« 2014年10月26日 - 2014年11月1日 | トップページ | 2014年11月16日 - 2014年11月22日 »

2014.11.07

先日、ジョセフ・ナイの講演を聴いた

 秋の叙勲受章のためだろうか、先日、米ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が来日し、各所で講演やシンポジウムに出席していた。その一つに一般人の聴講もできるものがあり、応募しみたら当選したので聞きに行った。いろいろ思うことはあったがブログに書くまでもないかなと思っていたが、少し書いておこう。

cover
国際紛争-理論と歴史
原書第7版
 ジョセフ・ナイ(Joseph Samuel Nye, Jr)は、著名な米国の国際政治学者で、国際関係に関心を持つ人なら知らない人はいないだろう。現在での影響力についてはよくわからないが、今でも国際政治学では代表者の10人、あるいは5人には入るのではないか。
 ただ77才というお年なのでそこはどうかと思っていたが、お目にかかると血色もよく、言葉も明晰で(美しい英語だった)むしろ驚く程だった。来春に新刊本を出すということで、講演はその概要ということだったが、書籍のプロモーションというほどのことはなかった。ちなみに書籍のメインテーマは、中国の台頭を国際社会はどう捉えるかということである。結論からすると、20年くらいのスパンで見るなら米国を中心とした西側諸国の脅威とはならないだろういうものだった。特に奇を衒った議論はないので、退屈といえば退屈な展開とも言えたかもしれない。
 講演を聴きながらとったメモを見直すと、中国が中東の原油に依存している意味合いを強調していた点は興味深かった。ナイらしい基調としては、中国のソフト・パワーの弱さの強調もあった。
 ところでナイに私が注目したきっかけは、自著にも記したが私が沖縄で暮らしていた時代の思い出に重なる。
 民主党クリントン政権下で1995年に少女暴行事件があり、これが米軍基地問題見直しに発展していった。この時期、国防次官補として、つまり民主党政権側のブレーンとして国際関係の問題を事実上支えていたのがナイであった。
 また、それを日本側で受けたのが岡本行夫で、講演では彼も登壇していた。私としては、ナイと岡本が並ぶのだから、沖縄問題の関連の話でも聞けることを期待していた。が、その話題はまったくなかった。
 ナイの業績ともいえるのだが、あの時代に、通称「ナイ・イニシアティヴ」、「東アジア戦略報告(EASR)」を彼が作成し、これが「アーミテージ・リポート」を介して現在至る、日米同盟の再定義に関連する基礎となっている。そのせいか、日経のシンポジウムではアーミテージと並んで出席していた。
 ナイは基本、民主党拠りであり、今後の米国の動向と合わせてそのあたりをどう読んだらいいのか、講演を聴きながら私はぼんやり考えていた。が、これも特にまとまった考えはない。
 話が散漫になるが、沖縄との関連での関心でもう一つ、先日の、彼がハフィントンポストへの寄稿(参照)にも関心があった。
 これはなかなか興味深い寄稿で、なぜか日本ではあまり注目されているふうでもないが、日本の防衛における沖縄の意味合いがまた大きく変わることを示唆している。簡単にいうと、内地の日本人には、沖縄という位置が日本の防衛にとって重要であるといった単純な議論が多いが、ナイはすでに沖縄の米軍基地そのものが米国の軍事において弱点になりうることを指摘している。まあ、このあたりの議論はいろいろと難しいし、講演では、対中戦略の質問などが出ても、ナイはこの議論には一切触れていなかった。
 そういえば、ナイの講演の後に岡本の講演があり、彼はどんな話をするのかと聞いてみたが、特に議論の骨格というものはなく、内輪の雑談という印象だったので、残念にも思えたが、逆に雑談らしくけっこうざっくばらんに言うものだなとも思った。
 岡本の話で印象に残った一つの例を上げると、中国の情報戦として、日本と米国の分断があり、さらに日本と西側諸国の分断という構図によって、中国の非民主主義的かつ非人権的な構図の転倒というのがあるとのことだった。そういう表現ではなかったが。
 その先の彼の説明も実にざっくばらんで、ようするに中国としては、安倍首相をヒットラーに重ねるイメージ戦略によって、第二次世界大戦の枢軸対連合国の構図で、日本はナチスで敵、中国は米国と同じ連合国として仲間としたいというのだ。
 まあ、冗談もかもしれないが、ネットなどを見ていると、執拗に安倍首相をヒトラーになぞらえる傾向をよく見るので、案外中国からのイメージ戦略の影響もあるのかもしれないとも思った。
 と書いてみると、思い出すのだが、岡本は、靖国問題は、内政の問題だとしていたのだが、いわゆる外国が触れるべき問題じゃない論というより、内政のプライオリティとして靖国が出ちゃうのはしかたがないんだという印象だった。こうした関連でナイに向けても質問が出たが、ナイは特に目立った意見は述べていなかった。が、韓国については、いろいろ問題があるにせよ、北朝鮮の脅威を考えると日韓は未来志向で協調したほうがいいとはしていた。
 という点で、そういえば、朝日新聞が日経のシンポジウムに触れてこういう記事を出していた。「河野談話見直しは「日本に傷」 ナイ米大教授が指摘」(参照)。

 米国の知日派で知られるハーバード大教授のジョセフ・ナイ元国防次官補は30日、東京都内であったシンポジウムで、慰安婦問題をめぐる河野談話の見直し論について、「河野談話の細部を蒸し返すのは、日本を傷つけることになる。中国や韓国、他の国が日本をたたく手段を与えてしまう」と述べ、懸念を示した。
 ナイ氏は、「(慰安婦をめぐり)日本が80年前の過去を振り返るのは大きな間違いだ」と述べ、核やミサイル開発を進める北朝鮮に対応するためにも、韓国との関係を重視すべきだとの認識を示した。同席した米国のリチャード・アーミテージ元国務副長官も「我々の国では、アフリカ系米国人の扱いを謝罪してきたし、し続けるだろう。(謝罪が)百年で十分だということにはならない」と語った。
 ナイ氏はまた、靖国神社に代わる国立追悼施設の建設にも賛意を示した。

 このシンポジウムについては日経新聞のほうも読んでみたが、私の読み落としかもしれないが該当の話は日経にはなかったように思う。
 で、この朝日新聞の取り上げ方なのだが、「核やミサイル開発を進める北朝鮮に対応するためにも、韓国との関係を重視すべきだ」というのは、私がナイ講演で聴いた彼の考えからすると、韓国や中国と過去の問題にそもそも関心を向けるのはよしたほうがいいということだ。なので、この朝日新聞が、慰安婦問題をめぐる河野談話の見直し論を焦点化するのは文脈が違うように思えた。
 自分の印象をまとめると、ナイとしては韓国や中国を刺激しても日本はヘマをするだけだから、こんな問題に手をつっこまず、もっと日本ができることをやってくれという感じだった。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.11.05

[映画] ベティ・ブルー

 手元の早川文庫の『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(参照)の奥付を見ると昭和62年8月21日発行とある。西暦だと1987年。たぶん、私はこれが出た時点で読んで感動していた。私が30歳になった晩夏である。文庫は同題の映画を当て込んだもので、映画はその年の年末に日本で公開された。オリジナルのフランスではその前年の公開だった。というわけで、私はこの映画を見るつもりだった。

cover
ベティ・ブルー
愛と激情の日々
(ハヤカワ文庫NV)
 運命というのは不思議なもので、なぜかこの映画を見ることができない。もちろん、そんなはずはないだろう、とも言える。ただ、振り返ると奇妙な成り行きだった。30代の前半は自著にも書いたがそれなりに些細な激動というか青春の終わりを引きずっていたりした。それはよい。
 1992年に「インテグラル」が公開されて驚いた。映画なのでそういうことはあるだろうと思うが、どうも1時間近く追加されたらしい。それってとんでもない話なのではないか? 別の作品と言えるだろ、それ。
 その後、2002年に「ノーカット完全版」が出た。そして2013年に「HDリマスター版」が出て、そしてこれからブルーレイの「HDリマスター版」が出るらしい。もうなにがなんだかわからない。というのも、なんとなく見る機会を逸していた理由の一つだった。
 どれが本物なのか。ここは若い頃に学んだ聖書学の応用の時である。オリジナルの基本骨格が大切になる。だから、やはりインテグラル版が基本だろう。以降は猥褻修正がどの程度入っているかということだ。猥褻シーンに関心ないの私にとってはどうでもいいことなんじゃないか。映像自体が美しいほうがよい。
cover
ベティ・ブルー インテグラル
完全版 (ノーカット完全版)

[DVD]
 と、思っていた。
 今回みたいのは「ノーカット完全版」である。思ったのは、やはりこの作品は猥褻修正すべきではないだろう。ジャン=ユーグ・アングラードの包茎ペニスがぶらぶらしているところに映像的な価値がある(気がついたのだが彼は私より二つ年上であった)。もちろん、ベアトリス・ダルのヌードも圧巻だった(こういうヌードは最近見ないように思う)。あの裸身の強烈さが風景や物語に均衡しているので、この映画作品は、オリジナルにごちゃごちゃ手を加えるべきじゃないだろ、というのは納得できた。ブルーレイで本当の完全版が出たらまた見たいものだと思う。
cover
ベティ・ブルー
愛と激情の日々
HDリマスター版 [Blu-ray]
 物語は、作家志望で世間に背を向け、リゾート地の海辺のコテージ管理をしている主人公の「ぼく」と、そこにセックス目当てに訪れる恋人のベティの物語である。ある日、彼女が「ぼく」の未発表の小説原稿を発見することから、彼の小説家の才能を信じて挫折し、そこにまた妊娠の契機もあったのだろう、次第に生活が狂気への暴走していく。映画では「ぼく」にゾルグという名前が与えられている。
 恋愛というのは本質的にこういう狂気を辿るものだと、30歳になったばかりのころの私は思った。そこは小林秀雄や吉本隆明、高村光太郎なども交えて自分語りしそうになるが、いずれにせよそう思っていた。しかたないことだろうとも思っていた(考えてみると破滅な恋愛はしなかったが無茶な恋愛はすることになった)。
 小説のほうのトーンは、あくまで「作家」という特異な男・人間で整えられている。読みようによっては、その自意識の向け方と文体についてはある時期の村上春樹の作品に近い。映画のほうでは、ゾルグとベティを巡る、いかにもフランスらしい人間の肉体と人間のコミュニティと風景が、独自の調和で描かれている。映像的に美しい。特に映画では、妊娠と人間への独自のインサイトが小説よりも独自の深みがある。ベティのイタズラを交えたピアノ曲も奇妙な悲しみの情感がある。3時間近い映画だが、とにかく美しい。
 映画を見終えてからざっと小説を読み返した。小説と映画とは随分印象が違うと思っていたが、違いというより小説作家と映画監督の感覚のむしろ微妙な協調のようなものも感じた。時代の感覚というものあるだろう。
cover
ベティ・ブルーSoundtrack
 小説のほうでは、「ぼく」はたしか35歳、ベティは30歳ほど。ベティの年の含みは大きいように思う。つまり、ベアトリス・ダルではない別の映像化もありえただろう。
 作家のフィリップ・ディジャンは1949年生まれなので、村上春樹と同じ年である。同時代性としてディジャンは春樹と並ぶ。両者とも米国的なビートニク文化の特殊な派生と見ていいだろう。
 この小説作品"37˚2 le matin"は映画の前年1985年で、そのとき彼は36歳。つまり、作品の「ぼく」は彼自身にきれいに重なる。時代背景もその時代と見てよい。ちょっとひねくれた言い方をすれば村上春樹の言う「懐かしの1980年代」である。些細なことだが、ベアトリス・ダルのこんもりとした陰毛を見ると、あれから20年のどこで陰毛を剃る文化が定着したのだろうかと疑問に思った。
 ベアトリス・ダルの当時の年齢が22歳。映画のベティ設定に近いというかまんまである。そのヌードやしゃべり方ものだが20代前半の女という感覚は映像的によく表現されている。が、その部分で原作とは少しずれがあるし、原作の"37˚2 le matin"、『その朝の体温37.2度』は妊娠を暗示しているのだろうが、30歳の女の設定であれば少し意味合いは異なる。おそらく小説作品としては、「ぼく」が女の身体を通してこの世界に生み出すもの、という意味合いなのだろう。
 

 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.11.04

[映画] 25年目の弦楽四重奏

 2か月ぐらい前からだろうか、幻聴ということでもないが、ふとしたおりに、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番(嬰ハ短調・作品131)のメロディが頭に浮かぶのである。不思議なことがあるものだなという感じで、じっと脳のなかに流れるを曲を静かに聴いていた。いや、静かでなくてもいい。喧噪のなかでも心を集中していくと、いわゆる音ではない音楽としてそれが聞こえるような感じがするのである。
 天啓のようにやってきたというような神秘的なことではない。もう20年以上も前だが、このベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番をなんども聞いていた時期があった。マッキントッシュのハイパーカードで音楽を学ぶというシリーズの第二弾がこの作品だったのだ。ちなみに、第一弾がモーツアルトの魔笛、第三弾はブラームスで、第四弾はなかったと記憶している。
 ハイパーカードを説明するのも難儀な時代になったが、ようするに音楽を聴きながらリアルタイムに各種の解説が表示される仕組みだった。オペラの学習に向いている。ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番でも、「ほら、ここに耳をすませなさい。これが、ベートーヴェンらしい情熱なのです」みたいな説明が出てくるのである。

cover
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲全集7
弦楽四重奏曲
第12&14番
 さすがにハイパーカードのメディアはもう再現できないが、気になって実家の書棚をあさったらCD-ROMが出て来た。幸い音楽部分は音楽CDとして聞ける。iPodで聞けるようにリッピングして、それからは脳内音楽ではなく、リアル音楽として聞くようになった。これをこの一か月くらい、毎日聞いている。病的というわけでもないと思うが、この音楽に取り憑かれてしまったかのようだ。
 ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番には各種の演奏があるが、私にはどれがよいのかよくわからない。私が聞いていたワーナーのはフェルメール・カルテットので聞き慣れたせいか、私には非常に合う。ただ、この音楽のもつエロス性みたいのは別の表現もあるんだろうなとか思っていた。
cover
25年目の弦楽四重奏
[Blu-ray]
 というところで、『25年目の弦楽四重奏』という映画の存在を知った。いや、この映画の名前とポスターくらいは知っていたが、特に関心を持っていなかった。まさかその弦楽四重奏がベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番だとは思っていなかったのである。
 それがわかった時点で、こういうとなんだが、この映画を作りたいと思った人の気持ちが全部わかった。T・S・エリオットの詩も、シューベルトの逸話も。映画を見る前から既視感のある映画というのも始めての体験だった。
 驚いたのが、この映画の各所にはめ込まれているベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番の各部分がよくわかることだ。そうなんだ、これなんだ、こんなふうに脳内で演奏されていのだ、という奇妙な感じがした。正確に言うと、フェルメールのとは演奏が違うので、ああ、ここはこうか、みたいにも思った。
 いずれにせよ、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番がすべてあってそこからそれをモチーフにした映画を見るというのも奇妙な体験だった。

 映画としてはどうか。いい映画だったと思う。映画として傑作かというと微妙な感じはする。
 映画としての核の部分は、ジュリエット・ゲルバートを中心とした青春の残滓だろう。オリジナルタイトルの"A Late Quartet"はそうした含みで、四角関係と言ってもいいのだろう。まさに、ジュリエットを愛した二人の男と、その愛が音楽グループ「フーガ」になることを道づけた師、というか父代わりの物語であり、その意味では、まさに女の人生の物語そのものだった。
 その矛盾は彼女の娘アレクサンドラ・ゲルバートに集約されていくあたりの脚本も上手だった。物語はゆえに、二人の男による一人の女への愛の物語でもあり、二人は二人でそれなりに男の人生というものの後半生の惨めさをよく表していた。エンディングでダニエル・ラーナーのメモに"Juliette"と記すところが、この映画の軸ではあるのだろうが、こういう表現はやや文学的に過ぎて、映画的ではないようにも思えた。
 逆に、入り乱れた二つの性交の関係は率直なところ私には嫌悪に思えた。一夜の浮気という挿話はわからないでもないが、川端康成『千羽鶴』みたいな展開は私には嫌悪の対象である。そこまで描く必要があったのかと思う。だが、脚本の論理からすると暗譜演奏と情熱の意味合いが、そういう映画表現になるのもしかたないのかもしれない。
 とま、あまりネタバレに過ぎないように書いてみたが。
 エンディングに至るベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番第7楽章 Allegroは見事なものだった。かなりエロス性の高い演奏だが、この映画にはよく調和していた。
 この映画にはもう一つ、妻を失いパーキンソン病になる老人の心という軸もあった(というか、これが四角関係を複雑にしていたのだが)、その文脈で不意に「マリエッタの唄」が出てくるのには驚いたし、亡き妻ミリアムとしてアンネ・ゾフィー・フォン・オッターが出てくるのは、鳥肌もの美しさだった。

Glück, das mir verblieb,
rück zu mir, mein treues Lieb.
Abend sinkt im Hag
bist mir Licht und Tag.
Bange pochet Herz an Herz
Hoffnung schwingt sich himmelwärts.

私の元に残る幸福よ
おいで、私の本当の愛
夜は森に沈むなか
おまえが私の光と日
心は不安げに高鳴る
希望は大空に舞い上がる

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2014年10月26日 - 2014年11月1日 | トップページ | 2014年11月16日 - 2014年11月22日 »