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2014.04.22

「セウォル号」沈没報道の関連で思ったこと

 韓国南西部・珍島沖で旅客船「セウォル号」が沈没した事故は、まだ全貌がわからないが、現時点で見ても痛ましい出来事だった。
 ただ、日本のNHK7時のニュースが連日、この他国の事件をトップにあげているのは多少不思議にも思えた。NHKとしては近い隣国なので国内ニュースと同様の扱いをしているのかもしれないし、イタリアの旅客船「コスタ・コンコルディア」の座礁事故でも欧米で大きく取り上げていたことを思い出せばそう不思議でもないのかもしれない、とも思ったが、イタリアの旅客船については、欧米人全体の話題であり、さらに日本人や中国人の乗客もいたので、国際的な事件だったと言える。この点、「セウォル号」沈没と日本国民の関わりはそれほどは深くないだろう。私のニュースへの感覚でなにか前提条件が抜けているのだろうかという関心からも、それなりにこのニュースは追っていた。
 当初気になったのは、なぜ救助がそれほどはかどらないのだろうかということだった。米軍や韓国軍、さらには日本軍、中国軍などが一斉に救助活動はできなかっただろうか。この点については自分なりに見た範囲では特に不可解な点はなかった。大規模な軍の出動でも効果的な救助は難しかったようだ。なお、救助には複数国の技術が関与している。
 次に、なぜこのような悲惨な事件が起きたのかという点だが、現状でもわかっていない、ということが現段階ではわかっている。航海士の問題や規定を逸脱した航海だったことなどはわかっているが、それらは事件の誘因ではあって、原因とは言いがたい。
 今回の事故の一つの特徴は現段階での死者数から見ても、イタリア客船「コスタ・コンコルディア」の死者30人をはるかに上回った大惨事であることだ。いろいろと悪条件があるにせよ、ここまで大惨事になること自体が不思議にも思える。なお、「セウォル号」と同じ造船所で建造された「ありあけ号」は、2009年、三重県沖で座礁したが乗客7人と乗員21人は無事だったものの、乗員数が少なく比較にはならない。
 連日の報道と、ネットでの反応を見ていて、そもそもなぜこれが日本での大事件のように報道されるのかという疑問が私にはあるせいか、事件の周辺的な状況にも関心が向いた。本質的にはこの事件とは関係が薄いのに、報道関連の随所に日本と韓国という枠組みや、韓国という国家や政治の枠組みが見られることだった。
 例えば朝日新聞記事「韓国船沈没―悲劇を繰り返さぬよう」(参照)は、「他の国々にとっても決してひとごとではない。日本でも」という視点から論じていた。


 朝鮮戦争で国土が廃虚となった韓国は、「漢江の奇跡」と呼ばれる驚異的な成長で、経済先進国の地位を築き上げた。
 だが、まるで高度成長のひずみが噴き出すように、これまで多くの大事故が起きた。運輸に限らず、インフラや建造物などのまさかの惨事もあった。
 90年代半ばには、営業中の百貨店が崩壊したり、早朝に大きな橋が落ちたりして、多数の死者が出た。今年2月にはリゾート施設の屋根が崩れ、大学生たちが犠牲になったばかりだ。
 その裏側では、効率や利益を優先する油断や慢心はなかったか。成長と競争の論理が、地道な安全策の積み重ねを置き去りにする風潮はなかったか。
 安全の落とし穴は、他の国々にとっても決してひとごとではない。日本でも05年に起きたJR宝塚線の脱線事故で、安全対策を後手に回した利益優先のJR西日本の体質が批判された。
 日々の業務のルール順守、機材や施設点検の徹底、事故時を想定した避難・救助の訓練などは、どの業界にも通じる基本原則である。
 どんなに技術が進んでも、安全の最後の守り手は人間の意識でしかない。
 悲劇を防ぐために毎日の安全を不断に見つめ直す。隣国の事故をそんな他山の石としたい。

 国家と産業の視点は、韓国国内ではさらに顕著だった。中央日報「【社説】どうして大韓民国で旅客船沈没のような惨事が起きるのか」(参照)より。「大韓民国の名前の前で許すことができない」という表現が印象的である。

 これ以上こうした惨事は大韓民国の名前の前で許すことができない。結果的に「じっとしていなさい」という案内放送に忠実に従った人たちが犠牲になる社会、あちこちで安全不感症が見られる社会は正常でない。朴大統領は国民の安全を最優先にする幸せな社会を約束した。非正常の正常化を約束した。私たちは珍島の惨事を見ながら、その約束に深い疑いを抱いた。もう朴槿恵政権は安全な社会を実際に作るのか行動で見せてほしい。

 さらに同紙は、「【社説】韓国は「三流国家」だった」(参照)と論じる。

 この超大型災難の前で、私たちは「安全政府」に対する期待と希望までが沈没してしまった、もう一つの悲しい現実に直面した。世界7位の輸出強国、世界13位の経済大国という修飾語が恥ずかしく、みすぼらしい。木と草は強風が吹いてこそ見分けることができるという。一国のレベルと能力も災難と困難が迫った時に分かる。韓国のレベルは落第点、三流国家のものだった。あたかも初心者の三等航海士が操縦したセウォル号のように、沈没する国を見る感じであり、途方に暮れるしかない。私たちの社会の信頼資産までが底をつき、沈没してしまったも同然だ。この信頼の災難から大韓民国をどう救助するのか、いま政府から答えを出さなければならない。

 韓国のメディアがそのような反応をすることに、他国の人間として言及すべきことは何もない。私自身としては朝日新聞のようにこの事件を「他山の石」とすることには違和感がある。
 違和感の根幹は、こうした反応は極めて日本的、また、極めて韓国的なものではないだろうか、ということだ。
 今週の日本版ニューズウィークがこれに焦点を当てた記事を掲載していた。「フェリー沈没事故を韓国はなぜ「恥」と感じるのか」(参照)である。しばらくすると無料公開になるのではないか。

 欧米では、このように悲劇的な事故と国家威信、恥、自尊心とを結びつけて内省するといった反応は起きないだろう。欧米で惨事が起きた後に続くのは、過失への非難と犠牲者への哀悼、そして安全性や対応策の改善だ。


 しかし他国で同様の悲劇が起きた場合とは異なり、多くの韓国人はこの件を単なる過失や当局の不手際による事故とは考えていない。韓国人は、あの沈没船に自分たちの国民性の欠陥や国としての未熟さを見ている。

 記者はこう論じる。

 だが韓国では人災はそれ以上の意味を持つ傾向にある。貧困国からあっという間に豊なハイテク国家に成長したプライドがあるにもかかわらず、今にも失態を演じるのではないか、まだ力不足なのではないかという不安が国民の心に刷り込まれている。

 そして、この日本版ニューズウィークの記事はこう締められている。

 今はそろそろ胸を張っていい頃なのに、自国を誇る気持ちに確たる自信がないのは相変わらず。米タフツ大学で朝鮮半島を専門とするイ・スンヨン助教はこう言う。「韓国は自分たちが世界の目にどう映っているかを気にしすぎだ」

 そういう視点もあるだろうし、むしろそういう視点のほうが、今回の事件を巡る日韓の報道の特徴を示しているとも言えそうだが、私はここで、けっこうびっくりしたのだった。
 このニューズウィーク記事は、グローバルポストに「South Koreans blame themselves for ferry tragedy」(参照)として掲載された記事の翻訳転載なのだが、結語が違うのである。
 まったく違うわけではない。イ・スンヨン助教の発言は締めではない。その後にこう続いている部分があり、ここは日本語版の記事になぜか掲載されていない。文字数の関係で削除したのかもしれないが。

More recently, many South Koreans took personally the crash-landing of an Asiana flight in San Francisco last year, which left three people dead. President Park Geun-hye personally wrote a letter to the Chinese government calling the crash "regrettable," offering sympathy for the deaths of Chinese girls in the incident.

より最近では、多くの韓国人が、三人の死者を出した、昨年サンフランシスコのアシアナ・フライトの着陸時事故を個人的に受け取っていた。朴槿惠大統領は、この事故で中国人少女の死に同情を示すために、破壊事故を「遺憾」と呼び、中国政府に信書を送った。

Perhaps one of the most tenuous causes for national flagellating arose when 23-year-old, South Korean-born Seung-hui Cho killed 32 people before taking his own life in the 2007 Virginia Tech Massacre. South Koreans took to the streets with candlelight vigils and expressions of shame, feeling a sense of responsibility for their overseas brethren.

もっとも希薄な理由で国家的な鞭打ち刑が実施されたのは、たぶん、2007年のバージニア工科大学銃乱射だろう。この事件では、韓国生まれの23歳、趙承熙が32人もの人を殺害した。韓国人は海外同胞に責任感を感じ、街路に出てキャンドル・ビジル(ロウソクを灯す祈り)と恥辱の表現を実施した。

The killer, however, had lived in the US for fifteen years ― two-thirds of his life ― before the massacre.

しかしながら、この殺人者は米国で15年居住していたのである。虐殺までの、その人生の三分の二に当たる。


 記者の思いとしては、残虐な事件だが、普通に米国社会の歪みが起こしたとはいえ、韓国人や韓国と結びつけるものではないという前提がある。
 
 

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2014.04.21

日本語の無助詞文は中国語とどう違うのか?

 中国語を勉強していて、これは日本語の無助詞文となんか関係があるんじゃないかと、ときおり思う。が、特に結論はでないので、以下、適当にぐだぐだと書いてみる。
 日本語の口語は無助詞文が多い。実は書き言葉としゃべり言葉がけっこう違っている。
 いわゆる「てにをは」だが、しゃべり言葉では、「てに」は省略されないことが多いが、「をは」はけっこう省略される。
 いや、これは、省略なのか?というのも気になる。そもそも、日本語の口語の文法が書き言葉の文法と違っているんじゃないか。
 こうした現象はちょっと気に留めれば、日本人なら誰にでもわかることなので、ざっと調べてみるといくつか研究もあった。ただ、ざっと見たところ、十分な説明はないようだ。それとこれに関連した語順の問題があまり意識されていない印象があった。
 具体的に例えば。
 「大丈夫、それ、食える。」
 という文だが、書き言葉(敬体)にすると、「大丈夫です。それは食えます」となるかと思う。すると、「それ」の後ろに「は」が抜けたということになる。また、
 「彼、日本語、変」
 だと、「彼の日本語は変だ」だろう。おなじく「は」の抜けに見える。だが、「は」でなく、「が」でもいい。
 「彼、日本語が変」
 とも言える。
 「が」と「は」の差ついては、「は」は「が」の主題化として見てもよいので、「彼、日本語が変」→「彼、日本語は変」とも見れる。
 ここで気がつくのは、この発話の主題は「彼」なんで、実は書き言葉は「彼は日本語が変」で、いわゆる「象は鼻が長い」構文だろう。
 ためしに主題を入れ替えると、「日本語、彼、変」になる。「日本語は彼が変」(彼女は変じゃないのに)。主題が変わることで意味が変わる。
 この例で変則的に「変、彼、日本語」と言えないこともないが、これだと、倒置という意識が働いている。その意味でやはり「変」の部分は意識的な倒置以外では移動できない。
 というあたりで、実は、日本語の無助詞文の背後には、意外と語順の規則が存在している。
 ということは、無助詞文で語順規則があるというのは、そういう言語である中国語となんか関係があるんじゃないか?と疑問がわく。
 この例だが、「象は鼻が長い」構文である。口語的に無助詞にすると。「象、鼻、長っ」である。
 この構文は中国語にもある。主述述語文である。
 「大象鼻子很长」(Dà xiàng bízi hěn cháng)
 面白いことに日本語同様、「象の鼻は長い」のように「大象的鼻子很長。」とも言える。そのほうが自然なのかはよくわからないが。
 他の言語にこうした現象があるのかもよくわからない。英語だと無理そうだが、「Elephant nose long」と言われると通じるだろうから、意味的な補いは自然に効く。それでも、英語だと日本語や中国語のような語順の規則姓が影響しているわけではない。「Long elephant nose」でも同じだろう。
 日本語と中国にどうしてこういう文法構造があるのかわからない。ざっと中国語の文法書を見ても、主述述語文として分類しているだけで、その文法を可能するする基底的な規則は示されていない。まあ、しかし、日本語ですらわからないのだからしかたない。
 話がちょっとずれるのだが。例えば、次の無助詞文、
 「ビットコイン、換金、どこ」
 は、「ビットコインの換金はどこか?」だろう。
 これを「できる」で言い換えると、
 「ビットコイン、換金、どこでできる」
 になって、「どこで」は無助詞になりづらい。
 また先の主題化の制約からすると、
 「換金、ビットコイン、どこでできる」
 は意味は通じるが、無助詞文としては非文っぽい。
 で、この文だが、中国語だと、
 「我可以在哪儿换比特币」(Wǒ kěyǐ zài nǎ'er huàn bǐtè bì)
 になるはず。
 「我」は省略できるし、省略しても自然なので、
 「可以在哪儿换比特币」
 となる。
 さらに口語では、哪儿("where")を文頭にもってきて「在」が省略できるらしい。
 「哪儿可以换比特币」
 これだが、「哪儿」を文頭に持ってきたから、「在」が消えたのかもしれない。「可以哪儿换比特币」と言っても通じるだろうが、むしろ、「哪儿」を文頭にした「哪儿可以换比特币」のほうが自然なのではないか。
 というあたりで、英語のwh-句が文頭に出るのと同じような文法原理が中国語にも働いて、それに合わせて、「在」を削除しているように見える。
 あと、たぶん、
 「可以换比特币在哪儿」とも言えるだろう。
 日本語の場合はどうか。
 「ビットコインは換金がどこでできる」というのを、
 「どこでできる、ビットコイン、換金」のようには「どこ」wh-句が前に出ずらいが、
 「どこ、ビットコイン、換金」
 とは言える。
 「誰、それ、喰った?」
 は自然に言えるのと同じ。
 以上、特にまとめはないのだが、日本語の場合、口語だとかなり無助詞なんで、実際には、中国語みたいになっていることがけっこう多い。
 こうした背後に(日本語と中国語の共通の)どういう文法意識があるのかよくわからない。なんかあるんだろう。
 案外中国語というのは、日本語の無助詞化の過程と同じようなことが、古代になんらの理由で起きたために、ああいうふうになっているんじゃないかという気もする。
 
 

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