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2014.05.26

中国語学習(ピンズラー)、90日を終えた。中国語も普通の言語だなあと実感した。

 当初、1か月、つまりフェーズ1(一段階)でやめようと思っていた、ピンズラーの中国語学習だが、今日、フェーズ3を終えた。つまり、90日間、中国語を勉強した。
 一回のレッスンは30分だが、「ちょっと今んとこ、もう一度確認したい」とか「そこ復習もしておきたい」という感じもあって、結局、一日一時間くらいは中国語の学習にあてただろうか。ざっと100時間くらいは中国語を勉強したことになるのではないかと思う。
 成果はどうかというと、率直なところ、それほど大したことない。ちなみに最後のレッスンのフレーズはこんな感じだった。

  我要给我的太太买一块表。
  谢谢。你们的熱情的招待。
  我的普通话会比现在流利。

 中国語のレベルでいうなら、4月から始まった今期の「まいにち中国語」の現在のレベルにも及ばないのではないか。しかも、「まいにち中国語」のほうは、4月はほとんどを発音学習に充てていたので、その意味でいえば、「まいにち中国語」のほうが、はるかに学習のテンポが速い。それに文法の解説もけっこう充実していて、これはためになる。ああ、つまり、「まいにち中国語」のほうも5月から並行して勉強していますです。

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Chinese (Mandarin) III
 それでもピンズラー方式の学習で、けっこう素早く口ついて中国語が言えるようになった。限定された語彙と文法に限るけど、日常の普通話の速度で発話できるようになった。あれれ、自分は中国人みたいだなという変な感じもするくらい。
 というか、アジア圏にいて中国語を話す人も、普通話についてはネイティブではない人が多いのだから、普通話を喋っていたら中国人とさして変わりない。
 実際中国人と見られる大半はそういうふうに生きているのではないか。そのほうが普通の中国人ではないのかと思うようになった。
 その意味で、未来の日本が中国語を公用語に加えて中国語を話す日本人が増えても不思議ではないし、米国に国境を接するカナダが英語とフランス語話しているのとさして違いもないなあという感覚になった。
 そういえば、私はピンズラー方式で英語で中国語を学んだのだが、ピンズラー中国語については、ユーキャンから日本語で教える教材があるを知っていた。だが、以前、その手を話題を書いたらユーキャンのステマだとか言われてむっときたので詳細を確認しかった。改めて見たら、やはりフェーズ1だけだったようだ。
 その先のレッスンのニーズは日本ではないのだろうか。あるいは、日本だとピンズラー方式で中国語を教えるのはあまり効果的ではないのかもしれない。
 中国語の文法って何?という問題について、この間、いろいろ悩んでいたけど、依然、よくわからない。ただ、かなり慣れた。慣れたというのは、所定の構文であれば、特に違和感なく理解できるので、とりあえずわかる文法の範囲で、それに語彙を学んで、それと語彙に付随する語法を理解してくと、当面なんとかなりそうな感じがしてきた。このあたりの感覚は、欧米の言語とかなり違う。
 学習の途中、ブログにもちょっと書いたけど、中国語って、英語より日本語に近いのではないかという話、つまり日本語の「てにをは」を除けば、けっこう中国語になるんじゃないかという感覚についてだけど、不思議とその後は、消えてしまった。
 現在の感覚だと中国語はやはり、どっちかというと英語に近いなあと思う。何かを発話するとき、やはり動詞中心に発想されるようになっているからだ。
 ただ、そのあたりなのだが、フランス語をピンズラー方式で学んだときとはけっこう違う。フランス語の場合は、言語の基本的な構造としては英語とそっくりだし、そもそも英語ってフランス語のピジン言語じゃないかと思ったのだが、中国語だと、きちんと中国語の意識というのが自分の中に別枠として定着してきたような気がする。
 その自分の意識のなかで、中国語という感覚ができつつあるせいか、その感覚が漢文へのフィードバックとして働き、以前もちょっと書いたけど、漢文の意識はさらに変わった。普通に漢文は古典中国語だなあという意識に包括されつつある。
cover
禅 ZEN [DVD]
 それと、私は道元を好むのだが、彼の書いた文章から中国語の響きのようなものを感じ取れるようになった。これは率直に言って、ちょっと驚きだった。道元師、脳は中国語だったんじゃないかというくらいに思える。道元をテーマにした映画「禅」で道元が中国語を話していたが、まあ、現代の普通話のわけはないが、それでもああいう感じだったのだろうな。
 ところでこの映画だが、道元の禅がこういうものかと言われると、ちょっとなあと思うことは多い。それでも、寂円の描写はよい。というか、寂円と道元のことを思うと感動に涙がにじんでくる。懐奘こともそうだな。それだけでも道元の個人の人生は幸福であった。しんみり。話がそれた。

 中国語を英語を通して、音から学ぶというピンズラー方式は結局どうだったのか。よくわからないというのが実感。いくつか中国語の入門書を見ると、ピンズラー方式はけっこう違うなという実感もあった。副詞の位置をけっこう意識して教えていた。英語とそこが大きく違うからだろう。それと、「是~的構文」の練習がけっこう多かった。「花」とかは、最初から児化が入っていた。
 フェーズ2の終わりころ、かなりギブアップに近くなった。やっぱどうしても漢字が思い浮かぶ。レッスンの後の復習で書き起こしの勉強をやってみた。その過程で、拼音入力を覚えた。
 あれですね、拼音入力ができると発音が矯正されますな。これは思わぬメリット。
 それと漢字が目に浮かぶと記憶しやすい。ただ、これにはちょっと弊害もあって日本語の音読みとの対比に意識がそれやすい。それでも、漢字がわかると記憶の補助になる。朝鮮語を学ぶ機会があれば、やはり漢字は使いたいと思う。
 中国語は上級になるにつれ増える単語が、かなり日本語とおんなじなので、英語を通してフランス語を学ぶようなメリットがけっこうある。
 ピンズラー方式で中国を90日間もやり続けられた理由の一つは、お手本のネイティブスピーカーの発音がきれいなことがある。いくつか日本で発売されている中国語学習教材付属のCDを聞いたり、「まいにち中国語」のお手本とかも聞くのだけど、それらのネイティブはきちんとした発音なのだろうけど、声にあまり魅力を感じない。それに比べてピンズラー方式の、とくに女性の声は美しかった。こういうとこにけっこう語学のポイントいうのはあるなあと思う。外国人に日本語の教材を作るなら、絶対、声優を使うべきです!!! 日本配音演员也会吸引中国人。
 ところで、今回のフェーズ3の終わりで、これでおしまいという感じだったが、ピンズラー方式の中国語は昨年だったか、フェーズ4ができた。
 つまり、この先がまだ30日ある。
 やるかどうしようか? この先は「まいにち中国語」でもいいじゃないかという気もするが、まあ、やってみるかな。
 言語学習マニアになる気はさらさないが、学習法の比較としてスペイン語かイタリア語も学んでみたい。
 日本語の仕組みを知る上で(それと儒教を知る上で)朝鮮語を学びたいとも思っている。
 それと、ドイツ語と、大学でやり残したロシア語にも心残りがある。現代ギリシア語にも興味がある。
 そんなにできるわけないよなあと思うが、まあ、関心はある。老後の趣味が語学というのも悪くないんじゃないか、脳の訓練にもなるし。
 そういえば、ピンズラー方式で学んだフランス語だが、しらばく「まいにちフランス語」も聞いていたが、今期が面白くない。変わりに、Duolingoのフランス語を始めた。これが、最初は何?この低レベルと思ったが、半分を超えたあたりから。ぐへっと難しくなった。難しいといってもせいぜいこのくらいだが。

 Il est actuellement fermé pour travaux.
 Ce sont mes nouveaux vêtements.
 Les chapeaux des femmes sont chers.
 Leurs manteaux sont grands et noirs.
 Ces animaux marchent très lentement.
 C'est une maison avec beaucoup de travaux à faire !
 Ils sont sûrement très beaux.

 ピンズラー方式では音で言語を学ぶため、正書法は学んでいなかったツケががっつんと来る。フランス語は正書法が英語よりはるかに発音を意識して調整されているから、音読すれば音になるし、音のイメージから意味はわかるのだけど、「Leurs manteaux sont grands et noirs.」とか複数形の一致を正しく書くのは大変。
 ようするに言語学習に近道はないということでもある。
 とりあえず、Duolingoのフランス語も終えたいなと思っている。一応半分は超えた。マスコットの梟は、すでに95%のフランス語は読めますよと励ましてくれる。少しだが、翻訳プロジェクトにも参加した。よくわからないのだが、間違いばっかりであってもフランス語を書くのはなぜかけっこう楽しい。英語だとそういう感じがしたことない。
 中国語は、ピンズラー方式のフェーズ4を終えたらどういうふうに勉強していくかイメージがわかない。まあ、まだ先のことだが。

 
 

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2014.05.25

私たちは「悪魔の代弁者」にどのように耳を傾けるべきなのだろうか?

 この話題は少しやっかいなので書くかどうか悩んでいた。あるいは少しではなく、かなりやっかいな問題かもしれない。だが、少し書いておこうと思う。
 というのは、何がどう問題なのか、それ自体がまずもって誤認されやすいからだ。
 話の発端は、先日触れた「ストークス氏書籍は翻訳者に無断加筆されたか: 極東ブログ」(参照)である。注意してほしいのは、これから述べたいと思うことは、直接的にはその話題ではないことだ。
 誤解を減らすために、何の話題ではないのか、という背理面を先に述べておきたい。
 除外されるのは、先日のエントリーの表題のように「ストークス氏書籍は翻訳者に無断加筆されたか?」という疑問である。なぜこの件を除外するのか。そして、でもなぜ、それに先に言及するのか。そこから書いてみたい。
 その話題を除外する理由は、ごく簡単に言えば、私が一次ソースを持っていないからである。では、どこがそれを持っているかというと、「GoHoo|マスコミ誤報検証・報道被害救済サイト」(参照)である。またそれは、同サイトの「南京大虐殺否定「翻訳者が無断加筆」 著者ら否定」(参照)という話題に、追記的に、同サイトが主体となってストークス氏にインタビューをした、その内容である。概要はこう記されている。


 英国人記者の著書に盛り込まれた「南京大虐殺」否定の文章が翻訳者の無断加筆によるものだったと共同通信などが報じ、これを否定する「著者の見解」が発表された問題で、著者のヘンリー・ストークス氏(元ニューヨーク・タイムズ東京支局長)が5月14日、日本報道検証機構の単独インタビューに応じ、「著者の見解」に示されたのと同様、「南京大虐殺」はなかったとの見解を主張し、内容を事前に把握していなかったとの指摘を否定した。一方、翻訳者の藤田氏は、共同通信の記事が配信される前に、英文で記したストークス氏の見解を担当記者に送っていたが、記事に反映されなかったことを明らかにした。
 ストークス氏のインタビューは英語で行われた。共同通信の報道で問題とされた文章のうち「歴史の事実として『南京大虐殺』はなかった」(as a histrical fact, “Nanking Massacre” had never occurred.)という部分について、ストークス氏は、英語で”a massacre”(日本語では通常「大虐殺」と訳される)と呼ばれるようなことは起きていなかったということだと説明。「『南京大虐殺』は中華民国政府に捏造されたプロパガンダだった」(”Nanking Massacre” was a propaganda created by KMT government.)という文章についても、「中華民国政府のプロパガンダだったことは確かだ」と語った。ただ、南京事件そのものを全否定しているわけではないとも述べた。
 南京大虐殺の記述を知らなかったと報じられた点についても、ストークス氏は「全くばかげている」と一蹴し、翻訳者の藤田氏とこのテーマについて何度も話し合ったと強調した。

 該当のインタビューの一部は同サイトがユーチューブに一部を公開している。これのロングバージョンもいずれ公開されるとしている。
 くりかえすが、共同通信の該当報道が「誤報」であったかについては、私には二次的にしかわからない。それは、先のサイトの報道、さらに今後の報道検証に任せたいし、それを各人が受け止めればよいと思う。
 何度も繰り返すが、私は、共同通信が誤報をしたかについては、私の意見は現時点で存在しない。
 では、何の話題を私は書こうとしているのか。それはこのショートバージョンのインタビューに関連する。

 私が関心をもったのは次の点である。訳は動画の訳をそのまま引用した。が、オリジナルの英語は同動画でも検証できる。


質問「共同通信の報道は不正確だと思いますか?報道について訂正を求めますか?」
ストークス「他人の仕事への訂正要求は気が進みません。同じ会社の人は別として。ただ、共同通信の報道から感じるのは不正確というよりはむしろ彼らは真実の詳細に無頓着だったのです。無頓着だった。彼らは、真実が何かに全く目を向けず、私や藤田氏をやっつけたがってばかりいました。とても私たちを引き離したがっていました。彼らはとても攻撃的でした。なぜかは分かりません。(ビデオ中断が入る)この件で受けたインタビューのうち今回が一番よかったです。あなたが励ましてくれましたし、大切な友人の藤田氏は、とても我慢強くて、口を挟まず何も言わないでいてくれました。ありがとう、藤田さん。」
質問者「ありがとう」

 私が関心を持ったは、共同通信となされたインタビューにストークス氏が全体としてどのような印象を持っていたかである。3点ある。

 (1)共同通信のインタビューは攻撃的だった。
 (2)共同通信はストークス氏と藤田氏を分離したがっていた。
 (3)共同通信のインタビューではストークス氏の発言が終わるまでは待っていなかった。

 これらは印象であって事実については、共同通信を含めて検証する必要があるが、アンジェラ氏のメールからもストークス氏と藤田氏を分離の印象はうかがえるのが興味深い。
 ストークス氏のこの発言から、私が推測するのは、以下の4点である。あくまで推測でしかないが、ストークス氏のこの発言とは整合するだろう。

 (1)アンジェラ氏が聞いた録音の一部では、ストークス氏の発言が藤田氏に誘導されているように聞こえた。
 (2)しかし、ストークス氏はそれを誘導とは受け止めていなかった。だが、同時に、それが誘導のように聞こえることに懸念していた。
 (3)共同通信のインタビューは、ストークス氏の発言が終わるまえに矢継ぎ早になされていた。
 (4)ゆえに、今回のインタビューで藤田氏がストークス氏の代弁のような発言をすれば、誤解がさらに広がるとストークス氏は懸念していた。それがなかったことをストークス氏は大変に喜んでいた。

 このインタビューの最後の部分が特に印象深い。「ありがとう」というストークス氏の言葉は、どうもこの画面には映っていない藤田氏と思われる人物に向けられ、むしろ誤報サイトのインタビュー者への「ありがとう」はその付け足しになっているように見える。ストークス氏はパーキンソン病を病んでいてつらそうだがそれでも、藤田氏と思われる人物への謝意にあふれている。
 これはどういうことなのだろう?
 私は、率直に言うと、共同通信のインタビューは、ストークス氏の発言を諸所遮るように攻撃的になされたのではないかという印象を持つ。だが、それでもなお、共同通信のインタビュー手法がよくなかったとも思っていない。なぜか。
 私がこの件で連想したのは、1992年から1993年に話題となった統一教会脱会事件である。
 この事件でまず思い出されるのが、山崎浩子元新体操選手の統一教会脱会事件である。もう20年以上も経つのかと感慨深い。
 1992年8月に、山崎浩子や歌手・桜田淳子が韓国で実施された統一教会の合同結婚式に参加した。結婚式ではあったが、山崎は入籍していなかった。
 翌1993年3月山崎と入籍予定だった統一教会信者の証券勤務者が、山崎の失踪を訴えた。この間、しかし、山崎は親族から熱心な説得を受けて統一教会を脱会した。
 同時期のテレビキャスター飯星景子の統一教会脱会も話題になった。彼女の場合は、作家で元新聞記者である、彼女の父・飯干晃一が娘を統一教会から取り戻すとして、同教会の批判活動を活発に繰り広げた。
 現時点で考えると、この問題は、後のオウム真理教事件とも重なって見える。いずれにせよ、この時の世論の空気は、概ね、娘を宗教に取られた親族の視点から、統一教会への批判が多かったように思える。正確に言えば、大人になった市民の信教の自由に関わることに違和感を覚えた人もいないではなかった。
 私がこの事件をストークス氏のこのインタビューで思い出したのは、おそらく共同通信側のインタビューは、統一教会脱会騒ぎと同じ構図で、ストークス氏が、妖しげな宗教にも似たよからぬ思想に感化されていて、そこからストークス氏を引き離すという「善意」の意図が背景にあったのではないかと思えたことだ。
 そのことはある意味で了解しやすい。
 現在世界の枠組みでは、「南京大虐殺はなかった」とする主張は、単純に歴史修正主義とされ、糾弾される。問題のある歴史観であり問題のある思想であるとされる。ストークス氏がそうした問題ある歴史観・思想に感化されているなら、正しい世界観に立ち戻らせることは正しいことだと言える。
 だが、そのとき、仮にだが、「悪の思想」に感化されたストークス氏自身が自分の思いを十分に語る必要はないのだろうか?
 今回のストークス氏のインタビューで彼が強調しているのは、発言が遮られたことのくやしさと、もう一つ、共同通信インタビュー者が、ストークス氏が関心を寄せる「事実」に関心を寄せていないことだった。
 もっとも、こうした枠組みでという限定だが、共同通信インタビュー者側としては、そうしたストークス氏の「事実」などナンセンスだという前提はありえるだろう。
 ここでもう少しこの問題に踏み込んでみる。今回のインタビューからうかがえる範囲に限定されるが、ストークス氏は「南京大虐殺はなかった」という歴史修正主義を意図的に主張しているようには聞こえない。彼はその点を強調してさえいる。もっともそれは修辞の差でしかないという反論は成り立つだろう。
 では、一体、何が問題なのだろうか?
 つまるところストークス氏の発言内容より、彼の置かれた立場が、共同通信的な立場にあるのか、それとも、藤田氏側にあるかという、立場だけが問われる構図のなかで、当のストークス氏は、そのこと(立場だけが問題とされその言葉の内容が顧みられないこと)に心痛している、その事実をどう受け止めるか、ということではないだろうか。
 私の印象を述べれば、ストークス氏は「悪魔の代弁者」である。私たちは、こうした「悪魔の代弁者」にどのように耳を傾けるべきなのだろうか?
 そのことが、問われているように思えた。
 
 

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