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2014.08.23

公共図書館のことも考えていた

 気がつくともう二週間経ってしまって、いかんなあ、このままだと心にもわんとひっかかったままの状態が続きそうだ、と思い、とりあえず書いてみることにした。先日、筑波大学春日エリアメディアユニオンで行った「ALIS定例会特別企画 クラウドファンディング報告・講演会」(参照)についてである。
 講演会を実施されたかた、それと聞きに来てくれたかた、ありがとうございます。
 心にひかかった、というより、いろいろな思いがこんがらがっていた、と言うべきかもしれない。そこで思うままにいくつか、もつれた思いを書いてみたい。
 なぜ講演に出たのか。これについてはすでに触れたとおり、主旨に賛同したことがある。ただ、これが募金の前であったら、少し悩んだかもしれないとは思った。つまり、自分の講演の出来不出来が募金に影響したら、どうだっただろうか、ということだ。その悩みを仮想にこの間、自分の思いのなかで繰り返していた。暫定的な、かつ全体的な結論を言えば、主旨に賛同するとしても、募金タイプのクラウドファンディングは、ミッションよって設定された目標値の金額に対して、全体が統制されるべきだろうということだ。集まった寄金が少ないのは残念としても、過剰であるべきではないだろうという含みもある。
 今回のクラウド・ファンディングについていえば、公共図書館で破損された「アンネの日記」関連の書籍の補充に役立てるということが当初の主旨であり、結果報告で伺った範囲では、他の補充援助と併せて、ちょうど妥当なところだったかと思った。逆に言えば、それ以上の寄金が集まったら、それはそれで多少やっかいな問題になっただろうかとも思えた。
 このことは、私自身は今回の件では限定された賛同という関係であり、ミッションそのもののに関わっていないが、それでもミッションの見直しの可能性について少し考えの余地を残した。簡単にいえば、今回のもとになる話題で、「アンネの日記」関連の書籍という部分がどれだけの意味あいを持つかということである。
 原則的に突き詰めていけば、「アンネの日記」との関係より、一般的に一定期間での公的図書館における、破損書籍の補填ということになるはずである。また、そうであれば、寄金型のクラウド・ファンディングの課題より、一般的な公共の行政のありかたの問題になるだろう。
 しかし、と、ここで思う。公共図書館で本が正しく扱われるようにするにはどうしたらよいか。関連して、公共図書館での本の購入のあり方を含め、公共図書館は市民社会にどうあるべきか、という問題設定になると、一般的な公共の行政のありかたを少し越える部分が出てくる。誰が公共図書館を守るのか。その前線に経つのは誰か。図書館員だろう。では、市民は図書館員とどいう接点を持つべきか。
 実は、この部分の関連の問いは、講演時点の質問で問われた部分でもあった。私の回答は、公共図書館のありかたについて意見提言をする市民団体を形成するとよいだろう、ということだった。これはもっと一般化できる。市民と公共図書館のありかたを考える市民団体があるべきだ、ということである。
 私はこの分野に専門外なので伝聞かつ断片的な情報しかないが、そうした思いを持つ人や試みもあったらしい。
 以上をまとめると、「市民と公共図書館のありかたを考える会」というのの運営の寄金をつのるクラウド・ファンディングが継続的にあってよいのだろうと思う。
 では、と、ここで課題が続く。それはどうあるべきか。何を指針に考えるべきか。この部分も後援会の質問で問われたことに関連している。
 私の答えは、「固定的に考えるべきではない」ということと、そのうえで、「図書館員のと対話を通して、順次考えればよい」というものだ。対話を通して、図書館員の常識に市民が信頼するという形態にもっていけたらよいと思う。
 もちろん、それはとても難しいことである。その対話、つまり、図書館員間の対話と、図書館員と市民の対話、そうした対話の運動は、今後の日本の市民社会にとって大切な課題になるように思う。
 もちろん、現実問題としてどうするのか、というのは難しい。だが、市民が結果的に求めているのは、市民は公共図書館をどう考えたらいいかという、なにかきっかけというか、糸口のような指針だろう。図書館員の誰かが、きっかけとなる声を上げるべきではあるのだろう。
 と、書いてみると、結局、質問回答で述べた部分をまとめた形になった。
 もわんとした思いに戻る。
 わざわざ私の講演を聴きに来てくれたかたがいらっしゃって、けっこうびっくりした、というのがある。嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。伺うと、申し込んだけど締め切りで参加できなかった人がいたという話も聞いた。こっそり言うと、私はあまり多くの人の前に出たくはないというのもあったので、申し訳ないなあと思った。
 講師としての一般的な反省もあった。自著にも少し書いたが、私は30代から40代、業界の講師をしたり、専門学校や、大学の非常勤講師などもしたことがある。20代、大学院生時代にも代講みたいのをしていた。
 他にも思い出すと、プレゼンなどもやった。よくやったなあという部類だったが、気がつくと、この十年はやっていない。久しぶりにやってみると、あがったせいもあるが、声のトーンや大きさ、話す速度、目配せ、時間配分など、基本が少し下手になっていた。やっている途中に気がついて、焦った。
 他に、会場である筑波が東京から意外に近いのにも驚いた。筑波エクスプレスというのに乗るのは初めてだった。速いものだ。当初、筑波は遠いなあ、帰りはどっかで一泊していくかなあ、とか暢気に考えていたがのだが、電車を調べると、そんな必要はまったくなかった。
 車窓から田んぼよく見た。今年はよく田んぼを見る。
 先日、cakesに開高健記念館のことを書いたが(参照)、7月、茅ヶ崎に行った返り、ふと気まぐれで相模線に乗り、ぼんやりと田んぼを見ていた。相模線も久しぶりである。ホームでは電車のドアが閉まっていて、はて?と思ったら、ボタンを押して開ける仕様であった。
 ユーミンの「天気雨」である。


白いハウスを眺め
相模線に揺られて来た
茅ヶ崎までの間
あなただけを思っていた

 この時は逆方向である。さすがに行きは使えない。
 話が逸れてきたのでおしまい。もわんとした思いは書いてみると、けっこうそのくらいのことだったか。
 
 

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2014.08.22

クラウド・ファンディング(crowd funding)を巡る無想

 考えがまとまらないだが、このところ思っていたことをとりあえず、書いておきたい。いちおう、話は、クラウド・ファンディング(crowd funding)と地域問題に関連する。
 クラウド・ファンディングとは、群衆(crowd)と資金調達(funding)から成る造語であるように、群衆から資金調達をする仕組みである。
 カタカナだと似てしまうが、クラウド・コンピューティング(cloud computing)とは直接は関係ない。こちらの「クラウド」は雲に例えたインターネットのことだ。ただし、直接関係ないが微妙に関係もなくもない。群衆(crowd)と資金調達(funding)するのには、雲(cloud)=インターネットを使うことが多いからだ。
 こうした基礎的な話は、このブログでくだくだ書くことでもないが、「なぜ、今、クラウド・ファンディングなのか」というと、いろんな議論があるが、私が注視しているのは、「これが資本主義(capitalism)の未来形」だという可能性だ。
 「資本主義」という日本語は「主義」とあるので、なにか思想の主張のように思う人もいる。だが資本主義(capitalism)というのは、資本という貨幣(G:Gelt)を、商品(W:Ware)に変え、さらに多くの貨幣(G')を生み出す、つまり、G->W->G'という貨幣増大化の循環の現象を指している(G'はGより増加)。一般的に英語の"-ism"には、"alcoholism(アルコール依存症)"のように、現象を指す意味合いが含まれる。
 この「G->W->G'」の構図はマルクスによるもので(ただし彼は"Kapitalismus"という語は積極的には使っていない)、彼の考えで重要なのは、商品(W)が「労働力(Arbeitskräfte)」でもある点だ。ここで人間疎外と資本主義体制の問題が関連する。別の言い方をすれば、W->G->Wでは生じない剰余価値(Mehrwert)のありかたが、この生産様式を含む体制のなかで問われることになる。単純に考えると、「資本主義(G->W->G')を排除すればよい」「資本主義の限界だ」という安易な議論にもなりがちだ。
 このあたりの議論はもっときちんとつめないといけないのだが、ざっくりと言えば、マルクスの考えの枠組みでは、生産様式に対して資本を担う資本家(Kapitalist)と労働力という商品を担う労働者(Arbeiter)がそれぞれ、人間のタイプ化である階級(Klasse)として固定的に扱われ、社会を構成する市民間の分断に重ねられている。階級間の闘争が市民間の闘争になぞらえられてしまう。
 実際には(その後の歴史発展では)、マルクス以降の資本主義社会では、資本家(Kapitalist)労働者(Arbeiter)は実体的な階級ではなく、資本主義の生産様式を担う機能単位となり、人間実体とは直接的には結びつかなくなった。ごく簡単な機能例でいえば、労働者がそのまま資本家となりうる。
 労働者が資本家になるという点では日本の戦後体制がそれに相当する。国家が主導し、労働者の富を利潤誘導した郵貯の形で収集・迂回投資させることで、資本家の機能を実現させていた。同時に資本家は国家に吸収されたので、冗談のようだがある意味で、日本で社会主義が実現されていた。
 だが問題が起きる。日本の特殊な国家社会主義が上手に機能すればよかったのだが、これもいろいろな議論があるが、実際のところ、この収集・迂回投資の機能が、労働者=国民=投資家と対立した形で、実体的な階級を形成してしまい、ようするに国家にむさぼりつく度合いで、国民間に実体的な階級が生まれた。またこの社会主義は列島改造論に典型的だが地域への再配分的な投資でもあり、地域が中央権力に結合した。かくして実質的な差別と非合理性が生じることになった。このシステムは同時に、暗部の富も生み出した。汚れ役のようなものである。日本という社会主義は必然的に暗部を必要するシステムでもあった。
 まとめれば、親方日の丸の度合いで日本国民間の貧富が決定づけられることになり、さらに、この国家システムの外部の暗部を吸収して富による社会暗部が形成された。
 さて、クラウド・ファンディングである。
 これによって群衆=労働者の富が国家を介さずに資金調達として資本化されれば、G->W->G'という資本主義の構図から、マルクス・エンゲルスのいう剰余・搾取は、国家の寄生者を介さず、再び労働者に還元されることになる。原理的にこの機構では国家を必要としない。これが上手に機能すれば、マルクスの予見とは異なったかたちで社会主義が実現できることになる……かに見える。
 この想定の時点でうまくいかない。投資が成功した労働者=資本家はよいが、かならず、投資の失敗者が出る。リスクが生じる。投資リスクは投資の知識を体制的に要求するので、貧富差は拡大する。また、投資に利用される貨幣は、原理的には国家から分離できても(ビットコインでもよいから)、実際には国家に依存するだろうし、国家はやはり投資市場のルールキーパーであることは求められる。
 うまくはいかないだろうなと、ぼんやり考えていたのだが、この文脈からもう一つ考えていたのは、こうした場合のクラウド・ファンディングの投資規模は、基本的に地域に限定したらよいのではないか、ということだ。簡単な例でいえば、市町村レベルで限定し、地域コミュニティだけの投資に限定したらよいのではないか? 投資の失敗や貧富差は緩和されるのではないか。
 もちろん、それですべて解決するわけでもない(経営知識や技術の問題も残る)が、地方行政のかなりの部分は補えるだろう。もちろん、投資の元になるその地域の富そのものが枯渇している現状はあり、当初は国家を迂回した地域補助金ようなものも必要だろう。
 というあたりで、地域行政の基本をそのままクラウド・ファンディングにしてしまえばいいんじゃないかと、思いついて、ぼんやり考えていた。
 さらに、そうした限定された地域というのを、クラウド・ファンディングをベースにして、逆に市民を流動的にしたらよいのではないだろうか。どういうことかというと、たとえば、この村で電気自動車を作りたいという人がクラウド・ファンディングで資金を集めて、その村に移住して生活するというものである。
 考えてみると、昭和の日本も、工場を中心に市町村が形成されてきたし、原発などもそうした市町村の構成原理でもあった。
 まあこれも、地域愛とか既存の地域の権力関係で齟齬は生じるだろうが、理念的には可能に思える。
 まとめると、クラウド・ファンディングをベースにした地域的な活動を通して、コミュニティを再編成していくといいんじゃないかということだ。くどいようだけど、地域活性とか地域を生かしてという地域ベースではなく、クラウド・ファンディングの投資対象の理念から逆に新しく地域を形成・再形成していけばいいのではないかということ。ここに村作っちゃえとかいう感じ。
 
 

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2014.08.18

久しぶりに中野ブロードウェイに行ってみた

 先日、「まんだらけ」の万引き犯と見られる人物の防犯カメラ写真を公開するかしないか、というニュースを見たとき、僕は二つのことを思ったのだった。
 一つは、久しく中野ブロードウェイに行ってないこと。どのくらい久しぶりになるのか。思い出したらもう20年くらいになるぞ。そんなになるのか。びっくりした。もう一つはその万引き内容が鉄人28号のブリキ玩具だったことだった。
 そういえばのそういえば、阿佐ヶ谷にもアニメのなんか商店街が出来たんだかっけな。最初そっちに寄ってみた。高架下の「阿佐ヶ谷アニメストリート」だった。ちょうどコミケの時期に重なっていたからかもしれないが、閑散としていた。なんかこう、なんとかならないもんかなあという閑散感だった。途中、同じく高架下の阿佐ヶ谷ゴールド街を抜けたのだが、こちらの閑散感は風流というか昭和にスリップした感じだった。ポッカ缶コーヒーのやつに会いそうな雰囲気だった(参照)。

 で、中野。中野は昔、オイリュトミー講習会で通ったり、友だちとか会ったり、新井薬師に行ったり、もちろん中野ブロードウェイもだけど、よく行ったほうじゃないか。駅前の雰囲気は変わったふうでもなかった。中野ブロードウェイに至る道は、変わったといえば変わったか。ファストフード屋が目立つ感じがした。それなりに人出も多かった。
 中野ブロードウェイに至る。雰囲気は変わらない。ビルも相変わらず古い。店舗は変わったかといえば、変わったものが多いようだが、変わってないものもある。20年前、自分はここで雑誌や古本眺めながら、気がつくと二時間、三時間と時を過ごしていた。さて、今の私。そういうのに関心がなくなっている。なんてこった。
 関心がないというより、わからんのだな。コミックとかが現在、なにがどうなっているかわからない。全体像というか関ヶ原両軍マップみたいな感覚がなんもない。しかたないね。と思いつつも見て回る。
 見て回るうちに琴線に触れるものもある。いや、ありまくり。これ欲しいだろ。おい。ドンガバチョ。スナフキン。

 予想はしていた。鉄人28号のブリキ玩具みたいなもんがあるんだろうなと思っていたのだった。いやあ、あるある。ソニー坊やの人形とかもあった。これって、俺の幼稚園時代のおもちゃ箱にあった新幹線と同じだろみたいなのも。
 いかんなあと気がつく。こんなの見ていると一種、退行催眠みたいになるぞと警戒する。というか、中野ブロードウェイってオタクとか若い人というより、俺くらいの年齢にとっても、ど真ん中物がいろいろあるんだなと思った。やべーわ。

 本もそうだ。小学校んときの図書館の棚じゃねの、みたいな本がある。
 そういえば、引っ越しとき、もういらねという古本を売ったのだが、これは売れないなあという児童書を山にしておいたら、古本屋、それをチラ見して、あっちを売ってくれないですかねえ、とぼやいていたな。売らないよ。

 コスプレ物も売っている。自分の時代にこういうのがあったら、着てたなあと思う。今着たらドット・ピクシスだよな。笑いを取ってどうする。

 ちょっとかわいげな小物とかあるかなとも見て回った。けっこうある。
 最近なんかやらなくなっちゃったズーキーパーだけど、あの園長のキーホルダーとかあったら絶対買おうかと思った。だけど、それはなかった(けっこう見て回ったのだった)。キャラクター製品世界にもいろいろ掟があるんだろう。
 そういえば、漫☆画太郎さんの個展をやっていた。すげー長蛇の列で諦めた。いや、すげー、列でした。

追記(2014.8.19)
 この事件の容疑者が逮捕された。産経「まんだらけ「鉄人28号」、50歳男を逮捕 「お金にしようと…」6万円で売却 警告「知っていた」」(参照)より。


古物商「まんだらけ」(東京都中野区)の店舗で漫画「鉄人28号」のブリキ製人形が万引された事件で、警視庁捜査3課と中野署は19日、窃盗容疑で、千葉市若葉区都賀の台、アルバイト、岩間和俊容疑者(50)を逮捕した。同課によると、「ショーケースが少し開いていたので盗んでしまった。売ってお金にしようと思った」と容疑を認めている。


岩間容疑者が7日に中野区内の別の古物商で、身分証を提示し、被害品とみられる同型の人形を6万4千円で売却していたことから関与が浮上。

 エントリーでは明示的には書かなかったが、鉄人28号のブリキ玩具に魅了されるのは、50歳過ぎの私くらい年代ではないかという思いがあったので、容疑者が50代との速報では、やはりという感じがしたが、上述の最新のニュースのように容疑者は50代といっても50歳ちょうどで、鉄人28号のブリキ玩具に魅了される年代ではない。また、それを安値で売り払おうとしているところには、この玩具への愛情は感じられない。実を言うと、なーんだ、ただの金目当てだったかという思いもした。金目当てでなければいいとは思わないが、金ではなくこの玩具に魅了された犯罪ではないかと「期待」していた面はあった。
 
 

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