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2014.06.28

3日で覚えるドイツ語、そんなことが可能なのか実験してみた

 ブログにも書いてきたが、昨年から今年にかけて、1日平均で1時間くらいの語学学習を、フランス語を120日間、そして中国語を120日間、どちらも英語を通してピンズラー(Pimsleur)方式で学んだ。所定のコースを終えてみて、率直なところどちらもまだまだ初心者といったレベルだが、それなりに学んだかなという実感はあった。辞書を引きながらなら、それなりにいろいろ読んだり書いたりもできるようになった。発音にもそれほどは困難を覚えない。

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Learn German
with Paul Noble
(Collins Easy Learning)
 さて、ドイツ語。今回は、ポール・ノーブル(Paul Noble)の方法で学んでみた。
 「みた」と過去形で書いたのは、所定の講座を三日で終えたからだ。つまり、三日で覚えるドイツ語、である。そんなことが可能なのか?
 その前にポール・ノーブルのドイツ語コースの構成だが、約1時間のCDが12枚でできている。他にDVDも1枚あるがこの手法の宣伝といったもので語学にはさほど関係ない。76ページのほどの教本もついているが、CD内容の復習用になっていて、ピンズラー方式のフランス語の添付冊子のように、正書法で書かれた文章の読み方の教材ではない。
 全体で、ざっと12時間のレッスンになる。比較としてピンズラー方式の場合は、1日のレッスンはどれも30分で、各段階(フェーズ)は30日になっている。フランス語や中国語の場合は、第4段階まであり、最終的には日常会話に近い速度で内容もけっこう高度になる。中国語のフェーズ4では、深圳でソーラーパネルの商談をするといった内容にもなっていた。
 ポール・ノーブルのドイツ語コースを開始する前は、ピンズラー方式の時間で換算するとどうか考えていた。このポール・ノーブルの講座は30分で見ると、ピンズラーの24回分に相当するかなと思った。そこで、だいたいフェーズ1に相当するのではないかとも思った。結論からいうと、かなり違う。
 また、ピンズラー方式の場合は、毎日30分きちんとこなしていけばあるレベルに達するようにできている。実感すると、フェーズ1でも15日を過ぎるとけっこうきつく感じられる。この方式を開発したピンズラー博士は心理学者でもあり、一般的な人間の記憶力を想定してできているのだが、逆にいればそれなりにきちんと向き合って単語や文法を記憶していかなくてはならない。
 ポール・ノーブルのこのコースでは、冒頭で、記憶を負担に思わないでください。リラックスして進めてください。あなたが記憶できるかは教えている私の責任です、というかなりすごいことを言っている。ほんまかいなという感じで始めた。まったく未知の言語を学ぶのに、そんなことが可能なのか?
 これが驚くべきことに、ほぼ可能だったと言ってよい。ポール・ノーブルに心理学の知見があるのかわからないが、かなり独自の手法を使って記憶を定着させようとしている。
 さらに初めてすぐにわかったのだが、英語を通してドイツ語を学んでいるのだけど、最初から「グリムの法則」を効果的に使っている。もちろん、グリムの法則という名前は出て来ない。この法則については、ウィキペディアかなんかに解説があるだろうとざっとみると、ちょっこと解説があった。
 どういうことかというと、英語からドイツ語を魔法のように作り出してしまうのである。もともと、アングロ・サクソン語はドイツ語の一種なので、英語のそういう部分を上手に抜き出して、グリムの法則を適用していくと、英語が魔法のようにそのままドイツ語に変わっていく。
 もちろん、このことはドイツ語学習者はある程度知っていることだが、これがコース全体に適応されているので、ほとんど新規に覚える単語がない。しかも、ポール・ノーブルもピンズラーのようにオーラルなんで、音声から教えるから、音に意識すると、グリムの法則が直観的にわかりやすい。英語の"do"からドイツ語の"tun"を引き出したときは、おもわず、あっ!と驚いた。そんなことわかっている人にはわかっているのだろうが。ほかに、「ああ、やられた」感があったのは、"yesterday"から"gestern"を導いたところ。
 こうした手法は、ミシェル・トーマスが使っていたのを知っていたので、その影響だろうとすぐにわかった。実際、ポール・ノーブルは、自身がピンズラーとミシェル・トーマスの双方からの影響を受けていることを述べている。
 いずれにせよ、こうした独自の工夫のおかげで、ほとんど記憶の負担がない。逆に言えば、それだけ単語が少ないので、コース終了後のレベルは高いとは言えない。ピンズラーは言語の学習でもっとも難しいのは単語だとし、そこに配慮してコースが作られているが、ポール・ノーブルは、文法というものを重視し、初学者のために作り替えている。つまり、それがコースの基本コンセプトになっている。なにか。
 ポール・ノーブルは、英語話者がドイツ語を学習するときに、もっとも重要な文法部分の直観を与えることだ。それ以外の文法面はほとんど説明していないし、英語の能力でカバーされると見ているようだ。
 そういうことなのでコースは実際には、人称代名詞と動詞の活用、時制の基本、そして、名詞の性と格変化だけにしぼられている。しかも難しい内容には立ち入らず、本質がわかるように説明している。そのあたりは、芸術的といえるほど見事な説明だった。
 ポール・ノーブルのこのコースでは、学習一回にどの程度の分量を進めたらよいかについて規定はない。ピンズラー方式のような時間割的な指針はない。内容は10分以内のパーツで構成されているので、理解できなかったら前に戻ってくださいとだけある。
 逆に言えば、困難を感じなければ、どんどん進めてよいということで、久しぶりに寝るのも忘れてとまでいかないが、休息は入れたけど、基本ぶっ通しで全レッスンを進めてみた。三日で無理なく可能だった。だいたい、三日で終わると思う。正確にいうと、最後の1時間分は復習なので、明日か明後日にやるつもりでいる。少し忘れたから復習するほうがたぶん、学習効果が高いだろうから。
 これでドイツ語が習得できた感はないが、あとはしこしこDuolingoとか、あるいはNHKの教材を使えば、ある程度の段階のドイツ語は習得できるだろうなという確実感はもった。
 発音については、教材では、ネイティブの比較的若い女性を使っている。発音がかなり滑らかで、自分が思っていたドイツ語の音と随分違う印象をもった。特に、R音については、フランス語のR音に近くてよいようだ。あとシュワ音もわかった。発音の訓練はないが、12時間くらいぶっ通しで、やっているとそれなりにドイツ語の音声の感覚はつかめた。
 
 

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2014.06.25

中国語学習120日間、終わった! やった!という感じ。

 ピンズラー方式(Pimsleur Method)による中国語(Mandarin)学習のフェーズ4を終えた。結局120日間、毎日、一日一時間平均だとして120時間、中国語を勉強した。英語を通して中国語を聞いては答えるというプロセスの繰り返し。120日間。うぉー、やった!という感じ。自分でもここまでできると思わなかった。うぉー!
 今回は、フェーズ1(30日)でくじけるだろうなと思っていたし、フェーズ2(60日)あたりですでにきつかった。フェーズ3(90日)を終えたあたりで、もはやここまでだろうと思っていたが、フェーズ4も終えることができた。
 実際のところ、フェーズ4に入ると、内容は難しいのに、学習は少し易しくなった印象があった。実際には易しくなっていない。逆に中国語の発音の速度は速くなっている。ついて行けるのは、無意識で中国語の響きがわかってきた部分が大きいのだろう。人間の学習って無意識で進行するものなんですね。
 なんとかやれたのはしかし、音声中心のピンズラーの意図とは違うだろうけど、聞いて書き起こしの復習をしたせいも大きいと思う。聞いた音を拼音入力で確かめると文字がわかる。漢字を見ると覚えやすい。そもそも拼音入力によって、発音も訂正される。
 そして、フェーズ3を過ぎるあたりから、レッスンの内容が難しくなるにつれて、出てくる単語が、「おっ、それ、日本語やん」と思うことが増えた。フェーズ4あたりになると、英語を聞いて、中国語を聞くと、「ああ、これ漢字であれだわ」というのがかなり連想できるようになった。

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日本語から覚える
中国語単語
 率直に言って、どうして中国語にこんなに日本語が入っているのか、以前興味があって『日本語から覚える中国語単語』(参照)を買っておいたので、共通する語が多いのはいちおう知識としては知っていたが、実際に学んでみると、ほんとびっくりこいた。
 英語の辞書だと、ちょっと立派な辞書だと語源解説が付いているし、調べる気になるとかなり詳しく語源がわかる。英語の場合は、ちょいと難しい単語は、基本的に、ギリシア語やラテン語から、あるいはフランス語からの外来語ということが多い。フランス語も勉強したら、フランス語から英語に入る外来語の仕組みも感覚としてわかるようになった。なので、英語の場合は、気になる単語を辞書で語源の裏付けを見ると、何年ごろに英語に入ったとかまでわかる。納得できる。
 ところが、私が中国語の初心者であるせいもあるけど、中国語の語源のわかる辞書が見つからない。ないわけはないと思うので、今後も探そうと思うけど、まあ、ない。中国ではそのあたり、辞書に記載されている語源の情報はどうやって学んでいるのだろう。案外知らないのかもしれない。
 いずれにせよ、現在の普通の英語の辞書のように、中国語の辞書にもきちんと語源情報が掲載されるようになると、中国人も「うぁあ、我々の使っている言葉の七割から八割は日本語からの外来語じゃね」と普通に思うようになると思う。
 もちろん、漢字で表して同じでも、発音は違う。
 それに日本語からの中国語に入った外来語といっても、漢字を使っているから、その意味ではもともとの漢字という点では中国語が基本だとは言える。まあ、それはそう。
 120日間ぶっ通しで中国語勉強して成果はどうかというと、これは、フランス語を120日間ぶっ通しでやったときにわかっていたことだけど、まだまだほんの初心者といったレベル。北京の報道官のアナウンス聞いても、わからーんという言う感じだ。でも、ところどころ、音は拾える。"Huánjìng wūrǎn"とかだったら、「あ、環境汚染だな」、とか。
 というわけで、フランス語の場合でも、その後のフォローアップの勉強が大切だったが、今後は中国語の勉強のフォローアップをどうするか。幸いなことに現在クールのNHK「まいにち中国語」の内容がけっこういいし、レベル的にもあっているので、これを続けるかなと思っている。
 ちなみに、フランス語のほうも前クールのNHK「まいにちフランス語」はよかったけど、今期のはちょっといまいちなんでやめた。困ったなと思ったけど、そのあたりは、Duolingoでけっこう補える。というか、ピンズラーだと正書法を学ばないので、Duolingoでこれをみっちり補える。Duolingoのほうも半分を超えたあたりで、けっこう難しい。一つのユニットをクリアするのに、20分くらいかかることもある。でも、それが学習っていうものでしょ。
 ピンズラー中国語が続けられた理由の一つに、フェーズ3までは、女性の声がきれいだったからというのがあったが、フェーズ4では女性の声が、ぐっと大人の女性の声になった。最初は、おばさあーん、とか思ったけど、慣れるとこれもよい。しかし、フェーズ4では声よりも内容がとにかく面白かった。
 ピンズラー中国語フェーズ4が作成されたのは2013年ということもあって、しかも、どうやらこれ、米国のビジネスマンを対象にしているせいか、ビジネスと観光という側面から、すぐに使える単語や表現と、またそういう対象が関心もつ現代の中国というのをピックアップしていて、楽しかった。
 北京や上海の環境汚染とか、以前は日本に偏西風で来るなよとか他人事に思っていたけど、現地のようすをより知るようになると中国人大変だなあと思うようになったし、上海の電気自動車の普及についても、意外とけっこうマジで取り組んでいるんだな、がんばれとも思うようになった。
 この先、まだ別の言語を学ぶつもりでいる。この間、朝鮮語に関心があったのだけど、朝鮮語は別の意味できつい。
 それと、ちょっとピンズラー方式を離れたいというのもある。他はというと、ミシェル・トーマス(Michel Thomas)かポール・ノーブル(Paul Noble)か。
 ポール・ノーブルだと、フランス語、イタリア語、スペイン語なんで、イタリア語かスペイン語どっちにするかなと悩んでいた。ミシェル・トーマスだと、ドイツ語かロシア語かなと思っていた。
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Learn German
with Paul Noble
(Collins Easy Learning)
 いろいろ見ていると、最近、ポール・ノーブルのドイツ語があったので、それにすることにした。教材はまだ来てない。その間、明日からどうしようかと思うが、どうするかな。というのは、語学の新しい勉強がないと、なんか物足りなような感じがしてきてしまうから。
 と思ったら、今、届いた。こりゃ明日から、ドイツ語にするかな。
 歳とって語学なんて、もう使う人生そんなにないよと思っていたけど、逆だな。むしろ語学というのは年配者の知的関心や基本的な頭脳能力向上に最適なんじゃないかと思うようになった。なにより、学んだ分だけ前に進めるというのがいい。ネットとかで偉そうなこと言ってるより、自分がいろんな面で初心者にもどって、きちんと前に進んでいくほうが大切だと思う。 
 

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2014.06.24

塩村文夏都議会議員へのヤジ・セクハラ問題、一名名乗り出後の雑感

 自分の関心事からというと、現下のニュースでは、栃木女児殺害事件で「特徴が一致する車が少なくとも3か所の防犯カメラに写っていた」(参照)として容疑者が起訴になったことのほうが重要だけど、このところ扱ってきたせいもあるが、塩村文夏都議会議員へのヤジ・セクハラ問題で名乗り出があったとこに関連して、補足の雑感を述べておきたい。
 この名乗り出で私が一番落胆したのは、自民党の石破幹事長の次の対応だった。NHK「石破氏「責任者としてお詫び」」(参照)より。発言部分を太字で強調して引用する。


自民党の石破幹事長は、記者団に対し「気持ちを傷つけられた人は、塩村議員本人だけではなく大勢おり、自民党の責任者としてお詫びする。結婚したくても、できない人たちのためにも、党全体として、さらに強力に政策の実現に取り組む」と述べました。

 これだと、「結婚したくても、できない人たち」に「早く結婚しろ」と言うのは結婚したい気持ちを傷つけるということになり、そもそものセクハラの構図がまったく理解されていないことになる。当の問題が、結婚の意思は個人にあり、そのありかたを認めないことを公言することがセクハラなのであるということが、意図的な曲解ならしかたがないが、理解されていないように見える。
 この点は、名乗り出た都議会議員の謝罪会見でも奇妙に思えた。すでにネットには書き起こしがあるので、該当部分を引用する(参照)。

記者:フジテレビ・ホソガイです。どうしてこのような不適切な発言をしてしまったのでしょうか?
鈴木:少子化、晩婚化の中で、早く結婚していただきたいという思いがある中で、あのような発言になってしまったわけなんですけれども、本当にしたくても結婚がなかなかできない方の配慮が足りなかったということで、いま深く反省しています。


記者:不適切発言について、うっかり言ってしまったんですか?
鈴木:私の心の中で塩村議員を誹謗するために発した言葉ではないんですけれども、少子化や晩婚化の中で、早く結婚していただきたいという思いがあって、あのような軽率な発言になってしまいました。それは本当に、結婚したくてもできないとかさまざま思いを抱えている女性がいらっしゃるなかで、本当に配慮を欠いた不適切な発言だった申し訳なくおもっています。

 石破自民党幹事長と同じく、「結婚したくてもできないとかさまざま思いを抱えている女性」に申し訳ないという「謝罪」になっている。
 ごく簡単にいうと、謝罪会見という形式になっているし、塩村議員も形式上「謝罪」を認めたことになったが、当のセクハラという問題からすると、謝罪にはなっていない。大きな問題を残してしまった。
 この点について、不思議なのだが、どうも記者たちも問題をあまり理解していないように思われることだ。一番近いのが共同通信記者だったのだが、それもこういう質問だった。

記者:共同通信です。ご自身の娘さんが35歳になったとき、独身で子どもができない病気を抱えていた場合、このようなヤジを第三者から投げられたとしたら、父親としてどう思いますか?
鈴木:その部分、深く反省させていただいて、本当に配慮を欠いていたなという思いで反省しております。

 ごく簡単に言うと、娘が35歳であることも病気でもあることも今回の問題には関係ない。
 全体的に、報道関係者も今回の問題を理解してなかったのではないかという、なんとも、もにょーんとする結果になっている。
 次に、この当事者同士の謝罪についてなのだが、基本的にこの問題は個人への侮辱というのが一義なので、直接の謝罪があってよかったようには思うが、NHK7時のニュースで見た範囲では、当の塩村議員は、これでなかったことにされなくてよかったという気持ちはよく伝わってきたものの、直接謝罪が報道的なセッティングにお膳立てされていることに対して、違和感を感じているようには見えた。違和感があるなら、おそらく、鈴木議員の謝罪で幕引きされる懸念、またその幕引きの場にある意味引き出されたことへの困惑だろう。前者については、他のセクハラ発言があるので、これで終わりにしないでほしい旨は述べていた。
 この対応で塩村議員に問題点はまったくないが、私はひそかに彼女がこう言うことを期待していた。

 「鈴木さん、時間がだいぶ経ってしまいましたが、勇気をもって名乗りでてくれてありがとうございます。セクハラ問題に悩む女性はたくさんいます。私のように声を上げられない人が多数なのです。ですから、この問題を理解して、この問題を解決するための仲間になってください。今回、セクハラ発言をした人はあなただけではありません。他の人にもあなたの勇気をわけてあげるように活動してください。」と

 敵であったものを仲間に取り込んでいくことで、政治的な主張は大きな広がりを見いだす。また誰であれ個人に向ける過剰なバッシング(参照)を抑制することもできる。もちろん、それを若い塩村議員に求めるのは難しいので、みんな党として配慮してほしかったように思う。
 事態の幕引き感についても、想定はしていたが、よからぬ方向に向かっている。想定というのは、前々回「それとまあ、勇気を持って代理で土下座するような人も世の中にはいるから、名乗り出た議員が本人かはよく吟味する必要もあるかもしれないが」としたことで、鈴木議員がセクハラ発言したのは確かなのだが、現状では他の議員の「代理」の側面がセットアップされている印象はぬぐえない。今回の件では「子どもを産めないのか」の発言者も鈴木議員なのか、他にいるのか曖昧なまま幕引きになる空気は感じられる。
 名乗りで後の雑感は以上。
 以下は、昨日のエントリについていたコメントで「ああ、なんとも理解されないものだな」という思いがあるので補足したい。
 別にどういう感想をもっていただいてもかまわないのだが、基本的なことが理解されていない人もいるように思われる。特定のコメントについては引用しない。要点だけを示すようにしたい。
 要点は、「クオータ制を導入することはセクハラ・ヤジを無くすこととは関係がない」という批判である。
 今回の問題では、「ヤジがいけないのだ、ヤジを無くせ」という意見の人が多いので、そういうフレームワークでは、ヤジの抑制によってセクハラが包括できると考えているのだろうと思う。私はまったくそう考えていない。
 極論すれば、ヤジをもっと活発化させたほうがよい。女性が半数いる議会で、今回のようなセクハラ・ヤジが出たら、その場で、ヤジの大洪水になって議事がいったんふっ飛ぶくらいがよい。議会のなかでそれが可視になり、その場で、セクハラが意識されたほうがよい。性差別がここに顕現しているのだということを示して、言論において戦って性差別は解消されていく。根幹は、性差別を解消させるプロセスに乗ることである。
 この点については、理解が難しいのかもしれないとも思うのだが、パリテというのは憲法によって天から降って湧いたように性差別がなくすというのではなく、性差別がなくなるための闘争の場をフェアに提供するということなのだ。パリテによって、性についての闘争が激しくなって当然なのである。その過程で権利が着実に市民のものになっていく。
 この点に関連して、前回も少し留保はしたが、クオータ制とパリテは異なるもので、前者は民主主義の思想から生まれているが、後者は人権思想から生まれている。そのため、パリテではクオータ制の比という考えは否定されている。
 私は人類の市民化は人類の進歩に付随する必然的な過程だと確信しているので、いつか日本でも(日本がそのときなくてもよいのだが)パリテが実現される日がくると信じているし、それを早めるために些細なブログを続けたい。ただ、実現はけっこう先のことで、私がその光景を見ることはないんだろうなとは思う。
 
 

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2014.06.23

都議会で女性議員へのセクハラを撲滅するもう一つの方法

 ネットをそんなに見ているわけではないせいもあるけど、不思議だなあ、と思うのは、都議会で女性議員へのセクハラを撲滅するもう一つの方法について触れてある報道やブログを見かけないことだ。たぶん、たまたま私が見かけないだけなんだろうと思うけど。
 ちなみに、もう一つの前の一つというのは、前回、前々回のエントリーで触れたように、都議会でセクハラ発言を禁じる規則を作ること。
 そして、もう一つの方法がある。
 こっちのほうがはるかによい。ただ、厳密にいうと、これで「撲滅」とまでいくかはちょっと不安な点がないわけではないが、それでも私の考えでは、こうした都議会で女性議員へのセクハラ問題はほぼ終わると思う。そして、この話の関連はすでにこのブログでも書いているのだけど……。
 それは、都議会議員の半数を女性にすること。
 大事なことなので、もう一度言いますね。都議会議員の半数を女性にすること。
 そのためには、各政党からの議員候補者を強制的に半数にすることから始めるといい。
 ここまで言えば、なーんだと言う人もいると思うけど、フランスがすでに14年前からそうなっている。通称「パリテ(parité, Loi sur la parité en politique)」。「公職における男女平等参画促進法」とも呼ばれている。一般的な政治用語としては、「クオータ(quota)制度」である。
 厳密にいうとパリテとクオータ制は同じではないし、またパリテの詳細についてはいろいろあるし、14年間の間に手直しもされてきた。しかし、いずれも代議員の数を男女半々にしていこうとする根幹は変わらないし、概ねうまく行っている。フランスでは地方議会から改善が進行し、国政や企業にも広まってきている。サルコジ元大統領も組閣にこの理念を反映し、さらに現オランド大統領は組閣で女性閣僚を半数にした。これがフランス行政の原則になっていると言ってもよい。
 東京都議会もクオータ制を導入するとよいと思う。都議会の女性議員が半数になれば、女性へのセクハラ・ヤジはなくなると思う。
 難しいだろうか?
 公的な法制度として実施するのがまだ難しいなら、前段として、政党が自主的に「クオータ制」を導入するとよい。たしかドイツの社会民主党は党規約としてが党内選挙候補者の40%を女性とするように定めている。日本の民主党も率先して導入するとよい。社会保守主義を基本とするドイツキリスト教民主同盟もたしか三分の一を女性としている。都議会の自民党から率先して実施するとよいのではないだろうか。政党が率先して有能な女性探すために社会に目を向けることでも社会は改善される。
 「クオータ制」は各国で広がっている。韓国でも近年その方向にぐっと進んできている。日本はかなり立ち後れているので、これを機会に推進するとよい。もともとフランスもカトリック文化などの影響もあり、先進国のなかでは「フランス的例外」と揶揄されるほど、政治への男女平等参画は遅れていたものだったが、この20年に大きく変化させた。
 フランスのパリテについては興味深い経緯も辿っている。これを憲法改正によって実現しようとした経緯である。
 憲法を使って、男女平等参画を実現しようという実践は、現代的な流れで見れば、1994年の東西ドイツ統合の際の憲法改正において、男女平等参画の理念が憲法に明記されたことから始まる。これがどういう意味かについては、日本と比較するとわかりやすいかもしれない。日本国憲法の場合、第24条で家庭生活における個人の尊厳と両性の本質的平等を定めているが、注意したいのは、これが市民社会における本質的平等の規定になっていないことだ。


第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 もちろん、日本国憲法では法の下の万人の平等の上に成り立っている。この点は第14条には明記されている。

第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 「政治的、経済的又は社会的関係において」すべて国民が平等であれば、政治においても当然平等である。だが、この日本国憲法の平等は、公における男女の平等を明示的に指示するものではなく、「差別されない」という文言からわかるように、国民が意図するのを妨げないという意味合いになっている。ここから帰結されることがある。現実の日本社会において女性の政治参画が遅れているのは、女性に責任があるのだという自己責任論に帰着してしまう。
 もちろん、男女平等社会の実現にむけて男女ともに批判の矢面に立って戦うことは前回、前々回のアーティクルでも述べたように大切だが、そもそも平等とはなにかという社会原理からの追求も大切で、実はそのためにこのアーティクルを起こしたようなものでもある。おまたせしました。
 フランスでの男女平等参画の話題からすると、日本国憲法における男女平等参画の問題点についてちょっと脇道にそれたように見えるかもしれないが、この問題こそが、フランスのパリテ実現の大きな課題だった。フランスの憲法もかつては現在の日本憲法と同じような状態だったのである。
 だから、フランスは憲法改正を使って、パリテを実現しようとしたのである。
 フランスはドイツに5年遅れ、1999年に憲法改正として、フランス第5共和国憲法に「第3条第5項」「第4条第2項」をパリテ促進のための憲法根拠として追記し、そこからパリテ実現のための法整備が着手された。
 もちろんいろいろと齟齬があったが、齟齬のなかでも理念は推進していった。
 さらに、公職でのパリテの根拠となる1999年の憲法改正から、さらに社会全体に広めるために、2008年、さらなる憲法改正を行ったのである。ここで「職業的および社会的責任ある地位(responsabilités professionnelles et sociales)」を規定する憲法1条2項が追記された。
 フランスは憲法を改正することで、職業的および社会的責任ある地位における男女平等参画を強固に実現した。
 日本でもそうした声があってよいかと思うが、残念ながら「寡聞にして存じません」の部類のように思われる。
 率直にいうと、私は、フランスのように男女平等参画のためには、日本国憲法を改正すべきだと思う。
 しかし、現在のネットの空間のなかでそれを述べたとき、私に向けられる罵倒の基軸を私はほぼ正確に予想している。「こいつの本心は、九条の変更に違いない」と。
 
 

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2014.06.22

不倫は市民社会にとって「悪」でもなんでもない

 昨日のエントリーを書いて、意外な反応があった。率直にいうと、私が何を書いても罵倒を投げかけてくる一群の人がいるので、それはそれとして静かな白樺の林の見える特等席に座っていただくとして、意外だったのは、「不倫」の話題を持ち出すのが「ゲス」とか「セカンドレイプ」だとの指摘だった。
 びっくりした。私の誤解かもしれない。誤解でびっくりしているのかもしれないが、誰が不倫をしていても、そんなことどうでもいいことなんじゃないのか。
 不倫は公の市民社会にとっては「悪」でもなんでもない。不倫が問題になり「悪」であるのは、個的な関係だけである。私を例にするなら、私と性的または愛情の関係にある一群の人との関係内の問題である。別の言い方をすれば、文学的な問題にはなると思う。でも、明らかに市民社会の問題ではない。
 誰が不倫していたかというのも、まったくどうでもいいこと。ではなぜそんな話を出したのかということ、まさにどうでもいいことだからだ。ヤジをした人がそんなことにこだわっているなら、それには意味がないですよという例だった。
 また例としたのは、今回の話が「侮辱」の問題であるなら、一義に当事者間の問題だからだ。極端な話になるが、「侮辱」は受け取る側が「侮辱」として受け取るから成立する(後で述べるがセクハラはそれとは別)。例えば、若い女性議員に「引っ込めハゲ」とヤジを言っても侮辱としては成立しないだろう。ハゲオヤジが全員怒ることでもない。抗がん剤の副作用とかだと話は全然違うが。
 侮辱が成立するには、最初にきちんと侮辱を当事者が私的な問題として受け止めることが前提になる。「私的な名誉」が問われるからだ。
 侮辱はまずそうした市民と市民との個々の関係の内側で成立する。それゆえに、個別の「侮辱」について怒る権利は、その「侮辱」を受け取った人にまずある(「私的な名誉」を毀損された人にある)。
 その個的な関係の外側にいる市民にとっては、一義には、怒る権利はない。これを押し詰めた司法は明確にそういう形態をとっている。
 そうした構図を見るために、「侮辱」というのを、まず当事者間の文脈にまず置き戻してもらいたいというのがある。その文脈化で、ヤジする側にも世界観・人間観・ロジックというものがあるだろうから、事態が発生する仕組みを知る上でも理解したほうがよい。そこでは、今回の事例の一つの文脈化としてだが、ヤジした人が思いつきそうなことの一例として、不倫というのを侮辱に値するものとして想定したのではないか、ということだった。
 別の言い方をすれば、私のように、不倫は市民社会にとって「悪」でもなんでもないと思う人間には、そうした前提はないし、また、私は塩村議員についてはほとんど知らないので、知っている範囲のことで文脈化の例で思いついたのはそのくらいだった、というだけでしかない。侮辱は「私的な名誉」を毀損したとしてまず個別の文脈のなかで問われるから、そのどうでもいい一例としただけである。また「正義」を暴発させないためにも、まず、「侮辱」はまずその個別の文脈で見るほうがよい。実際のところ、都議会での侮辱についての現規定も、個々人の関係としての侮辱が前提になっているから、セクハラという問題は旧来の「侮辱」という範疇では扱いづらい。
 そこをきちんと切り分けて、今回のことでは、ヤジした人が投げかけた言葉は、個的な関係という文脈を外しても明白にセクハラだった。だから、今回のヤジした人は、個別の侮辱の文脈を離れた部分で、きちんとセクハラとして処罰されたほうがよい。しかし現状、都議会には「侮辱」とは別にセクハラを処罰する規定はない。事後に処罰法を作るわけにもいかないから、これは議会のありかたとしてこの機会にセクハラ・ヤジをなくすように是正したらよいだろう。そしてそう私は主張した。
 それと「正義」より大切なのは、議会が正常に機能することだ。
 これも前回書いたとおりのことだが、今回の問題には、まず、社会的な問題として見れば、第一義にはSNSネットワークを使った炎上案件に近い。しかもこれは議会の場に関連した炎上案件に近く、議会を巻き込みうる。そして政治的な思惑がこれに引き寄せられ、しかも不特定の感情を巻き込んで、不特定だが大きな怒りの空気を形成し、政治的に議会に介入的に機能しはじめる。
 だがどういう形であれ、議会という制度に介入してくる政治勢力は民主主義社会とって好ましいことではない。ゼロにはできないものだからこそ、その政治的な勢力・権力は、市民社会が抑制しなければならない。もちろんこれはSNSネットワークを政治に使うなということではない。だが、議会は議会のルールで動いてもらわなくては困る。市民がすべきことはたとえSNSネットワークを使うのであれ、議会が自律的に正常に運営してもらうことを前提にしたい。今回の件では、個別の「侮辱」はまず個別の文脈で扱い、またセクハラについては、新しい議会ルールで対応したほうがよい。
 もう一つ前回のアーティクルの反応で、意外だったのは、強い人にヤジの前面に立ってもらいたという私の願いへの批判だった。「なにこれ生贄?人身御供?」「爺から塩村議員へのサディスティック説教」とも言われた。これは、1960年代のアメリカの公民権運動を自分の人生の歴史のなかでリアルタイムに見てきた人間としては、とても不思議な感覚に思えた。
 公民権運動では、彼らのうち力のあるものは率先して差別の前面に立って戦ってきたし、戦わなくては市民の権利が獲得できないから、戦うしかなかった(もちろん非暴力で)。そして、自分が戦えないほど弱い人間であるなら、強い立場の人に戦ってほしいとして、そのために代表者を選び出した。議員というのは、代議士(representative)であり、私たちの代理で戦ってくれる人のことだ。
 議員ならセクハラに耐えろと言っているのではない。でも、代議士は、この社会に存在する差別が可視になるように戦ってほしい。特にセクハラというのは、この社会の見えないところで、しかも弱者において発生しているからだ(今回の反応例では、「セクハラ経験のない中年男性にはわからないんでしょ」という感じのもあったがそれも微妙にセクハラ)。
 もちろん、特定の議員にはその戦いが難しいというのなら、選挙の時に、新しく戦える人を選びたいと思う。みんなが戦えるわけではない。みんなが戦っている幻想からSNSネットワークで傘連判状を作るのはいいけど、それは代議士で構成される議会のプロセスには乗りづらい。きちんとしたプロセスでセクハラのない社会に変えていきたい。
 
 

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