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2014.06.07

なぜ市民は女児殺害事件容疑者逮捕について考えなければいけないのか?

 なぜ、私が女児殺害事件容疑者逮捕にこだわって考え続けているのかについて書いておこうと思う。

問題の基本構図としてのジレンマ
 まず枠組みとして重要なことは、この問題がジレンマの構造をしていることだ。私はまずそう認識するし、日本の市民にとってもそうであると思う。ジレンマというのは、問題の対応に二つの選択肢が存在するがそのどちらを選んでも不利益があって態度を決めるのが難しい状態を指している。
 しかし、ジレンマの問題が市民社会でまさに問題となるのは、ジレンマの状況そのものではない。なぜなら、それは最終的に総合的な利得にかなり還元できるからだ。
 ではジレンマが市民社会で問題になるのはどういうことか? それは、市民がジレンマを避けられるように行動を取り、選択による不利益を自己の市民としての責務として担うことを放棄することである。
 これは、いじめ問題の傍観にも似ている。いじめはよくないしよくないと表明したいが、そう表明することで自分がいじめ対象になるのを怖れる。よって、そのジレンマを自分の問題としないとして表明を控える。
 では、その全体的な結果はどうなるのか? 自明だろうと思う。いじめが続く。
 いじめ問題の本質は、実はそうした、ジレンマによる不利益を自分の責務とする主体的な責務感の欠如がある種経済学的な均衡を介して継続することだ。

女児殺害事件容疑者逮捕のジレンマ
 女児殺害事件容疑者逮捕はどのように、市民にとってジレンマなのだろうか。対立する二つの項は、こうである。

  1. 凶悪犯罪を未決事件として放置しておくことはできない。
  2. その解決たのために冤罪事件を誘発する手法を警察が採ることは許しがたい。

 そのジレンマに対して、市民はどのように回避し、無責任となれるのか。次のようになる。

犯人について主体的な印象を持とうとすることを避け、それを市民としての自分の市民社会問題から疎外して、ジレンマを悩むことを放棄する。

 もう一歩進めよう。なぜ、そのような市民的な責務の回避が起きているように見えるのだろうか?

なぜこの事件が冤罪事件の構図として批判されないのか
 この事件の特性には、冤罪事件の構図に従属ではあるが、犯人の自白という大きな問題がある。
 現状、私たち市民が報道から知りうる情報を市民の常識として吟味する限り、確固たる証拠はなにも存在していない。そのうえ、事件の解明はすべて自白に依存しているように見える。つまり、この事件はまったく冤罪事件と同じ構図にある。
 にもかかわらず、この事件が冤罪事件と同じ構図ではないかとして、PC遠隔操作事件のように警察を非難する論調は、ネットですらほとんど見かけない。私は見かけたことがない。なぜなのだろうか?
 さきのジレンマに直面し、ジレンマを引き受けることを放棄しているからではないだろうか?
 別の言い方をすれば、こういう心理ではないだろうか。


凶悪犯人は逮捕してほしいが、そのために冤罪事件を導く捜査方法は是認せざるを得ないにも拘わらず、それを是認するかのような意見を述べると、自分が正しくないように思えるというのは嫌だな。黙っていよう。いっそ、犯人であるか犯人ではないかという主体的な印象をもつのも避けてしまおう。

 理路は逆になる。
 女児殺害事件容疑者が犯人であるか、そうではないのかという市民的な主体的な意識をもってこの事件を見ていけば、この事件が冤罪と同じ構図にあることがわかり、無関心からではなく、また、「印象をもつべきではない」という理由からでもなく、きちんと、容疑者が犯人だともそうでないとも思えず、結果、嫌悪感ももてない、という帰結になるはずだ。

では市民はどうしたらよいのだろうか?
 ではどうしたらよいのだろうか。二つある。

  1. 現時点で、容疑者が犯人であるという判断ができないということに主体的に関わり、その表明をする。
  2. 警察の冤罪誘導的な手法を是認してはならないが、それなくして逮捕できない現実についての責務感を持つ。市民として汚れの部分を引き受ける。

 問題は、ゆえに、さらにもう一歩すすめて、警察が冤罪をもたらす手法をある程度是認するということは、どういうことなのかということを市民として考え詰め、それも表明していくことである。
 あるいは、それは断固として是認できないとして、この事件における冤罪的な構図を主張しつづけることである。

コメントに答える
 以上で、私の基本的な考えを示したので、いただいた以下のコメントに答えてみたいと思う。このコメントの背景的部分についての感想は含めず、書かれたことに、直球的に答えてみたいと思う。また謝辞的な部分は引用しない。


 まず、今回の事件に対して、最も重要なことは、「真実は何か?」ということではないかと思います。
 というのも、いたいけな命が奪われたという、厳粛な、痛ましい事実があるからです。
 かような事件を扱う局面において、多様な臆見を表明し、戦わせることが、相応しいことである、とは、私には思えなかったのが、正直な感想です。
 「現時点の報道では、真実が何か、得心のいくまでの情報が公開されていない。警察は、無用の心理操作を行う暇があるのならば、市民が真実を得心できうる情報をもっと追及し、それを公開すべきだ」という論であれば、私も話はわかります。
 そうでなく、市民は、痛ましい犯罪を前にして、それでも、真実は何か、ああではない、こうではない、と、臆見を戦わせるべきである、という主張であるならば、これは直ちに筋が通りにくいのではないかと思えます。
 現在、供述内容は二転三転するといわれているものの、容疑者が、自白を撤回した、という報道はまだ聞こえてきません。
しかし、finalvent様は、おそらく、容疑者が、後日、自白を撤回するのではないか、と見込んでいらっしゃるのではないでしょうか。
 あるいは、容疑者が、厭世的であるとかいった理由で、意図的に、自ら犯人であると騙っているのではないか。
こうした可能性は、依然、あるのかもしれません。
 しかしながら、このような可能性を想定すること自体が、事件の痛ましさを思い起こせば、心情的に、どうしても苦しく、耐えられないものがあります。
 犯罪に対する判断は、非常に難しいと思います。
 例えば、小野悦男受刑囚の件を想起してください。
 痛ましい事件においては、自らの臆見を披露することは、政治的な議論を行うような場合とは全く次元の異なった、倫理的な慎重さが要求されてくるように思われるのです。
 アレントの議論が、直ちに妥当する場面ではないと感じるのです。

 コメントありがとう。
 では答えてみよう。

この事件における「真実」とは何か?
 この女児殺害事件における「真実」とはなんだろうか。
 コメントのかたからいただいた疑問点で、一番違和感をもったのが、まさにその問いだった。違和感のコアは、その文脈から「真犯人を割り出す」ことが「真実」とされていることだった。
 私は、まず、そうは考えていない。
 「真犯人を見つけ」それに適切な処罰を与えることが、この事件の「真実」だとは考えていない。
 「いたいけな命が奪われたという、厳粛な、痛ましい事実」に対する親御さんにとっての「真実」は、処罰であるかもしれない。近代国家の刑は、復讐の抑制的な代理という側面がある。
 しかし、それは市民には該当しない。私は「いたいけな命」について、市民としてしか関与できない。
 では、市民という点からその事実が意味するところ、「真実」とはなんだろうか?
 犯罪が適切に解明されるように警察を支援することだと思う。さらに裁判が正しく進むことを支援することだと思う。
 真犯人の割り出しは、その支援の結果として、蓋然として得られることがありうるということで、あくまで蓋然に置かれるものだろうと考える。
 私たちは神のような全能ではないので、犯罪を映画のように見通すことができない。公的に理解される手順や証言の審議を通して、犯罪についてのある合意を形成する、その合意形成が「真実」であるにすぎない。

自白と日本人的な倫理感について
 今回の事件の自白についてこう問われる。


容疑者が、後日、自白を撤回するのではないか、と見込んでいらっしゃるのではないでしょうか。
 あるいは、容疑者が、厭世的であるとかいった理由で、意図的に、自ら犯人であると騙っているのではないか。

 これに対する私の答えとして、率直なところ、まったくそう考えていない。自白のとおり、なんらかの物的証拠があがる可能性は少なくないとは思う。
 私が関心を持つのは、この事件を、自白に倫理的な意味合いを持たせ、そのような倫理を市民社会の倫理とすることへの拒絶感である。
 ここから少し日本人論ぽくなることは留意しつつ述べたい。
 日本人はこう考えがちではないだろうか。

悪い人がいて、それをとっちめて、「悪うございました」と土下座させれば、悪が終わる。

 それを日本人は「正義」の実行と考えているのではないだろうか? そして、「清らかなる本心」を守る。
 犯罪や悪を、そうした「清らかなる本心」の問題として、そこに帰着させたいという欲望を強迫的に持っているのではないだろうか。私はそうした、強迫的な倫理こそが個人の思想を尊重する市民社会の原則に反するものだと考える。
 すべての自白がいけないとは言わない。ある事件の犯人が犯行後、自分の罪を自覚して、罪が存在することを公にするために自ら犯罪の証拠を提示するというなら、それにはまったく異論はない。
 しかし、今回の事件には、そうした構図は、現状見られないのである。

主体的に関心を持つから犯人であるとは思えない
 すでに述べたとおりの再掲になる。私はこう問われる。


 痛ましい事件においては、自らの臆見を披露することは、政治的な議論を行うような場合とは全く次元の異なった、倫理的な慎重さが要求されてくるように思われるのです。

 私の答えは、その倫理的な慎重さが、先に提示したジレンマを回避しないことである。
 また、私は、主体的に関心を持つからこの事件の容疑者が現時点では犯人であるとは思えない。
 そうした風潮で報道されている現状に違和感を思える。また、そうした風潮にきちんと、そうであってはならないという否定の意見を述べておきたい。
 
 

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2014.06.06

遠隔操作事件被告がキモくて、現時点で女児殺害事件容疑者がキモくない理由

 ブログをやっていると罵倒コメントを貰うことが多い。罵倒ならまだいいほうかもしれない。
 その手の罵倒コメントは、基本的な誤読の上に成立していることが多いので、返答するとさらにこじれる。それは例えば、「君は最近奥さんを殴るのをやめたのかい?」と問われて、「いや」と答えればそれ以前は殴っていたんだということになってしまうような構図と似ている。
 ネットの世界だとある一定の知的水準がある場合でも、そうした誤解を解くのはむずかしい。もちろん、それを試みる価値はある。
 たまたま、罵倒コメントでネットで有名な、はてなブックマークを見たら、こういうコメントがあった。コメント者については関心ないので、名前は省略する。


今回は「こいつキモくね?」って言わないんだ?http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/05/post-1d21.html 2014/06/05

 このネガコメ(否定的なコメント)にも見えるコメントがついたのは、昨日のエントリー「栃木小1女児殺害事件、現時点の雑感」(参照)である。このエントリーで私が、女児殺害事件容疑者に対して「キモくね」(気持ち悪い)と言ってないのはなぜかと疑問に思ったらしい。
 そして、「今回は」に対応するのは、以前のエントリー「パソコン遠隔操作事件、その後の雑感」(参照)であり、このエントリーでは私は、実質、遠隔操作事件被告に対して「キモくね」というに等しく扱っている。
 さて、私としては、「今回は「こいつキモくね?」って言わないんだ?」というコメントの誤解がとても不思議である。

それが誤読に基づくだろう理由
 遠隔操作事件被告は、前科と容疑を認める前の二つの状態について私は知っていて、そこに人格的な統合性を見ることができなかった。さらに、容疑を認めたあとは、容疑を否認していた状態について、彼が「平気で嘘をつく」人であることをかなり明白に知った。この二つの点から、私は彼に人を騙す邪悪性を感じ取った。そしてスコット・ペックが言うことを思い描いた。


健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することの多い感情が嫌悪感である。相手の邪悪性があからさまなものであるときには、この嫌悪感は即時に生じるものである。相手の邪悪性がより隠微なものである場合には、この嫌悪感は、相手との関係が深まるにしたがって徐々に強まってくる。

 これに対して、女児殺害事件容疑者については、すでに該当エントリーに書いたように、容疑者について、犯人だという感覚を私は持つことができないでいる。まとまった印象すらない。こう書いたとおりである。


一番気になったのは、そして今も気になっているのは、逮捕された栃木県鹿沼市無職・勝又拓哉容疑者(32)が、真犯人だという感覚を持つことができないことだ。

 そういう対象に対して、「キモくね」という印象を持つことは、とうていできない。
 私はこの女児殺害事件容疑者については、犯人だとも犯人でないとも思っていない。ロリコンだとも変質者だとも思っていない。そう思えない理由も該当のエントリーに書いたし、むしろ、世間がこの事件が解決したかのような風潮で実質彼を犯人のように扱っていることに違和感を覚えたというのが、そのエントリーの主旨だった。
 というわけで、「今回は「こいつキモくね?」って言わないんだ?」とコメントされても、それは普通に誤読でしょと思う。

もう一つの誤解、あるいは異論
 関連して。私は現時点では、女児殺害事件容疑者については、犯人だとも犯人でないとも思っていないと書いたのだが、こういうコメントもあった。同じく、コメント者には関心ないのでそこは省略する。


そもそも捜査中の事件の被疑者に対して有罪(真犯人)か無罪かの「心証」を取ろうとすること自体が非常に危ういわけで 2014/06/05

 短いコメントなので、コメント対象が判然とはしないのだが、誤読なんだろうなと思うことはあった。
 まず、事件が解決したかのような現在の報道を見るかぎり、現在の報道は、「有罪(真犯人)か無罪かの「心証」」を実際上与えようとしている現実がある。だからこそ、私は該当エントリーで、女児殺害事件容疑者については、犯人だとも犯人でないとも思っていないと書いた。
 しかし、世間自体が、市民が、ある事件について、「有罪(真犯人)か無罪かの「心証」を取ろうとすること自体が非常に危うい」という点については、もちろん、危ういのだが、その危うさを回避することは、「「心証」を取ろうとする」行為を排除することではない、と私は考えている。
 このエントリーを書こうと思ったのは、まさにそれである。

市民社会に求められるのは臆見を排することではなく複数の声があること
 市民社会の市民は犯罪者に対して心証をもつべきだが、同時にそれは複数の声でなければならない、ということだ。
 市民社会では、宗教的な意味合いでの絶対的な規範、あるいは独裁国のような絶対的な規範は存在しない。市民社会はそれを調停するルールによって成立している。そのことは同時に、市民の意見はすべて等しくドクサ(臆見)であり、そこでは、ハンナ・アーレント(参照)の言うようにドクサ(意見)の複数性を廃棄する真理観のほうが問題になる。
 アーレントの公共性の考えは、市民社会における市民が、単に多様に存在しているという存在の様態を指しているのではなく、市民がある単一の真理に還元不可能に存在していることを示しているのであり、複数の声が挙げることがその実践にもなる。
 私は、ブログとは、そういう複数の声の場であると思う。
 そして、その複数性があるということは、市民の意見=ドクサ(臆見)が前提となる。

ドクサ(臆見)の無言の市民社会機能について
 具体的に犯罪者と市民の受容についていえば、市民は、容疑者について、犯罪の彼(彼女)が真犯人であるかそうではないのかというドクサ(臆見)=意見を自然的に持つということだ。市民の主体意識は、社会のありかたを問う一環として、容疑者についての考えを自身に問うことになる。そうでなければ、犯罪に無関心であるか、報道の誘導や権威者の判断など、他者の考えを自己の感受性に優先させることになり、いずれにせよ、市民としての主体性が抑制される。
 もちろん、そうした意見=ドクサ(臆見)は、公共性のプロセス、例えば、司法のプロセスにおいて調停され、調停されることで便宜的な正義となる。だが、そのような場で、例えば、陪審員や裁判員などは、その任として市民から疎外されたときには、「そもそも捜査中の事件の被疑者に対して有罪(真犯人)か無罪かの「心証」」がまず排されたのち、次に、「被疑者に対して有罪(真犯人)か無罪かの「心証」」を積極的に得ようとすることになる。いずれにせよ、公共性のプロセスでは、市民は「公」として疎外される。
 私はこうしたアーレントの公共性の前提にはもう一つ、市民社会のドクサ(臆見)=意見の積極的な意味合いがあると思う。
 私は先のエントリーでこう述べた。


 私たちは普通に生活していれば、たんまりと自己嫌悪を抱く。そして邪悪な人に接しては、たんまりと嫌悪感を抱く。
 しかし、それが人間の正常というものだし、そういう正常が市民社会を支えていくんじゃないか。

 市民がそれぞれはその生活感から得られた他者というものへの人格的な了解性を持つが、その了解とともに必然的に生まれてきた嫌悪感というものが、市民社会を支えている一つの無言の原理になっているのだろうと私は考えている。
 遠隔操作事件被告については、前科について忘れられる権利はあるにせよ、前科の言動と容疑を認めるまでの言動との間に、ある人格的な統一性が見られなかった。そこで市民の一人である私はドクサとして「キモくね」と思う。そしてできるだけ言う。こうしたことは、おそらく正常な市民社会を実際に支えている原理ではないかと思う。
 と、同時に、そうした原理性がはたらかない、さらにはゆがんだ情報が与えられているときは、「キモくね」とは思わないし、そういう意見を挙げる。
 踏み込んで言えば、複数の意見が聞こえるように、市民社会の市民が声を挙げることを励ますべきだと思う。多様な声の一つではあるとしても、罵倒コメントを書く代わりに。
  
 

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2014.06.05

栃木小1女児殺害事件、現時点の雑感

 栃木小1女児殺害事件の容疑者が逮捕され、自白もしているということで、全体としては彼が真犯人であるという風潮で報道が進んでいるように思える。これに対して、いや彼は真犯人ではないという論調は自分の見ている範囲では見かけないし、私としてもそうした印象はもっていない。
 だが、この逮捕にまつわる情報について、なんとも言いがたい違和感を感じている。気に留めずに過ごしていってもいいのかもしれないが、やはりそういうことを一人の市民の視点から留めておくこともブログの役割かもしれないと、少し自分を励まして書いてみる。

 事件は、2005年12月に栃木県今市市(現日光市)の、当時7歳の女児が下校中に行方不明となり、茨城県常陸大宮市の山林で刺殺体となって発見された事件である。
 このブログも10年以上に経過しているが、事件発生当時も気がかりで、しかし状況が皆目わからないまま、とりあえず関連してスクールバスについて言及したこともあり(参照)、ずっと心にひっかかっていた。なによりも痛ましい事件であることが心に残る理由だった。
 容疑者逮捕後の状況についての報道がどうも渾然としていて、こうした問題は何か言及するにしても、もう少し待つほうがよいのではないかと思っていたが、どうも報道の流れはさらに曖昧になっていくように見える。むしろ、初報道に近い現時点で、それなりに思いをまとめておいたほうがいいのかもしれないと思った。
 とはいえ思いがうまくまとまっているわけではないので、心の引っかかりの部分から書いてみたい。

真犯人だという感覚を持つことができない
 一番気になったのは、そして今も気になっているのは、逮捕された栃木県鹿沼市無職・勝又拓哉容疑者(32)が、真犯人だという感覚を持つことができないことだ。
 逆に犯人ではないという感覚もない。どうしたことなのかと思いを見つめていくと、市民として、そうした感覚を形成するための情報が提供されていないのではないかという疑念にいたる。
 ごく簡単に言えば、二点ある。一つは、警察が市民に説明すべき逮捕の根拠とされる事物に説得力がないことだ。もう一つは、PC遠隔操作ウイルス事件で片山祐輔被告が逮捕されたときのような前科などいった、事件を考える上での文脈が与えられていないことだ。
 一言で言えば、事件についての「なぜ」が宙ぶらりんになっているなかで、事件が解決されたかのような風潮が形成されていくように見える。

「ロリコン」は偽の文脈ではないのか
 しかし、その「文脈」がまた微妙なのだ。
 私から見れば、今回の逮捕について、市民がその「何故」を想定する文脈は存在していないように見える。にもかかわらず、現状の流布されている報道からは、「フィギュア好き」(参照)、「幼時性愛・ロリコン趣味」(参照)といった情報から、それが殺害に関連したかのような、偽の文脈が与えられている。
 奇妙に思えるのだが、このエントリーを記載している時点の最新報道で、かつ日本の報道では比較的信頼の置けるNHKの報道を見ても、そうした異常性愛者的な情報は見つからない。「小1女児殺害 消去された一部画像を復元へ」(参照)。


 9年前栃木県の旧今市市、今の日光市で、小学1年生だった女の子が連れ去られて殺害され、3日32歳の男が殺人の疑いで逮捕された事件で、男のパソコンに大量に保管されていた画像の一部が消去されていたことが分かり、警察はデータの復元を進め事件に関係するものがないか詳しく調べています。
 この事件で、逮捕された栃木県鹿沼市の無職、勝又拓哉容疑者(32)は、9年前の平成17年12月、栃木県の旧今市市、今の日光市で小学1年生だった吉田有希ちゃん(当時7)を下校途中に連れ去り、刃物で刺して殺害したとして殺人の疑いで逮捕され、5日午前7時半すぎ、検察庁に向かうため車で警察署を出ました。
 これまでの調べに対し勝又容疑者は容疑を認め「女の子を車で連れ去ったあといったん自宅に連れて行き、その後、騒がれたので殺害した」などと供述しているということです。
 その後の調べで、勝又容疑者の自宅から押収したパソコンには、インターネットを通じてダウンロードしたものも含め大量の画像が保管されていましたが、一部が消去されていたことが警察への取材で分かりました。
警察によりますとデータは復元が可能で、これまでに不鮮明で誰かは特定できないものの、女の子の顔を写したと見られる画像も見つかったということです。
 警察はデータの復元を進め、事件に関係するものがないか詳しく調べています。

 NHKの報道が他の報道より遅れているということは、他の事件でのNHK報道などから類推するにあまり想定しにくい。現状では、勝又容疑者が異常性愛者であるという印象は私にはとうていえられない。
 ただし、ネットの世界から見ると、勝又拓哉容疑者のツイッター投稿のようなものが見つかり(参照)、それが本人であれば「スク水」好きとかではあったようには見える。ただ、それでも事件と結びつけられるものではない。
 これに関連して、「警察によりますとデータは復元が可能で、これまでに不鮮明で誰かは特定できないものの、女の子の顔を写したと見られる画像も見つかったということです」ということは、警察による伝聞であって、私たち市民はどの程度その警察を信頼する問われている。
 この件についていえば、そうした状況を想定しても、女の子の特定は難しいのではないかと私には思える。先のツイッターが本人であれば、そうしたデータを多数持っていても不思議ではない。

証拠はなんだろうか?
 また「警察はデータの復元を進め、事件に関係するものがないか詳しく調べています」ということも奇妙で、逆に報道から得られる印象は、この逮捕についての証拠は何もないのではないか、ということだ。
 このあたりで、ふとすでにある異世界に混入しているような違和感を感じる。
 そもそも勝又拓哉容疑者は何の件で逮捕されたのだろうか。もちろん、女児殺害事件である。だが、当初の逮捕は1月の「商標法違反容疑」だった。偽ブランド品を取り扱っているということだった(余談めくが先のツイッターがその時点で途切れていることは印象的)。
 ここは私の社会人としての常識からの推測だが、警察としては勝又拓哉容疑者が女児殺害事件の犯人であるという想定で、別件逮捕し、その過程で、容疑者の自白を誘導して、次に女児殺害事件の逮捕ということになったのだろう。
 率直なところ、そんなことをしてよいのか?というのが疑問になる。
 そして、その疑問に対して、自分の心を除くと、私のかわいい悪魔の代弁者はこう呟く、「そうでもしなければ、証拠もないのにこんな極悪犯人、捕まらないぜ。PC遠隔操作事件だってそうだっただろ。犯人を誘導しなければわからない事件というのがあるんだ」、と。

日本人の強迫的な心性が報道の受け取りに影響していないか?
 ここで私はもう一つ奇妙な、まるで氷の城のなかに自ら幽閉されたような感覚に襲われる。私、というより私たち、そして私たちというより日本人は、自分がいかに純真で正しい心を持っているかを表明したい欲望を持つがために、ある政治的な立場に立つことを強迫され、敵対者を想定してバッシングする心性を持つということだ。
 今回の事例で言えば、「こんな極悪人」を支援するような立場に立っていいのか?という怖れになる。だから、「容疑者が犯人であることは現時点では非常に疑わしいし、警察のやりかたは正統とは思えない」と私が言うとすれば、そういう立場に立った私がバッシングの対象になりかねない。
 このことは、PC遠隔操作事件を連想させる。こちらの事件は、全体構造を俯瞰すればそれほど「極悪」と言えるか疑問な事件であったせいもあるが、「容疑者が犯人であることは現時点では非常に疑わしいし、警察のやりかたは正統とは思えない」ということは、許容されていたし、私の見るかぎり、ネットではそうした許容が優勢であり、むしろ、「こいつ前科の口調を考えると相当に疑わしいぜ」とでも渦中で言おうものなら、バッシングの対象にされかなかったかと思う。

女児殺害事件とPC遠隔操作事件はどこが違うか?
 この女児殺害事件とPC遠隔操作事件はどこが違うのか?
 即座に「違うだろう、当然」という思いが沸き起こるが、しかし冷静に見れば、警察がやっていることは、毎度のお仕事である。毎度というよりしっかりとリキの入ったお仕事である。そしてそれはかなり点で市民の感謝の対象となりうるものだとも思う。だがいずれにしても、警察の対応という点では、それほど違いはないように見える。
 では「違うだろう、当然」という思いの由来はどこか?
 市民としての立場の選択に対する影響から発しているのではないだろうか?
 つまり、立場だけが問われている。
 かわいい悪魔の代弁者は「女児殺害事件の容疑者を支援している立場にあると思われるのが怖いからでしょ? こんな極悪事件をのさばらせておくような立場ってありかよ」と言う。しかし、かわいい悪魔は理性的ではない。今回の逮捕にどれだけ疑念を抱いても「こんな極悪事件をのさばらせておくような立場」とは実は関係ない。

微妙に歴史隠蔽的なカタルシスに関与しているような疑念
 話を栃木小1女児殺害事件に戻して、関連してもう一つ自分の思いをいうと、今回の逮捕は微妙に歴史隠蔽的なカタルシスに関与しているような疑念がある。
 社会に関心を持っている人なら、指摘されれば、気がつくことだが(すでに気がついている人も多いはずだが報道やネットから見えづらいように思えることだが)、1980年ころから栃木県と群馬県では女子殺人事件が連鎖的に発生していた。ネットの情報を当たってみると、ウィキペディアに「北関東連続幼女誘拐殺人事件」(参照)という項目があったが、今回の事件もその一連の最後に位置づけられるかのようにも見える。だが、今回の容疑者が犯人ならその年齢からして、他の事件との関連は薄いだろう。では、他の殺人事件はどうなったのだろうか?
 この関連と、今回の事件についてのもう一つの関連がここで結びつく。一連の女子殺人事件がこの事件を終わりにしたかのように途切れたのはなぜだろうか?
 これは偽の疑問かもしれない。つまり、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」というのは、リスト化はできるにせよそこに共通する犯人についての事項は存在しないかもしれない。だが、「栃木県と群馬県」という点についてはおそらく何らかの説明が可能だろう。

防犯カメラの現状
 今回の事件で、逮捕の根拠とされたかに見えるのは、防犯カメラ映像だった。孫引きメディアのJ-Castをさらに孫引きするのもなんだが、わかりやすいので引用したい(参照)。


 高村智康リポーターが有希ちゃんが連れ去られた現場にいた。「勝又容疑者逮捕の決め手となったのは、防犯カメラに撮影された彼の白いセダンタイプの車とパソコンに残っていた映像です。栃木県警と茨城県警の合同捜査本部が死体を遺棄したと見られる時間帯の車を調べたところ、2台だけが詳しいことがわかりませんでした。今回、そのうちの1台のナンバープレートが解析でき、勝又容疑者がかつて所有していて、犯行現場と遺棄現場の間にある防犯カメラに写っていました」
 司会の羽鳥慎一「防犯カメラの映像分析は、それほど難しいものですか」
 神奈川県警元刑事の小川泰平氏(犯罪ジャーナリスト)はこう説明する。「肉眼による分析は難しいものでも、1年半ほど前に新たな分析装置が導入され、肉眼では判別不能な人相・風体や車のナンバーも識別できるようになりました」

 情報をもっときちんと整理すべきなのだが、このこと、「勝又容疑者逮捕の決め手となったのは、防犯カメラに撮影された彼の白いセダンタイプの車とパソコンに残っていた映像です」というのは正しいだろう。
 つまり、今回逮捕できたのは、実際には、誘導自覚とそれに拠るこの防犯カメラ映像だった。
 実は先に挙げた「北関東連続幼女誘拐殺人事件」だが、栃木小1女児殺害事件がそのリストの最後だったかについては疑問がある。「ゆかりちゃん誘拐事件」(参照)があるからだ。1996年、群馬県太田市のパチンコ店で当時4歳の横山ゆかりちゃんが行方不明になった事件である。未決である。生存しているなら今年で22歳になっているだろう(参照)。今回の事件との関連はないと思われる。
 ゆかりちゃん事件では防犯カメラが犯人を捕らえていた。
 防犯カメラの普及がおそらく「北関東連続幼女誘拐殺人事件」のような事件をしだいに抑制してきているのだろう。世間ではそれほど話題にならなったように思えたが群馬県と防犯カメラの関係で気になる事件があった。国立の骨董店主殺害事件である。防犯カメラによって群馬県まで追跡された。

 桜井正男、久美子両容疑者を特定する決め手になったのは、またしても防犯カメラの画像解析による追跡だった。発生直後から目撃情報が寄せられていた不審なワゴン車のナンバーから所有者を調べ、骨董品店の客と合致。逃走ルートを割り出し、群馬県みなかみ町内の自宅を突き止めた。
 目撃された不審なワゴン車の色はシルバーで、男がつぼなどを運び込み、女が同乗していたという情報もあった。警視庁立川署捜査本部が店周辺の防犯カメラの画像を解析し、ナンバーを読み取ることに成功。所有者の久美子容疑者が浮上し、桜井容疑者が客だったことも分かった。
 車の登録先は桜井容疑者らの自宅と別の住所だったが、Nシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)などからワゴン車が都内から関越自動車道を走行し、群馬県みなかみ町に向かったことが確認された。

 Nシステムがかなり強固なものになってきていることがわかる。
 そのことは市民社会の安定に寄与しているとも思える半面、私たちの市民社会像がほぼ情報統制されているような印象もある。

出自を巡る困惑
 栃木小1女児殺害事件に関連して最後にもう一点だけ触れておくと、容疑者が台湾出身であったことだ。読売新聞「勝又容疑者、フィギュア好き…母は台湾出身」(参照


 栃木県今市市(現・日光市)の女児殺害事件で逮捕された勝又拓哉容疑者の母親(55)の知人によると、勝又容疑者は1982年、台湾出身の両親の間に生まれた。
 近所の住民などによると、勝又容疑者は90年頃~2000年頃、当時の栃木県今市市に住んでいた。母親と再婚相手の日本人男性、勝又容疑者、きょうだいと暮らしていたという。有希ちゃんと同じ大沢小と大沢中に通っていたが、日本語がうまくなかったこともあり、1人でいることが多かった。小学校時代の同級生は「教室の隅でポツンとしていた」と話す。
 学校関係者によると、一時、台湾に帰っていたこともあったという。捜査関係者らによると、勝又容疑者は00年頃から鹿沼市で生活、09年に日本に帰化した。

 このことがこの事件とどのように関わっているかは現時点ではまるでわからないし、基本的に関係のないことにも思える。だが、ネットを見ている自分からすると、無意味な差別を煽り立てるネタにならなくてよかったような思いはあった。そう思う自分はなんだろうかとも考えた。
 
 

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2014.06.04

ファイナル・フレーバード・ウォーター

 なんだこの暑さは。なぜ北海道が沖縄より暑いんだ。というお天気は今日でいったん小休止するらしいです。でもま、梅雨が明ければ暑い夏がまたやってくるのではないかな。それとも冷夏?

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フレーバーウォーター
野菜、果物、ハーブで作る
 さて、暑いときに何を飲むか。いろいろ。いろいろですよねぇ。

 おしまい。

 だと話にならないので、「ファイナル・フレーバード・ウォーター」のご紹介。
 フレーバード・ウォーターというのは、英語で"flavored water"。「香りのついた水」ということです。ちょっとレモンの香りがするなとか。タイ料理のお店だと、ちょっとレモングラスの香りのする水とか、ジャスミンのとかもある。
 日本だと和製英語で「フレーバー・ウォーター」になる。あれです、"Iced coffee"が「アイス・コーヒー」になるノリです。ただ、英語圏でもべたに"Ice coffee"という例もあるみたいだけど。
 ほいで、水にほのかに香りがつけばいいので、いろんなもので香りを付けるわけです。英語だけど50種類くらい載っているサイトもある(参照)。
 日本でも最近は「フレーバー・ウォーター」がちょっとブームらしい。そして、ハーブとかナチュラル志向が多いみたい。
 それはそれでよいでしょう。
 でも……そうでなくてもいいじゃないですか。
 そこで、ファイナル・フレーバード・ウォーター。
 ハーブとかナチュラル志向ではありません。
 めっさ簡単です。
 説明しましょう。

用意するもの
  ドロップ(佐久間のがいいよ)
  空の500mlのペットボトル
  冷蔵庫
  水

作り方
 1. 空の500mlのペットボトルにドロップを1つ入れる。
 2. 1に水を入れる
 3. 冷蔵庫で1時間ほど冷やす
 4. ちょっと振ってから飲む

できあがり
 ドロップは1時間くらいで自然に溶けて見えなくなり、水にもほとんど色は付きません。
 サクマ製菓のドロップ(キャンディー)だと、昭和のフレーバーが楽しめます。
 甘みはあります。あるといえばあるなあくらい。
 カロリーも少しあります。佐久間製菓のミックスキャンディーだと100グラムで391kcal。ドロップ1個が3.9gなので、13.65kcal。
 ちなみに、栄養表示上「カロリーオフ」は100mlあたり20kcal以下なので該当。さらに、「カロリーゼロ」や「ノンカロリー」は100mlあたり5kcal未満なので、これもクリアします。なので、「カロリーゼロ」や「ノンカロリー」だぞと言ってもいいかも。

注意事項
 ドロップがペットボトルの口より大きいと困ります。そこは適当に工夫してください。

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サクマ
果実ミックスキャンディ
 ドロップはなん個入れてもいいけど、1個より多くいれたら「ファイナル・フレーバード・ウォーター」じゃないよとしたいです。
 炭酸水でもできますが、ドロップ入れるとき、若干メントスコーラふうになるので注意しましょう(参照)。
 ドロップがペットボトルの内側につっくいてうまく溶けないこともあるかもしれません。まあ、待ちましょう。

"Si je veux me préparer un verre d'eau sucrée, j'ai beau faire, je dois attendre que le sucre fonde. Ce petit fait est gros d'enseignements."(Henri-Louis Bergson )

「私がグラス一杯の砂糖水を用意したい場合、それを成し遂げるには、私は砂糖が溶けるまで待たなければならない。この些細なことから大切なことが学べる。」(アンリ=ルイ・ベルクソン)

 

追記(2014.6.6)
 ツイッターやコメントで、「それ、オードリー春日の「飴ジュース」と同じ、という」話を聞いて、逆にその「飴ジュース」というのが何かを伺ったのだけど、どうも水に飴を溶かすという点は同じらしけど、そちらのは、水1ℓに飴10個くらい入れて甘くするらしい。また、それは「ケチ芸」らしいのだけ、「ケチ」はまったく想定してなかった。
 ファイナル・フレーバー・ウォーターのポイントは、あくまでウォーターなので甘くさせないこと。ほとんど水なのにほんのり香りがある点がポイントなので、うーん、そのオードリーさんのとは似て非成る物だなあと思った。
 繰り返すけど、使うキャンディーは佐久間がよいですよ。
 
 

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