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2014.11.22

諸産業を「インフラ化する」こと

 以前ならいろいろブログに取り上げていた種類の話題があったが、この間、なんとなく言及しないでいた。

 沖縄県知事選挙については、辺野古新設基地問題と合わせて重要な話題だったが、ポリタスに「【沖縄県知事選】沖縄県知事選後に予想される泥沼」(参照)として寄稿した。もう数日間は同サイトに掲載されているはず。私が現在の沖縄基地問題にどういう視点に立っているかに関心がある人がいたら、お読みいただきたい。結論は、表題にも示したように泥沼化である。明るい展望は見えない。ポリタスからは選挙を終えてからの意見があるか問われたが、私の寄稿はむしろ選挙後について触れたので新しい稿は起こさなかった。今後の泥沼化の最初の指標は翁長雄志知事の辺野古対応になるはずだ。たぶん、私の想定とおりに進むだろうと思う(県側は非承認できない)。

 他、この間の、国内的な出来事といえば衆院の解散がある。年内に衆院選挙が実施される。この点も次回のポリタスに寄稿する予定でいる。

 ブログに少し書いてみようかと思ったのは、諸産業を「インフラ化する」という話だ。簡単に言うと、Googleが、各種の産業をGoogle事業のインフラとしてしまうことである。
 大した話ではない。私などが言うまでもなく、どこかで同じようなことは言われているのだろうが寡聞にして知らない。以下述べるような文脈で「インフラ化する」という用語の使い方も、他所では見かけないように思う。私の造語っぽい。

 「インフラ化する」というのは、これまで独自分野だったと思われていた分野が、Google事業のインフラにされてしまうことだ。
 子会社化や系列化ということではない。また統合化というのも違う。
 具体的な例としては、スマートフォンを考えるとわかりやすい。スマートフォンは多機能で、電話、アプリ、デジカメ、音楽プレヤーなど、それまではバラバラだったガジェットが十徳ナイフよろしく一つにまとまっている。十徳ナイフと違うのは、バラバラといっても、Googleのアンドロイド基本ソフトの元に統合されていることだ。
 それぞれの機能の製品を担っていた企業はもはや独自に製品化しても売れず、スマートフォンに組み込んではじめて製品化できうる。つまり、「これらはGoogle事業のインフラにされてしまった」。これが、「インフラ化する」という意味である。
 重要なのは「オープン化」の閉鎖性である。オープン化というと、いかにも開かれているようでいるが、実際にはGoogleに沿う以外に選択がなくなっていく。
 「インフラ化する」の概念がちょっと難しいのは、この例で言うと、スマートフォン市場を直接Googleが牛耳っているということではない。「独占する」とは異なる。あくまで、スマートフォンに統合される機能を担う産業が、Googleの事業を成り立たせるためのインフラ(基盤)に見えてしまう、ということだ。むしろ、「創発」の概念に近い。

 「創発」は、マイケル・ポランニーという物理化学者でもあり社会科学者、科学哲学者でもある思想家が提出した考え方である。創発とは、ある全体性が、その部分の性質の単純な総和にとどまらないことを示すことだ。
 生命体でいうなら、ある種の物理現象(例えばミトコンドリア内の陽子の動き)が化学現象を支え、これがさらに生命器官の活動を支える、といった上位の層の活動を生み出していく(創発していく)ことでもある。
 「インフラ化」は「創発」の逆である。Googleで言えば、各種の産業を下位の層として、その上位の層の創発として存在することだ。

 実際に私が「インフラ化する」として考えていたのは、スマートフォンではなかった。自動車産業と医療産業だった。現在の自動車産業と医療産業が、オープン化と情報化(ビッグデーター処理)によって、Google事業の「インフラ化する」だろうということだった。
 現在の自動車は限りなくコンピューター・システム化しているが、その一番の変化要因は、安全運転と効率的な都市交通である。これらは人間による運転の総体を「創発」した位置に存在する。話を端折ると、自動車が走るコンピューターになるというよりも、都市交通システム全体が一つの巨大な知性となり、自動車というコンピューターを下位の層として制御するようになる。そしてそのような下位の層の存在として自動車が製造されるようになる、ということだ。
 このビジョンを明確に描いて邁進しているのが、Googleですよ、という話である。医療についても、同様のことが進展している。

 こうした話では、Googleがそれらの分野で具体的に何をしているかということが重要になる。が、ここでは割愛。秘密部分は秘密だが、かなり公開されている。それだけ見ても興味深い。それらを見ていると、いずれ諸産業がGoogleによって「インフラ化する」というふうに思えた、ということ。
 ここでの鍵はビッグデータ処理である。ようするにクラウドでのこの処理能力を持っているのが、Googleになりそうだということである。ちなみに、この話題は以前、ゲシュテル(Ge-stell)として触れた話題の続編でもある。

 「インフラ化する」ということは、国家の視点からすると、つまり、日本国の産業発展という点からすると、危機だとも言える。もっともインフラに甘んじていてもいいのではないかという考えもあるだろうが。
 しかし実際の危機は、むしろ国家と産業というより、「人間とは何か」という古典的な問いを再提出するところにある。「自由とは何か」とも言える。諸データを瞬時に計算して適切な解答を出すGoogleの存在があれば、人間のある時点の最適行動は計算可能になる。そのとき、自由とは、愚行くらいしか残らないのではないだろうか? 「ハイエクの悪魔」とでも言いたいような感じだ。

 このあたりの問題意識はEUが先行しているようにも見える。彼らが率先してGoogleの規制に乗り出していることにも関連しそうだ。

 以上、ざらっとアウトライン的な話のだが、なにか機会があったらきちんと書きたいとは思っている。
 
 

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2014.11.17

[ドラマ]昨夜のカレー、明日のパン(NHKドラマ)

 なんの思い入れもなく、なんとなく見始めた「昨夜のカレー、明日のパン」というNHKのドラマだったが、昨晩最終回(全7話)を見終えた(参照)。傑作だった。そして感動した。この手のドラマに感動するというのは久しぶりでもあった。
 物語は、32歳の仲里依紗演じる寺山徹子と、その7年前に亡くなった夫・一樹の父親である、退職近い寺山連太郎が、場所は埼玉県あたりだろうか農村と新興住宅地の狭間にある比較的旧家に二人で暮らしている日常から始まる。
 ドラマでは徹子は「テツコ」と呼ばれ、連太郎は徹子の義父であることからそのまま「ギフ」と呼ばれている。妻を何年も前に亡くしたという設定である。役者は「料理の鉄人」で主宰役でもあった鹿賀丈史である。調べると彼は64歳にもなり、このドラマのイメージにあっている。テレビの気象予報士をしているが、そのことがドラマに興味深いトーンを与えている。
 おそらく物語の魅力の三分の一は仲里依紗によっている。スエーデン人クオーターということをすっかり忘れてしまうほど日本旧家の生活と地方都市での生活に馴染みつつ、圧倒的な存在感を表している。演技の自然さと心の微妙な揺れが、現代の若い女性の、生活感ある特有の雰囲気を表現していて驚いた。ある意味、70年代とかの古いタイプの女性のようにも思えるのは、脚本のせいもあるのかもしれない。
 何の予備知識もなく見始めたドラマだったが、数回見て、いったい誰がこのようなドラマが書けるのか疑問になり、その時点で調べて木皿泉を知り、それが団塊世代夫婦の作家であることを知った。隣人夫婦である小田和正と小田みゆきの視点がそれに近いのだろう。

cover
昨夜のカレー、明日のパン
 原作があることもこの時点で知ったのだが、ドラマの映像の完全さからして、原作との対象がどうしても想像がつかない。いったんドラマを見終えてから原作を読むことにしようと思った。
 ドラマはコミカルなタッチで描かれ、またひとくせふたくせもある登場人物たちの日常の挿話が面白い。その生活の充実と、どこにでもありそうな地方都市の風景が絶妙にマッチしていて、それだけでも面白いのだが、そうした愉快さの背後にある圧倒的な死の支配というものが、この物語のテーマであった。
 私のようにどっちかというとキリスト教かぶれの日本人から見ると、この物語は徹頭徹尾、日本的なドラマであった。神(唯一神)が存在しえない世界である。そのような観点から見るのは私くらいのもかもしれないが、神というものがありえないあまりに日本的な世界というのが演じられるのは、私にとってはしばしば恐怖をもたらす。このドラマも、私もいち日本人として愉快に受け止めつつ、半面、神が存在しえない世界の現前に、蒼白になる思いもあった。当然ながら、この世界には「悪」も「罪」も存在しない。
 しかし、対立的、あるいは批判的に見たというのではない。初回からそうした雰囲気の構えは消えた。圧倒的な強さというものがこのドラマにある。そしてこのドラマは、その死の支配からのがれ市民社会が形成されていく過程を強靱に描いていた。私などは、いったい日本にどのようにしたら市民社会が形成できるのか。疑似インテリやリベラルをぞろっと並べても愚劣なものしかできない限界というものに絶望もしていたのだが、それを打ち砕くにたる希望を描いていた。
 このドラマは、正確に、神も近代原理も抜きで、市民社会というものを描き出していたのである。おそらくこれは、西洋の市民社会に匹敵するなにかであり、さらにこのドラマは微妙に手を入れれば彼らにも理解できる不思議なドラマになるようにも思えた。
 先走って話してしまったが、主人公であるテツコは夫の死を、ギフもまた妻の死を背負って生きている。そうして死を共有しながら、家族というものがいやだなと思いつつ、二人が連帯としての擬似的な家族を演じている。だが、これがさまざまな要因から壊れて、その死の連帯を市民社会の連帯へと次第に解き放っていく。
 ドラマはリアリズムではない。ひょこひょこと死者が現れる。日本人が死者の霊と静かに共存しているリアリティというのはこういうものだろうという感じの自然さである。圧倒的なのは、第四話の法事の話である。ここではギフの亡き妻・夕子が自然に登場する。しかも、その相貌は死期なのであろう。美保純が演じているのだが、これが彼女らしい滑稽さで面白く、そしてつられてテツコの亡き夫・一樹(星野源)も現れる。テツコとギフにはその死者の姿は見えず、テツコに恋慕する岩井(溝端淳平)だけに見える。岩井はこの物語の第三の主人公で、生の世界の側を代表している。
 すでに記したが映像も圧倒的だった。特に衒ったショットもないのだが、どこにでもありそうな、衰退していく日本の地方都市の風景が、美しくなどありえないはずでありながら、美しく描かれている。この風景のなかで、私たち日本市民は生きているのであり、その風景のなかで日本の市民が生きうることを力強く訴えていた。こういうとなんだが、団塊世代の最善の成果がここにあると言ってもよいと思う。

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