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2014.12.09

[書評]こんにちは、ユダヤ人です(ロジャー・パルバース 、四方田犬彦)

 『こんにちは、ユダヤ人です』は、ロジャー・パルバースと四方田犬彦の日本語による対談で、テーマは表題が暗示するように、ユダヤ人を巡る話題。内容はけっこうディープなのだが、彼ら自身が対談の終わりで言うように、結論のようなものはない。ユダヤ人とは何か、イスラエルはどうあるべきかといった、よくあるユダヤ人論のようなまとまった主張というのはない。そのことは本書の美点であると言ってよいと思う。

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こんにちは、ユダヤ人です
(河出ブックス)
 ロジャー・パルバースは、劇作家や文学者であるということを除くと、イスラエル以外によくいる、というか米国人に多い感じのユダヤ人の一人という印象は受ける。つまり、実質、宗教性が薄い。もちろん、当然としてユダヤ人としての歴史を背負って生きている。そのあたりの彼のルーツや彼の人生にまつわるユダヤ人としての話題もとても興味深い。
 こう言ういいかたはちょっと僭越かもしれないけれど、米国的な世界観でユダヤ人というのは何かというのを論じるなら、普通のユダヤ人はこういう感じですよ、というある地平が見渡せると思う。
 例えば、パルバースはこういうふうに自分を語る。

 ぼくは二回結婚しているんですけど、最初の妻は宣教師の娘だからユダヤとは関係ない。今の妻もユダヤ人じゃないし、子どもにはユダヤ人のことは何も教えていないです。彼らはユダヤ人のことを知らない。それでいい。ユダヤジンであることが自分の代で終わるということは、全然構わないんです。ぼくがヨーロッパでした経験、それこそ個人的な経験、ぼくが小さいときから聞いたり見たりしたこと、そのすべてを教えることはできないし、彼らの意識にはないことだからどうだっていいんです。

 現代の米国的な世界観でのユダヤ人の大半は、そんなふうに生きている、というか、私が若い頃出会ったユダヤ人の多くもそんなふうだった。ただ、本書では「ユダヤ人の母」についてのまとまった言及はないが、母系には多少いろいろあるようには思えた。
 読みながら、いろいろな挿話が面白い。あれ?、なんでこんなことに自分は気がつかなかっただろうこともいくつかあった。例えば、アンネ・フランクの母語の問題である。

アンネ・フランクはドイツ生まれでドイツ育ちだったんですけど、一九四三年にオランダに移った。オランダに行けば大丈夫とお父さんが判断した。もうちょっと警戒感があったらよかったかもしれなかった。彼女は、オランダで日記をオランダ語で書いている。

 私は彼女がドイツのフランクフルト生まれで、オランダのアムステルダムに亡命したことは知っていた。だから、母語はドイツ語だと思っていたが、反面『アンネの日記』はオランダ語で書かれていることも知っていて、自分の頭のなかでなんの矛盾もなかった。
 結論からいうと何の矛盾もないのだが、ちょっと整理すると、本書にあるように彼女の亡命を1934年としていて、彼女の生年は1929年なので、5歳ごろと見てよい。彼女はそこでその地のモンテッソーリ学校に通っている。このころからオランダ語になじんだのだろう。ただ、親との会話は何語だったのだろうか?
 その手の疑問というか、ああ、これなあ、と思ったのは次の話である。

四方田 逆に言えば日本人は、ボブ・ディランもポール・サイモンもウディ・アレンも皆単なるアメリカ人だと思って楽しんでいるんです。普通のアメリカのカルチャーだと思っているんです。ポール・サイモンの歌を聴くと、その歌詞の中に「ぼくの前世を思い出すと、仕立屋だったんだ。ぼくはいつも自分を偽っている」という一節がある。
パルバース それは典型的なユダヤ人ですよ。
四方田 ええ、でも日本人はそれが全然わからない。
 森鷗外の『舞姫』だって「エリスは町の仕立て屋の娘で」って書いてあったら、それがどういう意味があるかをどうして日本人は考えないんだろう。

 これなんだが、私は、ボブ・ディランもポール・サイモンもウディ・アレンもユダヤ人だなと思って理解してきた。『舞姫』についても、四方田のこの意見とは異なり、私はユダヤ人説を知っていた。ただ、「仕立屋」という着眼は面白いなとは思った。
 話が逸れるようだが、『舞姫』の原文を見ると、エリスとの出会いの光景に興味深くユダヤ人(猶太教徒の翁)が登場している。

 或る日の夕暮なりしが、余は獸苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に歸らんと、クロステル巷の古寺の前に來ぬ。余は彼の燈火の海を渡り來て、この狹く薄暗き巷に入り、樓上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯は直ちに樓に達し、他の梯は窖住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。
 今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、聲を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。

 「仕立て屋」は次のように書かれている。四方田の言うような「エリスは町の仕立て屋の娘で」とは異なる。

 余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。

 描写からは、「仕立物師」が重視されていることがわかることに加え、「エルンスト、ワイゲルト」も重視されている。
 「エルンスト、ワイゲルト」はドイツ語では"Ernst Wiegert"だが、この"Wiegert"姓はユダヤ人姓が暗示されるとしてもよさそうだ(参照)。とはいえ、鴎外がどの程度それを意識していたかはわからない。あと、言うまでもないが、六草いちか『それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(参照)のようなエリスのモデル論とは別の話題である。
 さて、こういうと矛盾しているようだが、パルバースはユダヤ人なんのだなと私に思えるのは次のような、心に響く述懐である。

パルバース 相手の気持ちを理解すること。それができるのがユダヤ人だと思う。言うまでもありませんが、ユダヤ人でないとできないとは言いません。相手の靴を履いて相手側の目から地球を観察する。しかし、いわゆるホロコーストを存在理由とするユダヤ人は反対です。六〇〇万人が殺されているわけですから、これはもう本当に大災害である。だけど、いつまでもそう語れば自分が必ず加害者になる。ぼくはそう思っているんです。復讐というのは人間の心に必ず潜む。ルワンダやどこかでホロコーストが起きたら、行ってそっちの人を助ける。そっちの人の物語を書く、あるいは絵を描く。「皆さん、見てください。これがあったことをぼくたちはわかっている。それがまた起ころうとしている。だからどうか助けてください」というのがユダヤ人です。いつまでも自己憐憫の気持ちになって、一番ひどい目に遭ったのは自分だと言い続けるのは、ぼくは逆にユダヤ人じゃないと思います。だからイスラエルはユダヤ人じゃない。中上健次はユダヤ的です。それから筒井康隆も、井上ひさしもそうです。

 同種の言葉を私は他のユダヤ人で知っている(参照)。
 
 

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2014.12.08

MOCREO重低音Bluetoothスピーカー、すごかったです

 先日MOCREOのBluetooth防水スピーカーを買った話を書いた。その後もよく使っている。この用途には特に不満もないのだが(風呂極楽)、その上位版のMOCREO重低音Bluetoothスピーカー(参照)はどうなんだろうか、と気になっていた。もしかしたら、すごいんじゃないか、という感じがしたからだ。もっとも、こうした予感はよく外れる。

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MOCREO®重低音
Bluetoothスピーカー
3Dステレオサウンドサラウンド
 でも、そんなに高額でもないから、ええいと衝動買いしてしまった。
 人生変わったです。すごいです。
 そりゃ、んじゅう万円ものオーディオセットには叶わないと思うけど、これ、呆れるほど低音が出た。以前、いくつかオーディオの追加でサブウーファーとか使っていたし、Macのあの化学実験みたいなサブウーファーも使っていたけど、その比じゃないくらい、体にがっつり響く低音です。いやすげー。
 自動車用のオーディオで低音が響くのがあるけど、ああいう不自然な感じはないし、他、中音から高音の伸びもいい。正直、なんだこれ?というくらいよい、というか、自分が持っている曲をいろいろこのスピーカーで聞き直した。
 クラシックにはよい。特に交響曲とか。オケの現場で聴く迫力は無理だけど、音の延びがよくて気持ちいい。バスやドラムがきっちり聞こえる。
 でも、びっくりしたのは、宇多田ヒカルの曲。前からいろんな音が隠れていたのは知っていたし、けっこう上手に低音使っているのはわかっていた。けど、こいつで聴くと、え?というくらいはっきりして、別アレンジみたいだった。まあ、人にもよるのかもしれないけど。ちなみに、どれ?というなら、"Show Me Love"(参照)で聞き比べてみるといいと思う。MP3でも高レートならかなりきっちり聴ける。
 というわけで、これすごいっすとブログにでも書こうと思ったら、僕が買ったあと、しばらく売り切れだった。意外とディスコンかなと思って今アマゾンみたら、戻っていました。しかもなんか知らないけど、セール中ですよ。ぷんすか。
 まあ、それほどいいスピーカー持ってなくて、僕の話にダマされちゃっていいやっていう人は買うといいと思いますよ。もし買ったら、3Dサラウンドへの切り替えは「LEDライトが緑色に変わるまで、同時に+ / - ボタンを押してください」をお忘れなく。必ずしもこの機能がいいかは異論もあるかもしれないけど。
 これ買ってから、似た感じのBOSE SoundLink Mini Bluetooth speaker(参照)のことを知った。アマゾンの評価は高い。聴いたことないので、こっちのほうがいいのかはよくわからない。YouTubeの評だとおんなじくらいみたい。

 べた褒めで気持ち悪いという人もいるかもしれないので、欠点というか気づいたことを補足しておくと……。起動時にピーっとなるのがセンスがない。最初はちょっと、げっと思う。ただ、これは慣れるとも思う。
 バッテリーの持ちはメーカーでは8時間とか言っているけど、けっこう持つ。バッテリー切れは、OFF時のランプでわかるとあるけれど、僕にはよくわからない。随分聴いたなと思ったら充電しておく。
 見た目は、大きいような小さいような奇妙な形態。かなり重たい印象はある。安定感はいい。欠点を書くといってまた利点を書いてしまうのだけど、持ち運びにいい。部屋を変えたりしてあのアングルで聴きたいなというときに、このスピーカーなら簡単に移動できる。パーティ向きかも。友だちの家に持っていってもいい。持ち運び用の保護につかえるネル製の巾着袋もついていて気が利いている。
 通常の立派なオーディオシステムだと、どうしても聴くポジションが固定化されるのだけど、これはそれがない。というか、「人生変わったです」はけっこうこの要素がある。すでにオーディオシステム持っている人でも、トイレ用に買ってもいいかもしれない(トイレは冗談です)。
 いつごろこの手の小型オーディオの性能が革命的に向上したのかしらないが、この音質がたぶんスタンダードになると思うので、数年使いつぶしてまたいいのがあったら買おうか思っている。
 ついでにMOCREOというメーカーがどこの国のメーカーなのか依然わからない。韓国か中国だろうか。どう考えてもDSPの設計技術はすごいと思うのだけど。ちなみに、MOCREOという会社の製品が面白いのでその他の製品も買ってみたりしているが、どれもかなりいいという印象がある。ただ、ちょっと困ったことがあったので、サポートに連絡したら、日本語できちんと対応してくれた。

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MOCREO無線Bluetooth
レシーバー・アダプター
 話のついでになるけれど、まだ使っているテレビのサウンドシステムが悪くないのでMOCREO無線Bluetoothレシーバー・アダプター(参照)も買った。すごく小さいのだけど、性能悪くないです。自動車とかにもアダプターが合えば当然使える。
 本来だったら日本の家電メーカーがこういう製品作ってくれるといいなと思う。たぶん、作ってくれていると思うので、折に触れて日本製品の質もみていきたい。

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2014.12.07

[書評]反音楽史(石井宏)

 言語を勉強すると微妙に感覚や感性が変わってきて面白いのだけど、ドイツ語を勉強し始めて、自然にドイツ的なものに関心が向くのか、あるいは無意識がそういうふうにドイツ語的な感覚で配列されるのかよくわからないのだけど、何か微妙に変わってきて、自分でも不思議だったのだが、ブラームスとか聴くようになった。以前は好んでいなかったのに。
 聴くというより、わかるという感じだろうか。その他、モーツアルトやベートーヴェンやバッハもそうなのだが、ドイツの音楽がなんか、以前よりくっきりわかる。どうやらワーグナーにも感覚が届いてきた。(副作用で小林秀雄が以前よりわかるようになった。)
 これはいったいどういうことなんだろうか? というのとたまたまマイブームの『のだめカンタービレ』がシンクロしてしまって、どうにも奇妙なことになった。
 さらに言うと、そろそろ書こうかと思うだのけど、もう一台ブルートゥース・スピーカーを買ったら(以前ちょっと欲しいなと言ってやつ)、こいつがすげー性能よくて、クラッシックを聴いたら全然迫力違う。もちろん、ホールの広がりはないけど、低音は身体にじゎ~んとくるくらいは来る。というわけで、空いた静かな時間があれば、クラシックばかり聴いていた。そういうなかで、あれれ?と思ったことがある。
 これは未だに解けないのだが、なぜ、日本人のドイツ語学習者の発音は変なのか?ということ。おこがましい話が、たぶん、カタカナ英語と同じでカタカナでドイツ語を覚えてしまうというのがあるだろうし、戦前の日本の教育などもそうした部類だったのだろういうのもわかる。それにドイツ語はフランス語みたいに国家統制してないみたいなので、方言がいろいろあるのだろうと思うが、それにしても、あの”r”の音はおかしい。日本語だと”g”に近いはずだ。
 でも他人のことはどうでもいいやと思っていたのだが、なんとなく、これは、Bühnendeutschという「舞台発音のドイツ語」というやつじゃないかと思うようになった。つまり、人口言語的発音なんだろう、と。ほんとうかどうか自分で確認したわけではないけど、独和辞典なんかでも舞台発音だったらしい。
 考えようによっては、日本人がドイツ語を学ぶというのは、独文科とかになるし、当然文学や音楽ということだから、舞台発音のほうがよいというのもあるのかもしれない。
 それで、なんでこの奇っ怪な舞台発音ができたかだが、ウィキペディアとかみると、19世紀末らしいのだが、それにしてもこんなアルヴィオラ・トリルを使うのかとぼんやり疑問に思っていた。
 が、ふと、これって、偽イタリア語じゃね?と思った。
 モーツアルトのオペラ、『後宮からの誘拐』、『フィガロの結婚』、『ドン・ジョヴァンニ』、『コシ・ファン・トゥッテ』は全部イタリア語で、『魔笛』だけがドイツ語。その理由は知ってはいたが、それにしても、モーツアルトの時代、オペラというのはイタリア語でやるものだったのだろうし、彼自身の旅人生や父親の葛藤を見ても、イタリア志向であることがわかる。それがこの舞台発音のアルヴィオラ・トリルの”r”なんかと関係しているんじゃないか。

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反音楽史
 そのあたり、ふと、実はドイツのクラッシック音楽というのは、イタリア音楽へのコンプレックスから反動的に形成されたもんじゃないのかという疑問が沸いて、そういう話ってないのかとみつくろっていたら、本書『反音楽史』(石井宏)をめっけて読んだ。
 紹介文に「モーツァルトは名前をイタリアふうに書き換えた。なぜ、ヴィヴァルディは二百年以上も音楽史から消されていた。なぜ、真実の音楽史をスリリングに解き明かす!ドイツ人がでっちあげた虚構をあばく」とあり、興味を引くように、やや偽悪的に書かれているが、音楽史という点ではパウル・ベッカーの音楽史をたたき台にしているという他は、著者。石井宏が詳しいモーツアルトの話に、各種面白挿話をまとめた感じがした。読んで、まあ、そういうことだよねと思った。サリエリもイタリア人だし。
 本書の趣向はそれはそれとして、もう一つ以前からなんとなく、クラッシック音楽というジャンル自体、ベートーヴェンの創作なんじゃないかというのも、この本で少し納得した。ヘンデルについても、ああ、やっぱりそうじゃんとか思った。このあたり猫猫先生風味ではあるな。
 とはいえ、自分としては、「反音楽史」という着想の面白さより、ベートーヴェンからブラームスが出てくるまでのドイツのクラッシック音楽というのは、かなり芸術性が高いものだなとしみじみ思うようになった。
 あと、シューマンからブラームス、そしてそこからドボルザークという流れで、ブラームスがこのベートーヴェン的なクラッシック音楽を立て直したというの感じがしてきた。なので、これはこれでいいじゃんという感じである。
 まあ、難しいこと抜きにして、以前よりクラッシック音楽が自分には楽しくなったので満足だし、本書もふつうに読んで面白かった。
 もし、音楽に関心があって未読だったら、エンタテイメント感覚でこの本、軽く読んでみるといいですよ。

 
 

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