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2014.10.18

若者はお金がないから恋愛できないのだろうか?

 若者はお金がないから恋愛できないのだろうか? 私にはわからない。ある程度社会学的に考察したとき、なんらかの答えが出るのかもしれないが、知らない。
 青春が1970年代後半の私からすると、私の若い時代も若者にお金はなかった。それで恋愛ができなかったかというと、そうでもなかった。それ以前に、お金がないゆえに恋愛ができないという問い自体が、どうもそもそも象を結ばない。あの時代の私に十分にお金があったとして恋愛でどう使うのか? コンサートに行く? 旅行? ちなみに映画は安かった。500円で三本見れた。
 問いかけはたぶん、バブル期と比較してみると、現在の若者はお金がないから恋愛できないという枠組みなのだろう。
 だが、これもその時代を見てきた自分としては、やはりぴんとこない。あの時代、自分も含めてまだ若い部類の人たちは、けっこう大きなお金をくだらないものに突っ込んではいた。自分の場合はMacintoshとかだった。SE/30が80万、Ciが100万くらいした。パソコン通信関連で月額5万円くらい払っていた。それらに突っ込んだから、他にお金はない。そんな感じだった。
 というわけで、結局、この話は私には扱えないが、先日、健康年齢について厚労省の白書を見ていたとき、関連してちょっと気になったことがあった。「未婚者の異性との交際の状況」(参照)という話にある、その変遷のグラフが何を意味しているのか。しばし考えていた。これである。

 1982年から2010年までの「未婚者の異性との交際の状況」を示している。1982年というと私が大学院生だった時期なんでずばり若者だった時代である。そのころは、恋人がいるのが約17%。異性の友だちがいるが36.8%、交際相手なしが36.8%。まあ、そんなものだっただろうか。
 そして現在に近い2010年はどうかというと、恋人がいるのが約21%。約20年前と比べてさしたる変化はないと言ってよい。バブル時期を眺めてみても、それほど変化はない。ここには掲載しなかったが、女性については、1982年には約18%だったのが、2010年には約29%と大きく変化している。つまり、女性の場合、恋人が増えたとは言える。ただ、この変化は1990年ころに定着してその後は変わっていない。
 1982年から2010年までで何が変わったかというと、2点ある。1つは「異性の友だちがいる」という割合だ。男性だと約37%から10%まで落ち込んだ。そして、それを埋め合わせるかのように「恋人なし」が、約37%から62%へと拡大している。この傾向は、女性についても見られる。
 簡単に言うと、日本がこの20年間で変わったのは、「恋人とはいえないが、異性の友だちとはいえる」友だちの減少である。段階的に減少しているので長期潮流と見てよい。男でいうなら、女友だちというのが減少してきた。
 なぜ、男に女友だちが減ったのだろうか。若い男にお金がなくなったからか?
 白書にはこの答えの暗示はない。社会学的にはなんらかの説明があるのかもしれない。
 私が思うのは、1982年時点で異性の友だちがいる率が高かった理由は、学校や地域という男女を閉じ込める枠組みの延長がまだ社会に存在していたからだ、ということだ。それが時代ともに開放されて、男女の同級生的関係や、幼なじみ的な友だち関係が壊れていった。そういう過程なのではないだろうか。そういえば、私が若い頃は、なにか若者の集まりというと共学時代の延長みたいに男女が適当に集められていたものだった。
 別の見方をすれば、この約20年の間に、男は男だけ、女は女だけの集団形成が進んだということかもしれない。
 いずれにせよ、とりあえず若い男女を閉じ込める枠のようなものがなくなってしまったら、友だちもなくなったか、あるいは同性の友だちだけだから、その割を食って「恋人なし」が増えたことのように見える。
 白書では、これに補足して、「さらに、そもそも異性との交際を望んでいない割合は、男性で28.0%、女性で23.6%に上っている」と記しているが、その変遷についても記述はない。
 先の傾向を見ての推測でしかないが、「そもそも異性との交際を望んでいない」という比率もこの約20年間に増加したのではないだろうか。つまり、もともと「押しつけられた枠のなかでの異性との交際なんかやだなあ」ということだったのではないだろうか。自分の実感からするとそこは共感できる。
 こうしたデータを見ていて気になるのは、これはそもそも、時代変化に付随して起きた現象なのだろうか?ということだ。つまり、現代の若者が貧しくなったから、だから、変化が起きたのだ、というような関係とは違うのではないか。
 私の印象からすると、これは、日本の文化・社会構造が安定性を得ていくためのある必然的な過程なのではないかという疑問がある。
 そう思うのは、「「現在、婚約者または恋人がいる」人の割合の変化」を各国比較で見ると、単に文化・社会構造の要因だけではないかと思われるからだ。

 韓国はたいていの場合、日本と相似な文化で、しかも少子化を辿っているという点でもそっくりなのだが、「現在、婚約者または恋人がいる」という点では、日本よりも米国に似ている。しかし、日本はフランスやスウェーデンなど成熟した市民社会のほうに似ている。
 つまり、伝統的文化をもち市民社会として成熟してくると、「現在、婚約者または恋人がいる」比率は自然的に25%くらいに収束するものなのではないだろうか。
 このことは、「独身にとどまっている理由」からも察せられる。25歳から34歳の男性を見ると、結婚の障害が金銭面である理由というのは少なくはないものの、他の要因と比べてこの10年間で目立った変化があるとも言えないし、そもそも他の要因のほうが大きい。

 ざっと見た印象だと、「適切な異性との出会いがないから、今のままで独身を続けよう」ということで未婚状態が続いている、という以上の意味はなさそうだ。
 ただ、金銭面の貧しさという関連していうのなら、男女がともに働いてお金を寄せ集めて生活するというふうに変化していくしかない。その意味で、恋愛にしても結婚にしても、お互いの労働生活の調和を自然に含めるものになるだろう。別の言い方をすると、「普通に職業観というのが一致してないと、恋愛とかもきついよね」ということだろう。

追記(2014.10.19)
 文化差については、raurublockのブログ「若者はお金がないから恋愛できないのかどうかはわからないが、外国と比べて日本人に恋人・同棲相手が少ないのは間違い無い」(参照)で興味深い指摘があった。指摘される議論が正しいかどうかは率直なところよくわからないが、指摘とそのコメントは理解できた。
 
 

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2014.10.17

[映画]レオン・完全版

 なんとなく見逃していた映画「レオン」を見た。日本公開は1995年3月25日で、その20日に地下鉄サリン事件があった。そして22日には上九一色村の強制捜査があった。この映画はそうした世相の記憶と結びついている。作成されたのは1994年なのだから、そこから考えると20年経ったことになる。あのころもチョーカーとか流行っていたな。

cover
レオン 完全版
[Blu-ray]
 どうしたことか私はこの映画をフランス映画だとばかり思っていた。ジャン・レノ(Jean Reno)が主演だからというのもある。なので当初、ブルーレイでフランス語に切り替えられないのかなと戸惑っていた。しかし考えてみたらニューヨークが舞台である。それでも映画の感触としてはフランスっぽい印象も強かった。光の扱い方のせいだろうか。音楽もよかった。
 少女マルチダを演じてる子はなんとなくユダヤ人だろうなと思ったが、パドメ・アミダラのナタリー・ポートマン(Natalie Portman)だった。
 物語は、ニューヨーク下町のイタリア人街を舞台に、手練れの殺し屋中年男レオンと12歳と見られる少女マチルダの交流を描いている。愛と言ってもよいのだろう。いわゆるバイオレンス・アクションはハデだが、映画全体のトーンはおとぎ話のようでもあり、その感触をジャン・レノとナタリー・ポートマンがよく描いていた。二人はほんと黙っていても絵になる顔である。
 映画としては普通に娯楽作品として面白かった。殺し屋という設定も興味深いが、中年男の純情と幼い少女の純情というより、大人になれない男と大人にさせられてしまう少女の奇妙な交錯が叙情的でもあり、まあ、リアルに考えるとこれはありえないだろうという世界でもあるから、おとぎ話的なトーンによくなじんでいた。
 見終えたから、完全版ということに気がついた。ということは、これ、劇場公開版とかテレビ放映(あったのだろうか?)とは違うバージョンだということだろう。どのあたりが違うのかについては、おそらくバイオレンス・シーンや性的な会話の部分だろうと思っていたが、ネットをちょっと覗くと、だいたいそうらしい。公開版と完全版とで大きく違う印象があるかはわからない。マルチダがレオンのプレゼントのドレスを着るシーンは公開版ではカットされていたのようなので、あのシーンがないとつまらないだろうなとは思う。
 些細なことだが、レオンが牛乳ばかり飲むという設定は面白い。どういう背景があるのかわからなかった。気になった人はいるらしく、適当な理由付けがネットにもあったがたぶんデタラメだろう。映画の進展からすれば、19歳でイタリアを飛び出したレオンが生きて行くには牛乳を飲むくらいだったということはないだろうか。
 レオンの最期も洒落ていた。あれを洒落と受け取っていいのか、いけないような気もするが、私は笑った。そして泣けた。
 レオンを失った少女は恋と死を抱えて生きていくことになるだろう。そういう種類の孤独の情感は、かなり多数の女性の心理に重なるのではないだろうか。その点でこの映画は、とても女性的な映画なのではないかと思った。


 
 

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2014.10.16

トルコ軍による「クルド労働者党」(PKK)空爆の意味

 国際情勢を見ていると悲惨な事件にもあまり驚かなくなる。まして、想定可能な事件であると、「やはりな」というくらいな印象に終わることが多い。しかし、14日に発表されたその前日のトルコ軍によるトルコ南東部ハッカリ(Hakkari)県ダグリカ(Daglica)村の「クルド労働者党」(PKK)への空爆(参照)は、予期されないことではなかったにも関わらず、さすがに驚いた。トルコ側の言い分としては、後述するコバニでの戦闘に連鎖してPKKがダグリカの警察署を銃撃したため、空爆で対応したとしている。
 まったく予期できないことではなかったが、まさかそこまでやるのかという思いがあった。前兆は先週の状況である。日本では台風騒ぎで他のニュースが薄い扱いではあったが、トルコ各地でクルド人のデモ隊と治安部隊が衝突し、5日間で31人が死亡し、1000人以上が拘束される緊張した事態が起きていたことだ(参照)。今回のトルコ軍によるクルド人PKKへの空爆は、まずPKKへの威嚇と見てだろう。そして2013年3月のトルコとPKKの停戦は事実反故になった。
 このトルコによるPKKへの空爆の結果、国際社会としては、トルコはイスラム国のクルド人居住地域やトルコへの侵攻をどう見ているのか改めて疑問を抱くことになってしまった。
 背景となるトルコでのクルド人デモだが、同質のデモがドイツで起きていたことから見るとわかりやすい。ドイツのハンブルクでは、7日から8日、クルド人と「イスラム国」支持派の間で衝突が起き20人以上が拘束された。クルド人としては、反イスラム国の訴えである。特に、クルド人には、アイン・アルアラブ、クルド地名コバニ(ちなみにオバマ米大統領もこの呼称を使っていた)がイスラム国に制覇される危機感が強い。
 加えてトルコ国内でのクルド人デモの主張には、トルコが裏でイスラム国と通じているのではないかという疑念もあるようだった。エルドアン大統領は、PKKとイスラム国を同質に見ているし、そこからイスラム国による、PKKのシリア支部組織である民主連合党(PYD)潰しを狙っているのかもしれない。
 トルコの思惑は別として、国際社会が注視しているのは、イスラム国が侵攻中のコバニの状況である。現下、米軍はコバニ近郊の21カ所を重点に空爆しているし、この空爆に地上側でクルド人勢力も参加しているようだ(参照)。

 コバニが問題になるのは、イスラム国がここを制圧すると恐るべき虐殺が行われる懸念があることに加え、軍事面から見ても、北部ラッカからアレッポまでが支配下に置かれ、実質トルコとシリアの境界の一帯がイスラム国となり、ここを拠点に戦闘員の拡大や闇貿易が強化されることだ。かつてアサド政権がクサイルを支配下に置いた時点でシリア問題が絶望的な状況になったように、コバニがイスラム国下に置かれるとイスラム国が確固たる存在となり国際社会としては絶望的な状況に陥る。
 今後はどうなるか。コバニで西側が優勢となるためには、地上部隊の投入が不可欠だろうと見られている(参照)。だが、その決断を米国を中心とした勢力が決断することは難しいだろう。
 また、こうした流れから見ると、このトルコのPKK空爆の意味は、トルコの支援が必要される地上部隊への期待を疑しくすることだ。
 今後はどうなるかだが、どちらかというと、イスラム国はコバニを制圧するだろう。そしてそれを契機として国際社会としてはかなり絶望的な状況になっていくだろうという印象が強い。
 
 

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2014.10.15

国境なき記者団声明「日本人ジャーナリスト加藤達也は名誉毀損で起訴されることになる」

 昨日読売新聞で少し気になるニュースを見かけた。「韓国検察起訴に「あぜん」…国境なき記者団批判」(参照)である。


 【パリ=三井美奈】韓国の検察当局が産経新聞の加藤・前ソウル支局長を在宅起訴したことについて、ジャーナリストの国際団体「国境なき記者団」(本部パリ)は13日までに、「あぜんとした」と批判する声明を出した。

 私が気になったのは、実は些末なことで、「あぜんとした」というのはフランス語でなんと表現されているのだろうかということだった。
 調べてみたのだが、よくわからかった。それ以前に「13日までに」が何を意味しているか不明に思えた。というのは、国境なき記者団は10日以降、この件について声明を出していないからだ。
 しかし、10日の声明(参照)は13日に更新されており、読み返すと、「ああ、これかな」と思う表現はあった。" Reporters sans frontières a appris avec stupeur la mise en examen de Tatsuya Kato"の「avec stupeur」である。これが「あぜんとした」と訳せるのか、ちょっと興味深く思った。
 ついでなので、声明全体も試訳してみた。


LE JOURNALISTE JAPONAIS TATSUYA KATO SERA POURSUIVI POUR DIFFAMATION
日本人ジャーナリスト加藤達也は名誉毀損で起訴されることになる

PUBLIÉ LE VENDREDI 10 OCTOBRE 2014. MIS À JOUR LE LUNDI 13 OCTOBRE 2014.
2014年10月10日金曜日に発表。2014年10月13日月曜日に更新。

Tatsuya Kato a été mis en examen le 8 octobre dernier par le parquet sud-coréen, suite à la publication d’un article s’interrogeant sur les faits et gestes de la présidente Park Geun-Hye lors du terrible naufrage du ferry Sewol en avril dernier qui a fait plus de 300 morts. Il encourt jusqu’à sept ans d’emprisonnement.

この4月、300人以上の死者をもたらしたセセウォル・フェリーの恐るべき遭難時の朴槿惠大統領の事実と行為に疑問を呈する記事報道について、加藤達也は10月8日、韓国検察当局から起訴された。彼は7年まで可能な拘置期間に直面している。

Reporters sans frontières a appris avec stupeur la mise en examen de Tatsuya Kato, chef du bureau de Séoul pour le journal japonais Sankei Shimbun. Ce dernier, auteur de l’article publié le 3 août dernier et intitulé “President Park geun-Hye went missing on the day of the ferry sinking… Who did she meet ?”, avait été interrogé par les autorités sud-coréennes le 18 août dernier. Il s’était également vu interdit de quitter le territoire et avait été placé sous surveillance. Son article citait principalement des informations déjà accessibles en ligne et pour lesquelles leurs auteurs n’avaient fait l’objet d’aucune plainte.

国境なき記者団は、日本の新聞社産経新聞のソウル局長・加藤達也の起訴を知り、衝撃を受けている。先日、「朴槿惠大統領はフェリーが沈んだ日に行方不明になった……彼女は誰と会ったか?」と題した8月3日報道の記者は、この8月18日、韓国当局から尋問された。彼は、その国からの出国を禁止され、監視下に置かれた。彼の記事は基本的にオンラインで入手可能な情報を引用しただけで、その情報の作者は告発されていない。

“Nous condamnons fermement cette décision de la justice coréenne, déclare Benjamin Ismaïl, responsable du bureau Asie-Pacifique de Reporters sans frontières. La liberté de la presse n’est pas seulement un privilège pour les journalistes mais aussi un droit pour les citoyens. Et cette affaire relève de l’intérêt général. Quelle que soit sa ligne éditoriale et sa couleur politique, le Sankei Shimbun est fondé à soulever des questions sur le gouvernement coréen et la présidente et à faire état de ce qu’il semble être des rumeurs.”

「私たちは、加藤起訴の決定を非難する」と、国境なき記者団アジア太平洋デスク長ベンジャミン・イスマイルは宣言した。報道の自由はジャーナリストの特典だけではなく市民の権利でもある。そして、この話題は公共の利益に関係している。編集方針と政治色を問わず、産経新聞は、韓国の政府と大統領についての問題を提起し、何が噂のようであったかを述べる資格がある」。

“Si l’on peut discuter sur un plan journalistique de la valeur informative du contenu de ces rumeurs et des raisons pour un journal de les relayer, il est dangereux que ces questions soient uniquement discutées par la justice, poursuit Viriginie Dangles, adjointe à la directrice de la Recherche de Reporters sans frontières. D’abord parce la loi sur la diffamation coréenne est contraire aux standards internationaux car elle peut entraîner une peine de prison pour l’accusé. Ensuite parce qu’une condamnation pourrait entraîner une recrudescence de l’autocensure pour les médias coréens et étrangers.”

「この噂の内容の報道価値と、それの中継としての新聞の理由について議論ができるとしても、これらの問題を唯一その法廷の議論とすることは危険である」とと国境なき記者団の副プログラムディレクター・ヴァージン・ダングレスは付け加えた。「最初の理由は、被告の拘置が導ける点で韓国の名誉毀損法が国際標準に違反しているからである。それに次ぐ理由は、第二の理由は、有罪となれば韓国人と外国メディア双方による自己検閲の増加をもたらすことになるからである。」

Les plaintes avaient été déposées par une association de citoyens sud-coréens, révélant à nouveau les tensions persistantes entre le Japon et la Corée du Sud.

これらの告発は、韓国市民の団体が申し立てたものであり、韓国と日本の固執を再び明らかにしている。

La Corée du Sud occupe le 47e rang sur 180 pays dans le Classement de la liberté de la presse établi par Reporters sans frontières.

韓国は、国境なき記者団の報道の自由指数で、180か国の47位にある。



 試訳は以上のとおり。英語版もあったが、微妙に意味合いが違っていた。フランス語版が正式なのではないだろうか。
 余談めくが、韓国側はこれを報道の自由とは関係させくないらしい。朝日新聞「前支局長起訴「言論の自由と関連付けるな」 韓国外交省」(参照)より。


 一方、韓国外交省報道官は14日の記者会見で、起訴は市民団体の告発による正当な司法手続きだと強調し、「言論の自由と関連させてこの問題をみるのは適切ではない」と述べた。
  報道官は会見で、日本政府が言論の自由の観点から批判していることについて、「法執行の問題で、韓日政府間の外交問題ではない」と反論。「日本政府関係者が不要な言及をするのは適切ではない」と不快感を示した。
  さらに、会見に出席していた日本メディアの特派員に対しても、「この席で質問を自由にして、言論の自由がないと言うことができるのか」と述べた上で、「わが国は言論の自由について、どの国よりも保障されている」と強調。起訴をめぐる日本社会の反応についても「少し冷静になる必要がある」と語った。(ソウル=東岡徹)

 韓国側がそう言いたい気持ちはよくわかるし、それが韓国の司法なのだということも理解できる。しかし、国境なき記者団の声明を見てもわかるが、報道の自由と関係させるなとまでいうのは、さすがにそれは全然無理でしょ。
 
 

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2014.10.14

「墓が捨てられる」時代

 先週のクローズアップ現代「墓が捨てられる」(参照)が興味深かった。文字どおり、墓が捨てられていく現代日本の状況を描いていた。墓が誰の所有かわからなくなれば、捨てるしかない。
 目につくのは、捨てられる膨大な墓石である。番組冒頭では、淡路島に不法投棄された1500トンもの墓石の山が映し出された。
 その投棄される墓石には合わせていなかったが、少なからぬ遺骨もまた捨てられているように思えた。
 墓石自体は岩石なので砕けば道路工事用の砂利として再利用できる。その費用は1トン5000円から1万円ということで、コストの都合から淡路島に不当投機されたらしい。
 映像を見ながら、行政で罰則規定と墓石再利用に補助金を付ければ、なんとかなるだろうなと私はぼんやり見ていた。しかし、ゴミ投棄やゴミの再利用のような話ではないなとも思っていた。墓そのものを維持することが難しくなった現代が背景にあり、そこに問題の根もある。
 番組はもちろん、そこも考慮されていたし、近代日本における墓の問題にも言及していた。

cover
生誕の災厄
 自著にも書いたが私は若い頃、離人症的な状態に陥って来る日も来る日も墓を巡って見ていた時期がある。人は死ものだという実感を確認したくもあったし、墓の風景にもなぜか魅了されていた。後に愛読したエミール・シオラン(Émile Michel Cioran)もそうした人であることを知って親近感を覚えた。
 日本の墓というのは近代に大きな変化を遂げている。番組でも触れられていたが、明治時代の民法で家制度が定められると、それに合わせて変化した。それ以前は個々人の土葬が中心であったが、家を単位に先祖代々墓というようにまとめられるようになった。もちろん、これはそういう傾向があったということで、すべてでもないだろう。
 これに戦後、労働者の都市流入と核家族化が拍車をかけた。番組では、「都会で墓ブームが起きる一方で、地方の墓の守り手は減っていきました」としていたが、このころから核家族が墓を都会に持つようになった。もちろん、これも傾向としていうことではあるだろう。いずれにせよ、戦後は都会に墓ができたが、人口縮小に合わせたかのようにしだいに田舎の墓は見捨てられていく傾向がある。
 番組はそれから、田舎での「墓仕舞い」を描いていた。田舎に残した墓の維持ができないので、それを仕舞って更地にするのである。遺骨は都会に持ってきて、別の場所を探すということになる。
 都会でも今後は墓は消えるしかない。人々は墓を持たなくなる。
 ここでおそらく私もそうだし、私より若い世代ですらそうだろうと思うが、自分が死んでも墓なんか要らないのではないだろうか?
 私にしてみると、墓は要らないと思う。沖縄の海に散骨してくれればそれでいい。
 しかし、それでいいのだろうか? いやいい悪いという問題でもない。市民がそれぞれ決めればいいことだが、ただ、ここでも、「墓なんか要らない」ということだけでは問題はうまく解決されないだろう。
 そう痛感したのは、先日テレビのニュースでぼんやり見ていた北朝鮮からの未帰還遺骨問題である。2万件を越えるらしい。80歳を過ぎた老人が北朝鮮の寒々とした荒れ地で遺骨を探している映像を見ながら私は、これはどういうことなのだろうかと困惑していた。私のように墓なんか要らないという人であれば、北朝鮮の遺骨なども収集しなくてもよいという考えに結びつきそうだが、そうにもいかない情感がそこにある。
 遺骨にこだわるのは、日本人特有の宗教観によるのかもしれない。そう解説して済む問題でもない。余談だが、日本人の墓というのは、中世まではなかった。親鸞なども廟があるだけだった。遺骨信仰がどのように生まれ、家制度に結合していったかは、実体的に考え直してみたいようにも思うが。
 結局のところ、墓石や遺骨というよりも、死者の名前という問題かもしれないとそれから考えた。そして私は沖縄南部に八年暮らし、なんども糸満の平和祈念資料館を訪問し「平和の礎」に刻まれた人々の名前を見て回ったことを思い出した。
 これの施設も、広義には墓と言えるだろう。そこで重視されているのは遺骨よりも名前であった。あそこでは沖縄の戦禍という、ある共同性が示されていた。
 死者の名前というのはなんらかの共同性のなかで、継がれるものなのではないか。。
 現代日本人の墓の問題は、おそらく理念的には、地域に根ざした市民社会のなかで示された共同性としてそこで名を刻むという形に収斂されていくように思う。
 そうした試みもすでに見られるとは思う。と、心にひっかかっているのは、その共同性への合意のようなものを市民側が了解できるだろうかということだ。
 単純に問うなら、その共同性は生前の市民の生活の延長にあるもののはずだが、現在の日本人の多数がそうした市民社会の共同性の生活空間を獲得しているようには見えない。
 
 

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2014.10.12

滴防水Bluetoothスピーカーが楽しい

 滴防水Bluetoothスピーカーというのを気まぐれに買ったら、これが楽しい。昔のラジカセみたいだなと思った。

cover
MOCREO®
防水小型ポータブルワイヤレス
mini Bluetooth speakers
 形状は缶詰めの缶みたいというか、寿司屋の湯飲みといった風情なのだが、触ってみるとシリコンで覆われていて手触りがいい。滴防水といって多少水がかかっても大丈夫という仕様のBluetoothスピーカーである。つまり、お風呂にもって行けるというわけである。実際に、お風呂にもって行くと、とても快適なのだった。
 色もいくつか選べる。白を買ったけど、汚れやすいだろうか。まあ、この値段ならいいかという感じ。CDより安い。
 形状からわかるように2スピーカーとしてのステレオではない。今までもこの手のポータブルな単体スピーカーは使っていたことがあるが音があまりよくなかった。というわけで、期待してなかった。Bluetoothもめんどくさいとか互換性の問題があるんじゃないかと思っていた。
 ところが音はいいのであった。びっくりした。
cover
Touch Tone
I Am Robot and Proud
 もちろん、本格的なオーディオシステムと比べたら全然比較にはならないけど、低音から高音までバランスがいい。人の聴覚に聞きやすいという感じだ。よくわからないのだが、音の広がりもある。"I Am Robot and Proud"の"Touch Tone"とか聞いているとごきげんになれます。
 Bluetoothの接続も簡単だった。操作は、オンボタンを2秒長押しすると、英語で用意してますみたいに喋る(Hi, I am ready for connection.)。最初なんだこれと思ったが、慣れるとこれは便利。
 いちばん便利なのは持ち運びしやすいこと。お風呂にももっていけるし、散歩にももっていける。ああ、ラジカセだよ、このノリ、と思った。自動車のなかで聞いてもいい。それなりに音量も出る。
 iPhone/iPodもAndroidも簡単に接続できる。ということは、あれです、クラウドに入れてある音楽がそのまま聞ける。
 ネットラジオと繋ぐと、そのままラジオになる。……だったら、最初からラジオでいいんじゃねと思うけど、驚いたんだけど、雑音なしのラジオなんだよ、これがさ。
 電池は充電式。スマホと同じ。4時間くらいで電池が切れる。
 スマホと繋げて通話もできるらしいが、その機能は試していない。音源とはケーブルで直接することもできる。古いタイプのiPodとかつなげてもいい。
cover
MOCREO
Bluetoothモバイル
 これにはもう一種類、安価なタイプもあって、買うときどっちがいいか迷った。お風呂で聞けたらいいなと思ったので、これにしなかった。たぶん、音の性能は同じなんじゃないかと思う。デスクトップで使うならこれでもいいかもしれない。というか、誰かのプレゼントかにいいかなとも思った。
 あと、MOCREO(参照)ってどこの会社なんだろちょっと調べた範囲ではわからなかった。本社は米国だけど、これって中国製か韓国製みたいな印象。
 けっこう音がよかったので、この会社がもっと上位の製品出していたらどんな感じかなと見ていたらよさげなのがあった。うーむ、これも欲しいけどなあと思うが思案中。
cover
MOCREO®重低音Bluetoothスピーカー
ポータブルワイヤレス高音質スピーカー

 
 

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