« 2014年10月12日 - 2014年10月18日 | トップページ | 2014年10月26日 - 2014年11月1日 »

2014.10.25

[映画]風立ちぬ(宮崎駿)

 宮崎駿の『風立ちぬ』は前評判的な情報などを聞いて少しうんざりした感じもあり、また私も、リアリズムっぽい作品が苦手でSFやファンタジー的な作品のほうが好きだし、どっちかというと、アニメ映画は子どものためにつくるもので、大人のために作っちゃいけないつくっちゃいけないような感じもしていたので、少し避けていた。

cover
風立ちぬ
[Blu-ray]
 が、見た。完全な作品だった。そのことにまず圧倒された。もちろん、三行でまとめられる大きなストーリーがないのにどこが完璧なんだよという意見もあるかもしれない。いや、そうしたストーリーこそ完全性の対極にあるものだ。
 まったく隙というもののない完全な作品だった。こんなものが創作できるのかというのが驚きだった。隙のなさはバランスの良さということもであるのだが、映像のディテールの充実にも圧倒された。緻密に歴史考証していくと間違いやフィクションとしてやりすぎという部分もあるのかもしれないが、よくここまで詳細に風景が描き出せるのものだ。
 オオバコの一カットにさえ泣けた。タバコに火をつける紙マッチのしぐさもしびれた。言葉の美しさは陶酔的でもあった。「大心配(おおしんぱい)」の響きが聞けたときには涙ぐんだ。そして私のルーツは軽井沢だし、故郷の一つといってもいいあの町の、万平ホテルあの風景はも胸締め付けられるほどの郷愁を感じた(さりげないテニスコートのシーンは戦後の天皇制の近代性への信頼もある印象を受けた)。
 映画に描かれているあの時代の風景を生活実感の延長として想起できる世代が恐らく昭和32年生まれの私で最後なのだろう。よくこれだけの映像を残してくれたなあという感謝のような思いがある。
 物語のテーマは、近代人の夢ということでよいのだろう。もちろん、巨大な作品だし、多様な読み方はできるだろう。零戦賛美というような陳腐な理解というか誤解についても作者は想定の上だろうし、戦争との関連の自己批判はゾルゲをなぞらえた人物からも語られていた。だが率直に言えば、この映画の、言語化できる思想的な意味合いなど、どうでもいい。
 意味は、近代人の夢というもののもたらす魅惑と、必然的な悪、その双方をそのままに含めて、それが時代の狂気のなかで風が立ちあがるとき、人は生きようと試みなければならない。その生への依拠に美が現れることは避けがたい。

  Le vent se lève, il faut tenter de vivre.
  風が立ち上る、生きようと試みねばならない。

 映画の冒頭のシーンで、菜穂子が"Le vent se lève"と語りかけ、堀越二郎が"il faut tenter de vivre"と答えるシーンは軽妙なのにテーマが強く暗示されて美しかった。
 菜穂子が"Das gibt's nur einmal"でリリアン・ハーヴェイ(クリステル)に重ねられたイメージで示されたシーンも心地よく感じられた。歌詞の訳は表示されなかったが、菜穂子の死を暗示する響き("Vielleicht ist es morgen schon vorbei")があった。


Das gibt's nur einmal, das kommt nicht wieder.
Das ist zu schön, um wahr zu sein.
So wie ein Wunder fällt auf uns nieder
vom Paradies ein gold'ner Schein.

これは一度だけあることで、再び来ることはない。
それは素晴らしすぎて、本当ならありえない。
だから天国から奇跡みたいに
私たちに降ってきた黄金の輝き

Das gibt's nur einmal, das kommt nicht wieder,
das ist vielleicht nur Träumerei!
Das kann das Leben nur einmal geben,
vielleicht ist's morgen schon vorbei!
Das kann das Leben nur einmal geben,
denn jeder Frühling hat nur einen Mai.

これは一度だけあることで、再び来ることはない。
これは多分ただの夢にすぎない。
生きているのはただ一度のだけかもしれない
多分、明日はもう終わっている。
生きているのはただ一度のだけかもしれない
だって、どんな春でも五月は一度だけだから。

 ふと振り返ると、この映画には英語が出て来ないのもよい。英語や英語的な批評観点からは見えにくい「生」の感性がよく表現されているようにも思えた。
 この映画をもって宮崎駿が制作を終えるということも納得がいった。そして、そうしたごく彼の個人的な了解で私の印象を語るなら、菜穂子の性交の暗示がありながらその死の描写を避けたのは、九試開発の描写を避けたことにも重なるが、そうした堀越二郎の人物像に関連しているよりも、宮崎自身のごく個人的な青春の思い出に関連しているように受け止められた。
 
 

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014.10.23

香港・雨傘革命の本当の力

 21日、香港で普通選挙を求める抗議デモのなか、デモ学生の代表と香港政府代表の対話が実施された。この問題に関心をある人なら、この対話の内容や結果に期待をもつことはないだろう。重要なのは、対話に香港政府代表を引き出したということで、それ自体がデモ側の勝利の一つとして位置づけられる。
 今後の動向がどうなるかはわからない。大筋、共産党中国政府が、香港の民主化に明示的に妥協することはないと見られる。それをすれば中国が解体してしまう。中共側としては、現状の台湾との関係と同様、言語的な規定は曖昧のまま実態を静かにねじ曲げていくという方向ならざるをえない。
 このことは、天安門事件のような流血や、李総統(大統領)選出時のミサイル威嚇のようなことを中共側がしずらい、ということでもある。しかし、中国という国はこうした常識的な視点からは捉えられない面があるので、国際社会も慢心はできない。
 今回の雨傘革命でも、そもそも中共側としては、言葉上は香港に普通選挙を認めた妥協案を出していたつもりだった。もちろん、中国にありがちなことだが、制度のからくりからは別になっている。香港でも自由に市民が立候補できないようになっていた。そのあたりの無茶なからくりを、中共側としては、武力と経済力を背景に押せば、香港側が飲むだろうと見ていたのだろう。
 そうした読みは従来の視点からはすれば合理的でもあった。だが、一部には米国民間団体など外国からの支援はあるにせよ、今回のデモはかなり深いレベルで香港市民から発生しているため(その顕著な部分は高校生の運動に見られた)、読みが外れたと言える。
 今回のデモが香港市民社会の基盤的な部分から発生してということは、中共がお好みの、標的にできる先導者や中核が不在であることを意味している。中国国内にようには弾圧しづらい。これは非常に興味深い現象でもあった。
 いずれ中国国内でも市民意識が一定段階に達すれば、この香港と同様のことが発生し、中国共産党は歴史的な幕を下ろすことになるだろう。ただ、その段階に達するまで、基礎的な経済成長が進むかどうかは危ぶまれる。
 基本線は以上のような見通しを私はもっていたのだが、もう一点、香港の本当の力を考えさせらることがあった。逆説がある。
 香港がその返還時に英国と結んだ約束では(それは同時に国際社会が履行を監視するものだが)、二制度が50年間維持することになっていた。この決断を下した鄧小平としては、実質的な資本主義化の先端として香港を貿易・金融センターとして位置づける意味合いもあった。しかし近年の動向から、中共側としては香港なくして上海で貿易・金融センターが維持できると見るように変化し、ゆえに香港を政治的に弾圧できるとしてきた。
 そこまでは私も想定していたのだが、どうやら今回の雨傘革命の進行を見ていると、上海の問題のほうがじわじわと浮かび上がってきた。
 ポイントは昨年9月29日に開催された「上海自由貿易試験区」がすでに失敗していることだ。ちょうど1年後の9月29日のWSJ「上海自由貿易試験区、開設から1年も成果は期待外れ」(参照)より。


 事業手続きの簡素化や特定業種への投資開放など、一定の変化も見られるが、企業幹部らは改革が不十分との見解を示している。上海自由貿易区管理委員会の党組書記を務めていた戴海波氏が15日に更迭されたことも、試験区の不振に拍車を掛けた。
 コーネル大学で中国を専門とするエスワール・プラサド氏は「上海自由貿易試験区では、ほんのわずかな進展しか見られない。中国では市場主導型の金融システムへの移行を目指す改革の歩みが段階的にしか進まないという低い基準で見ても、そう言えよう」と述べた。

 やっかいなのは、この問題が李克強首相批判という政治問題に変化してくると別の危険な問題になることだ。いずれにせよ、「上海自由貿易試験区」が発展していく兆しはない。いろいろ問題があるが、これは、そもそも高度な資本主義が機能しないことであり、そもそもそれを支える自由主義が機能できないからではないだろうか。

 だが、企業幹部の反応は鈍い。スウェーデンのスカンジナビスカ・エンシルダ銀行(SEB)上海支店のマーチャント・バンキング部門責任者、フレドリク・ハーネル氏は「自由貿易区として大きな魅力があるとはまだ感じられない。1年もすれば、もっと多くの進展があると期待していたからだ」と述べた。
 ハーネル氏は、試験区内での人民元建て社債の発行に関する許可や、全額出資の外国投資銀行や証券会社による中国国内の資本市場への全面アクセスなどで、飛躍的な進展が見られることに期待していたと言う。
 ハーネル氏によると、SEBは現時点では試験区内の支店開設を検討していない。同氏は「今のところ、試験区外では不可能でも区内なら可能ということが見当たらない。ただ、オフショア市場での資金調達や資本市場への完全なアクセスといった抜本的な改革がなされた場合は、支店開設を検討するつもりだ」と述べた。

 上海でのこのドジな状況は、逆に対比として香港の優位を語っていることになった。
 香港の市民社会の規範が、その貿易・金融的な機能の基盤になっているなら、これを現時点では中共はつぶせない。そこに香港・雨傘革命の本当の力の源泉があるように思われる。
 さらに、ここで香港の市民社会を押しつぶせば、中国本土側の貿易・金融規制緩和に国際的な汚点ともなるだろう。上海への期待は消える。
 中国的な考えからすれば、経済(儲け)というのは政治と分離できるという前提があるのだろう。だが実態は、市民社会の倫理と資本主義経済の規範は同質であり、そのことを中共は、本当には知らなかったのかもしれない。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.10.22

[書評]初代総料理長サリー・ワイル(神山典士)

 ミラノ風ドリア? 知らないでいたら、どうも知らないのは私くらいらしく、そのことで私のほうが驚いた。ツイッターや周りの人に訊いたりしてなんとなくわかった。調べてみて、なんでミラノ風かということもわかって、苦笑した。

cover
初代総料理長
サリー・ワイル
 それはまあそれでいい。が、「ドリア」については長年疑問に思っていたので、この機にちょっと調べたら、意外なことがわかった。昭和初期に来日した横浜のホテルニューグランド初代総料理長サリー・ワイル(Saly Weil)の創案らしい。
 後世にその料理が残って日本に定着するほどの影響力をもっていた料理人である。どんな人だったのだろうかと、ちょっと興味を持った。しかも、彼はスイス系のユダヤ人らしいというのも興味引かれる。そこで書籍を探したらそのまま『初代総料理長サリー・ワイル』という本があったので読んでみた。これは面白い。
 サリー・ワイルは、1897年(明治30年)に生まれ、1927年(昭和2年)、横浜ホテルニューグランド開業にあたり、パリのホテルから招請されたらしい。当時の年齢は30歳になったばかりなので、かなり若い人のようにも思うが、本書を読むとわかるが、その年齢で欧州の諸処でいろいろ料理の経験を積んだ人らしい。ただ、なぜこの時期に来日を望んだかというのは、著者がこだわりをもつように、いろいろ考えさせられるものがある。
cover
Kindle版
初代総料理長
サリー・ワイル
 著者は本書執筆にあたりいろいろと彼の事績を調べ、その人物像を描こうとしているが、ノンフィクションにありがちな奇妙な思い入れがない分、サリー・ワイルという人の実像は掴みにくい印象をもった。
 小泉八雲の来日前の生涯を追ったときも思ったのだが、自由な個人という陰影が深く、本質的に理解しづらい人物だと思わせる部分がある。八雲同様、女性遍歴もいろいろあったようにも察せられる。それなりの資産を形成したはずなのだが、戦禍という不遇はあったにせよ、晩年は質素に暮らしているのも奇妙には思える。
 80近い年齢まで生きて、日本の弟子からも慕われたが、直系の子どもがなかったこともあるだろうが、本書が書かれた2005年にはその墓の所在も苦労して探すように忘れられていたようだ。
 人物像に関連し、これも著者の関心をなぞることになるが、戦中日本にいたことも興味深い。最初に連想されるのはユダヤ人なので欧州を恐れたということはある。が、そのあたりも判然とはしない。それでも当時日本に残っていた西洋人たちが軽井沢の「つるや旅館」付近で事実上の軟禁状態にあった歴史なども、こういうとなんだが、面白い。。
 サリー・ワイルを一流の料理人という点から見ると、私もその存在を知らなかったのだが、同書が出るまで本格的な研究はなかったようだが、他面、これも本書でわかるのだが、きらびやかといってほどの弟子の人材・人脈を日本に残している。彼は戦後も欧州にあって、日本のフランス料理人の育成多大な貢献をしたことが本書からうかがわれる。
 そうした日本との交流の結果的な一端とも言えるのが、彼の創案の「ドリア」らしい。なぜ「ドリア」という名称なのかは本書でもわからない。
 いろいろディテールが面白い書籍でもあり。戦争だの政治・経済、あるいは大衆芸能史などで語られやすい昭和史も本書のようなハイカラな描写も見直すと興味深いものである。
 そうした逸話的な部分でちょっと驚いたのが、「ハンバーグ・ステーキ」である。私は以前から、この日本の「ハンバーグ・ステーキ」とはいったいどこの西洋料理なんだろうかと疑問に思っていた。似たようなものは米国料理にもあるが、違う。どちらかとミートローフに近いがそれでもない。そもそもパン粉を混ぜるところが面妖である。
 ところが本書にあるようにサリー・ワイルが伝えるその調理法は、なるほど現在日本のハンバーグ・ステーキに近い。というか、これだろう。印象ではあるが、日本のハンバーグ・ステーキというのもサリー・ワイルの創案なのではないだろうかと思える。
 スイス人という視点も興味深い。サリー・ワイルという人物を著者の感覚で追いながら、その視点でとても納得するのが「スイス人」という見立てである。いろいろ考えさせられるのだが、なかでも以下の一言には感銘した。

誰とも与しないかわりに誰とも対立しないという永世中立国の理念は、そうした国民の行動様式がベースになっている。
 そのことを端的に示す例として、スイスの小学校の教えの一つにこんな言葉があると聞いた。
「一つの言語を覚えると、一つの戦争がなくなる」
 この教えに、世界の中でも特異なスイスのありかたが凝縮されている。

 いい言葉である。「一つの言語を覚えると、一つの戦争がなくなる」
 世界の平和を希求する日本人としても、一つ一つ戦争を無くすために一つ一つ言葉を覚えていくとよいだろう。習得できなくても、覚えようとするだけでも、それは本当に平和につながっていくのではないだろうか。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.10.21

フィナンシャルタイムズは安倍内閣による第二次消費税増税に懸念

 安倍晋三首相は、日本経済に打撃を与えるなら、消費税率10%への引き上げは「無意味になる」とフィナンシャル・タイムズ(FT)とのインタビューで述べた。時事「消費増税、「経済に打撃なら無意味」=安倍首相、英紙インタビューで」(参照)ではこう伝えている。


 同紙電子版が19日報じたところによると、安倍首相は、消費税増税の狙いが次世代のための社会保障財源を確保することにあると強調。ただ、「他方で、われわれはデフレを終わらせるチャンスをつかんでおり、これを失うべきではない」と指摘し、「もし増税で経済が成長軌道を外れたり、減速してしまったりすれば税収が増えず、全てが無意味になってしまう」と述べた。

 該当のFT記事は19日付けの「Abe balances tax rise against economic damage」(参照)だろうか。

The Japanese economy shrank 7.1 per cent between April and June compared with a year ago after Mr Abe’s government raised consumption tax from 5 per cent to 8 per cent. A second rise has strong backing from the Bank of Japan, the finance ministry, big business and the International Monetary Fund, which all want action to reduce the country’s mountainous debt. A postponement would require a change in the law.

安倍氏の政府が消費税を5パーセントから8パーセントまで引き上げた後、1年前にと比較しすると、4月と6月の間に日本経済は7.1パーセント縮小した。第2増税は、日本銀行、財務省、大企業と国際通貨基金から強い支持を得ている。彼らはとにかく山のような国債を減らしたいのである。延期するなら法律改変が必要となる。

But Mr Abe said: “By increasing the consumption tax rate if the economy derails and if it decelerates, there will be no increase in tax revenues so it would render the whole exercise meaningless.”

しかし、「消費税増税によって、仮にこの経済が軌を逸し減速するなら、税収増加は期待されないし、すべての実施が無意味になる」と安倍氏は語った。


 特に注目に値するインタビューでもないように思われる。ただ、消費税増税見送りの意図を安倍首相が持っているとも一部で受け取られたのか、管官房長官はコメントを出していた。「「増税先送り示唆」報道を否定=菅官房長官」(参照)より。

 菅義偉官房長官は20日午前の記者会見で、安倍晋三首相が消費税率10%への引き上げを延期する可能性を示唆したとの英経済紙フィナンシャル・タイムズの報道について、「そうしたこと(先送り示唆)ではない。首相が常日ごろ発言していることを申し上げた」と述べた。
 同紙は消費税の再増税に関し、首相がインタビューで経済に大きな打撃を与えるなら「無意味になる」と述べたと報道。この発言について、菅長官は「当たり前のことだ。いつも通りの発言と全く変わっていない」と指摘した。 

 実際、「いつも通りの発言と全く変わっていない」と以上のことはないのだが、そういう含みを持つにはフィナンシャル・タイムズ側の報道からの印象もあったかもしれない。というのも、そう連想させるような関連記事が他にもFTにあった。「Abe has no easy fix for Japan’s economic woes」(参照)である。社説ではないが論説に近い。

In recent months a succession of weak economic data has raised concerns that Abenomics is stalling. This has prompted questions about whether the government should continue with a planned increase in the consumption tax next year.

この数か月、弱い経済データが連続することで、アベノミクスは行き詰まっているのではないかという懸念が起きている。このことで、日本政府が来年消費税の計画的増加を続行すべきかどうか疑問を投げかけている。



Mr Abe must decide by the end of this year whether to press ahead with the second planned increase of the tax to 10 per cent in 2015. Much depends on whether consumer sentiment bounces back in the third quarter. In an FT interview this week, he said he was considering delaying the second increase, saying the move would be “meaningless” if it inflicted too much damage on the economy.

安倍氏は、第二弾として計画された10パーセントへの2015年の増税についてこの年末までに決断しなければならない。趨勢は消費者マインドが第3四半期に回復するかにかかっている。今週のFTインタビューで彼は、第二次増税の遅延を考慮していると語り、仮にこの経済に大きすぎるダメージを与えるなら、この動向は「無意味」になるだろうとも述べた。

He is right to be wary. After all, if the effect of the tax is merely to slow the economy further, there will be no increase in tax revenues, making the entire exercise meaningless.

彼が慎重なのはよいことだ。結局、税金の効果が、さらに経済を減速させるだけなら、税収の増加はなく、その実施自体を無意味にするだろう。


 FTの社説ではないが、消費税増税第二弾延期を肯定的になぞっている。
 しかし、この記事はこの記事で、日本の消費税増税を強く否定しているわけでもない。この先話題はこう転換する。

Decisions on the consumption tax are not going to change the direction of the economy. It is only one of many factors. The government needs to persuade Japanese businesses to stop hoarding cash and invest in new equipment and infrastructure. It also needs to press ahead with labour market reforms, overhauling a workforce dominated by protected regular employees who are unproductive and difficult to fire.

消費税についての決定は、経済の方向性を変更させない。それは多くの要因のほんの1つにすぎない。この政府は、日本のビジネス界を説得し現金の貯蔵をやめさせ、新設備とインフラストラクチャーに投資させる必要がある。それにはまた、非生産的で、解雇しづらく保護された正規従業員で支配された労働力を再点検し、労働市場改革を前進させる必要がある。


 むしろ興味深いのは、FTとしては日本の経済停滞の問題の主要論点として、「解雇しづらく保護された正規従業員で支配された労働力を再点検」が挙げられていることだ。この問題は、私の印象では、日本のマスコミやネットではそのまますぐ「新自由主義」という奇妙なラベルを付けられ非難の対象となる。
 さらにFTのこの寄稿では安倍政権への期待は低い。

Mr Abe still has time on his hands before the next election, due in 2016. But the exuberance has gone out of Abenomics. Mr Abe must continue with his course and not allow himself to be distracted. However, no one should expect a miracle cure.

安倍氏には、2016年予定の次回選挙前に行政を手中にできる時間がまだある。しかし、アベノミクスの活力はもう失せている。安倍氏は責務を継続しなければならないし、気を散らしてはならない。しかしながら、この奇跡的治療を期待すべきではない。


 率直にいえば、まあ、前回の消費税増税でやっちまったな感が強く、その失態の痛手からある程度戻ることは可能であるにせよ、大きく明るい方向に転換することはなさそうに思える。さらに率直に言えば、安倍内閣後の政府にまったく明るい展望はもてない状況なので、奇妙な政局でぐだぐだやっていないで、普通の政治・外交を地味に進展させることを願っている。
 
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014.10.20

[映画]シックス・センス

 そういえば映画「シックス・センス」が面白いという人がいた。どう面白いのかと聞くと要領をえない。ネタバレはよくないからということらしい。しかし、どことなく私に向いていると勧められていたふうでもあって、気になっていた。見た。

cover
シックス・センス
[Blu-ray]
 なるほどこれは確かに、ネタバレはよくないタイプの映画だ。もしこれから見ようと思う人がいたら、ネタバレをググらないほうがいい。たぶんウィキペディアなんかも見ないほうがいいと思う。そして、この映画は十分に観る価値のある映画だった。
 私は題名から超能力系のSF映画だと思っていた。が、分類的にはホラーらしい。予断なく見始めたら、さすがにホラー映画らしい雰囲気で、これはまずったかなあと少し思った。私は、ホラー映画やスプラッタが嫌いなのである。しかし、映像は美しく、ところどころ奇妙なひっかかりを感じさせる演出である。これはトリックがいっぱい仕掛けられているのだろうということはわかった。
 物語は、冒頭に衝撃的なシーンがあった後、霊が見えるという霊能力ゆえに苦しむ少年に、児童精神カウンセラーの中年男が向き合い、しだいに心を通わせていくという枠組みの世界観でとりあえず進行していく。
 この霊能力が、第六感つまり表題のシックス・センス(The Sixth Sense)である。しかし、中盤までは、本当にこの少年に霊が見えているのか、少年の心理的な世界観が映像的に表現されているのかは、判然としない。
 私としては、超能力とかオカルトかの荒唐無稽な話は、荒唐無稽なほど好きなので、この映画もほどほどのホラーテイストならまあいいかと思って見つづけていく。ところどころ児童精神カウンセラーの夫婦問題というテーマも絡み合う。結婚して二年程度の関係なのに、なぜかひびが入り、妻は他の男になびいていくかのように見える。これは、中年カウンセラーを中心とした、少年や妻との心の交流という物語なのだろうか。
 物語は中盤以降は、霊が存在するという表現の色合いを強め、一気に後半に流れ込む。やっぱりオカルト系の映画に人情物語を加えたお話であったかと多少脱力しているところで、エンディングでやられてしまった。「あ、そんなのあり?」という見事などんでん返しであった。
 どんでん返しはあるんだろうなという予感はしていたが、読み切れなかったというか、映画の進行中各所気になっていたところが、フラッシュバックのようにすっとつながって、奇妙な爽快感があった。そして終わってみると、全然別の印象の映画になっていた。
 というわけで、もう一度最初から見た。ネタバレ後に見るとつまらないということではなく、要所要所のトリックのうまさに驚いた。これは最初から二度見るように出来ている作品なのだと確信した。たぶん、もう一度見ると思う。
 娯楽作品としては見事なものだが、人情物語としても、上手に死者の視線というのを取り込んでいて面白かった。
 それと、この作品は、トリック上の都合で霊能力を描いているとも言えるのだが、誰からも理解されない恐怖を抱えてしまった子どもの心という点から見ても、味わい深かった。子役の子のうまさもある。
 ところでなぜ、このような映画が作成されたのか。その筋の人からはいろいろ説明もあるのだろう。が、私の印象としては、フィラデルフィアという街の独自の風合いのようなものに引きつけられたのではないかと思えた。
 
 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2014.10.19

現代の若者は絶望しているのか?

 現代の若者は絶望しているのだろうか。どうなんだろう。というのは、昨日のエントリーへのツイッターのコメントでこういうのを見かけた。晒しとか、反論というかいう意味ではない。基本的には「ふーん、どうなんだろうか」と思っただけ。なのでコメント部分だけ引用。


ないのはお金だけじゃないよ。将来に対して絶望感以外なんにもない国で、落ちていくしかないんやから、恋愛みたいな長期的なことより、刹那的なものに流れるにきまってるやん。

 現代の若者が恋愛できないのは、お金がないこと論に加えて、この「国」の将来に対して絶望感以外ない、という意見があるらしい。
 若い人が絶望を抱くことについては、20歳までに自殺すると思っていた私としては、特に違和感はない。違和感があるとすれば、私がそうであったように、小学生だった1960年代から、青少年期だった1970年代、若い人の絶望というのは凡庸なことだった。
 特に60年代から70年代にはこの世の終わりという感じだった。核戦争で地球は滅亡すると思われていた。人口増加で食糧危機が発生し巨大な飢餓が起きるとも思われていた。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が『生と死の妙薬』として日本で出版されたのは1964年だった。今だと冗談みたいだが、氷河期がやってきて地球は凍るとも言われた。日本が沈没したらみたいなネタでウケていた小説『日本沈没』が出たのは1973年である。
 ノストラダムス予言はまだ一部でしかネタになっていなかったが、「もうすぐこの世はおしまいだ」と野坂昭如が「マリリン・モンロー・ノーリターン」で歌っていたのは1970年だった。あのころもの社会も若い人にとって特段に希望なんてなかった。ヤケクソと自暴自棄のナンセンスな世相だった。他面にはモーレツ社員がいた。「社畜」という言葉はなかったが、実態は同じだった。
 ただ、なんというのかな、あの時代、若い人の絶望は、「国」とか、なんかそういう外的な要因よりも、内的なものが強かった。
 内面からこみ上げるように、自殺するかなあ、という絶望感だった。自分の実存はもう存在しえないのだという切迫感もあった。当時よく読まれていたカミュの『シーシポスの神話』(参照)とかにその感じがよく表現されている。

Il n'y a qu'un problème philosophique vraiment sérieux : c'est le suicide. Juger que la vie vaut ou ne vaut pas la peine d'être vécue, c'est répondre à la question fondamentale de la philosophie.

本当に深刻な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である。生きることが、その困難に値するものかを判定することだ。これが哲学の根本問題に答えることなのである。


 青臭い。それもそのはず。カミュが24歳のときの作品である。若者の感覚がよく表れている。
 とはいえ、この本のオリジナルの出版は1942年。意外と古いというか第二次世界大戦中。日本だと1969年だった。
 この時代の若い人の絶望感については、いつかcakesに『二十歳の原点』(参照)の書評として書きたいと思っているので、その話自体はいずれ。
 それで思ったのは、絶望から自殺が連想されるように、では、当時の若者の自殺はどうだったかなと思い出していた。ネットなどではバブル期以降の日本の停滞から若者の絶望そして自殺の増加という議論をよく見かけるけど、私が青春時代だった1970年代、さらにその前の1960年代はもっとすさんでいたように記憶しているからだ。
 どっかにそのスパンの資料でも転がっているのではないかと、気まぐれに見ていたら、興味深いデータがあった。平成23年版・自殺対策白書「年齢階級別の自殺の状況」(参照)である。もっと新しい白書もあるがこれが見やすかった。

 日本の場合、若者の自殺率が高かったのは、1950年代から60年代前半のようだ。
 その後、1960年代半ばにぐっと落ち着いて、以降基本的に下がる傾向があるが、2000年代まであまり変わっていない。1960年代にはまだ若者の自殺は多い傾向があっただろうが、1970年代にはいって以降は若者の自殺が多かったとは言えそうになく、安定している。
 日経サイエンス「データで見る日本の自殺」(参照)ではこれに関連してこう説明されている。引用中グラフとあるのはこのグラフと同種の以下のグラフである。



 過去には若者の自殺率が非常に高かった時期がある。1950年代後半から60年代の戦後最初の自殺のピーク時だ(上のグラフを参照)。このときと比較すると現在は男女とも自殺率は1/3程度まで下がっている。1950年代以降で比較すると,欧米では逆に増えている国が多い。例えば,米国は1950年以降,15~24歳の白人男性の自殺は3倍に増えた。若者の自殺が増える要因としては,両親の離婚の増加,薬物乱用の蔓延と低年齢化,価値観の変化などが挙げられている。これらは程度の差こそあれ,日本でも問題になっていることだ。なぜ日本では若者の自殺が減ったのか,専門家も答えを出しあぐねている。

 記事中、「なぜ日本では若者の自殺が減ったのか,専門家も答えを出しあぐねている」とあるが、日本の若者の自殺が減ったことのほうが、この分野では奇妙な現象のようだ。
 また同記事では、若者の死因の上位に自殺がくるのは病気で亡くなる人が少ないからだという説明や、日本では男性の自殺が多いといっても他国と比べると少ない部類でどちらかというと、日本は女性の自殺傾向が強い国といった興味深い話もあった。
 いずれにせよ、長期スパンで統計的に見ると、現代日本の若者は絶望しているということと自殺にはそれほど強い繋がりはなさそうだ。
 ただ、グラフを見ていて、思ったのだが、15歳から24歳の若者の自殺が減るなか、35歳から44歳は1970年代以降増える傾向はありそうだ。また、この層はバブル期後の日本経済停滞期に入って自殺率が減り、2000年あたりから増えていくような傾向が見える。理由はわからない。
 ここでふと思ったのだが、現在のネットだと、若者というのは30代を指していることもあるので、その辺りの層が、40代に近づいていくと、自殺の傾向は自然に増えてくるというのはあるのかもしれない。
 絶望というのが自殺数という指標で図れるものかはよくわからないが、自殺数の推移を見ていくと、日本人の若者に自殺したくなるような絶望というが広まっているというようすは見られないように思えた。もちろん、これで「国」がいいとか社会がいいとか言いたいわけでもない。
 
 

| | コメント (5) | トラックバック (0)

« 2014年10月12日 - 2014年10月18日 | トップページ | 2014年10月26日 - 2014年11月1日 »