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2014.05.24

パソコン遠隔操作事件、その後の雑感

 世間的にはパソコン遠隔操作事件はあっという間に終わってしまったのかもしれない。だが、この数日間、関連して私の心には奇妙に沈んだものがあった。でもなあ、また、いやなコメント貰うくらいなら黙っていてもいいのだけど、とも思う。でも、やはり少し書いておこうかとも思う。うーん。書いてみよう。
 その話の前に、関連はあるけど、直接的に関係した話ではないことに少し触れておきたい。佐藤博史弁護士の会見報道(参照)で思ったことだ。この部分である。


《あふれる涙をこらえる姿を見せると、会見場に詰めかけたカメラマンは一斉にシャッターを切った》
 佐藤弁護士「ただ、これから私たちの仕事は胸を張ってというものではないですが、これ(弁護人に嘘をついていた片山被告の弁護)も仕事と割り切っている」
 《佐藤弁護士は、カトリック教会における「悪魔の代理人」という言葉を引き合いに出した》
 佐藤弁護士「宗教裁判で悪魔として裁かれる人を弁護することが語源ではないかと思っている。刑事弁護人の生き方を表す言葉で、刑事弁護人は悪魔を弁護する覚悟がないとできない。これから私が本物かどうか試される」
 《佐藤弁護士はこう述べて、今後も片山被告の弁護人を続けることに強い意志を示した。記者からの質問が始まる》

 この報道を見たとき、あれ?と思った。誰か突っ込みを入れた人はいないかなとネットを探したが、私には見当たらなかった。
 あれ?と思ったのは、「悪魔の代理人」という用語である。私もこの用語を、「悪魔の代弁者」ということでブログで使ったことがある(参照)。そこでは「かわいい悪魔の代弁者」である。
 英語では"Devil's advocate(デビルズ・アドヴォケット)"という。訳語としては、私が使ったように「悪魔の代弁者」が普通ではないかと思う。あるいは、もしかすると佐藤弁護士の言う「悪魔の代理人」は"Devil's advocate"とは別のことかもしれないが。
 もしかして……とウィキペディアを見たら簡素に「悪魔の代弁者」の項目があった(参照)。ので引用する。

悪魔の代弁者(あくまのだいべんしゃ、英語:devil's advocate、ラテン語:advocatus diaboli)[1]は、ディベートなどで多数派に対してあえて批判や反論をする人、またその役割。悪魔の代言者[要出典]、悪魔の代言人[要出典]などとも呼ばれる。ディベートのテクニックのひとつである。同調を求める圧力などで批判・反論しにくい空気があると、議論はうまく機能しなくなり、健全な思考ができなくなることが往々にしてある。それを防ぐ方法として、自由に批判・反論できる人物を設定することがある。三省堂「新グローバル英和辞典」電子版devilではdevil's advocateの意味が「列聖調査審問検事」「(議論のために)わざと本心と反対の意見を述べる人」となっている。
 語源は、かつてカトリック教会において設けられていた、列聖や列福の審議の際にあえて候補者の至らぬ点や聖人・福者たる証拠としての奇跡の疑わしさなどを指摘する職の名称。人間の悪徳を神に告げる天使としてのサタンの側面にちなむ。1983年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって廃止された。

 間違った記述ではないように思う。なお英語版の同項目にはもう少し別の情報もある。
 で、この用語解説から佐藤弁護士の理解を見ると、あれ?違っているなあと思ったのである。彼は、「宗教裁判で悪魔として裁かれる人を弁護することが語源ではないかと思っている」としているが、そうではなく、むしろ聖人を吟味するのが「悪魔の代弁者」のお仕事である。
 この事件では、私は、本来の意味での「悪魔の代弁者」を考えていた。
 私から見るネットの論調の多くは、警察・検察が悪であり被告を冤罪であるとした主張が多く見られたが、私の「悪魔の代弁者」は、「いや、彼が真犯人ではないのか?」と呟き続けていたからだ。
 ただ、それを言わなかったのは、私が「悪魔の代弁者」になると、私がネットでは悪魔にされて、私の魔女裁判のようになるのが怖かったせいもある。
 今のネットの空気では、「悪魔の代弁者」が悪魔とされて、魔女裁判のように吊し上げられるようなるからなあと、感じている。
 ところで、当の話だが、被告が犯人であると自白し、大方そのように空気が変わったとき、私は二つのことを思った。一つは、私は「かわいい悪魔の代弁者」にはなりえても、きちんと社会のために「悪魔の代弁者」になるだけのキンタマはねーよなということである。
 もう一つは、被告に対して、「うげぇ、こいつ気持ちわり-」ということである。嫌悪感である。この嫌悪感は、被告の初犯にも感じていたのだが、ここに来てそれが倍増した。
 と、書いて、実は、キンタマちいさい私は、「うげぇ、こいつ気持ちわり-」とかブログに書いていいんだろうか、と少し戸惑っているのである。まあ、そういう言い方が、お下品なのはわかっているくらいのハミキンは出しているのだけど。ちゃお。
 実は、冒頭書いた、心に沈んだことというのは、その二つ目の、この奇妙な嫌悪感だった。
 「こいつキモくね?」って思う嫌悪感である。
 それはどういうことなのか?
 私なりの、これについての考えは二つある。一つは、そういう嫌悪感を露骨に社会に出してもそれほど意味はないなということ。つまり、嫌悪感を表明してもこの件に関連して市民社会に利することはあまりなさそうだなということ。
 もう一つは、いや、自分がいだく嫌悪感というのは、むしろ正常なんじゃないか?という疑問である。
 で……仮に。
 もしそれが正常なら、逆に嫌悪感を抱いてなさげな表明をしている人のほうがどっかおかしいんじゃないか、ってことはないだろうか?
 嫌悪感がない人が異常だという意味では全然ない。嫌悪感を無意識に抑圧しているんじゃないだろうか、ということだ。抑圧するのはなんかその人の自我にとって都合悪いんだろうということだ。
 もちろん、そのあたり、私の嫌悪感が違うのかもしれないなとも思う。
 というか、私の「かわいい悪魔の代弁者」は、「おめーが変」と言っているような気もしないではない。まあまあ。
 具体的に、この件で、他人の感覚はどうだろうかとネットを見回してみた。
 この事件の裁判を丹念にフォローしていたジャーナリストの江川紹子は、今日付けの記事で関連してこう書いていた(参照)。彼女は、この被告にどういう思いを今抱いているのだろうか? どこかに、私が抱いたような嫌悪感があるだろうか?

弁護人の説明によれば、片山被告は事件を起こす経緯について、「軽い気持ちでやってみたら、できちゃった」ということらしい。ここまでは分かった気になってみるとしても、逮捕後に実に巧妙なウソや演技を重ねて、弁護人や世間を欺き続けた心理は、私にはどうしても理解ができない。


弁護団は、片山被告の無実を信じて、実に献身的な弁護活動を行っていた。主任弁護人は、片山被告の母親を元気づけようと、2人を事務所旅行に招待した。そういう人たちを欺くことに、彼はなんら心の痛みを感じていなかったようだ。あたかも、そのような痛みを感じる回路のどこか大事な部分が、すっぽり抜け落ちているように思える。自身の行為によって誤認逮捕され、虚偽の自白にまで追い込まれた人たちの苦しみに対しても、リアルに想像することができないでいるのだろう。


5月22日の公判で、片山被告は従来の無罪主張を取り下げ、新たに全面的に起訴事実を認めた後、弁護人の問いに答える形で、自分が欺いた人たちや巻き込まれて誤認逮捕された被害者に対しても謝罪した。しかし、頭では「悪い」と分かっていても、心でそれをどこまで感じているか、疑問だ。そもそも、そんなにすぐに反省できるようであれば、ここまでウソを重ねることはできなかっただろう。弁護団の献身を裏切っていることを、心苦しく思っていたに違いない。

 そこには、彼女自身の疑問はあるが、それは誰に向けた疑問か不定形だし、実質佐藤弁護士に近い思いを寄せていたように見える彼女は、いくばくかは被告に騙されていたとはずだが、そこはどうなんだろうか?
 しかし、彼女には、そこで嫌悪感はなさそうに見える。
 そしてこう、現時点では、お話が結ばれている。

 そういう彼の内面に光を当てていかないと、なぜ彼が事件を起こし、人を欺き、稚拙で愚かな“真犯人メール”の工作まで行うに至ったのか、その全体像は解明できない。彼は有罪判決を受けて服役することになるだろうが、いずれは社会に戻ってくる。心の問題が解決しないままでは、社会にうまく馴染めず、また問題を引き起こす可能性もある。多少の時間がかかったとしても、彼が今回のような愚かな行為をせず、無罪を主張し続けていたことを考えれば、有益なことに時間をかけるのは無駄ではない。発達障害も含めた心理、もしくは精神医学の専門家の助けを借りて、彼の心の状態を明らかにしていくことが必要だと思う。

 「そういう彼の内面に光を当てていかないと」、という内面の一端は、彼の現在でも見られる現実感のなさということだが、その点については、私は以前に触れた。
 私が気になるのは、「彼の心の状態を明らかにしていくことが必要だと思う」として、この問題を、自分から切り離して、まるで物理的な世界を観察のように見ていることだ。
 私にも彼女に似た観察眼もあるが、同時に、このなんとも言えない嫌悪感という、私の問題として、まず受け止めている。
 率直にいうと、この問題は、市民社会がもっとこの「嫌悪感」というものに向き合うべきなんじゃないだろうか?と疑問に思っている。
 この事件の被告について言えば、最初の遠隔操作が、どっちかというと運良く行きすぎて増長してしまったということがあるが、プログラミング能力もなく、悪を成すには運が悪いが、それでもこの被告のように、平気で人を騙す人々というのは、市民社会のなかに一定数存在する。
cover
平気でうそをつく人たち
虚偽と邪悪の心理学
(草思社文庫)
 私たちは、そういう人々に向き合ったとき、「こいつキンモー」という嫌悪感を抱きつつ、生きている。
 もちろん、市民社会で市民が他の市民に接するとき、そうした個人的な嫌悪感を表明するかどうかは個人の自由だし、どちらかといえば、そういうものは表出しないほうがよいと思う。キンタマは小さくして生きた方がいいとは思う。
 それでも、平気で嘘をつく一群の人々には、私たちの生活感覚は正常に嫌悪感を促すものだろうとも思う。
 私は以前に読んだ『平気でうそをつく人々』(参照)の次のくだりを思い出す。

 健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することの多い感情が嫌悪感である。相手の邪悪性があからさまなものであるときには、この嫌悪感は即時に生じるものである。相手の邪悪性がより隠微なものである場合には、この嫌悪感は、相手との関係が深まるにしたがって徐々に強まってくる。


嫌悪感というのは、おぞましいものを避け、それから逃げ出したいという気持ちを即時に起こさせる強力な感情である。そしてこれは、邪悪なものに相対したときに、健全な人間が通常の行動を起こすための、つまり、そこから逃げ出すための、最も有効な判断手段となるものである。人間の悪は、それが危険なものであるがゆえにおぞましいものである。邪悪なものは、長期にわたってその影響下に置かれている人間を汚染し、または破滅させるものである。自分のしようとしていることを十分に理解している場合は別として、邪悪なものに出会ったときにとるべき最良の道は、それを避けることである。

 平気で嘘がつける邪悪な人間を知ったとき、私たちの生活感覚が嫌悪感を抱くのは、著者によればむしろ自然なことであるとしている。
 では、なぜ、それを抑圧しているかに見える人がいるのだろうか?
 抑圧によって、それを避けるという心理機構かもしれない。だが、それは実際には抱え込んでいる嫌悪感に対する欺瞞ともなり、その欺瞞を正当化するために、さらに抑圧を続けることになるのではないだろうか。
 著者は邪悪な人間に向き合ったときのもう一つの反応についても触れている。

 いまひとつ、邪悪なものに相対したときのわれわれに生じる反応がある。それは混乱である。ある女性は、邪悪な人間に出会ったときの自分に生じた混乱を、「突然、自分が考える能力を失ったかのようだった」と書いている。この場合もはやり、その反応はきわめて適切なものである。うそというものは混乱を引き起こすものである。邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺まんの層を積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。患者に相対したとき混乱を感じた施療者は、まずはじめに、この混乱は自分の無知からくるものではないかと疑うべきである。しかし、それと同時に、こう自問すべきである。「この患者は、私を混乱させるようなことをしているののではないだろうか」

 著者は述べていないが、自分のなかに生じた嫌悪感のあり方・行き方が混乱をもたらすのではないだろうか。
 そうであれば、まず、きちんと自分が抱えた嫌悪感に向き合うことが、こうした問題の大前提ではないだろうか。
 著者は、邪悪な人々は自己嫌悪の欠如を見ている。

 このように自己嫌悪の欠如、自分自身にたいする不快感の欠如が、私が邪悪とよんでいるもの、すなわち他人をスケープゴートにする行動の根源にある中核的罪であると考えられるが、だとするならば、その原因は何であろうか。

 その一つに著者は自己愛を挙げている。
 ちょっと強引な教訓を引き出すようだが、邪悪な人間は自己愛があっても自己嫌悪はあまりないのだろう。
 私たちは普通に生活していれば、たんまりと自己嫌悪を抱く。そして邪悪な人に接しては、たんまりと嫌悪感を抱く。
 しかし、それが人間の正常というものだし、そういう正常が市民社会を支えていくんじゃないか。
 
 

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2014.05.21

日本人学生の問題解決能力って高いんじゃん

 OECDによる「生徒の学習到達度調査(PISA) 2012年問題解決能力調査」について、この4月に発表された当初、いくつかニュースで見たように記憶している。記憶を辿ると日本ではゆとり教育から脱した成果が見られたかという文脈で、米国では米国の教育は呆れるほど低いといった文脈だったかと思う。
 この手の調査は、通常アジア諸国、日本、韓国、シンガポールが上位に来るものなので、さして面白くもないものだと思っていた。強制的な詰め込み教育をすればテストの成績はあがるだろうが、それが人間に必要な学力と言えるかそもそも疑わしい、そう思っていたのである。どうも違うようだ。
 そう思ったのは、19日付けのフィナンシャルタイムズ記事「問題解決に優れている国は批判的思考法を促進する(Countries that excel at problem-solving encourage critical thinking)」(参照)という記事を見かけたからである。
 表題のように、ここで問われているのは、問題解決の能力であり、批判的思考法という学力である。こうした面では、日本は劣っていると日本国内的なイメージでは思われていたのだが、記事を読むとそうでもない。これは同記事の15歳の年齢で比較した問題解決能力の各国比較のグラフに端的に表れている。

 一位はシンガポール、二位は韓国。日本はそこから差を開けられて三位である。フィンランドはぐっと下がる。欧米はかなり低い。
 さすがシンガポール、さすが韓国、と言いたいところだが、国家規模を考えるとシンガポールはご愛敬だし、韓国は日本の半分ほど。すると日本の少年少女の能力はそれ自体が国際社会で国威と言っていいくらいのものがある。
 とはいえ、こうした問題解決や批判的思考法というのもいわゆる詰め込み教育と相関しているのだろうとはいえそうで、そうした言及も同記事にはあるのだが、どうも日本については、もうちょっと変わった点があるらしい。


But there were interesting exceptions to the rule. When Japanese students were compared with children in other countries of similar performance in maths, science and reading, the Japanese teenagers showed better problem-solving abilities.

しかしこの法則には興味深い例外があった。日本の学生を、数学・科学・読解力で同能力の他国学生と比較すると、日本の10代は比較的優れた問題解決能力を示していた。

This, the OECD suggested, might be explained by Japan’s focus on developing problem- solving skills through cross-curricular, student-led projects.

OECDの示唆では、これは、日本が、生徒主体の総合学習を通して問題解決能力を発達させているからかもしれないと説明されている。


 ほぉという印象を持った。本当なのかなという疑問もある。個人的に思ったのは、日本人の子どもはなにかとこぎれいで、思考もこぎれいなところがあり、それが問題解決の能力に重なっているんじゃないかということである。ま、ごく個人的な印象として。
 ところでこれって文科省とかに資料があるんじゃないかと探すとあった(参照PDF)。
 読んでいくとなかなか面白い。たとえば、よく貧富の差が学力差に反映するという議論が日本では盛んだが、問題解決能力ではさほどでもないらしい。

日本は、生徒の家庭の社会経済文化的水準と問題解決能力の得点との関係が弱く、かつ問題解決能力の平均点が高いことがわかる。つまり、日本は、家庭の経済状況や教育環境の違いが問題解決能力に影響する程度が小さく、生徒が問題解決能力を獲得する教育機会において、平等性の高い教育システムを築いていると言える。

 これはなかなかに含蓄深い。個人的な印象をいうと、これは学校システムというより日本の情報世界が本質的に持っている学習効果ではないだろうか。そう思うのは、ごく個人的な印象だが、高学歴と言われる人が日本だとさほど一般的な問題解決能力が高くないように見えるからだ。
 もう一つ気になったのは、問題解決能力の男女差で、日本にある特有の現象が見られることだ。ごく簡単にいうと、男女差が、男子優位に大きいのである。もっとも女子も全体的には高い能力を示しているのだが、他国と比べていると、どうにも奇妙な印象がある。この点について文科省の資料には記載されているが、問題としてのコメントは見られなかった。

 日本は、問題解決能力、数学的リテラシー、科学的リテラシーの各分野において、男子が女子よりも得点が高い一方、読解力の分野において、女子が男子よりも得点が高く、それぞれ統計的な優位の差がある。OECD平均も同様の傾向が見られる。

 問題解決能力が数学的リテラシーと科学的リテラシーに相関しているならそれの結果とも言えないこともないが、日本にやや特異に見える現象は奇妙な印象が残った。
 以上を総合的に見ていくと、学力という点では、日本はほとんど問題ないようだ。
 ただ、それを言うなら、シンガポールや韓国のほうがさらに上ではないかというのがあるかと思う。シンガポールのような小国は例外として、韓国については、PIAAC(Programme for the International Assessment of Adult Competencies/ 国際成人力調査)(参照)という成人(16歳から65歳)の能力比較で見ると、各面で日本が韓国に優っている。将来的にこれが縮まってはいくだろうが。
 
 

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2014.05.20

パソコン遠隔操作事件、雑感

 パソコン遠隔操作事件で、威力業務妨害罪の公判中・保釈の片山祐輔被告が、関連する10件の事件について関与を認めた。
 事件の全貌が解明されたわけではないが、概ねこの事件については大きく一区切り付いたと言っていいだろう。ネットから見るこの問題の焦点は、片山祐輔被告が無罪ではないかということだった。
 この事件については片山被告が逮捕される以前に一度触れたことがあるが、その後の言及を私は控えていた。彼が無罪であるとも有罪であるとも確信が持てないでいたからだった。
 ネットを通して見る論調には、検察暴走による冤罪だという意見が多かったように思う。私はそれにも与しなかった。
 私は、このブログで2003年時点で、東電OL殺人事件で逮捕されたネパール人は冤罪であると主張したことがある(参照)。これはその後冤罪となった。私の見立てが正しかったが、そのことを再度主張するのは拙いように思えた。また私は、和歌山毒物カレー事件や筋弛緩剤事件についても冤罪であるとの主張をブログに書いた。東大阪集団暴行殺人事件については、冤罪ではないが量刑が正しいとは思えないという主張を書いた。
 こうした事件では、自分のなかにそれなりに確たる心証があったからだ。
 だが、このパソコン遠隔操作事件については、そうした冤罪の心証がついに得られなかった。そのあたりから雑感を書いてみたい。
 この事件が発生したころ、この事件の犯人のプロファイルをメディアに書いたことがある。それなりに理由を挙げて、犯人は情報技術者としては上級とは言いがたいと結論した。だが、そのプロファイル部分は編集サイドからチェックが入り公開しなかった。私としては特段言論の自由が妨害されたとは思わなかった。編集側が慎重な態度を取っているのがわかったし、異論もあるだろうと思った。ブログのほうでさりげなく言及した。
 そのおり自分のプロファイルした犯人像があり、それがこの事件を見るときの一つの定点になった。
 簡単に言うと、そのプロファイルから片山被告が反れるということはなかった。
 メディアから得られる情報からは、検察の対応のまずさが目立ったように思われた。
 私はといえばまず片山被告が語るところを動画で見てみたいと思っていた。スチルの画像では作り手の思惑がかなり入るが、動画だと、それよりその人の心証が得られるのではないかと思っていた。熱心に無罪を主張するにも、また隕石に当たったふうに困惑しているにせよ、そこになんらかの人格的な統合性を見て、そこからの片山被告の人間像を一人格として理解したいと思っていた。
 彼が釈放された後、その様子はネットで見ることができた。結果は困惑だった。
 一見すると彼はこの事件にまったく関わりがないかのように見えた。その無関与さが心に引っかかった。
 これはあまりよくないバイアスなのだが、彼には前科がある。私は彼の前科についてそれなりに調べていたので、その前科という経験をどのように彼が現在の人格に統合しているかが気になっていた。
 だが、それが、釈放後の映像から見える無関与さとうまく一人の人格像を結ばないのである。
 単純な人間なら過去を反省し、現在をそれと結びつけられないように自我を防衛するような意識の核を持つはずである。それがなかった。
 私が見た印象では、彼は前科についても無関与の態度を取っていて、それのありかたは、問われている事件の無関与と重なった。
 私の理解としては、これは一種の人格障害か、あるいは、この事件についての認識が前科と重なっているからだろう、ということだった。さらに言えば、ここに出現しているのは、キリスト教的な意味でのある種の「悪」というものではないかと疑念を感じた。もう少し率直に私の印象を言えば、その「悪」の可能性にぞっとした。
 もちろん、そのようにブログに書くのも拙いし、前科などそもそも忘れられる権利として守られるべきものなので、不当な物言いだと思う。こうして後出しのように言うもあまりよいことではない。ただ、私という市民が、その人生の内観からこうした事態をどう見ているかという事例として述べてみたい。
 関連してもう一点ある。
 この無関与さというのは、ある種、解離性障害に近い。そうした特性から言えば私にもよく当て嵌まることである。
 簡単に言えば、このタイプの人間にとっては、世界や他者の実在感が、普通の人より希薄であり、平素はそれほど意味をなしていない。
 では、どうなるかというと、その意味の希薄を補うために、多様なシナリオを世界に対して想定するようになる。世界で発生している無意味で乱雑な事象、理の通らない他者というものに、筋書きのあるシナリオを与えようとする傾向が生まれる。これは強迫でもある。
 今回の事件で、犯人はいろいろメッセージを送ってきたが、この関与の執拗さは、ある種の解離性障害に近い人格が持つシナリオ形成と同じ雰囲気が感じ取れた。
 さらに言えば、犯人はそのシナリオ形成にある種の強迫を持っていると、このタイプの人間である私には感じ取れた。
 そもそもこの犯罪の全体構造が、そうした強迫の実現だとすら思えた。
 この点では、私によるプロファイルに統一性があり、それが動画で見る被告と齟齬がなかった。彼が犯人である可能性は否定できなかったし、冤罪とも思えなかった。
 私はさらにこう考えていた。シナリオ性の強迫が、片山被告が勾留されてからぴたりと止んだのはなぜだろうか、と。
 もちろん、そこには、彼が犯人だろうという推測が混じらざるを得ない。しかし、もう少し重要なのは、犯人はかならずやこのシナリオ性の強迫に従って、次の行動を起こす日があるだろうと確信していた。それが16日の「小保方銃蔵」メールだった。そしてそれは私の目には、シナリオ性の強迫としては予想していたものだった。
 私の推測はここまでである。
 片山被告が真犯人であるという推測は行き詰まった。私にはそれ以上はわからなかった。ただ、この事件、片山被告が真犯人でなければ日本の検察は終わりだろうな。それはそれで大変な事態だとは思っていた。
 現時点で蓋を開けて、ゾッとしたことがある。「片山被告が真犯人」という報道ではない。捜査の側が、どうやら私が推測したような、シナリオ性の強迫を、捜査シナリオに組んでいたように見えることだ。ごく簡単にいえば、捜査側は犯人が次の物語に挑んでくることを想定していたし、それをアクティブに捜査シナリオとして組み込んでいたのだろうということだ。刑事コロンボの物語みたいに。
 顕著なのは、今回の事態につながる河川敷に埋められた携帯電話である。時系列に見るとそうした疑問が沸く。東京新聞「片山被告 携帯からDNA型検出 地検、保釈取り消し請求」(参照)より。


 捜査関係者によると、東京都内の河川敷で十五日夕、片山被告が何かを埋めているのを被告の行動確認をしていた警視庁の捜査員が目撃。被告が東京地裁の公判に出廷中の翌日午前十一時四十分ごろに「真犯人」を名乗るメールが関係者に届いたことを受け、同日夕に地中を掘り起こしてビニール袋に入ったスマートフォンを見つけた。メールが届いた相手に、同じ文面のメールを同時刻に送信していたことも確認した。東京地検は、片山被告がタイマー機能を使い、公判中にメールを送るようセットした疑いがあるとみている。

 時系列で見ると。

 15日 片山被告が何かを埋めているのを捜査で確認したものの、捜査はそれに触れていない。
 16日午前 被告が東京地裁の公判に出廷中に「真犯人」メールが発生。
 16日午後 埋められていたものとしてスマートフォンを発掘。

 普通に考えれば、保釈中も四六時中監視していたのは怖いものだなという理解になるかと思う。私はそうは思えなかった。そう思えなかったというのは、四六時中監視のことではない。怖いというのも、その監視そのものではない。
 片山被告は自分が保釈後に自分が監視されていたことは十分注意を払っていたに違いない。
 検察シナリオはそのガードをどのように解くかが重要だったはずだ。
 ネットでは片山被告がスマホを埋めた件について、うかつで稚拙な行為だとしている指摘があるが、逆だろう。そう行動が取れるくらいの緩い監視に見せかけて、シナリオ性の強迫を誘導したと見るほうが合理的だろう。スマホの入手やその「真犯人メール」のための情報整理活動など、捜査がノーガードだったとは到底思えない。
 捜査側が、刑事コロンボの物語のように、被告に新しい犯罪を起こさせたというほどではないが、被告に決定的なアクションを取らせるように仕向けていたとは言えるだろう。
 そのことにもぞっとした。
 もちろん以上のような私の考えを妄想だという指摘はあるだろうし、まあ、また罵倒コメントとかいろいろくらうんじゃないかと思うが、それでも書いておきたいと思ったのは、この事件の市民社会での特性による。
 頭を冷やしてみれば誰でもわかるが、これを大事件にしたのは警察・検察である。そもそも遠隔操作に陥れられた人を威圧的に殊更に取り上げて見せしめにせよとしたのは当局である。もちろん、メールの脅迫文など無視すればよいさとは言えないのは、昨今のストーカー殺人などからもわかるので、簡単に対処できることではないとしても。
 そしてその警察・検察の失態は明確になった。
 それがさらに当局側は意固地になってこの事件をあたかも大事件に見せかけた。ブラフによるレイズは高くなり、この顛末が、片山被告無罪であれば、日本の警察・検察は終了したことだろう。
 だが、私には、その後のネットでの展開は別の意味で大事件に思えた。
 多くの人がこの事件を、さらなる警察・検察の大失態とし、あまつさえ冤罪だと見ていくようになった。そう見る人の多くは、むしろ善意の篤い市民である。市民社会がよくなるように、警察・検察が市民を冤罪に巻き込むことがないようにという思いがそこには愕然とある。だが、この事件はその思いをまんまとあざむいた。私がこの事件にキリスト教的な意味での「悪」を見るのは、善なるものを誘惑して貶める悪意の実在を感じ取ったからだ。
 冤罪は恐るべきことであるが、知性を伴った「悪」の顕在もまた恐ろしいものだ。それに向き合ったとき、一人の市民の日常生活の経験はどう反応するのか、自分はこうであったというのを記しておきたいと思ったのである。
 
 

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