習をしようかとか、ヴァーグナーのオペラでも学ぼうかとか、あと、いろいろ演奏会とか劇とか、学習会とか講演会とか、出かけるようにしたいなと思っています。
 それほど人との交流を広げるとかいう意図もなく、ただ、自分のなかで考えていても、あまり意味ないように思えてきて。
 できるだけ楽しいことを増やして、楽しい時間を過ごしたい。今年からは特にそうしていきたいものです。
 とま、そんな感じです。
 
 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

« 2014年12月 | トップページ | 2015年2月 »