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2014.04.18

ウクライナ連邦制が落とし所

 ウクライナ情勢でそれなりに見えてきた点についてこの時点で簡単に言及しておきたい。落とし所としてのウクライナ連邦制がようやく見えてきた。
 クリミアのロシア編入に続いて、西側報道ではウクライナ東部がどうなるか、ロシアに編入されるかという領土的な枠組みで話題になることもあった。だが、ロシア、プーチン大統領の出すメッセージは当初からこの点では明瞭だった。クリミアが「固有の領土」であると言及した時点で、ウクライナ東部編入はないことは自明だった。
 しかしこの問題が「固有の領土」の問題ではなく、ロシア系住民の安全の問題となれば、ロシア軍が動くことは避けられないし、その覚悟も示さざるを得ない。このことは実は西側諸国も了解していたので、ウクライナ暫定政権が挑発に出ないよう気をもんでいた。
 混迷にロシア政府の関与はないのか。ウクライナ東部のドネツクで政府庁舎などを占拠した親ロシア派武装勢力の背後にロシアの支持や意向がなかったかといえば、どう見ても、ないとは言いがたい。ただし、直接、ロシア政府、あるいはプーチン大統領の支持によるものかはわからない。ロシアの国益に沿う形での適時の制御はあっただろう。
 この場合のロシアの国益とは何かだが、これもロシアがかねて明言しているように、ウクライナ連邦制である。
 ウクライナの連邦制をロシアが望んでも、現在のキエフ暫定政権下で5月のウクライナ大統領選が実施されると、基本的にウクライナ・ナショナリズムから反ロシアの政権が生まれる可能性も高く、ロシアとしては都合が悪い。
 そのため、事前にウクライナをぐだぐだにしておくというのがロシア政府の意向と見てよいだろう。今日の報道ではプーチン大統領は、ウクライナ大統領選が実施されても認めないとしているともある(参照)。
 こうしたやり口からは、ロシアはひどいという判断は避けがたい。
 だが実際に、そこに追い詰めているのは、西側の失態もある。ごく簡単に言えば、西側は本気でキエフ暫定政権を支援する気がないからだ。西側諸国にその気があるなら、IMF融資でごたごたもめているはずがない(参照)。
 結局のところ、ウクライナ東部としては、大統領選挙をきっかけにキエフ政府が再度樹立されても西側から得られるものは少なく、ギリシアのような境遇に置かれることは明らかなので、経済面からも親ロシアに誘導されてしまう。
 あまり報道されていないように思えるが、キエフ政権は以前からウクライナの各地方に知事を指命している形になっていて、中央政府からの統制が強い。ここに問題の根があることは、ここに至って当のキエフ暫定政権も認めざるをえないため、連邦制導入の住民投票実施の提案もしている(参照)。あるいは西側からの圧力で述べたものだろう。
 ようするに、そのあたりが、落とし所になってきたわけで、西側としてこれにお墨付きを与えれば問題は一段落して、ゆっくりと、ウクライナ国家は分断されることになるだろう。
 西側の足並みの乱れの原因は、ようするにカネの問題である。ということは、ヨーロッパの経済で見るなら、ようするにドイツの問題である。
 そこで見方によってはメルケル首相の結果的な失態とも言えるが、振り返ってみると彼女はこの状態を見越していたとも言えるだろう。彼女にしてみれば、ウクライナな地政学的な位置から過剰の意味付けが与えられがちだが、その本質はギリシア経済危機と同じ構図だと見切っていたのだろう。
 
 

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2014.04.17

漢文と中国語はどう違うのか

 中国語を学びたいと思った動機の一つは、漢文と中国語がどう違うかということだった。違うということは知っていた。現代中国人も論語などは読めないということも知っていた。が、それがどういう感覚なのかというを、その内側に入って知りたいと思った。
 普通に考えれば、私たち現代日本人も平安朝文学をそのままでは読めないが、それでも、一定の年齢になって長く日本語というのに接していると、古代の言葉もそれなりにわかる部分は出てくる。その歴史的な言語感覚は、中国人の場合、どういうものだろうか。
 それが少しずつ見えてきた気がする。
 論語の冒頭を例にしてみたい。現代の日本の漢字を使うとこうなる。なお高校とかでは日本漢字で教えているだろうか。


子曰:“学而時習之,不亦説乎。有朋自遠方来,不亦楽乎。人不知而不慍,不亦君子乎”

 これを学校では、こう下していると思う。他の下し方もあるが。

子曰く、学びて時に之を習う、また説ばしからずや。朋有り遠方より来たる、また楽しからずや。人知らずして慍みず、また君子ならずや。

 繁体字(旧漢字)だとこうなる。日本人も長くこれに句読点のない白文で論語を学んでいた。

子曰:“學而時習之,不亦說乎。有朋自遠方來,不亦樂乎。人不知而不慍,不亦君子乎”

 中国語を学んでから、これを見て、あれれ、と思うようになった。
 まず、「不亦説乎」の「説」である。
 これに「よろこばし」という意味はないだろうと思うようになった。あるのかもしれない。ただ、この字を見て現代中国人は「話す」という意味にとるはずだ。
 ざっといくつか漢字辞典を見ても「説」に「よろこばし」の解は見当たらない。追記「五十音引き漢和辞典」を見たら、「悦」に同じとあった。
 ここは本来の漢字ではないものが入っていると、考えてもおかしくはない。
 その場合、同音を当て字になるのが普通だが、「説」(shuō)の音は普通話の音で、その同音語が古代の論語に当てはなるわけはない。
 そこで、古代の「説」の音価を探して、あるべき漢字を探すことになるのだが、日本語の「セツ」が暗示するように入声(語末子音)があったのだろう。とすると、むしろ入声のある日本語で「セツ」を探したほうがわかるかもしれないと漢字を眺めても、妥当なものは見当たらない。
 どっかに解答があるだろうかと探すのだが、よくわからない。
 中国語のサイトも見て回って、奇妙なことに気がつく。
 こうなっているところが多い。「学而时习之,不亦说(yuè)乎?」(参照)である。
 つまり、「说(yuè)」というのだ。
 そんな音価はありえないのだが、"yuè"から連想されるのは、「悦」である。つまり、現代中国人は、「不亦悦乎」と読み替えているとがわかる。「说:音yuè,同悦,愉快、高兴的意思。」(参照)という解説もある。
 そうなのだろうか?
 そうなのかというのは、論語の原典が誤字なのだろうか。あるいは誤字ではないが、読むときは、「悦」を想定するべきだろうか。
 ところで、現代中国語でここはどうなっているかというと、一例はこう。

孔子说:“学习并且不断温习与实习,不也很愉快吗?
Kǒngzǐ shuō:“Xuéxí bìngqiě bùduàn wēnxí yǔ shíxí, bù yě hěn yúkuài ma?

 私もこのくらいは現代中国語がわかるようになった。「不也很愉快吗?」とか、特によくわかる。わかるので、それって、「不亦説乎」なのかと逆に疑問に思う。「高興的意思」というのも、どうなのだろうか。
 自分の中国語の学力では無理を承知で、あえてここで論語と現代中国語をあえて実験的に近づけてみる。

子曰:“学而時習之,不亦説乎。”

孔説:“学而時常習,不也悦吗?”


 ちょっと無理があるのは重々承知でその上で思うのは、構文の違いである。「而」はなんとかなるとしても、「之」は構文的にどうにもならない。近接化できない。
 その点、「乎」は「吗」に置き換わったとしてもそれほど違和感はないし、同じ事は「亦」と「也」でも言える。つまるところ、「説」を「悦」とすれば「不悦」は変わらない。
 もう一つ例を進めてみる。

有朋自遠方来,不亦楽乎。

 現代語訳では一例はこう。

有朋友従遠方来,不也很快楽吗?

 「不亦楽乎」と「不也很快楽吗?」は先と同じ構文であり、論じるとすれば、「楽」が「快楽」かということになり、先の「愉快」と同じような解釈の問題に帰する。
 興味深いのは、「有朋自遠方来」と「有朋友従遠方来」の構文がほとんど同じだということだ。
 「朋」と「朋友」の言い換えは現代語というだけでだし、「自」と「従」も同じとしてよいだろう。この点では、基本的な構文は、論語と現代中国語はほとんど変わっていない。
 というところで、ふと漢文の下しを思い出すと、二通りある。

有朋自遠方来

朋あり遠方より来る
朋遠方より来たる有り


 「来たる有り」の下しはウィキクオートにもあった(参照)。
 現代中国語と同構造なら、「朋あり遠方より来る」でよいとも思われるが、「自遠方来」は「有朋」を補っているのだから、「遠方より来たる朋有り」のように解してもよいだろう。ただその場合でも、古文日本語の関係節として「朋遠方より来たる有り」は「朋遠方より来たるもの有り」となるので、文法構造的には疑問が残る。
 以上、ちょっとヘンテコな議論になってしまったが、ようは、論語を支える文法が構文論的に現代中国語とどの程度異なっているかというを探りたい。
 その意味で、説明が雑だったが、「学而時習之」の「之」は、現代中国語の構文には合っていない。
 論語から離れて、興味深いと思ったのは、構文がわかりやすい、比較構文なっだ。ここでも漢文と現代中国語は変わっている。
 漢文の場合は、AとBを比較するとき、「於」を使う。現代中国語では「比」を使うのだが、構文が異なる。
 「電話は手紙より速い」というのは現代中国語では「电话比信快」、つまり、「電話比信快」となるが、漢文だと、「電話快於信」というようになる。簡体字で書くと、こうなる。

漢話:电话比信快

漢文:电话快于信


 現代中国語だと、「电话快」があって、それに「电话(比信)快」というふうに比較が加わるが、漢文だと構文がかなり違う。「电话快」に「于信」が後置する。"A telephone is faster than a letter."に似ている。
 現代中国語で、「电话快于信」と言えるかどうかわからないが、言えるとしても、「电话快,于信」というように追記的な補足になるだろう。
 漢文の比較表現は補足的な構文だったのか、それとも比較構文は元来、英語のような構文であったかが、よくわからない。
 先の「之」の構文でもそうだが、どうも漢文の文法構造は、現代中国語と構文レベルで違っているようにも思う。というか、違っていてもおかしくはないのだが、どのように構文が変化しているかが、もう少し知りたいところだ。
 ただ、ざっと見ているかぎり、助字を使った構文の構成は、漢文と中国語はあまり変わっていないようにも見える。
 
 

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2014.04.15

[書評]ぼくは戦争は大きらい やなせたかしの平和への思い(やなせたかし)

 アンパンマンの作者としても有名なやなせたかしだが、このブログでも一度取り上げたことがある。「[書評]93歳・現役漫画家。病気だらけをいっそ楽しむ50の長寿法(やなせたかし)」(参照)である。表題にあるようにこの本は93歳の長寿法である。やなせさん、100歳まで生きるんだろうなと思っていた。が、94歳で亡くなった。それでも天寿と言ってもよいのではないか。

cover
ぼくは戦争は大きらい
やなせたかしの
平和への思い
 年齢を見ると大変なお年のように思うが、生年で見ると、1919年(大正8年)。コラムニストの山本夏彦が1915年生まれだからそれより4年は年上。山本七平は1921年生まれで、やなせより3年、年下。同じく漫画家の水木しげるは1922年生まれなので、山本七平に近い。
 彼らはそのあたりの年代。実際に大人として戦争を体験した世代である。山本夏彦は従軍していないが、山本七平はフィリピンで九死に一生を得ている。水木は左腕を失なった。
 他、思い出すのは北京で終戦を迎えた春風亭柳昇が1920年で、中国戦線にいたやなせに近い。J・B・ハリス先生(参照)は1916年で山本夏彦に近い。彼らは関東大震災の記憶を持っていた。
 この本、「ぼくは戦争は大きらい やなせたかしの平和への思い(やなせたかし)」は2013年の4月から6月にかけて実施したインタビューをまとめたものらしい。亡くなる4か月前ということだ。

 この本は、ぼくの戦争体験を綴ったものです。
 自伝などの中で簡単に戦争のことをお話したことはありましたが、戦争体験だけをまとめて話すのは、これが初めてす。
 僕は昭和15年から5年間、日本陸軍の兵隊でした。(後略)

 本書がやなせの唯一の戦争体験記になる。
 これまで語れなかったことが語られていると言ってもよいが、衝撃的な事実というのはないように思えた。が、実体験者でなければ言えない話が随所にあって興味深かった。戦争がしだいに神話的に語れるようになった時代、一つでも実体験者の記録が読めるのはうれしいことである。

 激戦地で大変な思いをしたみなさんからすれば、「なんだ、本当の戦争はこんなものじゃなかった」とおしかりを受けるかもしれません。でも、ぼく自身の戦争体験、軍隊体験を語ることで、過去の戦争のことがみなさんの記憶に少しでも残ればいいと思います。

 読んだ印象でいうと、やなせさん、ちょーラッキーだった。彼の弟さんは亡くなっているし、彼も戦死して不思議ではなかったように読めた。
 実体験の語りには、記憶違いも混じるものだが、それはそれとして、実際に語られることを聞くと興味深い。たとえば、赤紙。実際にはうすぼけたピンク色をしていたと私などは理解していた。が、やなせに来たのは「本当に真っ赤な紙なんですね」というものあった。絵描きの彼を思うと、たぶん記憶違いではないだろう。
 15年の春に兵役となった。彼はこの時代でありながら、兵役は規定どおり2年で終わるはずと期待していた。そのあたりも、現代からすると意外な印象はある。日中践祚の開始は1937年(昭和12年)なので、すでに日本は戦争に突入していた時代なのだから、そのまま兵役が続くと中の人は思っていたのではないかと、つい思いがちだ。
 やなせは昭和16年12月8日の太平洋開戦でその期待が外れてしまった。その日のことを彼はどう見ていたか。

 太平洋戦争が始まってからも、ぼくらの日常生活はそれほど変化しませんでした。とくに軍紀が厳しくなるということもなく、それまで通りだったと思います。
 当時、学生時代からの友人に身体が弱くて徴兵検査で不合格となった男がいて、彼と手紙のやりとりをしていましたが、手紙を読むかぎりでは、世間一般の様子もそんなに大きく変化していないようでした。

 彼の兵役だが、班長付きという世話役になったことでそれほど暴力的なことには遭遇していないようだ。ちょっと面白いことも書かれている。

 軍隊にはちょっと女っぽいヤツもいて、世話を上手にできる人もいました。だけど、僕は全然ダメ。苦手なんです。

 このあたり、春風亭柳昇の戦記を読むと、ははあと思うことはある。
 年代が記されていないが、この兵役の間に、20人ほどで九州から南京まで160頭ほどの馬を運んだ話が書かれている。兵役の期間だとすると、昭和15年から16年にかけてのことだろう。彼はこの時期の南京に到着した。

 南京大虐殺があったとか、なかったとか言ってますが、ぼくが行ったときの南京はごく平和なものでした。町の入り口には日本の兵隊がいて、町に入る者を厳しく検査していましたが、中は平和そのものでした。
 南京では、少し時間があったので、映画も観ました。
 映画は中国製の作品で、何をしゃべっているのか、まるでちんぷんかんぷんでおもしろくなかったですね。中国は映画制作が盛んな国で、当時も自分たちの映画をたくさんつくっていたのです。
 町を歩いていても、中国の人たちはぼくらに友好的で、みんなニコニコと対応してくれました。
 (中略)
 ぼく自身は、南京事件なんてなかったんだと信じています。

 南京事件はなかったと、やなせが主張したいという意味合いでは全然ない。ただ、彼の現地体験からはそうした事件の痕跡は体験されなかったという証言にすぎない。
 南京事件については、秦郁彦「南京事件―「虐殺」の構造」(参照)など参考となる書籍が多数あるが、概略としては、1937年(昭和12年)のことだ。やなせの証言が昭和15年のことであれば、数年後には南京は平穏と言ってもよい状態だったことは伺われる。
 やなせが戦地に赴くことになったのは、昭和18年で、行き先は福州だった。野戦銃砲部隊である。台湾防衛だと彼は推測している。彼の任務は暗号班だった。
 現地で何をしたかというと、穴を掘っていた。

 毎日そんなことをしていましたが、実は日本の地下壕は戦地ではあまり役に立たなかったようです。アメリカ軍は、まず艦砲射撃を空爆で攻撃しておいて、最後に日本兵が穴蔵に逃げ込んだところに火炎放射器を浴びせかけるという作戦をとっていたのです。
 地下壕は空襲よけにはなりますが、逃げ込んだところを火炎放射器でやられるとひとたまりもありません。でもまあ、何も知らないぼくらは穴の中なら大丈夫だろうと信じて掘っていたわけです。

 言及はないが、沖縄戦がまさにそれだった。
 穴を掘る以外に何をしていたかというと、本来の任務の暗号解読はあまりなく、宣撫班の手伝いをしていたらしい。彼のおとくいの紙芝居であった。
 宣撫班と聞くと、嘘の現実を広めるようなものだが、そのあたりの現実体験談がまた興味深い。

 福州では、紙芝居が行くと、大人も子どもも老人も村中の人が集まってきました。
 そして、紙芝居が終わると御馳走してくれる。豚肉の料理やラーメンみたいなものもありましたが、味はなかなかよかったです。
 驚いたことに、紙芝居を見せて「中国と日本は戦争しているけど、仲良くしなければならない」と言ってもダメなんです。
 なにしろ、福州の人たちは「日本と中国が戦争している」ということを信じてくれないんです。「あれは他国の話だ」と言うのです。「上海での話でしょ」と。
 福州ではどこに行ってもそうなんです。
 広い国は違うなあ、と感心しました。

 福州からすると上海が自国という認識はなかったのだろう。
 その後、彼は、その上海に向かい、厳しい戦闘にもさらされるが、幸運にも生き延びる。そこで困ったのは、食料がないことだった。おやおやと思う挿話がある。

 おもしろかったのは長野県の舞台の人たちです。彼らは山国から来ているから、へびや虫を食べるんです。
 「どうです、おいしいですよ」と勧めてくれるのだけど、見たら怖くて食べられません。器用に皮をピーッとむいて焼いたヘビをおいしそうに食べているのだけど、ダメでした。虫はイナゴや蜂の子です。これもダメでしたね。

 かくしてこの体験がアンパンマンにも結びついていくらしい。
 1945年8月15日はどうだったか。これも同時代の春風亭柳昇の戦記に似ている。

 昭和20年8月15日、ぼくらは集合させられ、ラジオを聞かされました。
 天皇陛下の声が流れてきましたが、何を言っているのかはまったくわかりません。

 それでも翌日は武装解除となった。
 引き上げも難なく進んだ。

 それどころか、ぼくらが朱渓鎮を離れるときには、「あなたたちがいるおかげで治安も保たれている。できればずっといてもらえないだろうか」と言われたくらいです。
 町の人たちとっては、ぼくらが町にいることで盗賊から守られているという、気持ちが強かったのでしょう。

 書かれたものからは、のんきなやなせ先生らしいなという雰囲気があるが、仔細に読むと、彼は日本側や中国側のスパイの活動などもよく観察していた。そのあたりからは暗号班らしい有能な兵士であった印象がある。
 やなせ先生が最後にこの戦記を残してくれたおかげで、本当の戦争の多面的な様相を私たちはうかがい知ることができる。
 
 

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2014.04.14

[書評]近代書き言葉はこうしてできた(田中牧郎)

 近代日本語がどのようにできたか。これがよくわからない。特に近代日本語の書き言葉がどのように成立したのか、少なくとも関心をもってきたはずの私にはよくわからない。研究はされているんだろうが、ざっと見たかぎりでは文人の文体論のようなものが多く、それだと言語現象の説明とは違う。
 特に気になっていたのは、「だ」がどこから生じたか、なのだ。これがよくわからないのだ。
 という、文末の「だ」である。
 常体というやつで、もうひとつ「である」がある。「吾輩は猫である」の「である」である。現代の常体だと「吾輩は猫だ」とも言える。では、「である」と「だ」はどこから生じたいのか。
 もちろん、まったくわからないわけではない。辞書を引くとそれなり説明はあるにはある。デジタル大辞泉(参照)は比較的詳しい。


[助動][だろ|だっ・で|だ|(な)|なら|○]《連語「である」の音変化形「であ」がさらに音変化したもの》名詞、準体助詞「の」などに付く。
1 断定する意を表す。「今日は子供の誕生日だ」「学生は怠けるべきではない」「熱が高いのなら会社を休みなさい」
「それも遅ければきかない物だぞ」〈雑兵物語・上〉
2 終止形「だ」を間投助詞的に用いて、語調を強める意を表す。「それはだ、お前が悪いんだよ」→だろう →のだ
[補説]現代語「だ」は室町時代以来の語で、関西の「じゃ(ぢゃ)」に対し、主として関東で使われた。「だ」が用いられる文体は「である」とともに常体とよばれ、敬体の「です」「であります」と対比される。「だ」の未然形・仮定形は、動詞・形容詞・助動詞「れる・られる・せる・させる・た・たい・ない・ぬ・らしい」などの終止形にも付く。連体形の「な」は、形式名詞「はず」「もの」などや、「の」「ので」「のに」に連なる場合に限って使われる。

 まちがってはいない。実際「だ」を活用させてみると、「なら」が出てくるので、文法的な範列から古語の「なり」が元になっていることはわかる。
 問題は、どうして「なり」から「だ」が出て来たか。いつ出て来た。「である」との関係はどうか? そういうことがさっぱりわからないことだ。
 同じ事は「です」「であります」についても言えるのだが、とりあえずそれはおく。
 デジタル大辞泉の説明からわかるのは、「だ」は、(1)室町時代以来の語であること、(2)関東の言葉であること、(3)「じゃ」に対応していること、である。
 「いつ」「どこでどのように」はわからないものの、「わしがそのジョジョじゃ」みたいな表現が「俺がジョジョだ」になったのだろうとは推測される。
cover
近代書き言葉はこうしてできた
 この問題、つまり、これは問題だったわけだが、本書『近代書き言葉はこうしてできた』(参照)はけっこう実証的に考察していて、読んでいて面白かった。
 いわゆるコーパス解析である。
 このコーパスは、西洋の雑誌のクオリティを志向した総合誌『太陽』の文章で、同誌は日本社会の近代化に大きな影響を与えたとされている。1895年(明治28年)に博文館で創刊された。このコーパスでは大正末期まで収録されたとある。30年くらいと見てよいかと思われる。コーパスは「太陽コーパス」と呼ばれている。
 常体・断定の「だ」は太陽コーパスでどうなっていたか、というと、1885年には皆無。1901年に11本。しかし、そのあたりからしだいに増えていった。「である」が先にあった。

標準的な書き言葉となった「である」体の周辺に、「だ」体を柱として豊かな口語体が花開いていったと見ることができるでしょう。

 興味深いのは、これが増加期には「じゃ」と併走していたように見えることだ。
 この過程では、文末の使い分けが書き手のモチーフでもあったらしい。
 かくして、文末に見られる口語体は大正末期にほぼ確立したようだ。「だ」ついてはその元になる「なり」が、当然ではあるが「だ」の増加に比して衰退していっている。
 また他の文法的な特性から見ても、この時期に現代の日本語の書き言葉が確立したと見て良さそうだ。
 関連していろいろ興味深い現象があるのだが、古語の「なり」は口語のほうでは、一部、生き残った。「ならざる」みたいな用例である。
 本書には触れていないが、総じて、昭和とともに現代日本語書き言葉が成立したと見てよいだろう。あるいは、関東大震災がエポックかもしれない。
 この時期の言語変化の社会的な契機としては、「演説」があるようだ。
 本書は言語考察にしぼっているが、おそらく、大正デモクラシーの言語的な活動が基本となっているのだろう。私の推察だがこの時期に擬似的に共通語が求められたからではないとも思う。
 関連して、このコーパス分析では別途「戦争の用語」についても触れられている。それはどうか。減少しているというのだ。
 ちょっと話が飛躍するが、先日cakesに「無想庵物語(山本夏彦)」(参照)について書き、関連して無想庵の文章などもいろいろ読んだのだが、彼のこの時期の文書などからは、あまり戦前というイメージが結びつかない。もともと無想庵がそういう感性の人だというのもある。
 このあたりの、いわば大正デモクラシー的な日本語の近代言語空間の感覚は、山本七平などにもよく残っていた。特に彼の実際のしゃべりかたなどにそれが感じられたものだった。
 本書は基本的に、大正末の近代書き言葉から、暗黙のうちに現代日本の書き言葉を直線的に結んでいるのだが、実際には、昭和10年代以降、日本の世相は代わり、戦争に突入していくにつれ、日本社会の言語空間も変容していく部分がある。これは、太陽コーパスが暗黙に仮定しているような社会均質的なものではない。
 それにしても、「太陽コーパス」の後に、日本の言語はある奇妙な時代に入る。特に、戦争や軍に関する言葉が変わってくる。山本七平が「軍隊語」と呼んだ奇妙な日本語も登場するようになる。彼のいう「軍隊語」は表面的には疑似文語だが、特徴はそれだけではない。が、基本、軍の指揮系として機能すべき言語が近代日本語にないとみてよく、軍隊語が疑似文語になるのはその代償的な機能だからだろう。
 こうした問題意識から、戦中の日本語というのを、独自のコーパスを使って近代日本語のなかでもういちどきちんと検証する必要もあるだろう。
 個人的な直観でいうなら、戦後の平和主義というのは、実際には「軍隊語」の延長であり、これに対抗した昭和デモクラシー語は、口語訳聖書に集結したのではないか。
 
 

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2014.04.13

中国語には「木」がないの?

 中国語を学んでいて、ほお、と思うことがある。いろいろある。というか、なんで今まで学ぼうとしてこなかったのか悔やまれるというか、いや、思い返すに、中国語学びたいなとは思って、二三参考書などを買っても、なんだか雲を掴むような感じだったのだ。その点は今でも変わりないけど、もうちょっと中国語の世界に感覚を突っ込んだ気がしている。
 その一つ。中国語には「木」がないの?
 な、わけねーっしょと思う。もちろん。
 そこで読みもしないで罵倒コメントをいっぱつ書いておく、と、おいそこのきみ。
 いや、それはさておき。
 もちろん、中国語に「木」という漢字はある。
 ただ、意味がなあ。
 まったく違う意味ではないのだけど、「ノルウェイの森」と「ノルウェイ材」くらい違う。
 別の言い方をすると、中国語では、「木」のことは「樹」(树)という。"shù"である。
 じゃあ、中国語で「木」(mù)の意味はなにかということなのだが、これは、日本語で「木材」になる。
 つまり、「木」という漢字は中国語にもある。日本語の「木」の意味とはちょっと違う。歴史によって意味がずれたと言ってもいいのかもしれない。
 で、「樹木」はどうかというと中国語でも「樹木」。材木という意味合いではなさそう。
 なにが起きているのかというと、どうも、基本、一文字の「木」(mù)というのが中国語にはなさそう。
 なぜ「木」(mù)がないのかは、おそらく中国語が一文字を嫌うからだろうが、それだと、树(shù)の一文字もなさそうだが、それはある。
 同音異義語の問題かもしれない。目(mù)、墓(mù)、牧(mù)とこんがらかるからも。よくわからない。
 ところで、次のような会話を考えてみる。
 A「是什么?」shì shénme
 B「是树」Shì shù
 A「是什么树?」Shì shénme shù
 B「是杉」Shì shā
 A「是什么意思?」Shì shénme yìsi?
 B「是杉树」Shì shāshù
 早口言葉みたいだし、そういう会話が成り立つのかわからないが、「是杉」は意味をなさず、この場合、「杉树」としないといけない。
 というあたりで、昨日の「中国語の助数詞(量詞)って英語の不定冠詞みたいなもんか」(参照)の助数詞のように、「树」がなんの木かの助数詞のような働きをしている。もちろん、これは助数詞ではないのだけど。
 どうも中国語は、文法のレベルではなく、かといって造語法とも言いがたいが、ある中心概念とその個別化で熟語を形成したいという戦略みたいのが働くのだろうと思う。
 だとすると、なんでそうなるかなのだが、やはり一文字だと同音異義語が多いからだろう。
 話がずっこけるが、中国語には「木曜日」もない。「星期四」になる。4日目ということで、月曜日から数える。
 中国語では、木曜という言い方を排したのかなと思ったのだが、どうもよくわからない。それどころか、日本でも江戸時代に「木曜日」とか言ってるわけないよな。
 これってきっと、これというのは、つまり「木曜」とかいうのは、西洋暦の訳語として明治時代に日本で作ったんじゃないのか?
 フランス語だと"Jeudi"、つまり、«jour de Jupiter»なわけで、ジュピターであれ、木星なわけですよ。英語だと、このジュピターをトールにあてて"Thursday"なわけだが。
 日本人としては、「星期四」は味気ないなと思うが、そうはいっても、月のほうは「四月」とか数字を使っているわけで、もう「卯月」は使わないわけですよ。
 使ったほうがいい気もするけど、しかし、新暦で「卯月」といってもなあというのはある。じゃあ、旧暦にするかというわけにもいかない。
 
 

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