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2014.08.30

米国の防衛費は主要国の防衛費を合算したくらい大きいですが、それが何か?

 昨日、防衛省の予算要求が出され、3年連続増で、5兆545億円と過去最大となった。ふーん。
 この数値を見ると大きいなあと思うかもしれないし、3年連続増も注目されるかもしれないが、社会保障や公共事業など内政の経費は76兆円弱なので、日本という国で国家予算に軍事費が突出しているということでもない。このことは後でも触れる。
 それはそれとして、ふーんという感じで受け止めていたのだが、この話題にBBCがぱくついていた。「日本防衛省は過去最大の予算要求をする(Japan defence ministry makes largest-ever budget request)」(参照)というのだが、写真がいかにも安倍内閣が軍国主義志向といった印象を与えて、うひゃあと思った。BBCの日本報道って通常けっこう質がいいのだけど、どうしてこうなっちゃうかなあという感じである。

 幸い、内容はそれほど偏ってもいない。APからの孫引きだが小野寺五典防衛相の話もきちんと伝えている。また増えた理由に関連して、共同や時事の孫引きで、離島防衛関連の必要が高まったことも伝えている。なにより、中国の防衛費が日本の防衛費の拡大の2.5倍の急拡大であることもきちんと伝えている。普通に読めば、日本が中国軍拡の煽りを食らっているなあというくらいの線には収まっている。
 BBCとしては日本の軍拡や安倍政権の軍国主義志向というより、アジアの不安定化要因が増してきたという意識はあるだろう。
 さて、BBCの記事もその程度の話で、これもしいていえば、ふーんというくらいのものだが、この記事の終わりにちょっと面白いネタが付いていた。
 結論から言えば、まあ、識者なら知っているよね、これも、ふーんというという話題でもあるのだが、こういうビジュアルでまとまっていると面白いなあという印象があったので、そこだけ切り分けて、ツイッターで流したところ、自分には意外だったのだけど、けっこう関心を持つ人がいた。まあ、こういうの初めて見ると、驚く人もいるかもしれない。
 こういう図である。防衛予算の上位15か国をその費用の大きさを図でまとめたものである。

 見るとわかるけど、「白雪姫と七人のこびと」といった趣きで、米国が断トツにでかい。巨人だ。ベルトルト。円で示した予算の図の下に、米国以外の上位14か国を並べて米国と比較した横棒グラフがあるけど、米国が上位12各国に匹敵する。
 これを見ると、米国ってなーんて軍事大国なんだと思う人もいるかもしれないし、まあ、それはそうなんだけど、それが現実だし、別に降って湧いてこうなったわけでもないので、識者としては、ふーん、というか、これはあれです、「米国の防衛費は主要国の防衛費を合算したくらい大きいですが、それが何か?」という感じ。
 むしろ、この米国が弱体化してきて、世界が不安定化していると見てよいわけだから、現代版パクス・ロマーナ(Pax Romana)というしかないし、現下のウクライナ問題もウクライナとしてはNATOに入りたがっているわけで、これはようするにパクス・ロマーナを拡大してくれということでしかない。
 とはいえ、7人のこびとの順番の顔ぶれはなかなか興味深いものがある。
 長兄・次兄は、中国・ロシアである。中国のほうがすでにでかいのな。いちおう、対米国という枠組みでは、中露は協調することが多くて、シリア問題とか国連は手が付けられない状態になる。余談だが、国連というのは、各国町内会という以上の意味はない。社交の場というか、合コンみたいなもの。
 でと。当然だが、中露も対立しているわけで、この対立がもうちょっと深まると、米国とか、その他のこびとにも微妙にゆったりしたムードが広がるかもしれないが、このあたりも微妙。
 三男がサウジ・アラビア。これが意外だった人は、国際政治のセンスないです。つまり、そういうことです。いや、そういうこと、というか、これがいろいろと諸問題を引き起こしている。別の見方をすれば、中東問題を安定化させてきた要因でもあったのだが……遠い目。
 そして、四番目の長女メグが英国、次女ジョーがフランス、三女ベスが日本、四女エイミーがドイツと、かく若草物語になるわけです。じゃね?
 国家規模からすれば、日本が当然長女なのに三女に収まっているあたりが、なかなか黒髪に青い目で内気なベスといったところ。
 八番目からもなかなか面白い。インド、ブラジル、韓国と新興国が続くというか、韓国は日本の60%くらいなので、国力比としては日本と同じなんだなと思う。防衛費というのはけっこうが人件費なんで、徴兵制の韓国だとその部分で予算削減ができるのかなともちょっと思う。
 それから、オーストラリア、イタリア、イスラエル、イランと続くわけだが、国力比からみると、オーストラリアが意外に軍事に注力している。イスラエルももちろん。イタリアはまあしかたない。
 イランは国力の潜在するからすると韓国を上回るくらいになるだろうから、潜在的に軍事バランスの面からみるといろいろ気になるところ。
 こちらからは以上です。
 
 

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2014.08.29

イエス・キリストに会ってから信じても遅くないのでは

 ネットにはいわゆるネタというのがある。ただ話題のための話題というだけで、それ以上の意味はないが、ネタはネタだから話題にしてもりあがろうという不毛な遊びである。
 その手のネタにぱくつくのもどうかとは思うが、たまたま「会ったことのないイエスという存在をどうしてキリストだと信じられるのだろうか」というネタを今朝方ツイッターで見かけて、ああ、この人、聖書読んだことないんだなと思った。
 ヨハネによる福音書の話である。イエスの弟子であるトマスは当然生前のイエスを知っていた。その意味ではイエスに実際に会ったことがあるが、イエスが処刑されて死んだ後、復活されてキリストとなったということはトマスには信じられなかった。
 十字架刑で手に釘をさされ、脇を槍で突かれて死に絶えたイエスがどうして復活するんだろう。そんなわけないじゃないか。イエスが復活したとか言っているやつ、どうかしてんじゃないの。頭おかしいんじゃないの、とトマスは思っていたのである。
 だから、トマスは、復活したイエス・キリストが信じられるというなら、まず、その手の釘の傷痕と、脇の傷痕を自分で確かめて、自分で本人確認して、きちんと一度死んでいることを理解して、その上で生きた本人イエス・キリストに会わないと、信じられるわけないじゃん、と思ったのである。
 こう書いてある。ヨハネ福音書20:25から。


かの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

 だっからさあ、処刑されて死んだイエスが復活したら、自分の目で会わないと信じられねーよ、とトマスはいうのである。
 すると、その8日後、復活したイエスが家庭訪問してきたのだった。

 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。
 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。

 というわけで、復活したイエス本人がやってきて、トマスに対して、じゃあ、手に釘の傷痕見えたあ? 脇の傷はまだ穴開いているまんまだからねえ、と、実演してくれたのである。これでトマスもご納得。ようやく、「わが主よ、わが神よ」とイエス・キリストが信じられたのである。めでたしめでたし。
 どういうことか。
 それいいんじゃないの、ということである。
 イエス・キリストに会わなければ信じられないというなら、それでいいんじゃないのというのがこの話である。聖書である。
 イエスは歴史上のある特定の時代に生きていた人物に出会うことはできないと思うかもしれないが、聖書によれば、復活されたのだから、今、ほいっとやってきて、ほらねと会ってくれるかもしれない。
 それだけのこと。
 そんなのあるわけないじゃんというなら、それもそれだけのこと。
 ただ、そこまでして会わなくても、イエス・キリストが信じられる人もいるし、聖書ではさっきの話の先にこうもある。

 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

 見なくても信じられたら、そりゃラッキーじゃないのということだ。でもそれはあくまでラッキーというだけで、イエス・キリストを信じることは関係ない。
 復活のイエスに会うまで信じられないというなら、それはそれでまったく無問題である。信じる人もいるし、信じない人もいる。他人は他人、自分は自分。
 トマスのようなことを言うやつは、イエスの弟子とは認めない、不敬だ、不信仰だといった罵詈讒謗を加えたりということはない。
 反面、戦前の日本では、天皇は現人神と言われていたが、そんなのいるわけないじゃんと公言してトマスのようなことができただろうか。

「私は天皇のところへ行って、直接『私は現人神』だという言葉を聞き、『疑うなら、この手にさわってみよ』といわれて、その手にさわり、その感触から、なるほどこれは人間ではない、やはり現人神だなあと感じない限り、そんなことは信じない」といったところで、「トマスの不信」が当然とされる社会なら、たとえ戦争中でも、これは不敬でなく、むしろ尊敬のはずである。第一、「信じない」ということは、自分の状態を正直に表明しているのであっても、客観的に「天皇は現人神でない」と断言しているわけではない。従ってそう私に質問した人間が、本当に天皇を現人神だと信じ、そう書いた新聞記者も本当にそう信じているなら、「なるほどね、そういう機会があるといいね」というだけのはずである。
(『ある異常体験者の偏見』山本七平より)

 戦前の日本では現人神に対するトマスの不信は許されなかった。なぜかというと、たぶん、「天皇は現人神だと信じる」と言う人は、言ってはみるものの信じてはいなかったからだろう。信じていないのに信じるという矛盾が、他者に信仰を強いるという奇妙な行動を引き起こした。
 イエスに戻れば、イエスに会うなんて幻覚だろというなら、それもそれでいい。さっきの聖書の話も、仔細に読むと、「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ」とあるので、よほど特殊な量子トンネル効果があったか、復活のイエスは微妙に物質のみで形成されたわけでもないのかもしれない。ただ、トマスが触れたくらいだから、まったくのダークマターであったということでもないだろう。
 冗談みたいな話になってきたが、重要なのは、「こうこうしたらイエス・キリストが信じられる」として自分の真実性に課した条件が、どのように満たされるかということだ。別の言い方をすれば、その条件に課した真実性を上回る確信が生じたら、イエス・キリストが信じられることだろう。もちろん、別段信じなくてもいいと結果的に聖書は言っている。そうじゃなく信じろというなら、戦前日本の現人神信仰みたいなことになってしまう。
 つきつめれば、自分の人生のなかで、真理とされる最終条件は何かというふうに考えてもよい。
 それはなにか?
 自分の死である。
 自分にとって自分の死ほど確実なことはない。自分の死は認識でできないから自分にとって死はないと言うこともできるし、それを信じてもいい。だが、人は心の底で自分が確実に死ぬことを信じている。あるいはそう信じなくても処罰の最終に置かれるのは死刑である。
 しかしその先には、そうであれば死を決意しえすればなんでもできるはずだという思いが潜む。この世が与える罰は死刑までだ(そこに至るまで苦しみはいろいろ選べるが)、自分の死を支払えば人を殺したっていいことにだってなる。
 実はそこで、人は死の支配の奴隷になっているのである。
 復活のイエス・キリストは、そうして死を信じる人間の絶望にユーモアをもたらす。
 
 

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2014.08.28

安価なヘッドフォンを3つ買った話

 よく使っていたヘッドフォンが壊れた。壊れた理由は、まあ、事故といった類であり、品質とかには関係ない。

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Pioneer
密閉型ヘッドホン
オーディオ用
SE-M290
 ちなみにそれは、「Pioneer 密閉型ヘッドホン オーディオ用 SE-M290」(参照)である。音も悪くないし、装着感も悪くない。高級ヘッドフォンと比べるのはナンセンスだが、普通に使っていて特に不満もないといったタイプのヘッドフォンである。またこれを買うかと値段を見ると、7,490円というのだが、そんなに高かった記憶がないので、調べてみたら、当時は1,782円だった。なんで急騰していんでしょ。わからない。
 その価格帯に「PIONEER 密閉型ダイナミックステレオヘッドホン SE-M521」(参照)と「PIONEER 密閉型ダイナミックステレオヘッドホン SE-M531」(参照)があるので、それにするかなあとも思ったが、ヘッドフォン、ヘッドフォンしたヘッドフォンもどうかなとか思って、他のを買うことにした。
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CRESYNヘッドホン
C515HブルーC515H-BL
 そう思ったのは、その間、「CRESYN ヘッドホン C515H」(参照)も使っていて、こういう気楽なのもいいなあと思っていたのだった。音は意外と悪くない。音漏れはする。とにかく気楽に使える。私が買ったのはグレーのやつだが、もうアマゾンでは見かけない。ちなみに、イヤホンが壊れたんだけどなんかないという人がいたので、これ貸したら気に入ったというのであげた。あげたら自分用のがなくなったので、なんか似たようなの買うかと思った。どうでもいいけど、ヘッドフォンとかイヤフォンとかよく人にあげちゃう。
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Pioneer密閉型ヘッドホン
ホワイト SE-MJ522-W
 で、これ。「Pioneer密閉型ヘッドホン ホワイト SE-MJ522-W」(参照)。まあ、音は悪くない。もちろん、そんなにいいわけもなく、音の広がりはあまり感じられない。ただ、低音の響きや中域高域の延びは悪くない。宇多田ヒカルの曲はけっこういろんな音の成分が入っているので、それでチェックしてみると、以前と違った音が拾えててにやにやした。が、まあ微妙に隔靴掻痒な代物。あと装着感がいまいち。ちょっときつい感じがする。僕の頭はそんなに大きくはないのにそうなんで、頭の大きい人にはきついかも。売りポイントに折りたためるので携帯するのによいとあったのだが、実際のところ、それほど便利でもない。それでも、悪くないチョイスかなあ。追記:と書いたのをきっかけに畳む機能を見直したら、意外に便利でした。
cover
audio-technica
密閉型オンイヤー
ヘッドホン
テレビ用シルバー
ATH-200AV
 で、ついでに「udio-technica 密閉型オンイヤーヘッドホン テレビ用 シルバー ATH-200AV」(参照)を買った。何故?というところだが、「テレビ用」とあるように、テレビ用です。コードが3.5m。そんなの延長コードでいいだろうというのもあるのだけど、延長コードは先日、入院する人に貸してなくしてしまっていたのだった。音はそこそこ悪くない。いいんじゃないかと思う。というか、テレビ用にしか使わないが、その用途ではとても便利。装着感も普通といったところ。
 テレビって夜とかだとあまり大きな音立てて聞くもんじゃないよなとつい気兼ねすると、耳がそう悪いっていうことはないと思うのだけど、よく聞こえないんですよね。ヘッドフォンだと便利です。
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JVCグミホン
ステレオミニヘッドホン
ブラック HP-F140-B
 ついでにイヤホンも買った。理由は耳に突っ込むタイプのイヤホンがきらいなんで、適当なものはないかと適当に選んだだけ。グミって書いてあるようにグミな感じで、色もいろいろ選べる。装着感は悪くない。音も普通。いい部類。当初、以前から使っていたソニーの買おうかと思ったらもうなかったのだった。
 

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2014.08.27

[書評]関口・新ドイツ語の基礎(関口存男・関口一郎)

 相変わらずドイツ語を勉強していてる。当初、こんな簡単な言語はないなと思っていたが、とんでもない。難しい。文法の規則は頭ではわかるが、文法の感覚がぜんぜん付いて来ない。ナチュラルなスピードで発話されると、あちこち音が脱落・省略しているらしく聞き取れない。二人称の疑問文でDuなんかほとんど聞き取れないというか、動詞語尾のtにほとんど吸収されている。
 でもだいぶ慣れてきた分離動詞もしっくりきつつある。英語がますますフランス語に感じられる。夢のなかで、"Ich gehe gerne nach Österreich."とか呟いている自分がいる。

cover
関口・新ドイツ語の基礎
CD付 復刻版
 それはそれとして。ドイツ語学習であまり他の教材に手を伸ばすのはやめようと思っていた。が、たまたま手にした『関口・新ドイツ語の基礎』(関口存男・関口一郎)という本(参照)が妙に面白かった。というか、あれ、これがかの有名な「関口存男」なのか、へえと思ったのである。
 昭和22年に書かれて、昭和59年に改訂されている。とすると、この関口一郎さんは息子さんかと思ったら、お孫さんだった。しかも、2001年に55歳で亡くなっていた。歴史だなという感じがする。改めて、関口存男の生年を見るに明治27年。私の祖父母よりも10年は年上という感じ。ちなみにそのあたりの小林秀雄の生年が明治35年。そのフランス語の先生・辰野隆が明治21年だから、関口は辰野に近い年代だな。
 同書だが、改訂されているせいか、古びたという印象はない。フランス語もそうだったがドイツ語も、英語のようにころころ語彙・表現・様式が変わるということがない言語のようにも思える。
 卑近に面白いのは、昔の学校の先生ような雑談的な話題が含まれていることだ。

 眼で覚えた外国語はたいして役に立ちません。耳で覚えた外国語は、それよりはいくらかましかもしれないが、役に立たぬ点では大差はありません。では何で覚えた外国語が役に立つか? それは手で覚えた外国語、舌で覚えた外国語です! 手で書きなぐり、口一杯に頬張ってどなり散らした外国語です!
 どなり散らすのはまだちょっと早いかもしれません。あたりに人のいない時をみはらい、やおら奇声を張り上げて例題を読誦してみてください。柱時計がびっくりして止まったら、「何だ!」といってにらみ返してやるべし。そのくらいの元気がなくちゃ駄目です。

 笑った。そして、その方法を真似ることにした。たまにでっかい声でドイツ語で喋ることにした。柱時計がないのが残念。
 ch音の説明もまた、おかしい。

たとえばドイツの映画などを見ていると、女が、Ach!という時の音は、ほとんど「ア!」としかきこえませんが、しずかな時にはその後にもちょっと息のかすれが漏れます。それがまたとても性的魅力があって……(以下削除)。

 「以下削除」は原文にあるとおり。
 同書だが気になって調べてみると元は『新ドイツ語大講座』の三巻本で1965年に藤田栄改訂で合本になっていた。そのころにはまだ普通にこの本が使われていたのだろう。ちなみに、上述の引用部を原本に当たったら「映画」は「トーキー」だった。そりゃそうだよなあ。
cover
関口存男の生涯と業績
POD版
 関口存男という人は面白いなあと思って関連のものをちょっと拾い読みしてくと、これがまた面白い。『関口存男の生涯と業績』(参照)に彼の「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか?」というエッセイがある。

 えゝと、一寸申しおくれましたが、私の年齢は今五十……八だったかな? 九だつたかな?(どうも自分の年という奴は困るです。今年こそは断然覚えてやろうとおもつて年頭に断然覚える事もあるんですが、翌年になるモウ違って来るので、しよつちゆう頭のなかで混乱して今日に及んでいます。

 ちなみに、私も57歳になったが、わかる気がするなあ、それ。
 「語学をやる覚悟」というのもおかしい。

本当に語学を物にしようと思つたら、或種の悲壮な決心を固めなくつちゃあ到底駄目ですね。まづ友達と絶交する、その次には嬶アの横つ面を張り飛ばす、その次には書斎の扉に鍵を掛ける。書斎の無い人は、心の扉に鍵を掛ける。その方が徹底します。


勿論人に好かれない事は覚悟の前でなければなりませんよ。人に好かれてどうなるものですか。人にだけは好かれない方がよろしい。そんな量見だけは決して起こす可らずです。余計なことですからね。『人に好かれる』なんて、人に好かれるような暇があつたら、その暇にしなければならない事はいくらでもあります。


△既に先進国を前に控えた新興国の新興時代は、すべての人が語学者でなければならない。――過去を見ればわかります。漢文ができなくて支那印度の精神文化を受け入れた学者があつたでせうか。
△要するに、そんな言ひ草は通用しません。『ちよつとやつて見る』とか、『手段としてやる』なんてやり方はありません。『やる』以上は『やる』。やるに二つはありません。

 『獨逸語大講座』の六巻にはドイツ語学習のエピローグとして十訓が上げられている。

1. 文法には統一あらざるべからず。
2. 先づ馬鹿の一つ覚えをしろ。
3. 容易な文例を澤山読め。
4. 逐語訳によれ。
5. 音読しろ。
6. 中腰でやる位なら止せ。
7. 文法上の概念と術語とをはつきり意識しろ。理屈に負けるな。
8. 原書を引きながら辞書を読め。
9. 言は事なり。
10. 欧州人種の概念形態に興味を持て。

 そのあとが、じんとくる。

 では本当にさようなら。いつまでも初歩の辺りでうろついてゐないで、はやく原書に沈没して、四五年後に顔を上げて下さい。世間が面白くない時は勉強にかぎる。失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ。

 出版されたのは昭和6年8月18日のことだ。その一か月後に満州事変勃発となる柳条湖事件が起きる。
 「失業」という関口の頭にあったのは、世界大恐慌の煽りで、昭和5年翌昭和6年にかけて起きた昭和恐慌だろう。昭和四年小津安二郎『大学は出たけれど』の表題が期せずして流行ることなった。

 Ich sage laut, Lehrer Sondern!

世間が面白くない時は勉強にかぎる。 失業の救済はどうするか知らないが個人の救済は勉強だ。
   

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2014.08.25

[書評]あそびあい(新田章)

 ネットで話題になっていたので読んでみた。『あそびあい(新田章)』(参照)アマゾンで見たら売り切れていたので、アニメイトなら売っているんじゃないかと行って主婦風の店員に聞いたらまるで知らない。検索も大変そうだった。こんなマンガですよとケータイで表紙を示した。

cover
あそびあい(1)
 こんなマンガ……いきなり高校二年生がバックでセックスしまくるマンガですよ……とは言わなかった。が、ロリっぽい少女がスカート広げている表紙をかざすおっさんである自分はちょっと気まずい。結局、キンドルで買った。最初からそうすべきだった。
 物語は単純と言えばごく単純な恋愛物語である。ある障害があって二人の恋はなかなか進展しない。そこにいろいろ他の登場人物もまじって恋愛の悩みが繰り広げられる。読者はその恋の行方にハラハラとする。それだけである。源氏物語から「めぞん一刻」とか、まあよくある恋愛物語という感じだ。この物語で彼らの恋を阻んでいるのは、「幼さ」である。恋の。
 高校二年生のややイケメンの山下君は、同級生の小谷ヨーコが好きだと思っている。物語は彼らのセックス・シーンから始まる。ヨーコいわく「山下のは後ろからが好きなの……」。山下君は答える「他の奴のはどうなのかって考えちゃうじゃん」。つまり、「の」というのはペニスである。ヨーコはすでに複数の男と関係をもっている。山下君はそのうちのワン・オブ・ゼムでしかない。
cover
あそびあい(2)
 山下君はなんとかヨーコが他の男と関係しないような、そうした二人だけの関係にしたいと願うが、ヨーコはおかまいなし。他の男と快楽なセックスができたら、お得じゃないと考える。そのために、けろりと、自然に、嘘をつきまくる。
 というわけで、ヨーコはビッチだ、こーゆー女いるよな、というふうにも読まれる。というか、その仕掛けがこの物語の特徴に見えるのだが、たぶん、この仕掛けは作者ではなく編集サイドの提案だろう。ビッチな女とフツーな男の恋の物語って、面白いんじゃね?というくらいの。
 しかしこの物語が面白いのはその仕掛けではない。ヨーコとその風景のある確かな実在感だ。昭和から平成の時代の過渡期のような、写真をトレースしたようなつまらない風景だが、どの風景にも、どけちなヨーコが生まれ育ったある凡庸な貧しさの詩情が感じられる。
 なかでもヨーコの住んでいる団地の描写は美しい。非人間的な団地に抑え込まれた人間のエロス性が解放された顕現としてのヨーコの身体には、団地のバルコニーを登るような生き生きとした生命感がある。反面、快楽としていいセックスをしたいとする、その単純な生命の充実は同時に倫理の欠落を伴う。団地より多少ましなマンション暮らし中年男・遠藤との退廃的な性関係のなかにそれは投影される。
 女の心理的な実在感は、ヨーコよりもその親友設定の横井みおに見られる。心理的というのは妄想的と言ってもよい。表層的に性的に描かれる小谷ヨーコよりも、性の力に動かされているのは、みおのほうであり、それは彼女の視線とその先にある山下君の手に象徴されている。おそらく作者の情感は、実験的にヨーコとみおに分解されているが、おそらく一つの女である。
 ゆえに物語は、山下君とヨーコとみおの三角関係ではおさまらない。恋と性を詳細化するために、山下君には年下の処女である椿が登場する。物語は二巻で、椿にとっては初体験のところで現在終わっているが、この過程で、性交渉というものがまた対比的に描かれることだろう。そして、おそらくうまく行くわけがないという読者の直観が物語を支える。
 物語を物語としてたらしめているのは、恋の「幼さ」である。山下君はもろにその幼さを滑稽に押し詰めるが、同時にヨーコもまた、恋のもつ複雑さを性のなかで単一的にしか理解できない「幼さ」がある。あるいは、他者というのをそのようにしか受容できない「幼さ」である。寝入っている山下君の手が重たいとして振り払うシーンでヨーコは他者の輪郭をしっかり描きながらも、恋の輪郭を知り得ていない。物語はこのあと、ヨーコにとっても恋の成長のように進むかに見える。が、そこでもただ純愛に至ることことがないことは読者に予見される。
 物語はどうなるのだろうか。ハッピーエンドなら駄作のギャグになってしまうだろうし、だが悲劇で解消される予見はない。かぎりなく悲劇に接近していかなければ、かぎりなく恋の切なさを喚起していかなければ、「幼さ」の意味は明らかにならない。
 
 

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